[第一話 サクラ咲く]

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No.03 緋色の残像
 目的地にたどり着くと、そこにあったのは異常な光景ではなかった。
 萌黄色のスーツを着た女性が盛んに首を振っている。女性の前に立つ白衣の青年は、身を乗り出して何かを訴えていた。
「あっ!」
 爽子は驚いた声をあげて、目をしばたいた。
 萌黄色のスーツの女性は、学生課で会った本田里奈だったのだ。
「本田さんよ、一緒にいるのは康太先生ね」
 いつも朗らかな統括保険医が、珍しく真剣な表情で里奈になにかを訴えている。
 大丈夫なんですから、と里奈は困惑した顔をしていた。
「康太先生、本当に私、ちょっと転んだだけなんです」
「でもね、本田くん。連絡をくれた生徒によると、寝てたんじゃなくって気を失っていた状態だったんだよ。転んだだけで済まして良いとは思えない。頭を打ったかもしれないんだ」
 ちゃんと調べたほうが良いと主張する康太に、里奈はただただ首を振る。
「大丈夫ですって。転んだ時に視界が真っ白になったので、軽い貧血を起こしたんだと思います」
「あのね、本田君。貧血を馬鹿にしてはいけないよ? たかが貧血と思っていると、取り返しのつかないことにもなるんだ。尚更このまま帰すわけにはいかなくなってきたよ」
「そ、それは困ります」
 強硬に言い張る康太を前に、里奈は肩を落とす。
「──巧、あの人だよ。雄夜にぃちゃんたちが戦ってた時に来ちゃったの」
「本田さんが?」
「うん、間違いないよー」
 元気そうで良かったけどと将斗が続ける。
「本田さん」と爽子は大きな声で呼びかけてみた。
「あ。斎藤さん」
 助け船と思ったのか、ホッとした表情で里奈が振り向いた。向かってくるのが爽子だけではないと気づいて「あれ?」と呟く。
 里奈は学生課で具合を悪くした久樹を見ているのだ。
「斎藤さん、彼、元気になったのね。良かった」
 里奈の言葉の意味が分からず、一瞬ポカンとしてから爽子は少し前のことを思い出す。すぐに笑顔を浮かべて、爽子は頭を下げた。
「良くあることなんで、治るのも早いんです。それより、本田さんこそ何があったんです? 二人して真剣な顔をして」
「斎藤さん。一緒に康太先生に言ってくれない? 少し具合が悪くなってしまったけど、大丈夫だって。私ね、時々貧血を起こすのよ。だから病院にも行ったけれど、特に問題ないって言われてるの。だから大丈夫だって言っているんだけど」
「康太先生。本田さん、病院にちゃんと行ってるって言ってますよ?」
 爽子が康太を見上げれば「そうか」と康太が表情を緩めた。
「病院にちゃんと行っていたんだね」
「は、はい」
 里奈の返事の歯切れは悪い。じつは病院に行ったのは、一年も前のことだ。
 康太はしばらく考えこんでから、仕方ないなあと言った。
「でもまた貧血症状を起こしたら、あらためて病院に行くんだよ? 忙しい現代人は、病院嫌いが多いね」
「大丈夫です。では、これで失礼しますね。斎藤さん、ありがとうっ!」
 軽やかに言うと、里奈はきびすを返して走り出した。小さな背を目で追いかけつつ、康太が「いきなり走らないっ!」と注意を飛ばす。
 里奈は一度首をすくめたが、走る速度を落とそうとはしなかった。
 走りながら、里奈は自分の腕を見た。
 びっしりと皮膚の上を占領しているものがある。全身が総毛だって、鳥肌が浮かんでいるのだ。見つめていると生理的な嫌悪感を抱いて、里奈は眉をしかめた。
 必死にこらえていたものがある。
 ――怖い。
 体の奥から沸きあがってくる恐怖。
 怖かった。何が怖いのかは分からないが、怖くて怖くて仕方なかった。
 あえぐように息をしながら、一瞬だけ背後を振り向いた。統括保険医と生徒たちが会話をしているだけで、恐怖を覚えるようなものは何一つない。
 ――怖い。
 ぶるりと体を震わせて、更に加速しようと必死に腕を振った。
「私……分からない、なんであそこに居たんだろう。なんであそこで倒れたんだろう。分からない……思い出せないっ!」
 道を曲がって、背後の人々が見えなくなって初めて里奈は足を止めた。ぜいぜいと鳴る肺をなだめすかしながら、正常な呼吸に戻るのを待つ。両膝に手をおいて、重い上体を支えた。
 里奈は覚えていなかったのだ。
 空中に浮かんでいた娘のことも、双子が良く分からない動きをしていたことも、逃げようとした自分自身を、光球が追いかけて来たことさえも。
「怖い、怖い、怖い!!」
 ただただ里奈は、声をあげ、体を震わせるだけ。
 立ち去って行った里奈の様子がおかしくなっていることは見えないので、彼女を見送ったままの姿勢でいた康太は「ところで智帆くんたちを見ませんでしたか?」と爽子に尋ねられて、顔を上げる。
「内藤医院にいるよ?」
「──え? 病院、ですか?」
「そうだよ。今から行こうと思っているんだ。智帆くんから連絡が入ってね、女性が倒れているから来てくれって。自分たちは内藤医院に行くからと」
「そうなんですか。──でも、どうして?」
 病院という言葉に、巧と将斗は嫌な想像をして眉を寄せる。
 康太はやんわりと笑った。
「しーちゃんが過労で倒れちゃったんだって。叔父として心配だよ、だから今から私も行くところだよ」
 歩き出す康太につられて、同じように歩き出す。
「康太先生、静夜兄ちゃんのことが心配ってだけじゃないでしょ。内藤医院に行きたいのってー」
「どうしてそう思うんだい? まぁ君」
「だって、もうすぐ三時だし。三時っていったおやつだろー。で、内藤医院っていえば町子先生だ」
「ははぁ、まぁ君は、私がお茶をしたいから内藤医院に行きたがってると思っているんだね」
「そうじゃなくってさぁ。康太先生は、町子先生に会いたいんじゃないのー?」
「そりゃあ会いたいよ! まぁ君知ってるかい? 町子さんは料理がすごい下手でね、普通の料理だったらお父さんの康孝さんの方が上手なんだよ。でもケーキを焼くのはとっても上手なんだ、すごいだろ」
 やけに幸せそうな顔になる。
 町子に会えることに幸せを感じているのか、町子が焼いたケーキを想像して幸せそうにしているのかは、将斗には分からない。
 久樹は聞こえてくる会話に首を傾げた。
「なあ、町子先生って誰だ?」
「知らないの?」
 巧が怪訝そうにする。
「俺は居た頃の統括保険医は爺さんだったしな」
「ふーん、ずっと康太先生だったわけじゃないんだ」
 初めて知った、という雰囲気だ。
「知らなかったのか?」
「うん」
「お前が三年生になった頃だぞ、忘れるほど前じゃない」
「だって俺、その頃は白鳳にいなかったし。四年生の夏休みに白鳳に編入して来たんだよ。将斗と一緒に」
「そりゃ一体なんで?」
「俺と将斗の親って親族会社を作ってるんだ。いきなりコストダウンの為にって外国に工場作っちゃって、入れ込んで自分たちも行くことにしたわけ。俺らは外国に行きたくなかったから、小学生でも寮に入れてくれるとこ探したんだよ」
「──へえ。あれ、待てよ、その頃の白鳳に寮はなかっただろ?」
「今の白梅館はなかったよ。ただ、新しく寮を建てる上でどんな設備が必要なのかを調べるために、学園がモニターとして生活する生徒を探してたんだ。俺と将斗はそれにあたったわけ。確かあの時――」
 巧の言葉がふと途切れる。なんだよ?と続きを促す久樹に首を振り「なんでもない」と言った。
「とにかく、俺と将斗は日本に残りたかった、それだけ! 特に食べ物が変わるのは嫌だったし」
 やだやだと巧は続けて首を振る。
 久樹は「まあ、なあ」と曖昧に相槌を打った。
「だろ」
 巧は言い切って、久樹から離れて康太の隣に行く。それを見送りながら、腑に落ちないものを感じて首を傾いだ。
 外国に行くのが嫌だ、というのは分からないでもない。だが、嫌だというだけで小学生だけを祖父母宅でもない、学園の寮に残して行ったりするのだろうか。
 考え込むあまりに歩くのが遅くなった久樹に、爽子が不思議そうな顔をする。
「久樹。内藤医院に行こうよ」
「あ? ああ、そうだな」
 歩き出したが、まだ久樹は考えていた。
 ――嫌だというだけで、残るのが許されるのか? 
「俺は高校生になるってのに、一人暮らしなんて駄目だって許されなかった。寮があったとしても、駄目だっただろなあ」
 もし三年前に寮があったら。そこに入って残ることを許したかどうか。それを親に聞いてみたい気がした。
 
 
 小さな容器の中に、一滴、一滴と滴が落ち、そして管を通ってゆく。その様子を智帆は眺めていた。
 彼が座っているのは白いベッドの端で、ベッドの中では青ざめた顔色で大江静夜が眠っている。
 カチャリと扉をあける音がして、うなじを露わにした上げ髪の女性が姿を現した。診察の時だけ掛けている眼鏡の下で、理知的な瞳が優しい色をたたえている。
「──ところで智帆くん、雄夜くんはどこにいったの?」
「さっき反省と自己嫌悪が募りすぎて外に飛び出していきました」
「反省と自己嫌悪?」
 女医の顔が不思議そうに揺れる。智帆は皮肉っぽく笑って、眠る静夜に視線を落とした。
「静夜に無理をさせるのが嫌いなくせに、自分が無理をさせたからかと。耐えられなくなって、近所の親友に癒しを求めに行ったってとこです」
「あら、雄夜君って智帆君たち以外に親友がいたのね」
「シベリアンハスキー犬のスイ君です」
「……そう、人間じゃないのね」
「人間の親友がいる情報は仕入れていませんね、俺は」
 にこやかに答えて、智帆はベッドサイドから立ちあがった。静夜の様子を確認しに来たと理解したのだ。
「落ち着いているわね。それにしても、どうして急性疲労で倒れることになったの? 急いで回復させたいから点滴をしてくれと言われても困るのよ」
 首を傾げて呟く仕草がまるで少女のようだ。
 彼女の名前は内藤町子といい、白鳳学園近くにある内藤医院の院長の一人娘で、大江康太の恋人だ。
「町子先生、康太先生からのプロポーズはまだ?」
「そうなのよ智帆君。康太さんったらね、まだはっきり言ってくれ……何を言わせるのよ、智帆君っ!」
 はっとした顔になって、町子は頬を赤らめる。
 顔を真っ赤にして照れる様子からは、二十八歳という年齢が見えてこない。先生がひっかかるから面白くてとしれっと智帆は答えた。
「そうそう、康太先生もそろそろ来るかと」
「え? 康太さんも?」
 吊り上げていた柳眉を元に戻して、町子は恋する少女の顔になった。そわそわしながら、髪を手で押さえてみたりする。智帆は思わず笑い出した。
「町子先生、素直に鏡を見てきなよ」
「……そ、そう? そうしようかな」
「ま、鏡見た程度じゃあ、そのふっくら頬っぺたは消せませんけど」
「意地悪ね! 智帆君ったら」
 澄まし顔の智帆を睨みながら、やわらかそうな頬を膨らませる。だが無言で時計を指差されて、慌てて町子は部屋の外に出ていった。
 パタン、と扉が閉まる音。
 再び静寂が戻り、ぽたん、ぽたんと液体が落ちる音と、規則正しい静夜の呼吸音だけが僅かに聞こえる。
 智帆がたどり着いたとき、紅い霧が残っている状態だった。雄夜が意識のない静夜を抱き込んで必死に名前を呼び、少し離れた場所で萌黄色のスーツを着た女性が倒れている。
 肩を揺さぶったが、意識を取り戻す気配はなかった。
 一体何があったのか?
 智帆に医学の心得はない。女性が倒れた原因を付きとめる術はなかった。とりあえず保健医の大江康太にすぐ来るようにと連絡をいれて、振り返る。
 雄夜は姿を消した敵を警戒したまま、やたら鋭い瞳で虚空を睨んでいる。唇は片割れの名前を繰り返していた。
「雄夜、何があった?」
 ――返事はない。
 溜息をついて、智帆はとりあえず女性の側近くにばらまかれていた書類をまとめ、側においてやる。
 それから雄夜と静夜の隣まで歩んだ。
「雄夜っ!」
 かなりの大声を雄夜の耳元で出す。
 びくりと彼の体が揺れた。智帆の存在を初めて認識した表情で、まばたきをする。彼が腕の中に抱き込んでいる静夜の顔は、智帆からは見えなかった。
 雄夜が片割れを強く胸に抱きこんでいるせいだ。
 ――まるで手負いの獣が、我が子を必死に守ろうとする姿だ。
 溜息を尽き、大袈裟な仕草で智帆は首を振る。
「雄夜って、前から動物みたいな奴と思ってたけど、そこまでとは思わなかった。いいか、人間としての判断力があるなら、いますぐその手を離せ」
 前半の言葉はふざけていたが、後半の言葉には拒絶をさせない厳しさがあった。だが智帆に圧倒されるほどヤワではない雄夜は、眼光を鋭くするだけで動こうとしない。
「……雄夜に全力で抱きしめられたら、静夜が圧迫されて苦しいって考える脳みその持ち合わせはないのか?」
 ひやりとした声。
 静夜は両足を地面に投げ出している。持ち上げられた上体は九十度近く捻られて、雄夜に抱え込まれている。意識があったなら、すぐに殺す気かと騒ぎだしただろう。
 雄夜はひゅっと息を飲み、慌てて腕を放して静夜を確認する。
 血の気は失われており、唇は紫色がかっている。浅く早い呼吸を繰り返しているのが、酸素が足りずに苦しがっているようだった。雄夜はぎゅっと口を引き結び、首を振る。
 雄夜の過去になにがあったのかは知らないが、彼は身近な誰かが壊れることを極度に恐れている。だから可愛いモノが苦手なのだ。可愛いを詰め込んだ外見の静夜と双子だなんて、相性が悪い過ぎるだろと思いつつ、智帆は努めて優しい声を出す。
「今ので静夜を壊れたってわけじゃない、少しは落ち着け。大丈夫だって」
 切れ長の眼差しをじっと智帆に向けてから、雄夜はようやく立ちあがり、静夜を背負った。
「どこに向かえばいい」
「内藤医院だな。思っていたより早く事態が動いている、静夜の自然回復を待つ余裕はなさそうだ」
 先導する為に智帆は歩き出す。
 当然ながら倒れた女性が目に入って、智帆は顔を歪めた。康太はすぐに来るだろうが、地面に倒れさせたままというのは不敏な気がする。
 少し悩み、智帆はちらりと雄夜を見た。智帆の思惑を感じ取ったのか、無言で彼は首を横に振った。
「雄夜って犬っぽいくせに寒がりだからな」
 文句を口して、智帆は羽織っていたジャケットを脱いで、萌黄色のスーツの女性に掛けてやった。
「智帆。邪気は炎を操った」
 おもむろに雄夜が口を開く。
「――どれくらいの威力だ?」
「俺が朱花だけを喚んだ時と同じくらいだ」
「そいつはまた……」
 一旦言葉を切る。立ちあがり、意識を失ったまま背負われている静夜の顔を見て、
「厄介だな」
 と智帆は呟く。
 内藤医院に辿り着いてからは、町子が康太の恋人であることと、静夜が康太の心臓であることを利用して、適当ながら説得力だけはある説明でたたみかけて、点滴を受けさせて今に至るのだ。
「倒れた女の人がいただろ、ねえ、彼女はどうなった?」
 突然に問われて、智帆は意識を現実へと戻した。
「外傷は特になし。ただ意識がなかったから、康太先生に連絡をして託した」
 短く答えて、智帆は視線をベッドへと戻す。右腕を掛け布団の上に出し、点滴を受けたままの体勢で、静夜が目をあけて「そっか」と呟いた。
 静夜はその時々の感情によって、他人に与える印象がひどく変化する少年だ。
 今は目覚めたばかりだからなのか、それとも疲れているからなのか、儚く可憐な少女にしか見えなくて「なるほど」と納得をする。
「なにが?」
 突然に納得した智帆に、静夜が不思議そうにしながら、上半身を起こそうとした。智帆は気づいて、背の下に支えになる枕を入れてやった。
 人心地ついた静夜の視線が室内をさまよい「まあ、そうだよね」と呟く。
「そいつが俺の納得したことでもあるな」
 智帆の含みのある言葉に、静夜は苦笑する。
「確かに今にも壊れそうに見えるもんな」
「そんなの、僕の責任じゃないし。雄夜は相変わらず、慣れないんだな」
 諦めの色の濃い、どこか寂し気な静夜の声に智帆は首を傾げる。
「なぁ静夜。前々から思ってたけどな、なんだって雄夜はあそこまで壊れる可能性に恐怖するんだ?」


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