大江雄夜はアスファルトを蹴るようにしながら、憤りを浮かべて歩いていた。
彼の双子の片割れは背中で呑気な寝息を立てている。苦しそうではないが、静夜の白く細い手がだらりと力を失っているのが気に入らなくて、仏頂面を続ける。
「気に入らない」
短く吐き捨てた。
雄夜が初めて織田久樹を見た時、彼はアスファルトの上で無様に倒れていた。
血の気を失っているように見えるのが、体力を使い切る程に異能力を行使した後の静夜と似ていて眉を寄せたのだ。
ひどく濃い炎の気配と、それを覆いつくすほどの水の気配に、二つが激突したのだとすぐにわかる。
だから転がっている久樹が炎の気配の主だと判断した。理由は簡単だ。居合わせた面々の中に炎の使い手はおらず、異能力を解放して疲労困憊している様子の見知らぬ男がいるのだから。
静夜に無理をさせた事実だけで、久樹は雄夜の神経を逆撫でしている。しかも保健室で「信じられない」だの「どう見ても年齢差がある」だのと好き放題に言ってきたのだ。
「不愉快だ」
爽子に頼まれたからと、残ったのは間違いだった。
気付けば、爆発が起きた場所まで戻って来ていた。焦げた桜と、未だ周囲に立ち込める水の気配に眉をしかめる。
「気に入らない」
同じ言葉を繰り返す。
雄夜は、静夜が無理をするのが嫌いだ。異能力で無理をすると、急速に意識を失ってしまうのが嫌だ。体力がないのが問題だと怒ったら、普通だよと笑われたこともある。
ならば無理をさせなければいいのだが、現実はそうもいかない。結局は今回のようなことになって、意識を失う羽目になる。それが腹だたしくてならない。
とにかく早く帰るに限ると思ったのだが、ふと雄夜は足をとめた。切れ長の眼差しを動かし、意識を取られた一ヶ所を睨む。
焦げた桜がある。──その、根元。そこがゆらゆらと陽炎のように揺れていた。
「なんだ?」
じっと凝視して、ゆらめく陽炎の中、ぼやけた輪郭を見出した。
「……女?」
──陽炎の中にある輪郭は、娘の形をしている。
ソレは何かを手にしている。ぞろぞろと長いもの。時折動かして、その長いものを体に当てるような仕種をする。――衣服だろうか。
「何者だ?」
雄夜は怪訝そうに首を傾げ、桜の木の元まで歩を進める。
桜の異常開花に伴って、謎の娘が出現したことを知っている。陽炎の中にある娘も謎ではあるが、警戒するべき異常は感じられなかった。
娘の方はこちらに気づいている様子もない。
『痛そうね』
輪郭のぼやけた娘が声を発した。
形はろくに見えないくせに、声だけは綺麗に響いてくる。娘は衣服らしきものを持っている腕を動かして、そっと桜を撫でる仕草をした。
『誰が考えたのかな。ワラ人形で他人を呪うなんて』
娘は囁いて、首を傾げるようにした。
『なんで樹に打ちつけるのかな。痛そうなのに』
ふいに気配が動いた。
突然の変化に息を飲み、雄夜は思わず一歩下がる。腕にはびっしりと鳥肌が浮かび、自分が恐怖を受け取ったのだと理解しつつ、雄夜は改めて娘を見直した。
娘に変わった様子はなく、なにに恐怖を覚えたのかも分からない。
けれど確かに何かがあるはずだと雄夜は自身の感覚を信じ、じっと見つめ続けた。
目がひどくちかちかとした。自然、まばたきが増える。娘は静止しているのだが、残像がある。まるで一枚の絵が、高速で裏帰りと表帰りを繰り返し、交互に表示されているのではと思うほど。
「……交互?」
ぼやけた輪郭の娘が残像となる、輪郭がさらにぶれる、形が違う。
──本当に娘が切り替わっている?
雄夜は切れ長の眼差しを伏せ足元を確認し、地面にはった桜の根までもが痛々しく焦げているのを確認して眉を寄せる。
アスファルトやベンチなどは、壊れた事実を水で封印することで、ありし日の姿を見せかけて表している。だからそれらの場所は今も水の影響下にあるが、封印の出来ない桜のあたりは範囲から外れている。
紅い霧が、ゆらり、と足元でゆらめいていた。
──間違いない。やはりここでなにかが起き、陽炎の中に或る娘が関わっている。
強い認識を持って、雄夜は視線を再び陽炎へと戻した。
娘は確かに切り替わっていた。
静かにたたずむだけの娘と、にぃと唇の端を釣り上げて笑む娘と。
それが凄まじい速度で入れ替わっては雄夜の前に現れて、また変わる。
「――ちっ」
雄夜は厳しい表情で唇を噛んだ。
人の心は、誰かを憎んだり、呪ったり、嫉む事もある。あまりの悲しみに押しつぶされて、潰されそうになることだってある。
あたたかな感情だけで生きられるわけがないのだから、当たり前のことだ。否定も排除もする必要はなく、ただそっと、感情と折り合いをつけながら生きていくだけ。
それでも──あまりに激しいソレらは、人から離れて意思だけが残ってしまうことがある。殆どは時間の経過と共に消えていくが、残り続ける思念もあるのだ。
ソレは存続する為の縁を求めて寄りあい、ゆっくりと肥大化していく。そうして大きな一つとなった負の思念は、周囲の生物や植物に影響を与え出すのだ。
ソレがある場所では、動物が強暴化し、植物が枯れ、人格までも変えてしまう。
ここまでになってしまったソレを、雄夜たちは邪気と呼んでいる。
小さく点在する負の思念に影響を与え、急速に邪気として集合させることが可能なのが、炎の異能力でもあるのだ。
雄夜の目の前で、ごく普通に見える方の娘がいきなり笑った。
彼女は手にしていた衣服を高く掲げ、鮮やかな紅の帯を空に彩り、肩から羽織ると同時に一回転して見せた。
ぼやけていた輪郭がくっきりとし、鮮やかな緋色の肌襦袢をまとう娘が現れる。
血の色を宿す唇をつりあげ笑んだ形のまま、彼女は白い指先を突き付けてきた。
『邪魔よ』
蠱惑すら宿す声と共に、ざわり、と大きな音が重なる。
爆発で命を失った桜が、枝を震えあわせて音を立てている。足元で滞留していた紅の霧が、まるで噴火のように地中から沸き上がってきたのだ。
靴裏のゴムが嫌な匂いを立てた。
すぐに式神を呼ぼうとしたが、静夜を背負っている為に必要な札が出せない。降ろせば出せるが、炎が沸き上がる場所に意識のない片割れを降ろせるわけがなかった。
舌打ちと同時に雄夜は走り出し、ゴムの焼ける嫌な臭いと、足に到達した熱に奥歯を噛みしめる。背後の娘の哄笑を聞きながら、雄夜は思いきり地面を蹴って道の真中に滑り込んだ。
淡く青い光りが生まれる。
娘の笑い声がピタリと止んだ。眼差しから感情が消え、口元から歪んだ笑みも消え、完璧な無表情に変わる。
爽子と巧を守るために、静夜が二人を抱え込んだ場所。破壊された事実が封印された場所の中でも、最も片割れの水の力が濃厚に残る場所だ。
清らかな青い光はさらに強くなり、雄夜が背負ったままの静夜へと集まっていく。さやさやという音はせせらぎのよう、あわせて静夜の手に光が宿る。
『――だから邪魔』
感情を打ち消したことで、一層不気味さを増した娘が呟く。緋色の肌襦袢に包まれた両腕を持ち上げ、勢い良く前に突き出した。
大地から噴き上がった炎は集結すると、大蛇の形となって突進を始めた。顎の部分を大きく開き、逆巻く炎を轟音と共に吐き出す。
目前に迫った炎の一撃を、この場に施されて残る水の封印が防ぐ。ただ本人が眠っている為、持続は不可能だった。炎を防ぐ青い光りに亀裂が入る。
雄夜に焦りはなかった。
欲したのは静夜を降ろせる安全な場所と、召喚の札を取り出す為の時間なのだから。
雄夜が同時に呼び出せる式神の限界はニ体。
迷わずに選び取ると同時に、左手で右手首を掴み、勢い良く前に突き出し命ずる。
「蒼花、白花っ」
――承知。
唱和するのは、人外である存在の声。
静夜が残した水が弾けた。青き光の残滓に鱗を煌かせ、蒼花が炎の大蛇に向かって水を放つ。純白の光と共に現れた猫型の白花は、突風を起こした。
消し飛ばされる炎と、風に飛ばされる火の粉。きらきらと散るソレは危険を忘れるほどに美しいが、見惚れる暇はない。
水の蒼花と、風の白花が睨む先で、娘が空にふわりと浮く。空中に差し伸べた腕に、炎が羽衣のように取り巻く。
娘は炎を操る能力を手に入れている。
「……炎の力」
低く呟く。
織田久樹の炎の能力が、娘に力を与えていたのだ。仕掛けられる攻撃の強さから判断すると、爆発のエネルギーを吸収したように思える。
雄夜の呟きを聞いても、娘は無表情だった。
炎の羽衣をまとう腕を持ち上げ、攻撃の為に雄夜の方向を指差す。再び炎の大蛇が生まれた。
蒼花と白花が水と風で炎を防ぐ。だが、防ぎ切れない火の舌が雄夜の腕をあぶった。
ぼっ、という音と共に火が走る。化学繊維で作られた服は炎に弱い。蒼花が青い瞳に一瞬焦りを浮かべ、水を放った。
水の蒼花と、風の白花は、静夜や智帆には及ばずとも能力は高い。だが実際に発揮できる能力は、雄夜の力量に左右される。二体同時に出している為、雄夜の異能力は分散されており、式神の能力は下がらざるを得なかった
『殺すの』
娘が再びニタリと笑う。優勢を確信した者の、驕りが伺える表情。
『だから邪魔。殺せなくなる』
再び向けられた炎を蒼花に防御させ、雄夜は汗を払うために頭を振った。
人の心から生まれた邪気に対応するには、三つの方法がある。
一つは邪気の核となっている激しい感情を昇華させること。もう一つは邪気を水の能力で封印し、癒し眠らせて鎮める方法。
最後の一つが、炎の能力を使用することだった。
邪気に力を与える存在であると同時に、炎はその激しさで邪気を燃やし尽くすことも出来る。それが浄化のために放たれる炎だった。
式神の一つ、炎の朱花はそれが出来る。ただ三体目を出すことは出来ないのだ。緋色の娘の力が尽きるのが先か、式神を操れなくなるのが先かの持久戦になってきている。
緋色の娘の力は尽きるどころか、激しさを増している。逆に雄夜は式神の制御が難しくなって来ているのを感じており、初めて焦りを眼差しに浮かべた。
「……ちっ」
雄夜が式神と呼ぶ存在は、元々はかなり昔に形を持った巨大な邪気なのだ。
遠い昔に封印されたというのに、それでも消滅せずに残り続けた大きな思念。それらが長い年月を重ねるにつれて、自然の力を吸収し、形を変え、邪気ではないモノへと変異していったのだ。
そうやって生まれたのが、朱花、白花、蒼花、橙花の四つの式神だ。だが式神たちは全員、破壊を望む衝動に縛られているままだった。
破壊衝動を抱えたまま、けれど破壊を望まなくなった式神たちは、破壊衝動を肩代わりできる存在を求めて、雄夜を選んだ。だから雄夜がそれを引き受ける限り、式神は優しく心強い味方として動くことが出来る。
式神を行使する間、雄夜の心は常に破壊衝動に蝕まれ続ける。
気力が削られるたび、怒りを覚えるたび、暗い欲望が黒き炎となって燃え盛るのだ。
――壊したい。
どくん、と心音が高鳴る。
式神に一声命じればいい事を雄夜は知っている。
破壊を命じれば良いのだ。
黒い双眸が剣呑な色に染まる。快感に似た戦慄がゾクリと走った。
緋色の娘は、雄夜の変化に楽しそうに眼を細めた。
『――殺せばいいの。一緒にやりましょう。殺せば、全ては綺麗なままよ』
雄夜の中の破壊を誘い、白い指先を伸ばしてくる。大蛇の形をした炎が小さくなり、羽衣の形に戻った。
二人の間に横たわる奇妙な静寂。
視線が交わった。雄夜の心底を抉り出し、見ぬこうとするのは緋色の娘の眼差し。
雄夜の中で、暗い衝動は限界まで肥大し、破壊を命じる言葉は喉元まで来ている。
真一文字に結んだ唇を開く。口腔内にあぶるような熱さが伝わって、水分が蒸発してひきつれて──唐突に、それが収まった。
無視できないもの、雄夜の魂を呼ぶもの、誘われるままに振り向いて目を見張る。
紅茶色の髪が熱風の中で揺れていた。地面に白い手をつき、上体を起こしている。荒い呼吸を繰り返す唇に、常ならばある花を含むような色は失われていた。
無理な異能力の行使のせいで、意識が戻るはずのない片割れの動きに、雄夜は名を呼ぼうとする。けれどそれを静夜が手で制し、目を閉じたままふらりと立ち上がった。
静夜は眠ったまま、それでも感じていた。雄夜の心が急速に破壊へと傾いたことに、だから目覚めたのだ。
失われる一方だった水の気配が、加速度的に増幅する。
緋色の娘は唇を歪ませた。
佇むもの全てに、まるで水圧が一気にかかったような重さが襲いかかる。雄夜が静夜を支えようと手を伸ばした先で、片割れはゆっくりと瞼を開いた。
普段は優しい印象の瞳が、激しい意思に煌いて凛とする。
強さを抱く瞳。
普段は少女に見える静夜が、今は誰よりも少年らしく見える。
「雄夜、式神を全て展開っ!」
鋭く指示を飛ばすと同時に、水の異能力を宿す青き光りが雄夜を包み込んだ。
破壊の事実をなかったことに見せかける水の結界は、雄夜の心を支配する暗い欲望を鎮める事も可能なのだ。
雄夜は平静を取り戻し「静夜っ!」と呼ぶと、片割れは笑ってみせた。
ただ脂汗を浮かべ、辛そうに肩で息をしている。異能力の行使で使い切った体力と気力の回復のため、まだ眠っているのが正しいのだから当然だ。
雄夜はすぐさま蒼花と白花に攻撃命令を下し、残りの二つの札を取り出した。破壊衝動を静夜の結界が封じた状態なら、雄夜はすべての式神を展開出来る。
緋色の娘は怒りを燃やし、炎の羽衣を再び大蛇とした。
「無駄だよ。君が持つ炎で、僕の水を抜くことなんて出来やしない」
静夜はきっぱりと緋色の娘を否定する。
大蛇の顎が吐き出した炎は、静夜の宣言どおりに途中で霧散した。その隙に、雄夜が式神を呼ぶ。
朱色と橙色の光が空中で弾け、炎の鳥の朱花と、狼の形をした大地の橙花となる。
橙花は咆哮をあげ、緋色の娘の周囲に土壁を生み出した。蒼花は炎の攻撃を水で防ぎ、白花が朱花の炎を風であおる。
朱花の炎は邪気を薙ぎ払い浄化する。いま、朱花の瞳は主の命を待って爛々と輝いていた。
無表情だったの娘の瞳に、感情がよぎる。怯えか、焦りか。おそらくどちらかの感情だ。
雄夜が朱花に命じようとした瞬間、バサッと大きな音が響いた。
物が落ちた音だ。驚いた雄夜が振り向き、静夜も同じく背後を見やる。
萌黄色のスーツを着た女性が、腕に抱えた書籍を落として絶句していた。
学生課に勤める本田里奈だ。
彼女は静夜の放つ水の結界や、式神を見ることは出来ないが、焼け焦げた桜の木と、異常な熱を感じることは出来る。
しかも、だ。
「なに、それ?」
彼女の目は緋色の娘をとらえていた。
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