[最終話 閉鎖領域]

前頁 | 目次 |  次頁
広域領域 No.07


「補強だけでは足りない。繋がりが切れかけたことで、俺たちを最後に闇が空間を塞いだ。もう一度こじ開ける。それでも足りない、あっちで動けるのは巧だけだ」
 雄夜は静夜と智帆の両方と目を合わせたので、状態を正確に理解している。
「静夜と智帆がもう動けないって!? そんな状態なのに、俺たちは……」
「だから迎えにいく」
 式神をすべて解放した代償となる、襲い掛かってくる破壊衝動にめまいがした。
 理性が喰われていく。取り戻す為なのに、すべてをかなぐり捨てて破壊を尽くしたい気持ちが溢れてしまう。
 耐えなければすべてが終わる、耐えきろうと拳をぎりぎりと握る雄夜の手に、ぬくもりが重なった。
「将斗?」
「大丈夫だよ、雄夜兄ちゃん。俺が、絶対にー」
 安全圏を作り上げるまではもう出来ないけれど、光の異能力の持ち主として、雄夜の心に降り注いで衝動を抑え込む手伝いくらいはなんとかしてみせる。
 巧が残ったのは、智帆と静夜も含めた全員帰還のためだ。将斗を先に戻させたのは、絆の強化と残された戦力をぎりぎりまで使い切る為のはず。
 そしてなにより、将斗は巧を失う覚悟を持っていない。巧も将斗を置いていく決意もしていない。いまも、これから先もずっと、そうだと知っている。
「──将斗、問題ない範囲の無理か?」
「わっかんないーけど、死ぬつもり、ない!」
 へなへなと崩れながらも言い切る将斗に康太が這いよった。
「力を絞り出さないといけない時は、とりあえず甘いものチャージだよ」言ってブドウ糖のタブレットを子供の口に放り込んだ。
「ユウくんも〜あー、ユウくんが遠いなあ、また背が大きくなったのかあ」
 手が届かないのは康太が座り込んでいるせいだが、それに突っ込んでいる暇はない。制御を取り戻した今を逃さず、雄夜は式神たちに号令を下した。
「朱花、俺のすべてを使っていい。蒼花と静夜の繋がりを頼りに道をふさぐ闇を焼き払え! 蒼花、白花、燈花、静夜たちを探せ。俺との絆を頼りに戻ってこい!!」
 式神は絆が深い相手の元へであれば空間を越えることが出来る。主の元にだったらもう本当にどこにでも行けるだろう。だから世界だって越えられるはずなのだ。
 もちろん尋常ではない力が必要となる。だからこその四体同時召喚だ。
「いざってなると、無理をして解決って思うあたり。やっぱりユウくんとしーちゃんて土壇場で似てるよねえ」
 のんびりとしているけれど、どこか切ない声を康太が落とした。

 
 寄り辺に残してきた力が失われていくのを智帆は感じていた。
 朱花を展開させて道を切り開く雄夜の背は頼もしいが、彼からの距離が離れるほどに、閉鎖領域は輪郭を失い、地面という概念も手放して揺れているのが最後尾にいるせいか良く分かる。
 ひたひたと閉鎖領域を満たすのは、祟りである闇が作り出す泥のような闇──穢れだ。
 穢れは穴から侵入してくる。たとえば口だったり、目だったり、耳だったり、毛穴だったり。あらゆる箇所から侵入してきては、魂を蝕むと智帆は理解した。
 そして確実に、自分はそれに汚染されていっている。
 朱花だけでなく、将斗と巧からも離れてしまったので、まあ当然の結果ではあった。やられたままは性に合わないので、静夜の異能力を行使して祓ってはいる。それでも浄化の能力というのは、使い手の気質の影響を受けるものだったらしい。穢れを祓いきるまでが出来ていない。
 智帆は無駄な程に回ってしまう頭脳で、今の状況を打破する打ち手がないと理解していた。
 久樹と爽子は早急に帰還して、寄り辺から失われていく異能力の再充填をしなければならない。静夜の力をこれ以上、引っ張ることも不可能だった。なにせ静夜が世界との繋がりを保たせるために、予定になかった異能力を行使し、限界をとっくに迎えているのが分かるからだ。
 もちろん、雄夜、巧、将斗にも余力はない。
 もう流れに任せるしかなかった。
 穢れが智帆を行動不能に陥れるのが早いか、門を抜けることの方が早いか、どちらの可能性も半分半分だろうと思っていたのだ。
 ただ──その瞬間。
 懐かしくも暖かい統括保健室の扉をあけ、朱花に守られて久樹と爽子が飛び込んだ直後。一気に膨らんで弾けた闇が雄夜たちに襲い掛かった瞬間、智帆は風の異能力を解放してしまったのだ。
 後先考えずに動くってのはこういうことか、と風を操った直後に智帆は思った。同時に冷静な部分が「こいつは罠だな」と囁いてきて、無謀な行動に高揚しきれないのが自分のノリの悪さだなとも思う。
 払った闇は異能力を使い果たした智帆を標的とした。
 声は出せなかった。まあ出せたとしても、すべては漆黒に塗りつぶされたので、誰が振り返っても目撃者にはなりえなかっただろう。
 だから智帆は、誰にも気づかれず、音すらも立てず、穢れに取り込まれて。
 ──今、どこまでも、沈んでいっている。
 比喩ではない。地面の概念はとっくに完全消失し、泥のような穢れの中にずぶずぶと引きずり込まれていく一方なのだ。
 まあそうだよな、智帆は思った。
 道連れを一人でも確保しなければ、納得できるわけがないのだろう。
 身体をめぐる血液が穢れに汚染されるのが分かってしまう。それが神経すらも侵して、脳の命令が届かなくなっていた。まだ眼球は自由に動かせたので、上だとあたりを付けた方向を見やることにする。
 別になにかを求めたわけではない。──おそらく、きっと。
 真っ黒で、なにも見えなかった。
 まるで井戸の底から、新月の夜空を見上げているようだ。
 小さな輝きでもあれば、星空を見上げていると思えるだろうに。

 いや。
 なにかが見えた。

 淡い上に、かなり小さい。けれども漆黒の中、確かに輝く何かがあった。
 諦めが先行する智帆の意識とは裏腹に、命を長らえようと必死に鼓動を打ち続け、まだ穢れていない血液を押し出す心臓がどくんと大きく跳ねる。
(──静夜?)
 智帆は期待するのが嫌いだ。
 危険な時に助けを期待するとか、そもそも助けを待つとか、そんなことが自分に出来るとは思ってなかった。
 けれど、けれど、今は。
(静夜!!)
 唇は動かせなかったけれど、心で叫んだ。
「……やっと呼んだ、智帆! 遅すぎだよ!!」
 穢れすら一瞬で清らな水に変える声が響き、ぴくりとも動かせなかったはずの智帆の右腕が脳の命令を受け取った。すぐに光の方向に手を伸ばす。
 淡かった光は今、華奢な静夜の手に形を変えていた。それが智帆の手首を力強くつかんで引き上げにかかってくる。
 そういえばこいつ、見た目は美少女のくせに、実際は弓道部の男子だったか。
 そんなことを思った次の瞬間には、智帆は穢れの泥から上半身を引き上げられていた。
 闇に包囲された時には、閉鎖領域の全ての概念が消失し、すべてが穢れという泥になったと思ったが、此処は世界の形をとどめてる。静夜が居る場所だけ、水の浄化によって閉鎖領域が再定義されているのだ。
 静夜の手を取っていない左手も動かせるようになったので、確かさを取り戻した地面に手をついて智帆も泥から這い上がろうと試みた。
「もう、穢れがしつこいんだけど!」
 癇癪のような訴えは、静夜らしくはないが智帆も同意見だ。
 静夜の眉はきつく寄せられ、繋いだ手からは震えが伝わってくる。静夜はとっくに限界で、痙攣をおこし始めているのだ。
「ねえ、智帆。この状況に妙な既視感を覚えるんだけど、なんでか知らない!?」
「秋の時に、落ちる北条を支えていたあれに似てるからな」
「それだ! だったら智帆、北条と同じこと言ったら、怒る、から!」
 まだ智帆は何も言っていないのだが、静夜が先行して怒っている。襲い掛かってくる穢れに対抗するために水の異能力を懸命に展開し続けていた。
「あの時とは状況が違うだろ、実際、これじゃ共倒れするぞ」
 指摘はしたが、智帆は静夜の手を振り払わなかった。むしろ生粋の浄化に触れていることで、もう一度戻ってきつつある風に意識を集中させる。
 手を振り払えば、静夜だけは助かるかもしれない。
 ただそれは命だけを助けて、心を殺すことになる。それをされたくない智帆だからこそ、静夜に強いることは出来なかった。
 作戦を考えてはシミュレートして、帰還率の高い作戦を求めたけれど、全員が無事でいられる確率は上げられなかった。その現実を共に飲み込んできた相手でもあるからこそ、だ。
 閉鎖領域中の穢れが大量に集まってくる。
 上半身は泥から抜け出せていたのに、もう胸の辺りまで埋められている。しかも智帆だけでなく、引き上げようとする静夜の白い肌も、穢れが侵そうとしていた。
 漆黒の蛇のように形をとった穢れが、静夜の細い指、手首、二の腕、肩と這い上がって唇を目指している。そこから一気に内部に侵入するつもりだ。
「っ!!」
 穢れに触れられた箇所は、燃えるように熱く、そして痛かった。穢れとは正反対の異能力の持ち主だからこそ、ひどい苦痛を味わって静夜は悶える。
「静夜っ! もう……」
「……その先、言ったら、ずっと許さないからっ! 手を放せとか、むしろ実力行使で僕の手を振り払ってみろ、もう二度と、智帆のことなんて信じない!」
「それはかなり困るな」
 すっかり汚れてしまった眼鏡の下の目は優しく、口元だけ皮肉っぽく笑って見せる。
「──だったら、俺と心中するか、静夜?」
 智帆が低く尋ねた。
「うわっ、そんなインパクトの強い言葉で、驚かせて手を放させようって作戦!? ちょっと卑怯すぎるんだけどっ」
 静夜がむくれた声を出す。
「不可抗力、って奴ならありかと思ったわけだよ」
「そういうのにはひっかからないって……ああ、もう熱い、いや痛いっ!!」
 半開きの唇で、苦し気な呼吸を繰り返しながら、静夜は苦痛をこらえ眉を寄せる。瞳には涙が浮かんで、こぼれた雫が智帆の頬に落ちた。
 もうどこにも力が残っていない。静夜の肌を上る黒い蛇も首まで来ていて、這った後は朱く染まっているのが智帆にも見える。
 それでも二人、手を放すことも、放させることも出来なかった。
「……やれることは、やった、と思うんだけど」
「これ以上って、言われてもな。なにも浮かばないな」
「不可抗力がありなら、さ。結果、共倒れしました、も……許される、とか? ……だって、最低限の勝利ラインは越えて……僕たちしか残ってな──」
「見つけた! そして残念でしたー!!」
 この場にそぐわない、高らかな声が響いて静夜と智帆は目を見開いた。
「「え?」」
 らしくもなく、完全に状況が理解できない声を同時に上げて、二人は声のした方向に視線をやる。
「共倒れとか、勝利ラインは越えたとか! ぜんっぜん、ありじゃない! しかも俺はここにいるし!」
 憤りに目を燃やし、帰還させたはずの中島巧が立っている。
 彼を守るのは上空にある炎の朱花、泥となった穢れには大地の燈花が寄り添って付け入る隙を与えていなかった。
 静夜と智帆が帰還できなかった時、それでも元の世界に生きて戻れる可能性は、雄夜が向こうから式神を渡らせてくることだけだった。
 きっとそれをしてのける、とは思っていた。だから居ることに驚きはないが、巧がいるのは完全な計算外だ。
「蒼花、白花、静夜にぃと智帆にぃをお願いっ!」と巧が続け、現れた蒼き竜と純白の猫の形をした式神を見て驚愕した。
「式神全てって、むちゃくちゃだよ雄夜っ! それに蒼花までこっちに来たら、世界と世界の繋がりは!? 命綱の役割だったのに!」
「将斗と俺、静夜にぃと雄夜にぃが分かれているんだから、問題ないの!!」
 静夜の懸念をあっさりと退け、まさに穢れに取り込まれる寸前の静夜と智帆を、同じ眷属の能力を持つ蒼花と白花が能力を遠慮なしに開放して救出してのけた。
「いろいろと無茶苦茶、なんだ、けど……」
「なんだよ、静夜にぃ!」
「え、だって。これはちょっと想定になさすぎて」
 呆然とする頭脳派たちに駆け寄って、巧は両手を伸ばして二人の手を掴んだ。
「俺だってちゃんと考えて、助けられるように成長するって言ったろ!」
 そのまま力強く、泥から軽々と引き上げられてしまった。
「やばい、巧が俺らの中で一番格好良くないか?」
「僕が女の子だったら恋してる」
「俺もだ」
 蒼花と白花は二人にすり寄って、彼らが動けるだけの力を与えて札に戻っていった。
「でももう、これで雄夜は気絶寸前のはず。ただ……うん」
 全員が生還するためには、自分たちに都合が良すぎる展開と、それぞれの行動が必要なのだ。
「そうだね。もし、全員が帰れるなら。最終的に必要なのはこれで、やってくれるだろうとは思ってた……」
 静夜が呟く頭上で、朱花が焔の翼を大きく広げる。
 それはいつもの赤ではない。
 炎ではあり、けれどただの炎でもない。
 雄夜が式神を展開し、将斗が破壊衝動から彼を守るために気力のみで光を織り上げている時に。彼らが命すら維持できなくなるまでのカウントダウンを目の当たりにしながら、久樹が決意したのだ。
「爽子、俺の能力のリミットを外してくれ」
「──分かってるわ」
 帰ってきたことのない返事に視線をやれば、爽子の瞳は既に能力の限界を越えた時に見せる、光すら宿さない漆黒の色に変わっていた。
 彼女は異能力をすでに燃やしている。すべての能力を支配する力で、久樹の中にある炎の限界の先を展開させるべく動いていたのだ。
「だから、私の全部も使って。そしてなにもかもを否定して。世の中の理とか、世界が離れているとか、もうそういうのは面倒でしかないのよ。全部、全部」
 爽子はおもむろに手を伸ばし、久樹の唇を引き寄せて己のソレを重ねた。
 激流のような異能力を久樹の中に流し込む。受け取る久樹は、身体の中にある炎の全てが点火するのをはっきりと感じた。
「全部破壊してしまって、久樹!」
 唇を放して叫ぶと、繰り糸を失った人形のように爽子は崩れた。それを受け止めて、久樹は煌々と輝いて、破壊と再生をもたらす炎をここではない世界へと向けた。
 炎を受けて、世界は一度、滅びを迎えた。
 久樹の炎を先に受けとめた朱花が翼下に広げた空間と、別の空間である白鳳神社以外の、閉鎖領域のすべてが。
 業火によって薙ぎ払われ、浄化され、そして再生を迎えていく。
「破壊と再生──炎の異能力の真骨頂だな」
 智帆が空を仰いで呟く。
 美しく生まれ変わっていく光景を最後まで見届けることはできなかった。炎がもたらす業火の浄化に眩しさを感じた直後、翼を広げた朱花によって帰還が果たされたのだ。
 統括保健室の扉はさらさらとした砂となって形を失い、跡地に三人の姿が現れる。
 先に帰還していた者も、遅れて帰還した者も、互いになんといえばいいのかが分からず、ただ互いを見つめあった。
 やっぱり犠牲になるつもりだっただろ、と責めたい気持ちもある。
 少ないとはいえ帰還の目も残したんだから、犠牲は想定してないと先に言っておきたい気持ちもある。
 けれどどれも相応しくない気がして、横たわる沈黙を破ったのは、やはり大江康太だった。
「しーちゃん、智帆くんに、たっくん! 帰ってきた、全員、帰ってきた! よかったよ!! 久樹くん、爽子ちゃん、わたしの可愛い甥っ子と友人たちを連れて帰ってきてくれてありがとう!!」
 両手を広げて静夜を抱きしめ、続けて智帆も抱きしめ、座り込んだ雄夜のことも抱きしめる。
「康太兄さんは抱きつき魔だったのか」


 
 
 前頁 | 目次 |  次頁