[第一話 サクラ咲く]

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No.03 秘めた力

 大江雄夜と大江静夜が本物の双子であったショックから抜けきれずに、織田久樹はまだ呆気に取られていた。気分転換を図ろうと首を振る。落ち着きが戻ってくると、今しがた経験した異常への疑問と、現在保健室にいる疑問が遅れて持ち上がってきた。
「なぁ」
 久樹の改まった声に、爽子は双子が出ていった扉を見ていた視線を移した。
「爽子。桜の花と、あの女はどうなった? そんでもって、俺はどうしてここにいる?」
「ここに居るのは、倒れた久樹を、駆けつけてくれた康太先生が運んでくれたからよ。……ねぇ、久樹。何があったと思ってる?」
「俺か? ……そうだな」
 二人の会話は歯切れが悪い。
 秦智帆は、一歩下がって壁に寄り掛かり目を瞑っていた。会話に口を挟まないという意思表示だ。
 斎藤爽子は、異能力の持ち主しか見れない式神を目撃した。すでに静夜の水と異常な対立反応を示した久樹も、ここに式神がいれば見えるだろうと智帆は踏んでいる。
 ただこの二人が不可思議な事件に慣れているとは思えなかった。だから今、この異常事態を前にして、彼らがそれをどう認識するのかが智帆の目下の興味事だ。
 久樹は爽子の問いを、頭の中で再生している。
 ――何があったと思っている?
 答えるのが難しい質問だ。改めて、何が起きたのかを整理してみる。
 智帆と静夜と別れた後で、白梅館を目指したのだ。大学部水鳳館までは行かず、手前の道を折れた時、足に何かが触れたことを覚えている。蜘蛛ではないかと怯えて、爽子に見てくれと頼んだのだ。
 ズボンの間からあふれ出たのは、蜘蛛ではなく桜の花びらだった。
 意味が分からず驚愕している間に、ざわめきが周囲を包み、桜が突然の開花を始めて、空が薄桃色に染められたのだ。
 ──そう、それで、娘が現れたのだ。
 緋色の肌襦袢を身にまとい、少女でありながら妖艶に赤く塗り潰した唇をした娘だった。
「桜が咲いたんだ。それから、赤い肌襦袢の女の子が出てきたよな」
「うん」
 出来てきた娘の顔は、表情というものがなかった。
「やたらと不気味だった。だから俺らは逃げることにしたよな、この白鳳館に戻るために」
 けれど異常開花した桜は二人を逃がさず、花びらによって埋め尽くそうとしてきた。ひどく重いそれは豪雪のようで、一歩、足を進めることさえ出来ない。それどころか圧力のひどさに、息をすることすら難しかったのだ。
「俺らはどんどん花びらに埋められていって」
 感情を見せず、敵意も見せず。無表情のまま追って来る緋色の娘。
「追い着かれた」
 背に触れたのは娘の感触。
 体重は感じなかったけれど、背全体に娘が覆い被さられた感触は生々しく残っている。
 背後からいきなり伸びてきた白い両手が、久樹をからかうように指先をからめて手遊びをしながら、ゆっくり、ゆっくりと、久樹の首にかかってきたのだ。
 蛇が獲物を締め付けるように、指が首を圧迫してきたあの苦しさ。
「あれ?」
 首筋をさすって、久樹は眉をしかめた。
 ここまでの記憶は完璧なのだが、どうもその後が分からない。一体自分は何を感じ、何を抗い、何をしていたのだろうか?
「……どうしてたんだっけな?」
「久樹?」
 呼びかけられて、久樹は爽子をみつめる。長い前髪を二本のピンで止めた幼馴染みの表情は真剣で、ひどく心配そうだった。
「そうだ、爽子の悲鳴が聞こえた」
 ようやく一つ思い出した。それを取っ掛かりにして、記憶を更に手繰り寄せようとする。
 胸をかきむしりたい苦しさがあった。意識は頼りなく遠ざかり、空気への飢餓感が胸を焦がした瞬間もあった。そしてなによりも──身体が急速に熱くなっていった。
「身体が燃えるかと思ったんだよ」
「熱かった、てこと?」
 ──どうして忘れていられたのだろう、あの身を焦がす熱を。
「爽子は熱いって思わなかったか?」
 眉を寄せて尋ねると、幼馴染みは首を振った。
「私は熱いとは思わなかった。ただね」
「ただ?」
「小さい火が見えたの」
 目の前で舞い上がった土煙は、久樹の姿を急速に隠していった。かわりに空気が濃縮されて重くなる感覚がして、爽子は確かに小さな火を見たのだ。
「火を見たと思った後の事、わたしもあまり覚えていないの。後ろから声がして、気付いた時には伏せさせられていたから。……待って、私だけじゃない、来てくれた巧くんと一緒だった」
 身じろぎすらできなくなった花びらで埋め尽くされた一帯だというのに、花道のように盛り上がった地面の上を巧が駆けてきてくれた姿を思い出す。
「どうして?」
 巧は走ってこれたのはなぜだ。彼が走るための場所を作るために、地面が盛り上がってきたからではなかったか?
「……変よ」
「どうしたよ?」
 怪訝そうな久樹を手で制し、爽子は沈黙を守っている智帆を睨んだ。
「ねえ、智帆くん。ちょっと聞いていい?」
「構わないよ、爽子さん」
 閉ざしていた瞳を僅かに開いて、智帆は答えた。
「あそこは走れるような状態じゃなかったの。なのに巧くんは真っすぐにわたしのところに駆けてきてくれた、だって巧くんの足元にだけ、盛り上がった地面があったから!」
「へえ。随分と不思議な状況だな」
「ごまかさないで」
 白々しい智帆にめげず、爽子は勇気を絞り出すために拳を握った。
「わたしは久樹を助けたかったけど、巧くんに止められたの。でも首を絞められている久樹を見捨てることなんで出来ないから、振り払おうとしたわ。そしたら巧くんは……そうよ『成功するか分からない』って言って……」
 ――震えろ!!! と、手を激しく打ち鳴らして少年は叫んだ。
 混乱しすぎて断片化していた出来事が、爽子の中で順序立てて蘇ってくる。
「あの女の子は消えたけど、今度は隕石みたいに岩が久樹にむかっていったのよ。もうどうしたらいいか分からなかった、ただ駆け寄りたかったの。でも、伏せろって声がして、気付いた時には私と巧くんは道路に倒れてた……」
 今更ながら蘇る恐怖に、爽子の瞳が震える。
 久樹は爽子が凍えながらも興奮に取りつかれていく理由を知らないが、なんとか守らなければという思いに駆られて、彼女の肩を思わず抱いた。
 爽子はびくりと震えて、瞳を泳がせた。肩を抱いてくれている久樹を認識して、安心が胸の中を満たす
 ――今は大丈夫なのだ。
 思い出している出来事であって、今、起きている異変ではない。だから怖くない。
「……静夜くんだった。あの時、私たちを強引に地面に伏せさせたのは。──そうよ、わたし、貴方の声も聞いたんだから」
「なんて言ってた? 俺は」
「思い通りにさせないとか、言ってた」
 ただ、ここから先は、もう本当に何も覚えていなかった。
 次にあるのは、異常な光景は全て消えて、普段通りの景色があっただけだったのだ。――焦げてしまった桜を除いて。
「ねぇ、どういうことなの? 智帆くん達は一体何をしたのよ!?」
「──ちょっと待った。俺達のせいにされたら困るな」
 低く智帆は言って、お手上げのポーズを取る。壁に預けていた背を離し、二人の前に立って肩をすくめた。
「最初に言っておくけど、爽子さんが思っていることは何一つしてないよ」
「してないって……」
「してないさ。俺らがしたのは、爽子さん達を助けたってことだけだ」
 反論を許さぬ強さで言い切り、智帆は手を持ち上げた。久樹が咄嗟に爽子を背後に庇う。「手を上げるわけないだろ」不機嫌に言って、智帆は目を伏せる。
 どうしてか、ひどく、ぞっとした。
 緋色の娘が現れた時のひやりとしたものを智帆に感じ、白くなった視界の中で散った桜の花びらの光景が鮮やかによみがえってくる。
「……智帆。お前って……」
 知らず声が低くなる。久樹の眼差しが鋭くなったのを見て取って、智帆は唇をゆがめて笑った。
「爽子さんだけに留まらず、久樹さんまで怖い顔になってきたな。なにか思いついたってとこか」
 人の悪い言葉にかっとなり、久樹は智帆の襟元を掴み上げた。鋭さを増す瞳と瞳が正面からぶつかる。さすがにこれはまずいと爽子が口を挟もうとした瞬間、威勢の良い音と共に扉が開いた。
「智帆にぃに何してんだよっ!」
 赤みがかった茶色の髪が、威勢の良い声と同じように跳ねる。声の主は素晴らしいスピードで保健室内に入ってくると、智帆の襟元を掴む久樹の足を遠慮なく蹴り飛ばした。
「いってっ!!」
 うずくまった久樹の後ろで、爽子は目を丸くする。
「巧くん!?」
 侵入者は、野球帽と釣り目がやんちゃな印象を与える中島巧だったのだ。巧の突進を一部始終入り口から見ていた川中将斗が、久樹に同情的な眼差しを向ける。
「あれ、痛いよなー」
 暢気に言いながら、将斗は扉を律儀に閉める。
 ごくろうさんと智帆は巧の頭を軽く撫でた。
「首尾はどうだった?」
「ばっちりだよ! 多分、智帆にぃが考えていることが証明できたはず!」
「そっか、よくやった」
 巧は胸を張った。誉められるのが大好きな単純さが、智帆には妙に心地よい。
 彼らの会話の意味が分からないまま、爽子は巧の前に出た。
「私、巧くんに尋ねたいことがあるの」
 憧れの爽子からの真っ直ぐな眼差しに、巧は狼狽して赤くなった。
「そっちに行かれたら俺が困るからなしだ。爽子さんは策士だな、弱点が誰かすぐ把握してそこをついてくるんだからな。まあいいか、説明に必要な材料が揃ったんだ。わかる範囲で説明する」
 智帆は皮肉な口調のまま、初等部の二人の肩を引いて爽子から離す。庇われたことが分かるのか、巧は上目づかいで智帆を見上げた。
「智帆にぃ?」
「気付いたことを報告」
「了解っ! えっと、最初に桜が咲いているのを見た時に調べたことだけど。朱花によれば、桜の満開の現象は一部でだけ起きてるって。白鳳学園ある付近以外はまったくだってさ、な、将斗」
「ケーキ買って戻ってくるときに、雄夜兄ちゃんが教えてくれたー。だから確かだよ」
 朱花という聞きなれない言葉に、久樹が「誰だ?」と爽子に尋ねる。「わたしも分からないの」と爽子は首を振った。
「ああ、朱花についてはあとで説明するよ」
 タイミング良く智帆が口を挟み、報告の続きを巧に促した。
「白鳳学園内で咲いている桜も、一部だったよ。えっと、学園駅から正門に続く沿道の桜と、白鳳学園までの道。そこから白鳳館入り口のあたりまでと、水鳳館から白梅館までの途中の道な」
「あとな、智帆兄ちゃん。言い忘れてたけど、桜の花びらは微妙に焦げてるんだぜー」
「焦げてる?」
 これは初耳だったので、智帆は驚いて将斗を見やる。そうなんだよっ!と巧も同意した。
「桜の花びらの淵が、燃やされたみたいに焦げてたんだ」
「――なるほどな」
 納得した智帆に、爽子が焦れてジト目で見つめた。
「智帆くん。一人で納得してないで、教えてよ。いまの話、どんな意味があるっていうの?」
「あれ、分からないか? 久樹さんの方は、ちょっとピンと来るものがあるみたいだけどな」
「え?」
 爽子は久樹を見上げた。あまり真剣な顔をしない幼馴染みが、ひどく厳しい顔をしていてびっくりする。
「久樹?」
「爽子。桜が咲いてるポイントだけどな」
「うん」
「俺たちが通ってきた場所じゃないか?」
「──え?」
 爽子の顔色が曇る。
 二人は白鳳学園駅の地上出口で待ち合わせをしたのだ。
 そこから白鳳学園を目指し、桜に驚きながら正門をくぐり、まずは学生課のある白鳳館を目指した。学生証が入手できたので、白梅館へと向かったのだ。
 たしかに、自分たちが通ってきた場所で、桜は開花している。
「どうして……」
 二の句が継げない爽子の肩に置く手をぽんぽんとしながら、久樹は白梅館にむかう途中で遭遇してしまった異常な出来事に思い出す。
 なにか自分たちが関係している、とでも彼らは言いたいのだろうか?
 智帆の視線を前に、妙な恐ろしさを覚えてしまいながら、否定できるものを懸命に探した。
「──ん? 待てよ。白鳳館から水鳳館沿いまでの桜は咲いてなかっただろ」
 口に出してホッとする。
 桜の異常開花は、自分たちが通過した場所で起きているわけではないのだ。
「そうよ、うん。咲いてなかった。もう、智帆くんも見てるじゃない」
 勝ち気さを取り戻した爽子が、智帆に言い返す。
「久樹と、静夜くんを運んで来た時、水鳳館からここに来るまでの間の桜は咲いてなかったでしょ。驚かさないでよ」
 爽子が言葉を募らせるたびに、智帆に両肩を持たれている巧がしょんぼりと項垂れていった。「で、どうなんだ巧?」と高等部の友人に言われてびくっとなり、悲し気に巧は従兄弟の将斗を見つめる。
「あー、そっかー。まあ仕方ないかなー」
 いつもは元気いっぱいの猫のような目がしょんぼりする理由は分かるので、将斗はやれやれと首を振った。
「爽子姉ちゃんの不利になること、言いたくないんだよなー。しょーがない、あのね、爽子姉ちゃん。そこの桜も咲いちゃったよ」
「──え!?」
「うん、遅れて咲いちゃったんだ。その場で咲く場合と、遅れて咲く場合があるみたい。俺と巧、さっきいなかったのは、智帆兄ちゃんに言われて確認して回ってたからなんだー」
 織田久樹と斎藤爽子の通った道のりを正確にトレースして、桜はすべて開花していたのだ。
「ちょっと待てよ。そんなのって、有り得るのか?」
「現実に有り得ているものを否定されてもな。で、見解は如何に?」
 小学生二人に喋らせていた智帆が、動揺する久樹に問い掛けながら、智帆が目の高さまで拳を持ち上げた。
 そこに光が集まり、翠の光を放ち始める。
「なんだ?」
 やわらかに脈打つ光り。
 広がるとともに風が起き、智帆のココアブラウンの癖毛が揺れ始めた。それは巧と将斗の髪も揺らし、最後に久樹と爽子の髪も舞いあげる。
 ――風が吹いている。
 弱い風ではなく、髪をあおる強き風。
「なんなの!?」
 乱れる髪を押さえて、爽子はあることに気付いた。
「久樹。この風、変よっ」
「何がだ!!」
 爽子の瞳は保健室の内部を見つめていたが、久樹の瞳は翠色の光りを発する智帆の拳を睨んでいた。
「だって、風に揺られているのってわたし達だけなの!!」
 久樹の服を掴み、窓辺にかかったカーテンを指差す。強く風が吹いているというのに、カーテンは狂ったようにはためいていなかった。
 謎の光りを宿して、智帆が皮肉げにただ笑う。
「まさか……!」
 ごくりと唾を飲み込んだ。
 有り得ないと思う。
 なのにそれしか考えられない。
 智帆の目はあざけるように揺れている。まさかともう一度呟いて、久樹は勢いよく手を広げた。
「この風を起こしてるの、お前なのか!?」
 叫びを受けて、智帆は少し顔を歪ませた。心の底から自分たちを馬鹿にしているように見える。──正直、腹が立つ。
「本気でそう思えるのか?」
「思ったんだよ!!」
 腹立たしげに怒鳴る。智帆は今度こそはっきりと笑った。
「当たり」
 智帆が言いきる。
 光が消えた。そして風が止む。


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