桜が次々と開花していく。
立ち竦み、空を仰ぐ二人が呆然としていた時間は五分も経っていない。けれど木の枝についていた小さな蕾が、勢いよく膨らみ、開花していくさまを見守る体感時間は、五分ではなく永遠に感じられた。
『散る。桜、散る』
安物の鈴に似た声が響く。
口元に桜色の扇子をあてた娘が、少しずつ移動している気がする。空中に浮いた娘の足は、微動だにしていないというのに。
久樹と抱き合う形で娘を背後にしている為、爽子は異変に気づいていない。彼女は満開になった桜が、花びらを落とす光景に釘付けになっていた。
「爽子」
緊張した声で、久樹は爽子の肩を揺さぶった。呆然としていた瞳がはっと見開かれ、まばたきの後に、真剣な幼馴染みの表情を確認する。どうしたの、と口を開こうとした彼女の唇に人差し指を置いて、叫ぶなよと久樹は合図した。
「いいか。絶対に振り向くなよ。さっきの女がこっちに向かってきている。俺が合図するから、そしたら走るんだ。白鳳館に戻ろう」
長期休暇期間中の学園内は、人が少ない。
突然の桜の開花と空中に浮かぶ娘を前にしても、助けを求める相手がいなかった。通りかかる可能性も少ない。ならば学園の職員が確実におり、先程出会った智帆と静夜がまだいるかもしれない白鳳館まで戻ったほうが得策だ。
爽子が素早く肯いたので、久樹は彼女の二の腕を強く掴み、もう一度確認する。
先程まで口元を隠していた扇子を袂に挿した娘は、何処を見ているか分からない不透明な眼差しを前方に向けていた。顔は過剰な白粉と塗りすぎた口紅で覆われている。両手はだらりと下げられていて、まるでお化け屋敷の日本人形のようだ。
「不気味だな」
振り返った久樹が低く呟く。
空に浮いていることでも、人形のように見えることだけでもない。娘が何を考え、何をしようとしているかが全く分からないことこそが、不気味だった。
相手が何を狙うかが分からない以上、やはり一度逃げた方がいい。
「一」
数をカウントし始めた。何故か、昔こうやってよく駆けっこをして爽子と遊んだことを思い出す。
「二の……」
爽子が次の数を口にした。二人の視線が空中でぶつかり、続けて「三っ!」と同時に叫ぶ。久樹は体の向きを変え、爽子は先に前に飛び出した。
走り出すとすぐに、二人が背にした方向で鈍い音が響き始めた。何年も閉ざされていた土蔵の扉を、ゆっくりと開けていく音に似ている。
「何、今の音っ?」
「俺に聞くなよ!」
口々に叫びながら、二人は振り向きたい衝動を必死に抑えた。
背後で響く重々しい音は、次第に轟という音に変わって行く。満開になった桜が落とした花びらが、引き寄せられるように背後に流れていく。
爽子は流れていく花びらと、前に出す足に抵抗がかかり始めたことに気づいて、声を上げた。
「ねぇ、わたしたち、吸い込まれてるんじゃない!?」
「巨大掃除機でもあるってか?」
くだらない返答だが、久樹の顔には焦りがある。爽子に指摘される前に、彼も気づいていた。膝から下の部分で、風が二人を背後に押し流そうとしている事に。
風の鳴る音に、別のざわめきが不意に加わる。
枝がさざめく音だ。続けざまに、上空から桜の花びらが落ちてくる
尋常な量ではない。すぐに二人は、太股のあたりまで桜の花びらに埋められた。風は突如風向きを変え、今度は二人の上半身を飛ばす勢いで吹き荒れる。
ごうごうと音を発し、吹き荒れる風に舞う花びらは、吹雪を連想させた。
「な、によ、これっ!」
太股まで花びらに埋められて、殆ど走れない。上半身は風に押され、気を抜くと背後に倒れそうになる。足が止まってしまう幼馴染の腕を掴み、久樹は引きずるようにして前に進もうとした。
『……綺麗であるべきだって思うの』
声。
ふぅ、と久樹の耳元に暖かな風が触れる。
腰から首筋にかけて、寒気が走った。前に進もうとする意志が一瞬で挫けて、立ち止まってしまう。距離を狭めてきた娘が、背にぴたりと体を添わせてきた。
温もりは感じない。それどころか、凍り付くほどの冷たさが忍び寄ってくる。
耳にかかる生暖かい息だけがリアルだ。振り向いてはいけないと、久樹は己を必死に戒める。『ねぇ』と声が掛けられた。
突如、久樹の視界に手が飛びだしてきた。
二の腕までたくしあがった緋色の襦袢が見える。合計十本の指が見える。感触は白蛇の鱗のようで、凄まじい恐怖を覚えた。全身が粟立ち、体が硬直する。
「久樹っ!」
腕を取っていた久樹の異変に爽子は叫び、続けて振り向いた。
勝気な印象を与える漆黒の瞳が大きく見開かれる。久樹の背におぶさるようにして、娘がのしかかっていた。黒いだけの瞳が持ち上がって、一瞬だが確かな意志を窺わせて爽子を見る。ニタリ、と娘は笑った。
爽子は息を飲む。久樹は内心「振り向くなって言ったろ」と幼馴染を叱咤した。爽子は忙しくまばたきをして「走って!」と大声を上げる。
娘はもう一度笑った。
『綺麗な、綺麗な、その時にね』
小声だが、やけに耳に響く声で娘が囁く。同時に、前に伸ばしてあった両手を動かし始めた。初めは指先を組み合わせたりして遊んでから、ゆっくりと久樹の首筋へと指を動かせてくる。
白い指が彼の首に辿り着いた。最初はそろりと触れて、次いで動脈の場所を確かめるように動き、最期に柔らかな肌に指を食い込ませ来る。
赤く塗った爪が、久樹の肌に鬱血した痕を付けるのを見て、爽子は絶叫した。
ぴたりと川中将斗が停止した。
立ち止まったのではなく、まさに停止と表現するのが相応しい。
扉を開けようと持ち上がった指もそのまま、まばたきをしようとしていた瞼は少し降ろされた状態のままだ。
「将斗?」
歩く速度が違う為、雄夜は既に白鳳館の中に姿を消していた。声を掛けたのは、将斗と共に歩く従兄弟の中島巧だ。
将斗の瞳の動きが奇妙だ。視線が何かをハッキリと追っているのが分かる。けれど瞳の先には変わったものは一つもない。巧が首を傾げると、将斗はいきなり両手で従兄弟の肩を掴んだ。大学部水鳳館の方角に向き直る。
「行かないとだ!」
叫ぶと、将斗はいきなり走り出した。巧は立ちすくんだが、すぐに追いかける。
将斗は遠方の映像を見ることが出来る。彼が好意を抱いている相手の身に何かが起きた時、それを見ることが多かった。
「将斗っ! 何が見えたんだよ!」
追いかけながら巧が尋ねる。将斗の瞳はまだ遠くの”何か”を見ていて、瞳が忙しく動いていた。
「白いんだっ!」
「白い!? 何がだよ!!」
「見える全てが白いんだー! 違う、白じゃない、薄いピンクになってる! 悲鳴を上げてた爽子姉ちゃんが見えたんだ!」
「爽子さんが!?」
ぴくりと巧の眉が持ちあがった。
小学生の中島巧は、今年大学生になった斎藤藤爽子に片思いをしている。
きっかけは一目惚れだった。爽子は巧が思い描いていた理想の女の子そのものの顔立ちで、性格も優しい。挨拶をすれば、笑顔で挨拶を返してくれる。その上料理も上手だった。
今は子供と大人のように思われるだろうが、両方が大人になってしまえば七歳程度の年の差は問題なくなると巧は固く信じている。だから巧は爽子を姉ちゃんとは呼ばない。
好きな人の危機と聞いて、巧の瞳に重い緊張が走った。全速力で駈けて、水鳳館を迂回する道へと入る。
圧倒的な白。
大気を埋め尽くした桜の花びらがまさに吹雪と化している。
爽子の居場所が掴めず、巧は何度も名を叫んだ。けれど返事が得られない。
異常現象を前に逡巡している暇はない。桜吹雪の中に飛び込んで助けに行くだけだ。問題は桜の花びらがすべてを埋め尽くして、走れるような状態にないことだった。
「地面っ! 地面、出て来いってぇの!」
巧は苛立って叫び、いきなり両手を積もった桜の上に置く。大きく開いた口腔内に入ってくる花びらが不快だが、今は無視する。とにかく意識を両手に集中した。
指先が大地の鼓動を捕らえる。
ぐずりと音がした。地面を埋めた花びらの一角が崩れ、地中から盛り上がってくるものがある。アスファルトに閉じ込められていた地面が姿を現したのだ。
ソレが巧の為に道を作り上げ、飛び乗って駆け出す。
将斗は後を追わずに意識を集中した。桜吹雪に突入した巧が、爽子を発見できるように、ナビゲーターの役割を果たせればと思ったのだ。
爽子の居場所と巧の位置を懸命に探り、目指す方向を懸命に叫ぶ。その甲斐あって、巧は不気味な娘に覆い被さられている見知らぬ男を発見した。焦りを含んだ爽子の声も拾う。
「爽子さんっ!」
居所を求めて巧は叫んだ。
爽子は背を震わせて、声の方向を向く。桜の花びらは胸の辺りまで積もっていて、それ以上動くことは出来ないでいた。
「なに?」
爽子には盛り上がりが見えた。
地響きのような音と共に地面が盛り上がり、その上を少年が駆けてくる。
「巧くん!?」
まさか人が走って来るとは思ってもみなかった爽子の声に驚きが加わる。巧は爽子の場所に気付いて、さらに距離を詰めた。
「大丈夫!?」
埋められている爽子に向かって少年は手を伸ばす。無意識に爽子が巧の手を握り返すと、ぐらりと体が激しく傾いだ。
「な、なに!?」
地面が盛り上がったのだ。はらはらと、彼女を埋めていた花びらが左右に落ちる。驚いた爽子に、巧は作り笑顔を浮かべて見せた。
「大丈夫だよ、ちょっとした……えっと、その、手品みたいなもんだから!」
「手品?」
「それより、爽子さん大丈夫?」
心配そうな巧の言葉を受けて、爽子は肯く。
「私は大丈夫。でも、久樹が……」
「爽子さん、久樹って誰?」
「あの人っ」
腕を上げて指し示す。巧は視線を移して、背中から男に圧し掛かる不気味な娘と、首を締められ蒼白になっている男とを見比べた。
「爽子さん、あんなのと幼馴染みなの!?」
「え? 何を言ってるの?」
「だってさ、爽子さんの幼馴染み!? いい人だろなって思ってたけど、アレは不気味だよ!?」
「巧くん、私の幼馴染みは、あの女性じゃなくって、男の方よ」
「男!? ……爽子さんの幼馴染が、男ーーー!?」
この世の終わりを目撃したような絶叫をする。異常な現実よりも、幼馴染みが男であることに絶叫される意味が爽子には分からない。そうしている間にも、久樹の首に巻きついた娘の指は力を増して行く。
顔が鬱血していく。血が回らなくて、必要な酸素が欠乏し始めているのだ。早く助けようと、爽子は再び桜の花びらで埋められた場所に飛び込もうとする。慌てて巧が手を引っ張った。
「だ、ダメだって!! さっきは運良く大地が言うこときいてくれたからいいけど、またきいてくれるとは限んないんだからさっ!」
「いうこと聞いてくれるって、何の話? 早く助けないとっ」
「ああ、なんか腹立つっ! ねぇねぇ、爽子さん。あの人って恋人なわけ!?」
「ええ!? な、な、ななな、何を言ってるの!? 幼馴染みよ、幼馴染みっ!」
いきなりの質問に、動転して爽子は口篭もりながら否定する。疑わしげにしばし見つめてから、こくんと巧は肯いた。
「分かった。友達は大事だよな。でも、成功するかわかんないから。爽子さん、絶対に俺から離れないでくれよっ!」
凛々しく叫ぶと、土が盛り上がって足場となっている場所に巧は手をつけた。声を掛けるのもためらわれる程に真剣な表情を浮かべ、ぶつぶつと土に向かって話し掛けている。
「巧くん?」
おずおずと尋ねた爽子の言葉も耳に入っていないようだった。
「震えろ!!」
パンッ、と激しく手を打ち鳴らして、巧は叫んだ。
足の指先から振動が伝わって来る。本能が恐怖を覚えて爽子は巧の肩に縋った。
いきなり激震が襲ってきた。
地面が割れ、次々と土の塊や岩石が飛び出してくる。かなり身の危険を感じた。巧の願いのままに、大地が猛りすぎたのだ。
「……やばい、暴走してるっ!!」
立っていられない激震の中、爽子は久樹の上に圧し掛かる娘がいないことに気づいた。圧迫された喉を押さえて、久樹が激しく咳き込んでいる。
爽子は名前を呼ぶが、轟音にかき消されて届かない。駆け寄ろうと踏み出した時にまた大きな揺れが来て、右方向から大量の土砂が二人の間を裂いて雪崩れ込んできた。
「久樹ぃーー!!」
土煙がひどく、なにも見えない。爽子はただ悲痛をあげ、巧も蒼白になった。
「やべぇーーーーーー!!」
大地は巧と爽子を守るが、正直に嫌な奴としか思えない久樹に対する好感度は低い。おかげで守りの影響下から外れてしまっていた。
「待った!! それ、それ待った!!」
慌てて叫ぶが、いまから守りを広げる操舵の確かさを巧はまだ持っていない。
爽子が久樹の元へ駆け寄ろうとするのを、食い止めるだけで精いっぱいだ。
「あれっ!」
爽子が上空を指差して叫ぶ。空中に舞い上げられた岩石が、久樹に向かって急下降どころか推進力を伴って落ちていく。
「嘘ぉ!?」
「久樹っ!」
巧は仰天し、爽子は涙声になった。
まるで隕石のように岩石が落ちていく。
落ちていく地点で、ゆらりとした炎が生まれるのを見つけた。
同時に周囲の空気が炎によって吸い込まれて、どくん、と炎がまるで鼓動する。
恐ろしいことが起こる予感に、肌が一気に粟立った。
「巧っ!! 爽子さん、伏せろっ!」
惨劇の予感に震えるすべてを振り払う、少し高い声が凛と響いた。
異常事態を将斗が知らせたことで、静夜が智帆と共に駆け込んできたのだ。華奢な両手を伸ばして地面に伏せさせ、二人の頭を腕の中に抱え込む。同時に意識を集中し、紅茶色の大きな瞳を伏せると同時に水を呼んだ。
りぃん、と、どこまでも清らかな音が響き、薄く青を宿す光のヴェールが舞い下りてくる。
智帆は静夜の前に立ち、翠色の光が集めた掌を空に向かって構えた。
──空気中の酸素をすべて吸い込んで、鼓動する炎がついに爆発する。
「思い通りにさせるかって」
皮肉気に響く声と共に、襲い掛かってくる爆風を打ち消す風を智帆が呼んだ。
竹原湊 湖底廃園
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