[第一話 サクラ咲く]

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No.02 舞姫


 白鳳学園の校門から、白鳳館まで続く道は、左右に各部に続く道が枝葉のように広がっている。その一つ、大学部水鳳館に続く道を進み、校舎を迂回して背後に出ると、寮として建てられたマンション、白梅館が姿を見せるのだ。
 織田久樹と、斎藤爽子は、白梅館へと続く道をゆっくりと歩いていた。
「あら?」
 足元をくすぐるように流れる風が運んでいる桜の花びらが、突然に姿を消した。不思議に感じて爽子は足を止め、視線を左右に並ぶ樹木に向ける。
「爽子?」
 足を止めた幼馴染に気付いて、久樹は振り向いて声をかけた。爽子は漆黒の瞳をぱちくりとして、一点を凝視している。
「久樹……変だと思わない?」
「なにがだよ」
 大股で歩き、爽子の横に立つ。彼女が凝視している辺りの検討を付け、久樹も習って見つめた。
 白梅館まで続く道の両側を、樹木が埋め尽くしている。別に変わった光景とは思えない。
「なんか変か?」
 首を傾げた久樹を、爽子は見上げた。
「久樹、この木も桜なのよ」
「桜?」
 驚いて、久樹は木に注目する。季節はずれの狂い咲きの桜が背後にあり、咲いていない桜が前方にある。
「奇妙だったのは、あっち側の桜だけだったわけだな」
 変な話だなと久樹は腕を組む。ニュースでなにか報道しているかしらね、と爽子は答えて、そのまま歩き出そうとした。
 ふと、踏み出した久樹の足に何かが触れた。怪訝な顔で足を止める。
「どうしたのよ、久樹。早く部屋に行こうよ」
 不思議そうに声をかけてくる爽子を、久樹は複雑な表情を浮かべて手招きした。
「なによ」
 頬を膨らませて、爽子は久樹の側に戻る。耳を貸せと囁かれて顔を寄せると、「足を見てくれよ」と言われた。
「足?」
「なんかな、何かが足を触った気がしたんだよ」
 呆れ顔で爽子は視線を降ろす。立ち竦んでいる久樹の足元には特に何もなかった。
「なにもないわよ」
「そうじゃないぞ、爽子。問題は、触れた感じがしたのがズボンの下だって事なんだ。もしかしたらな」
「もしかしたら?」
「足の中に虫が入ったのかもしれないだろ。しかもだ。その虫が蜘蛛だったらどうしてくれるんだっ!」
 拳を握り締めて久樹が力説する。
 織田久樹は虫全般が怖いわけではない。
 ただ一つだけ例外がある。蜘蛛だ。
 爽子は幼い頃を思い出して息を付く。頭上に蜘蛛の巣があるのを見つけて硬直したり、絶叫を上げたりしていたことを思い出した。やれやれと呟き、額を押さえる。
「久樹、まだ蜘蛛苦手だったのね」
「あんなもん、一生得意にならなくて結構だ。頼む、爽子。まだなんかが触ってる気がするんだよ。しかも動いてやがる」
「――私だって、虫得意じゃないんだからね」
「俺よりは蜘蛛怖くないだろう!」
「そうだけど。でもね、なんだって私がこんな道の真中で、男のズボンをまくしあげないといけないのよ」
「頼むっ! 後生だっ!」
「もう、信じられない」
 拗ねながらも爽子は膝を折る。肩に下げたバッグが前に落ちないように脇に力をこめて、手を伸ばして裾を持ち上げた。
 薄桃色が溢れだした。
 え?と、不思議に思ってあふれ出たものを確認する。遅れて「きゃっ!」と声を上げて手を引いた。
 たくし上げたズボンの中から、大量の桜の花びらがこぼれ出たのだ。
「なにこれっ!」
「蜘蛛か!?」
 頓狂なことを久樹が叫ぶ。見れば分かるでしょうと叫んだが、幼馴染みが固く眼を瞑っているのを確認して首を振った。苛立ち紛れに弁慶の泣き所を叩く。
「いてぇ!」
「痛いじゃないの! 蜘蛛なんていないわ、でもね、変わりに大量の桜の花びらが出てきたのよ。久樹、一体何時こんなに沢山の花びらをズボンの中につめ込んだわけ?」
「花びらなんぞ詰め込んでないぞ」
 乱暴だなぁと文句を呟きつつ、久樹は眼を開けて足元を見た。しゃがんだ爽子のツムジが見えたので、指で押してみる。
「なぁにするのよっ!」
 爽子が間髪入れず抗議する。久樹は手を振りながら、足元に広がった大量の花びらを見た。
 まるで薄桃色の絨毯を引き詰めたかのよう。
 ――多い。
 花びらは、あまりに多かった。
「ねえ、これだけの量を服の中に入れたら、パンパンになってすぐ分かるはずよね? それに、確かに入れている暇なんてなかったはずだし」
 もう一度ツムジを押されたらたまらないと、一メートルばかり離れた位置で爽子が首を傾げる。久樹はもうしないと言って、周囲をぐるりと見渡した。
「久樹?」
「爽子。なんかな、さっきから変なんだよ」
「どういう風に?」
「触られてるような気がするんだ。こう、まるで誰かがそっと背とか首筋とか足とかを撫でていくような感じっていえばいいかな」
「触られている?」
 久樹に習って、爽子も周囲を見渡す。
 狂い咲きの桜は側になく、目に飛び込んでくる景色に異変はない。爽子は息を落とし、気のせいじゃない?と告げようとして肩を震わせた。
 背筋が凍りつくように冷たい。これって悪寒かも、と他人事のように爽子は思った。自分自身に折り重なるように、違う影が大地に落ちたのが見える。
「……ひ、さき…」
 あえぐように助けを求めた声に反応して、久樹が振り向いた。その眼が、驚きに見開かれている動きが、まるでスローモーションのように爽子には見える。
 ──娘が佇んでいた。
 白い指先を持ち上げて、爽子の髪を梳いている。緋色の肌襦袢に、真紅の口紅。あどけなさが残るのに、唇だけがひどく艶かしい。その唇の端を持ち上げ、おそらく娘が笑った。
 弾かれたような衝撃を覚え、久樹は「爽子っ!」と叫ぶと走り出した。力任せに幼馴染みの硬直した腕を取り、引き寄せる。
 どっと倒れ込んできた体を胸に抱きしめて、娘を睨んだ。
 少女が微笑んだだけなら、爽子が硬直することも、久樹が動揺することもなかった。
 娘はまだ笑っている。白い指先を口元にあて、足袋をはいた足を揃えて佇んでいた。
 ──空中に、だ。
『殺すの』
 不自然に高い声を娘が零した。
「殺す?」
 オウム返しに久樹が尋ねる。
 袂から扇子を取り出して、娘は口元を隠した。喉を鳴らして、二度、笑う。
『ありがとう』
「ありがとうって?」
 娘は久樹の言葉を聞き流し、空を示した。
 久樹が、そして彼の腕に抱き込まれた爽子が、同時に顔を上空に向ける。
 ――音。
 ざわり、ざわりと音がする。重なり合って、桜の枝が、突如枝を揺らして音を発している。
「……桜が」
「咲く」
 驚愕する二人の目の前で、周囲の桜が突然に開花した。


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