[第一話 サクラ咲く]

前頁  目次  後頁
No.03 散る櫻花

 持参した書類を久樹は学生課の課員に渡した。お待ち下さいと告げられて、カウンターに肘を付いて待つ。こげ茶の髪が目にかかってかき上げた。
 学園が長期休暇に入れば、学生課の仕事は軽減する。窓の奥に並ぶ席は、交代で休みを取っている影響か、三分の一程度も埋まっていなかった。
 襟足に冷たさが触れた。
 春とは名ばかりの冷たい外気がどこから入ってきたのか、久樹は開いている窓を探す。
 サッシに嵌め込んだガラスをサドルを回転させて開閉するタイプの窓だが、どれもぴたりと閉まったままだ。ならば空調が冷房になったのかと思ったが、かざしてみた手に触れるのは穏やかな空気の流れだけだった。
「なんだ?」
 気のせいだったのだろうか。久樹は首を傾げ、意見を求めたくなって幼馴染の姿を探す。斎藤爽子は課員が出入り口として使う扉の前で、知り合いらしい女性と話しをしていた。
「織田さん、この受領書にサインをお願いします」
 声が耳を打つ。久樹は我に返り、差し出された受領書にペンを走らせた。
「これでいいで――っ?」
 確認の為に口にした言葉を飲み込む。
 強烈な悪寒が走った。肌が粟立ち、全身の筋肉が緊張に強張る。
 体に走った異変を久樹が完全に理解するより早く、視界が白く塗り潰された。貧血で意識を失う寸前に似ている。
 ――桜が散る。
 白くなった視界で、桜が散っている。
 足が震えた。バランスが崩れて床に膝から落ちる。けたたましい音が響いて、窓口の課員が「織田さん!?」と叫んだ。
 呼ばれる名前が部屋を反響する。
 久樹の耳の中で、音は耳鳴りになった。ひどく不愉快な音。内からの音には効果がないのに耳を塞ぐ。――まだ、網膜で桜が散っていた。
「久樹!」
 織田久樹の突然の異変に、斎藤爽子は声を上げて駆け寄る。歯を打ち鳴らす久樹の肩に手を置いた。
「そ、うこ」
 温もりが流れ込んでくると、内側から響く耳鳴りが僅かに静まる。
 ワラにも縋る思いで、久樹は七分袖のブラウスから覗く爽子の腕を力任せに掴んだ。久樹の心の中に、またか、と思う気持ちがはっきりと生まれる。
 突然の寒気、耳鳴り、意識が白濁していく感覚。全て未経験の出来事ではないのだ。
「久樹、しっかりして!」
 緊張した爽子の声が、耳鳴りを押しのけて響く。
 押さえつけた腕の下で、爽子の血管が激しく脈打っているのを久樹は感じた。生きている証であり、現実がそこにあることを伝えてくれる鼓動。
「斎藤さん、彼は大丈夫?」
 先程まで爽子と会話をしていた本田里奈が尋ねてくる。彼女は白鳳学園大学部を卒業したばかりの若い女性で、学園に就職することが決まっていた。
「大丈夫です。昔から、貧血を起こすことがあって。何時ものことですから、気にしないで下さい」
 爽子は厳しい声で答えた。里奈にさらに質問をさせる隙を与えたくないのだ。
「本田さん。すみませんが、彼の生徒証明カードを取ってくれませんか? このまま部屋で休ませようと思いますから」
「え、え? あ、良いけれど。本当に一人で大丈夫なの?」
 里奈は爽子と軽い会話をする仲だが、今までこうも強い態度を取られたことがないので混乱している。爽子は里奈に心の中で謝って、けれど態度は改めなかった。
 爽子は知っているのだ。
 久樹は体の変調をまたかと考えたように、爽子は彼が変調を来たしてきた過去を。
 子供の頃から、突然に寒気を訴えたり、高熱を出したり、白目を剥いて意識を失ってしまうこともあったのだ。
 心配する親は久樹を病院に連れて行った。それこそ嫌になるほどの検査が行われたが、異常は見つからなかった。医者は困ったのか、精神的なものだと告げてきた。
 それがどうして広まったのか、今でも爽子は分からない。
 分からないけれど、それから久樹は大袈裟な子供というレッテルを近所で貼られてしまった。爽子はそれが悔しくて、からかってくる相手に泣きながら食って掛かったものだ。
「久樹の心が弱いんじゃない」
 爽子は何度もそう言った。なにか原因があると思っている。
 少しだけ原因が見つかりにくくて、発見出来ないでいるだけなのだ。絶対に。
 おかげで爽子は、久樹の変調について尋ねられるのがトラウマになっている。
「具合がこのまま悪くなるようでしたら、統括保健医の大江先生にお願いして来て貰いますから。大丈夫です」
 更に厳しく言い切って、爽子は久樹に「行こう」と声を掛ける。意識は保っている久樹は、幼馴染の助けを借りて立ち上がった。
 里奈が慌てて、織田久樹の生徒証明カードを爽子に手渡す。
「すみません」
 爽子は丁寧に礼を述べて、学生課の外に出る。廊下を右に進めば、すぐに屋外だ。
「久樹、寒い?」
「……大丈夫だ」
 爽子の言葉に、久樹は低く答えた。
 久樹は自分自身に呆れていた。精神的なものが原因だと説明されてきた変調は、高校に入ってから起きなかった。完治したと思っていたものが、再発して情けなくてたまらない。
「久樹のせいなんかじゃないんだから!」
 爽子は怒った声で言った。久樹を座らせようと思って桜並木の方角を見やる。ベンチが置いてあるからなのだが、そこに見慣れた人影が二つ座っていた。
 白梅館の同じ階の住人であり、親しくしている少年達だ。ココアブラウンの髪に垂れ眼で眼鏡をかけた秦智帆と、紅茶色の髪と目を持つ美少女のような外見の大江静夜だ。
「爽子さん」
 進路を変えようとしたが、先に智帆に気づかれた。軽く手を挙げて名前を呼んでくる。静夜も長袖のシャツに手を引っ込めたまま、細い缶を持った状態で顔をあげた。
「智帆くん、静夜くん」
 逃げ出すのはもう無理そうだ。爽子は仕方なしに返事をする。
 学生課員の本田里奈は、言葉を畳み掛ければ圧倒されるタイプだが、智帆と静夜は違う。二人とも知りたいことがあれば、強引な態度で尋ねてくる。厄介な相手なのだ。
 選りによってこの二人に出くわすなんてと心で愚痴る爽子の気持ちも知らずに、智帆が歩み寄って来た。
「その人が爽子さんの幼馴染み? 女の人なのかと思ってたら、男だったんだ。こりゃあ巧が荒れるな」
 ふむ、と顎を撫でながら智帆が呟く。初等部組の片割れ、中島巧が爽子に恋していることを智帆は知っている。久樹を見ればかなり騒ぐだろう。
 爽子に支えられながら立っている久樹は、幼馴染みに親しげに話し掛ける少年達に視線を向けた。視線に気づいた静夜が、逆に久樹を観察し返す。
「なんかその人、寝不足っぽいね。やっぱり、人は十時には寝ないと駄目だと思うよ。ちゃんと寝てないから、どこでも構わず居眠りしたくなるんだよ」
 極端なことを静夜が言い出すので、笑いを殺して智帆が肩を竦めた。
「静夜。この世の中、十時に寝る高校生なんてお前くらいだろ。巧と将斗より早い」
「いいんだ、僕はあんまり夜って好きじゃないんだから」
「嫌ったら夜が可哀想だろ」
「智帆が好きでいるから可哀想じゃない」
 子供のように唇を尖らせて静夜が答える。
 爽子と久樹を無視した態度にも取れるが、ベンチに戻ろうとしなかった。椅子を勧められていると分かるので、爽子は久樹を促した。逃げられないのなら、好意は受け取っておいたほうが得策だ。
 久樹はベンチに座れてようやく人心地付いた。落着けば、幼馴染に肩を支えられているのが気恥ずかしくなって、「もう大丈夫だ」とぶっきらぼうに言い放つ。
 久樹と爽子の二人を見て、くすりと大江静夜が笑った。
「そうだ。良かったら、これ飲みませんか?」
 袖に隠した指で熱そうに持つ細い缶を指しだしてくる。それがコーヒーだったので、爽子が驚いた。
「静夜くん、コーヒー苦手じゃなかった? それに真冬でも冷たいのしか飲まないって言っていた気が」
「それがね、爽子さん。さっき自販機で確かにアイスの紅茶を押したのに、出てきたのはそれだったんだ。文句を言いたかったけれど、店は閉まってるし。捨てるわけにもいかないから、持ってた」
 心底拗ねた声で静夜が言う。智帆がからりと笑った。
「だから機嫌が悪いんだよ、こいつ。だから遠慮無く貰ってくれたほうが助かるわけ。俺もあんまりコーヒー好きじゃないし」
「雄夜がいればね、渡すんだけど」
「出かけてるしな」
 智帆と静夜は、また二人で話し始める。
 久樹は少年達が年上の爽子に対して敬語を使わないことに少しムッとしてしまう。爽子が敏感に気づいて、首を横に振った。
「私が敬語をやめてってお願いしまくったのよ。だって智帆くんたちに敬語つかわれるのってなんか嫌で。中々止めてくれなくって、苦労したの。だからやめてね」
 余計なことはしないでという言外の要求に、久樹はよりイラッとした。
「なんだよ爽子、こいつらと仲いいのか?」
「仲良しよ。だって引っ越し当日に困ってたら助けてくれたし。久樹の部屋の引越しも手伝ってくれるのよ? みんな優しいんだから、後でまとめて紹介するね」
「俺の引越しくらい、自分一人でやるさ」
 面白くなさが積もって久樹がさらに否定すると、どうしたのよと爽子は苦笑した。
「人数は多いほうがはかどるじゃない。第一」
 悪戯な眼差しを、爽子は顔色が普段の色に戻ってきた久樹に向ける。
「みんな、弟みたいなものなんだから」
 爽子の瞳は、やたらと楽しそうだった。久樹は手玉に取られて鼻白み「まあ、いいか」と納得する。
 ――風が吹きこんできた。
 ごう、と音を立てて、小さな旋風が路上に生まれる。
 桜の花びらを舞い上げて、空に舞い散る。立っている二人の足元を掠め、座っている二人の首筋を掠め、天へと昇った。
 一枚、可憐な花びらが織田久樹の頭の上に残る。
「花びらが」
 大江静夜が気づいて、ごく自然な仕種で花びらを払おうと指を伸ばす。白い指先が久樹のこげ茶の髪に触れた瞬間、火花が生じた。追いかけて鋭い音が響く。
「――てぇ!」
 目を見開いて、久樹が額を押えてのけぞった。
 大江静夜は手を引っ込め、息を呑む。
「――今の……」
 掴んだ場所が白くなるほど強く、指先を押える。紅茶の瞳に鋭さが宿っていた。智帆が静夜の変化に敏感に気づいて、友人を自分の背後に押しやって二人の視線から隠す。
 爽子は少年達の動きは見落として、のけぞった久樹の額に手を伸ばした。
「今の静電気、凄い音がしたわ」
 痛かった?と首を傾げて尋ねる幼馴染に、当たり前だと久樹が声を荒げる。
 二人が単純に驚いていることを確認して、智帆は静夜に視線をやった。
「静夜、今の」
「――智帆、これ……」
 そっと答えて、指先を視線の高さまで持ち上げる。
 白かった指先が、熟れた果実のように真っ赤になっていた。皮膚の上に水泡が生まれ、破れた箇所は血を滲ませて火傷になっている。
 桜がひらひらと舞い下りる。
 風は流れていない。けれど、空を舞う桜の花びらは、すべて織田久樹と斎藤爽子の側へと集まって行く。
「……火?」
 少年達に走る緊張に気づかずに、久樹と爽子は他愛ない会話を続けていた。



竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.