それぞれの日

+ 風 の 集 落 +

 山の奥深くに住む風の民の下に、大いなる獣の羽ばたきが届いた。
「……呼んで……?」
 まだ首も座っていない赤子の、小さな身体を愛しげに抱き上げていた風の巫女は呆然と窓から顔をのぞかせた。透明がかったはかなげな存在ではあるものの、見間違えようのない真紅の瞳持つ風の獣が、彼女の上空を高く舞っている。
「……風鳥っ!!」
 胸にから熱くほとばしる衝動のままに、ノリスは叫んだ。
 赤子の身体を寝床にもどし、そのままもどかしげに額にまく飾り布をはずして、走り出す。
 まるで長年待ちわびた恋人を迎えるかのように、彼女は両手をいっぱいに広げて、胸に受け止めた。
 額に浮かぶ昼風の文様が、ぽうっと、静やかな光をともす。
 それは確かに、風の獣の存在を、風の民の誇りを、感じることさえできなくなった過去の存在を現在の存在まで信じさせ続けた、”昼風”たるともし火にふさわしい暖かさだった。
『風の巫女』
 大いなる存在が、風の民である女を呼ぶ。
「風鳥!」
 まるで少女のように目を輝かせ、頬をばら色に紅潮させて、ノリスは答えた。
『ながきに渡って待たせた。巫女らの思い、風の民の思い、すべて聞こえていた』
「聞こえ、て?」
『風啼き谷にて、朝風と夜風とともに待つ』
 ふうっと、目を細めて風の獣は笑ったようだった。
 羽ばたきとともに、きらきらと輝く光が民の上に降り注ぐ。
 ノリスにはそれが風の獣の加護だと分かる。分かるからこそ、彼女は凛とした巫女としての表情になって、声を張り上げた。
「風啼き谷へと帰還するっ! 風の獣が我らを待つといっておられるのだから!!」
 子ども達が走り出した。
 農作業をしていた男たちも走り出す。
 集落の外へと出かけたものたちへ、戻るようにと促す音色が深き山間にこだました。
 ――風啼き谷への帰還をしらせるためだけの、鐘の音色。
 誰よりも早く、まろぶように駆けだした少女が、ノリスのすそをつかんだ。
「母さんっ!」
 すでに、泣きはらした顔をしている。
 目は真っ赤に充血して、こらえてもこらえてもあふれ出る嗚咽に声を詰まらせながら、少女は叫んだ。
「わたしも、行っていいのかな。風啼き谷へ帰れるってことは、セナイが……夜風と朝風が使命を果たしたってことでしょう!? わたしはっ!」
 耐え切れずに、しゃがみこんで泣き出そうとした少女を、ノリスは有無もいわせずに抱きしめた。
「もう離したりはしないよ。ここが狭いから、あまりに貧しいから、何人の子供たちを手放さなければならなかったのか。本当に自分の意思で、外にいきたいと望む子なら背を押しもするけれど。そうでない子を、見送ったりはしないんだ」
「母さんっ!」
 震える手で、少女はノリスの大きな背に手を回す。
 風の民の集落は、狭く、貧しく、常にすこしだけ餓えていなければならない。それでも少女は集落が好きだった。出て行きたくなくて、セナイを望み、望みをたたれて朝をうらんだ。
「お前はファルの姉さんだ。ファルは兄弟たちの訪れを待ちこそすれ、否定したりなんてしないよ。だって、ほら」
 そうっと、まるで壊れ物をあつかうように、ノリスは少女の頬に流れる涙をぬぐう。水のしずくが、まるで意思を持つかのようにきらきらと光った。
「……あ」
「風の獣は、風鳥は、風の民全員を祝福しているのだからね」
 晴れやかに、ノリスは笑う。
 それから集まった顔ぶれを前にして、彼女は宣言する。
「風鳥がわれらを導く。随時、出立するので準備を。けれど今日は祝宴を!」
 その日は、誰も、眠らなかった。
 まだ見ぬ故郷を夢見て。
 誰も眠ることなど、出来なかった。

+ 見 張 り や ぐ ら +

「いやあ、すげぇ通行人だな、おい」
「雷閃将軍が責任を持って対処してください」
「無理」
「聞こえません」
 きっぱりと言いきったのち、目の前の兵が耳をふさぐ仕草をする。
 長い外套を羽織ったまま、上半身の肌をおしげもなくさらしている男、ティオス・レナル・エイデガルは大げさなため息をついてみせた。
「おれがよ、風の民と因縁があるのは事実だがな。あれは民……民なんだよなぁ」
 鋭さをたたえる翠色のまなざしを細め、ティオスはひどく面倒そうに金の髪を無造作にかきまわした。
「しゃあないか。あれもおれの民、礼はつくすべきだからな」
 笑い混じりのため息を一つ、ぽんと落としてティオスは突然にやぐらの上部から飛び降りた。とりでの兵士たちの眼差しをうばうように、風がさかまいて男の体をとりまく。
 わずかな音も立てずに、男は門のない関所の前に降り立った。
「おい、お前」
 声をかけられて、やぐらの前で座り込んでいた巨大な影がわずかに動く。
「そうそう、お前だ。なんだ、迷子か」
 ごく当たり前のように、ティオスは腰に手をあてた。
 風の鳥の加護をまとい、純白の毛皮をまとう。
 ファルとセナイの帰りを待って待って待ちすぎて、ついに飽きて行動を開始してしまった、熊のトリクに。
 トリクはなんのためらいもなく話しかけてくるティオスの前で、くんっと匂いをかぐ仕草をした。のそりと立ち上がり、そのまま勢いよく駆け出す。
「将軍ッ!」
 やぐらの兵士たちが叫んだ。
 叫ぶんだったらかわりやがれとこぼしつつ、ティオスはさりげなく腰を落とす。背にせおう、紅蓮の名を持つ大剣には触れもしなかった。
 トリクは速度をおとすことなく走り、ティオスに思い切りのしかかる。
「うおっ」
 雷閃将軍ティオスは、まれなる怪力の持ち主だ。
 その彼でもさすがに熊の全力の飛び込みにはうめき声をあげる。
 周囲の声が悲鳴にかわった。
「んだ、さびしかったのか。おら、大丈夫だよ。おれが案内してやる」
 なぐさめるように背をさすってやると、トリクはさらに寂しくなったかティオスをぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「う、ぎゃああぁ! まった、さすがに待ったあぁ!」
 遠慮のない甘えん坊の熊の抱きしめ攻撃は、ティオスの手にもあまる。
 とりでの兵士たちが慌てて、鮭を持ち出してくてまで、ティオスの叫びは続く。
「……こいつ、身体はでかいが、まだ子供かよ? セナイの弟だろ。こら、食うかこっち見るか一つにしろ。しかしどうやって連れて……ん?」
 水代わりに飲んでいるにごり酒をあおったところで、ティオスはトリクと目があった。
 トリクは自分は人間だと思っている熊だ。ノリスからもセナイからも、優しくしてくれた人には礼を尽くせといわれている。
 口元をぬぐい、のそりと立ち上がり。
「うわっ!」
 いきなりティオスの身体を担ぎあげて、走り出した。セナイとファルの気配のある方向、風の力の濃い方向を目差して。
「将軍! 明日は出撃命令きてますよっ! 遅れずにっ!」
「お前ら! おれの心配もしろぉ! 来たかっ」
 駆ける白き熊を追って、疾走する馬影がある。ティオスのみを主とする、彼の愛馬だ。
 にやりと笑んで、彼はトリクの束縛から逃れて飛び移る。
 風が走る。
 どこまでも強く、激しく、自由にかける存在が二人を導いて。
 風啼き谷に続く谷の手前で、ティオスは馬をとめた。
「あとは行け。おれはまだ、そこに行くべきではないからな」
 トリクは足を止め、首を傾げる。
 ただじっとティオスを見つめた。彼は笑って、すこし前、少年と少女を残して去ったように馬首を返す。
 
 
 風啼き谷に、風の民が帰還する。
 
 
 百年も二百年でも、風の民が風の待ち呼び人であるかぎり永遠に……。