第48話 決戦
第47話 嵐前HOME



 人が空、と呼ぶ場所だった。
 普段大地の上につける足を、広がった透明な床に付ける。獣魂水竜と、エアルローダの魔力が発生させた、風圧の床だった。
 許されるなら見たくない気持ちで地上をアティーファは見下ろす。のそりと立ち上がっては攻撃態勢を整えていく醜悪な影は、屍達だった。無残なと思うと同時に憤りが胸を塞いで、ぎりと奥歯を噛む。
 敵だと認識してたくせに、忘れてしまっていた。
 互いを好きだと認め合った相手でも、敵になることを望んだ相手は非情な手段を取るのが当然だ。
 遠く小さくなった地上では、カチェイが紅蓮を大きく抜き放ったのが見えた。さらに遠方では、近衛兵団員が動き始めている。エイデガル皇城に向かっては、一艘の快速艇が湖面を走っていた。
「どうなるだろうね、ティフィ?」
 やけにのんびりと、気軽にエアルローダが尋ねてくる。アティーファは動揺を隠して肩を竦めた。
「心配なんて必要ない。彼等は全員、己の判断で行動し、最善を尽くせる者達だから」
 信じている、と祈りの言葉を胸で呟く。
 アティーファの言葉に、エアルローダは切なげに眉を歪めた。何故ここで悲しそうにするのかが分からず、首を傾げる。
「エア?」
「これでも、心配は必要ないのかな」
 困り切った声をエアルローダが出すと同時に、眼下で広がる光景の醜悪度が一気に増した。立ち上がる、屍の数が倍増したのだ。
「――っ!」
 冷静が一瞬崩れて、アティーファは地上に目を奪われる。少年はほくそえみ、素早く腰に下げた剣を抜刀した。
 振り下ろす銀色の刃は、正確に少女の首筋を捕らえている。
「ティフィっ!」
 頚動脈を切り裂く寸前、突如エアルローダが叫んだ。驚きに一歩下がると、降りた刃によって髪がはらりと空を舞う。
 覇煌姫を抜いて、追いかけてくる剣を剣で受けた。高い金属が響く。
「エアっ!? なんでっ!」
「なにが、ティフィ?」
 鍔迫り合いは金属の摩擦を生んで、まるで悲鳴を上げているようだった。すぐ近くにあるエアルローダの澄んだ瞳。彼が保つ静けさと、先程の対応に嫌な想像が持ち上がってきて、不安に口腔内が干上がる。
 不安を振り払おうと、アティーファは一気に叫んだ。
「今、私が負けないようにわざと名前を呼んだろう!!」
 攻撃とは、相手を倒す為に行うものだ。
 息の根を止めるか、あるいは戦闘不能に陥らせるかだ。だからこそ一瞬の隙が命取りになる。
「なのに今、エアは私の注意を引き戻した!! あれは、わざとだった!」
「そうだね」
 呑気にエアルローダが答える。
 ―― また、嫌な予感。
 心臓が跳ね上がった。勢い良く、まるで胸の中から飛び出して行こうとでもいうように。
「……まさか、エアっ!」
「僕が君に殺されたがっているって、ティフィが最初に気づいたんだ。でもね、君は僕を殺さないという。でも」
 エアルローダが眼下を見下ろす。
 アティーファの支えであり、アティーファの枷でもある人々を確認する為に。
「君は、死ぬつもりがない。けれど僕は君を殺すために動くよ。そうなったら、君は生き延びる為に僕を殺すしかない。そうだろう?」
「エアっ! なんだってそんなに!!」
「僕がそうしたいからだよ、ティフィ」
 清らかなほど綺麗に、エアルローダは笑った。

 

 立ち上がってくる屍。肉などとうの昔に土に返り、骨だけの指が土の中から飛び出してきて、足を掴んでくる。
 剛毅なカチェイでも一瞬鼻白んだ。
 掴んでくる骨を、勢い良く蹴り飛ばして足場を作る。予想外に、屍は脆く崩れ去った。おや、と首を傾げ、一つ悟ってニヤリと笑う。
「なるほど。数を揃えるのが精一杯で、屍自体に魔力の影響を強く与えられていないか」
 レキス公城での戦いでは、屍達は倒しても倒しても、即座に再生して立ちあがって来た。おかげで物量作戦で攻められ、全員ばらばらになる失態をおかしたのだ。
 だが今向かって来る屍は、粉々にすればそれで終わりだ。
「だったら、趣味の悪い操り人形ごときに、俺を殺せるわけがねぇだろう!!」
 獣じみた声で咆えると、カチェイは紅蓮を左右に振るう。
 刀身がずっしりと重く感じられている。チッ、と鋭く舌打ちをして、己に渇を入れた。
「この程度でくたばったら、後でどんな笑い話にされるか分からねぇぞ」
 ぼやきながら呼吸を整える。アティーファに力を与えつつ反撃に出るならば、一人で戦闘を続けるのは不利なだけだ。
 自分とアトゥールが率いてきた一部の騎士団と獅子騎士団は、皇都の外に与えられる攻撃を想定して、残してきてある。ならば楽しくはないが近衛兵団の力を借りるしかないだろう。
「あいつは大丈夫なのか?」
 こめかみの辺りから流れた汗が、首筋を通る不快さを憎みながら、親友に思いをはせる。リーレンを救う為に動いた彼は、身動き一つ取れないでいるだろう。
 カチェイは屍の攻撃を豪快に粉砕させながら、確かめるべく振り向いた。銀色が太陽光を反射して煌いたのを目撃する。。
「―― あん?」
 光は、近衛兵団長キッシュの銀槍が太陽光を反射した煌きだ。彼に率いられた近衛兵団も、凄まじい勢いで屍達に襲いかかっている。
「欲求不満でも溜まってたのか、あいつ」
 魔力者からの攻撃によって、働きらしい働きの場所を奪われていた事に、こっそりと腹を立てていたのかもしれない。
 今の近衛兵団員たちは、戦場に放たれた肉食獣のようだった。
「―― ま、あれなら俺のペースで辿りつけばいいか」
 確認しながら、カチェイは額を縛っていた華奢な飾り紐に指をかけた。勢いよく紐をほどき、紅蓮を握る手と紅蓮の柄とが離れないように縛り付ける。
 普段は片手で操れる大剣なのだが、今は紐で縛り付けてでもいなければ、落としてしまいそうだった。
「非力になった気分がすんな。ま、アトゥールよりはまだ今の俺のほうが力あるだろうが」
 非力というのも、案外辛いもんだなと漠然と理解する。
「まあ、下らないことをいってる場合じゃねぇか」
 低く呟いて、カチェイは近衛兵団と合流するべく剣を肩に担ぎ上げて歩き始めた。
 彼の進む方角の先で、近衛兵団によって屍の攻撃から守られた奇妙な静けさの中で、アトゥールは細くなっていく己の意識を必死に抱き留めていた。
 先程から、音を立てるように首筋から胸元に髪が零れ落ちていく。それが無性に腹立たしい。
 本当のことをいえば、長い髪など邪魔なだけで好きではなかった。癖のない髪質ゆえなのか、結んでもすぐにほどけてしまう。結んだままでも、布の下では好き放題に風に揺れてくれるのだ。
 だったら切るか、ないしは三つ編でもしたらどうだとカチェイに爆笑されたのを、ふと思い出す。
「……あんまり…良い状態…じゃあない、のかな…」
 死を迎えようとする瞬間、今まで生きていた光景を見つめるのは、助かる術を過去の記憶に求めているのだと書物で読んだことがある。実際これと似た経験をしたばかりだ。
 力の入らない指先に意識を必死に集中させて、アトゥールは地面を探した。
 リーレンの保持する莫大な魔力は、今、好き放題に体内で暴れてくれている。おかげで全身を支えきれずに倒れ込んでしまっていた。
「だ、いたい」
 なんとか大地を指先が探り当てた。
 震える片手に体重を預け、上体を起こす。払えずにいる髪は勢いよく下に落ちて、土の上に広がった。髪を結ぶミレナ公女シュフランの藤色のリボンが見える。
 ―― これも返さねばならないだろうし。
 一つ、一つ、生延びねばならない他愛ない理由を見つけながら、最後にまだ意識を取り戻さないリーレンの顔を睨んだ。
 死人のようだった状態からは、確実に脱しつつあるのが分かる。
 内心は安心しながらも、表情には出さずに帯刀する細剣氷華を大地に強く刺し込んだ。それを杖代わりにして、体重を少しだけ預ける。荒れる呼吸と心音を持て余しつつ、アトゥールは意識のないリーレンをもう一度確認した。
「そういえば、昔から人の話しを聞きながら眠りこけてたような気がするね、リーレンは」
 昔を思い出し、言葉を綴りながらも、暴力的な眠気に襲われて意識を保つことに必死になる。
 まだ駄目なのだ。
 リーレンが意識さえ取り戻せば、彼は自力で暴発しかける魔力の制御を可能とするだろう。けれど彼は起きず、魔力をそのまま野放しにして良いほどの状況でもない。
 ゆるやかに上下する胸や、赤みの戻ってきた頬を見ていると、意識を失っているというよりも、昼寝をしているようにしか見えない。
 なんとかく苛立ちを覚えて、アトゥールは昔居眠りを始めたリーレンにしたように、軽く、頭を小突いた。
「………う、ん…」
 むずかる子供じみた声を漏らす。反応があったことに驚いて、アトゥールは重い体に鞭打って、リーレンの口元に耳を寄せ呼びかけを試みる。
「リーレン?」
「あ…と…」
「あと?」
「もう…すこ……し…寝てた…」
「……。大馬鹿者っ!」
 正真正銘寝ていたらしい。
 涙ぐみたいほど腹がたって、アトゥールは最後の力を振り絞ってリーレンの頭を叩いた。びくりと体を震わせ、唐突に漆黒の眼差しをリーレンが開く。
「―― ?」
 なんと言ってやれば良いかとアトゥールが考える暇もなく、リーレンはがばりと上体を起こした。アトゥールを確認し、面白いほどに赤くなったり青くなったりを繰り返す。
 彼にとって、アトゥールは死者なのだ。驚くのも当然だろう。
「まさか、ここはあの世!?」
「……リーレン」
「だ、だって、その、アトゥール公子がいるということは」
「死んでないから、少し落着いてくれないかな。細かく説明してやりたいのは山々だけれどね、私だって疲れているわけだし」
「……? 公子? あの…」
 ようやくアトゥールの白蝋のような顔色の悪さと、意識を失う前の自分を思い出して、リーレンは緊張に満ちた表情に切り替わる。
 魔力が暴走し、死にかけたのだ。にも関わらず、気付けば体内の魔力は制御できないほどの凶暴さを失っている。
「まさか…公子が助けてくださったんですか!? そんな、無茶を沢山私の為にして!?」
 動揺して叫ぶリーレンを、降りてくる瞼の先で確認し、アトゥールはあやすように微笑んだ。
「公子!? 公子、ちょっと待ってください!! 眠ってしまわないで下さいっ! 公子!!」
 血の気が一瞬で冷める。
 何度もリーレンは叫んで、手を伸ばした。アトゥールの細い首筋に指をそっと添える。熱が、彼の体を支えている力が、急激に失われて行っているような気がした。
「アトゥール公子っ!!」
 揺さぶろうと抱き寄せた手を、そっと掴まれた。
「大丈夫だよ、そいつなら」
「カチェイ公子!?」
 疲労を露骨なほど露にして、カチェイが佇んでいた。
「あの、なにかあったんですか?」
 彼の記憶の中では、二人の公子は常に颯爽としていた。だからカチェイの様子に、少しばかり混乱してしまう。
 カチェイは剣と手を縛りつけていた飾り紐を歯を使って器用に解き、膝を落とした。 
「お前が目覚めたから、安心しただけだ。元々こいつは体温が低い上に、つい最近大量に出血したばっかだったから、もっと低くなっているだけだよ。ちゃんと見ろ、息してるだろ。少し休んだら、すぐ目を覚ますさ」
「あ…よ、良かった」
「まぁな。俺らはおまえ等に甘すぎるもんでな」
「は?」
 心底不思議そうなリーレンに、カチェイは苦笑を返す。リーレンとアティーファを救って、自分達二人が死んでしまえば、残された二人がどれほど絶望するかを知っているのだ。
 簡単にくたばるわけにはいかない。
「目覚める前に、離したほうがいいと思うぞ。それは。抱きかかえてたなんぞ後でばれたら何十年と恨まれるぞ、リーレン」
「え? え、あ、はい!」
 眠ってしまったアトゥールを揺さぶる為に抱きかかえていたのを思い出した。慌てて手を離そうとして、いきなり上空を見上げた。
 蔭る。
 空が翳っていく。
「空がっ!」
 美しく、あでやかな光を降り注ぐ空が急速に闇に閉ざされて行く。あたかも、闇で何かを隠そうとしているような動きだった。



 意外そうな気持ちを隠さず表情に宿して、エアルローダが首を傾げる。アティーファは水竜に意思を告げようとしていた。
 巨大な竜の形を取った獣魂が、顎を開いて漆黒の霧を生み出していく。それは二人が足場にする風圧の床の上を押し包み、すぐに目を凝らしても下を見ることは不可能にした。
 攻撃を受ける人々を見れば、必ず動揺する自分を、アティーファは熟知していた。それでは多くの隙を生んで、エアルローダに多数先手を取られてしまう。
 そんな状態が続けば、彼を殺さないと決めたことなど、叶わぬ夢と成り果てるだろう。目の前の人間に強制的に集中する環境を手に入れる必要があった。
「私はエアを殺さない。エアに私を殺させることもしない」
 告げる少女に、くすりと少年が笑いかける。
「我侭だね、ティフィ」
「多分事実だから、否定しない」
 答えて、アティーファは覇煌姫を手に強く踏み込んだ。向けられた撃剣をエアルローダは避けようとしない。軽がると急所を貫きかける剣を、ぴたりとアティーファは止めた。
「ティフィ」
 呆れた声で少年が少女を責める。
 エアルローダは、生き続けることを選択する人間は、生きて何をしたいかを知っている人間だと思っている。ならば、願う全てを成し遂げてしまった自分は、生を選択する必要がないのだ。
「僕はもう何も望んでいないんだ。だからこそ、ティフィは最後に僕が何を望むのかに気付いたんだろう?」
 尋ねながら、少女を命の危機に晒すべく剣を跳ね上げた。急所を押さえられても、生き延びるつもりのないエアルローダが剣を恐れる必要はない。
 後方に飛び退って、攻撃をよける。アティーファが体勢を整える暇を潰すべく、エアルローダは駆けて腰を落とした。
 剣で少女の足を狙う。
「エアっ!」 
 名を呼びながら少女は後退を断念して前に走り出した。装身具で繋ぎとめていた鞘を取り、少年に向かって投げつける。
 横にスライドしてエアルローダは投げられた鞘を避けた。勝ち取った僅かな時間に、アティーファは体勢を立て直す。
 気付けば、再び顔と顔が触れ合うほどに二人は距離を狭めていた。
「エアは死ぬことだけを望んでいるんじゃない」
 剣を構えたまま少女が囁く。
 少年は大仰に驚いてみせて、何故、と首を傾げた。
「死ぬのが目的だったなら、自殺してしまうのが筋だろう? 本当に死を望む人間は、己で己を殺すことさえ厭わないのだから」
「―― ティフィ、いくらなんでも、僕は自殺願望者に成り下がった覚えはないよ」
「そう」
 涼しげな声を上げて、少女は手を伸ばす。
 剣を取る右手ではなく、鞘を投げつけて開いた左手を。
「だから、エアの目的は死ぬことじゃない」
「―― じゃあ、ティフィ。僕は何を望んでいる? それを知っているというなら教えてよ」
「本当にエアは知らない? 私は気付いたのに」
「分からない」
 攻撃は控えて、エアルローダは伸ばされたアティーファの手が自分の頬に触れてくるままにする。少女は唇を噛み、一瞬の逡巡を見せてから唇を開いた。
「エアは私の中の永遠を求めているんだ」
「―― 永遠? ティフィ、世の中に永遠なんて一つも存在しない。生きるものは死ぬし、普遍に見える大地だって形を変える。それを知っているのに、どうして僕が永遠を望む?」
 感情の昂ぶりを消して、尋ねてくる。アティーファは首を振った。
「限りある永遠は存在する。時間を、期間を区切られた永遠。そう、エアは…」
 一旦言葉を切った。
 二人の眼差しが火花を散らしそうなほど激しく、空中でぶつかった。
「私が生きている限りは存在する永遠を望んでいるんだ。私に殺されて、私がそれを心に刻み込んで。一生、何があってもエアの事を忘れないように。追憶でも後悔でも憎しみでもなんでもいいから、胸に抱きしめているようにとっ!」
 子供の癇癪のようにアティーファは叫ぶ。言われた意味を把握し損ねて、エアルローダはただまばたきを繰り返した。
「ティフィ?」
 唇の中が乾いたのだろう。
 今まで聞いていたどの声でもない掠れた声だった。まるで助けを求めているような、頼りない細い声だった。
 ―― 自分の存在の重みを、アティーファの中に埋めつける為に、死のうとしていたのだろうか?
 与えられた言葉をなんとか理解しようとする。
 アティーファの独占が不可能なことを、過去と現実の光景に、痛いほど思い知らされた。
 理解すればするほど腹立たしく、悔しく、どうしようもないほどに哀しかった。だからこそ、彼女の側にあるリーレンやカチェイ、アトゥールといった面々を、嫌ったのかもしれない。
 独占出来たのは、アティーファが”エイデガル皇女”という位置を離れた過去の邂逅と、憎しみと怒りの目を向けてきた一瞬だけなのだ。
 アティーファは、エアルローダにとって悲劇を発生させてでも出会いたかった特別な少女。
 ただ一人欲した相手だ。
「はははっ! なるほどね! それで僕は君に殺されたがっているわけだ。そうすれば、君の心に僕が残るから。例え誰かを君が愛しても、立派な女皇王になったとしても。自らの手で殺した初めての相手を、覚え続けるだろうからっ!」
「でも、忘れる」
 まるで雪が降り始める寸前のように張り詰めた声をアティーファが出す。
「何故? ティフィは、僕を殺してもなんとも思わない? だとしたら、確かに意味はないかもしれないな」
「思うよ。哀しいし、悔しいし、辛いと思う」
 アティーファは哀しいのは事実だと告げる。名残惜しみながらエアルローダの頬に添えていた手を離し、ゆっくりと後退した。
「でも、それは永遠じゃない」
「忘れる?」
「忘れる」
 泣き出しそうな顔で答える少女を、少年は痛ましげに見やった。
「でも、それは予測であり予定であって、決定じゃない」
「―― 違う、エア。忘れるんだ、人は。どんなに哀しくても、辛くても。いつしか人は、その人がいないのが当たり前だと認識するようになる。母上を失った父上だって、母上のことだけを胸に刻んでいるわけじゃない。生きていく人間は、死んでいった人間だけを思いつづけることは出来ないんだ」
 忘れない、と言うのは簡単だった。
 けれど保証はどこにもない。長い時間を共に生きてきたわけではないアティーファは、元々相手がいない状態に慣れすぎている。熱情は、人間を激しく突き動かすけれど、余韻が残りにくい。
 その上アティーファはまだ少女だ。生きて行く時間のほうが遥かに長い。
「忘れてしまうんだ、エア」
「……それでも、忘れない可能性だってある」
「永遠は、死が与えるものじゃない」
 頑なに否定して、アティーファは覇煌姫を捨ててエアルローダへと走り出した。虚をつかれたエアルローダが立ち竦んだ隙に、少女は少年の胸に飛び込む。手を背に回し、拘束すると同時に抗魔力を展開させた。
 皇都を押し包む強力な対魔力封印の中で、ぎりぎりの状態で魔力を維持していたエアルローダの魔力が崩れた。ぐらりと体が揺れ、魔力が停止したのをアティーファは見極める。
 魔力と抗魔力が攻めぎあった為だっただろうか。
 黒い霧が晴れた隙間に、こちらを見上げて叫んでいる人物を垣間見た気がした。誰だ、と思う前にリーレンの顔が浮かんできて、アティーファは微笑む。
 決意が心に満ちてくる。何があっても信じて、側に居てくれる人がいるから、強く居られる。
「水竜!! この風圧を止めるんだっ!」
 心に秘めた決意を言葉にして、アティーファは放り投げた。
 エアルローダが驚いて抱き着いて来る少女の肩に手をかける。魔力ではなく、腕の力で強引に体を離させて、顔を覗き込んだ
「ティフィ、何を言っている!?」
 望む永遠はないと言った。
 人は忘却を友にして生きて行く。だから未来を長く持つ者が、悲しみと憎しみだけを抱いて生きていくのは不可能だと。
 ―― 永遠は死が与えるものではないとも言った。
 にも関わらず、何故今水竜に力を止めろと命じるのか。アティーファが抗魔力を展開させている状態では、魔力で足場を維持するのは不可能だ。結果、二人は落ちるしかなくなる。
「ティフィっ!」
 尋ねても、答えないアティーファに焦れて叫ぶ。あどけなく彼女は笑った。
 昔、何度となく出会いを繰り返した時。”エア”の名前を呼び、存在を確認した後に見せていた笑みと、全く同じ表情。
「エアは私を死なせたくないのだろう?」
「なんでそんなことを聞く?」
 今、そんな事を聞いている場合ではないのだ。主に忠実な水竜は力の放出を停止している。足場は急速に頼りなさを増し、すぐにでも消えてしまうかもしれない。
「答えて、エアっ!」
 厳しく叫ぶアティーファを拒否出来ず、かといって答えるべき気持ちが定まっていないエアルローダは返事につまる。どうしようも出来ずに彼女を抱きしめた。二人互いの背に手を這わせて、きつく、答えを探るように。
「私はエアが好きだ。エアは私が嫌いなのか?」
「―― 嫌いなわけないじゃないか、ティフィ」
 足場は崩れて、落下は今にも始まるかもしれない。
 なのに何故、こんな状態で言葉で気持を確かめ合っているのか。アティーファを殺すことは出来ないと思ったからこそ、エアルローダは死のうと思ったのだ。
 ―― 殺すことが出来ない?
 ハッと目を見開いて、急いで少女の顔に視線を戻す。足元が崩れつつあるというのに、翠色の瞳に動揺の色は一切なかった。
「質問の答えは、ティフィ。死なせたくない、だ」
 当たり前の答えをようやくエアルローダが見つけた。
「そう。死なせたくない」
「ティフィ、君は僕を恨むべきだろう? 君の守る皇国に仇なし、君の大切な人を傷つけ、ザノスヴィアを操って攻め込ませもした。そんな相手を、許してはいけないだろう?」
 罪人が、罰を下せと請うている。
 アティーファは首を振った。
「……アティーファとしては、エアルローダを憎むべきなんだと思う。許してはいけないのだとも思う。でもティフィとして、エアは憎めない」
「ティフィ。それは詭弁だよ。そんな言葉、誰が納得する?」
「いい」
 きっぱりと少女が断言する。
「いい?」
 目を丸くして尋ねる少年に、強く少女は肯いた。
「いいんだ。私は、誰の理解も欲しいとは思わない。私が決断し、私が選んだことならば。誰の納得も私は求めないっ!」
「ティフィ……」
「永遠は、エア」
 二人、短く囁きあった瞬間。
 足元は完全に崩れ、空中へと放り出された。



 遥か遠き空を、思いつめた眼差しで彼女は見つめていた。レキス公王を勤める二人の内の一人、レキス公妃ダルチェだ。
「皇都はどうなっているかしら」
 汚名返上の機会も与えられずにアデル公国に庇護を求めるようにと命令されてから、日数が経過している。 
 空は高く、遠く、懸念するエイデガル皇都を瞳に写すことは出来なかった。
「ダルチェ、ミルクを温めて貰ったよ」
 不意にドアが開いて、やわらかな声が響く。
 編み込んだ長い三つ編みを揺らして振り向いて、ダルチェは少し皮肉な表情を浮かべた。
「色々と考えすぎだよ、ダルチェ。私達に今出来るのは、私達の間に授かった子供を守ることなんだと、皇女殿下もおっしゃっていただろう?」
 ほら、と暖めたミルクのカップを手に渡してくる夫に、ダルチェはさらに苦笑する。
 何時もなら、厳しい一言でも放り投げる所なのだが、そういう気になれなかった。素直に渡されたカップを受け取り、暖かなミルクに口をつける。
「グラディールは、もう少し考えた方がいいわ」
「考えるのは、昔から兄上が得意だったよ」
「得意とか、得意じゃないとかではなくて。色々と考えたほうが良いって言ってるの」
 分かる?と下から睨み上げるが、夫は感銘を受けた様子もない。にこにこと笑っては、腰を抱き寄せようとしてくる。
 抵抗する気になれず、素直に寄り添って夫の肩に頭を預けた。
 考えるなと言われても、レキス公国での惨劇を記憶から追いやるのは不可能だった。静かにリズムを打つグラディールの心音を聞きながら、出陣して主不在のアデル公国で寛いでいる今の状況を嘲笑したくなる。
 民は、死んでいったというのに。命を蹂躪されて、朽ちて、朽ちた後も利用されたというのに。
 妻の心理状態を見抜いたのか、グラディールは黙ったままダルチェの髪をゆっくりと撫でた。
「アデル、ティオスの両公王が出陣した国境では、特にいざこざは起きていないらしいよ。エイヴェルとフェアナ両国は、この争い、エイデガルが鎮めると思っているらしい」
「……誰に聞いたの? そんなこと」
「あれ、聞きたいかい?」
「聞きたいわ。そんなこと、今の私達にわざわざ報告しようと考える人間なんていないはずだし」
「そうだね。私に報告に来たわけではなかったようだよ。ただ、急いで伝令兵が駈け込んで来たので、中まで案内したんだ。そしたら勝手に大声で離し始めてたんだよ」
 アデル公国の人間は声が大きいのかもしれないね、と悪戯のように笑い出した夫の長閑さに、苛立ちと同時に安堵を覚えて、体の力を抜く。
 助けに駆け付けてきたアティーファ皇女の一行の活躍と、新たに宿った我が子の助力がなければ、自分がグラディールを殺していたのだろう。
 公王としてではなく。一個人としては運がいいのかもしれないと思って、もう一度顔を上げる。
 瞬間、二人はさっと顔色を変えた。
「なに、今の?」
「なにか、呼ばれたような感じがしたな。ダルチェは?」
「呼ばれたっていうよりも、何か命令されたような気がしたわ。外の方ね」
「行ってみるかい、ダルチェ?」
「止められたって行くわ」
「止めないから、一緒に行こう」
 グラディールはマイペースを崩さずに言った。



 ロキシィ父様っ、と国境の橋アポロスの上でシュフランが叫んだのは、遠くアデル公国でグラディールとダルチェが異変に気付いたのと同じ時間だった。
 ザノスヴィア王女を補佐する位置で豪快な笑みを見せていた父親の顔色が変わった事に、一人娘は気付いたのだ。
「どうしたの?」
 と、本人はあどけないと固く信じている艶かしい仕草で王女が尋ねてくる。それで、今姿を見せているのはマルチナなのだと理解したが、返事もせずにシュフランは走って父親に飛びついた。
「ロキシィ父様っ!」
「―― 面倒なことが起きていやがるようだな」
「え?」
 無事に休戦協定が結ばれた戦場には、異変が起きているような気配はない。自分には気付けない大きな変化があるのかと周囲を確認する我が子を抱き上げて、ロキシィは首を振った。
「いや、この辺りのことじゃねぇよ、シュフラン。皇都の方だな」
「皇都? ロキシィ父様、どうして遠い皇都のことが分かるの?」
「大人になりゃあ、シュフランにも理解できることさ。今は知らんでいい、こんな面倒なことなんぞ」
 我侭な言葉を吐き捨てて、シュフランの頭を撫でる。ちっとマルチナの姫さんの相手をしていてくれやと頼み込んで、ロキシィは腕を組んだ。
「水竜が戻って、その力を無理矢理使用してるってわけだな。これはフォイスのやり方じゃねぇな? アティーファがやっているのかよ」
 シュフランと同じく、まだまだ子供だと思っていた親友の娘。
「流石フォイスと、ぶっ飛んでたリルカの忘れ形見ってとこか。だが、それだけでなんだってこんなに水竜が焦ってる? アティーファが、水竜にとって嫌な命令でも下したのか?」
 命令を下されているのは分かっていた。
 水竜が、他の獣魂たちに向かって、力を与えろと叫んでいるのが聞こえているのだから。
「よりによって、この俺の力を貸せと命令すんのが獣魂だと? 面白くねぇなぁ。これはデカイ貸しだぞ、フォイス。一年分の上等の蒸留酒でも貢ぎやがれってんだ」
 好き放題に言いながら、目を伏せる。
 持参していた銀猫宝珠に意識を集中させれば、すぐに他の公族達の力も感じることが出来た。遠く国境に出ているだろうアデル、ティオスの両公王や、城に残っているガルテ公王。生意気にも、半人前のレキス公王の力も感じられる。
 水竜を頭とする合計六つの獣魂が、呼び合い、重なりあおうとしている。
 ぐらり、と足元が揺れて、ロキシィは眉をしかめた。
「んだよ、力を貸せってのは、こっちの生命力の方もありかよ。生意気だぞ、エイデガル皇族。いざとなったら、俺らを予備体力として使うつもりだな」
 ぶつぶつとぼやいている癖に、炯炯とした光を放つ藤色の瞳は楽しそうに輝いている。久しぶりにフォイスと飲み明かすかな、とロキシィは小さく呟いた。



 かん、かん、とゆっくりと階段を上ってくる足音が複数響いている。
 流石に疲れた上にいい加減厭きたと思い始めていたフォイスは、聞きなれない足音に首を傾げた。
 側に付いておりますといって譲らない、アティーファの侍女のエミナは疲れて眠っている。ゆえに、足音はエミナではない。
「陛下」
 特徴のある声に、すぐに誰が訪れたのか合点がいく。
「今日はガルテ公国に伝わる武器、光牙銀槍の返却日であったか? 良くここまで入って来たものだな」
 抗魔力と水の柱によって守られるエイデガル皇城だが、五公国の公族は排除しない。濡れることを覚悟すれば、侵入は可能なのだ。
「ご機嫌麗しいご様子、お喜び申し上げます、陛下。船で無理矢理参上しましたこと、お詫びいたします」
 悪戯のように笑ってみせるフォイスに、扉を開けて入ってきた男の代わりに女が挨拶をする。釣りあがった勝気な瞳と、飴色の巻き髪が印象的な、ガルテ公太子妃シャンティだった。
 二人はそれぞれ眠り込んでいる子供を腕に抱いている。
「相変わらず家族同伴だったか、セイラス」
 呆れた様子は見せずに、淡々と指摘してフォイスは体の向きを変える。当然ですと答えたガルテ公太子セイラスは歩んで、事実、光牙銀槍の返却を求める仕草をした。
「俺の考えによると、陛下は城内のことにかまけている場合ではないと思われます」
「そうか? では城内はどうする。魔力者達の守りを解けば、少年魔力者は再び力の糧を取り戻すぞ?」
「その辺りは抜かりありません。付け焼刃ですが、魔力に対する力の使い方は体験済みですから」
「体験したからといって、使えるわけではないのだがな。まあ良かろう。戦いが始まれば軍師の役割を担うガルテ公国の人間のセリフだ。信じてやっても良い」
 重厚な声音で言いながら、手を伸ばすセイラスに光牙銀槍を差し出そうとする。本当に大丈夫なんでしょうね、と小声で夫に文句を言っているシャンティに気付いて、フォイスは少しだけ疲労を見せる顔を綻ばせた。
「駄目であったら、罰として、当分セイラスには単身皇都で働いて貰うとしよう」
「単身!? 単身ですか、陛下!」
 天地が逆様になったのを目撃したような驚愕を見せて、セイラスを差し置いてシャンティが声を荒げた。いとも澄ましてフォイスは肯く。
「罰であるからな。家族同伴というわけにはいくまいよ」
「……。ラス、聞いたわね!? もし失敗したら、私容赦しないから!! 単身なんて、そんなことになったら離縁よっ!」
「シャティ、どうしてそこで、離縁まで話が飛躍するんだよ。今までだって、少しは離れていた事もあっただろう?」
「あったわ。あるたびに、私は心配になるのよ。貴方は面食いだし、女が大好きで、優しくされるのも大好きだわ。だから私は心配で、眠れなくて、肌荒れもしちゃうのよ!」
「それは困るよな。俺はシャティのことを小さいころから守ってきたってのに。その俺が、シャティの肌荒れの原因になるのはちょっとな」
「だったら成功させるのよ、絶対にっ!」
「了解しました、奥様」
「任せたわ、旦那様」
 二人の会話が一段落ついたのを見計らって、今度は本当に光牙銀槍をセイラスに押し付ける。
「魔力者達の数は多い。あまり無理はするな?」
「もとより無理をするつもりはないので。陛下、外には無理を重ねて限界を迎え、倒れている者が居るのは承知でしょうか?」
「気にするな、あれで無理をするのが好きな二人なのだ。好きなことを禁止することもあるまい」
「なるほど」
 どうりであの二人と自分は気が合わないはずだ、と低く呟いてから、セイラスは光牙銀槍を受け取った。ずしりと重い槍が手になじみ、なんとなく安心した気分になる。
 つい先程、アトゥールによって強制的に気付かされたばかりの抗魔力だが、力の発揮を助ける光牙銀槍があれば、一人でも使用可能だと踏んでいる。
 高く高く、水竜が唸り声をあげた。
 力強く雄雄しい存在の唸り声は、苦悩と悲哀に満ちている。
「アティーファも水竜に無茶をさせるものだな」
 水竜は泣く。
 主を危機に落とす命令を下されて、神秘の存在が嘆く。―― もう一人の主からの命令を待っている。
「水竜。ぎりぎりになれば私が命じる。今は娘の好きにさせてやれ」
 内心はすぐにでもアティーファを助け出したいくせに、冷たく水竜に命じてフォイスは拳を握った。
 一人娘が何を狙っているのかは分からぬが、強い決意を胸に動いているのは分かる。なんとか限界まで待っていてやりたい。
「全ての対魔力封印を張りなおす機会を狙わねばな」
 あと何十年かは、ここまでの大掛かりな事件を魔力者が起こせぬような対魔力封印を作り上げる。
 今まではレキス公王の力が足りないことと、張り直す際に生じる激しい光を、他国に説明出来ないので断念してきたことだ。けれど、すでに魔力者の攻撃によって説明不可能な現象が山のように発生してしまっている。今更光りの大発生が増えても、最早問題はないだろう。
 力が体に戻ってきているのが分かる。
 対魔力封印を再度完成させる為の力を、水竜が他の公族から奪って来ているのだ。顔色も変えずに他人の命を受け取って、フォイスは目を細めた。
「アティーファ、どう決着を付けるつもりだ?」
 彼の娘は敵と抱擁しあったまま、落下を始めていた。



 黒い霧が完全に空を覆い尽くした段階で、リーレンは立ちあがった。
「行ってこい」
 背を押すようにカチェイが声を掛ける。
「あの黒い霧は水竜の仕業だろう。エアルローダと決着をつける為の手段だったんだろうな。アティーファは決着を付けに行ったんだ。俺にはっきり言ったぞ。エアルローダを殺したくないと」
「殺したくない?」
「あと、こうも言ったな。アティーファはエアルローダが好きだと」
「好き」
 理解不可能な言葉だった。
 好きという気持ちは、アティーファに出会った幼い時から胸に抱いてきた感情の一つはずだった。けれど彼女が自分を家族として見ていることを知っていたから、ぶつけた事はない気持ちでもある。
 誰よりも気高く凛々しい少女は、色恋沙汰など無関係な所に守っていなければいけないような気がしていたのだ。彼女が誰かを好きになることも、考えたことがない。
 現実に打ちのめされて、ぐらりと体が傾いだ。リーレンは慌てて両足に力をこめる。
「皇女がエアルローダを好き」
 おうむ返しに呟く。
「リーレン。お前はアティーファが他の誰かを恋愛対象として好きになったら、嫌か?」
「…それは…その…」
 嫌だと答える権利など持っていないと、リーレンは言い澱んだ。カチェイは正確に弟分の考えを把握して舌打ちをする。
「いい加減にしろよ、リーレン。この国は案外ずぼらでな、身分違いの人間を夫に妻にした人間なんぞ歴代皇王の中にごろごろしてるさ。今更身分なんど考えるんじゃねぇ。アティーファは俺に言い切った。お前の気持ちは、俺に断言できない程に僅かなもんか?」 
 嘲弄の言葉を投げつける。 
 今のカチェイは、意識のないアトゥールを支えるために地面に座り込んでいる。だから立ちあがっているリーレンを見上げている体勢なのだが、凄まじい迫力があってリーレンは息を呑んだ。
「公子」
「自分の気持ちくらい強く持っとけ。でないと、何にも勝ち取れないぞ。アティーファはまだ、アルローダを恋愛対象として好きだと言ったわけじゃない。大切な人間だと認識しただけだ。だがな、それもすぐ変わるかもしれない。言え、リーレン。お前はどっちだ? アティーファが他の奴を恋愛として好きになって良いのか?」
「……嫌です…」
 殆ど聞き取れない小さな声でリーレンが呟いたが、カチェイは聞こえないと付き返した。彼を甘やかすのは簡単だが、甘やかしてしまえば精神の成長を始めたリーレンを昔に逆戻りさせてしまう。
 アティーファはともかく、リーレンはもう大人に甘えて縋っていて良いだけの年ではないのだ。
「嫌ですっ!」
 睨まれて、必死に意思を固めて、今までの思いの丈を託してリーレンが叫んだ。
「……じゃあ…リーレン。好きな人が誰だか言える?」
 カチェイではない声に、リーレンは慌てて膝を折った。薄く瞳をあけて、アトゥールがこちらを見ている。―― 本当に目覚めてくれたのだと、リーレンは心から安堵した。
「エイデガル皇女なのか、一人戦っているアティーファという普通の少女の事なのか」
「アトゥール公子」
 質問に戸惑って、カチェイとアトゥールの二人を交互に見やる。しばし考えてから、涼しい眼差しでリーレンは肯いた。
「私が好きなのは、アティーファです」
 初めて言葉として聞いたリーレンの決意。
 目に見えて優しい表情を浮かべて、アトゥールは肯いた。
「じゃあ、もう二度と公的な場以外では、”皇女”と呼ばないことだね」
「そりゃそうだ。よし、とっとと行って来い。好きな女くらい守ってみせるのが男ってもんだ。他の男が好きになっちまっていても、奪い取るくらいの気持ちでいけ」
 めいめいに二人が言う。
「―― あの、公子方は行かないんですか?」
 何時もなら、如何に状態が悪くとも行動しないカチェイとアトゥールではない。
「お前らがつける決着だろうからな。なにかあったら助けに行ってやる。だから、今は一人で行ってこい」
「信用しているよ。頑張って来るといい」
「―― ありがとうございます、公子。行ってきますっ!」
 強く叫び、黒い霧に覆われた空を強く睨んでリーレンは走り出した。
「なんだか大人になったよな、リーレンも」
 見送って、ぽつりとカチェイが呟く。負けず嫌いの性分を如何なく発揮して寄りかかるのをやめたアトゥールが、小さく笑った。
「随分と寂しそうな声だね、カチェイは」
「まぁなあ。妹と弟、両方に大人に成りました、って宣言されたような気分だからな」
「確かに。まあ、向こうはそんなつもりはないんだろうけどね」
「久しぶりに酒でも飲みたくなってきたな」
「全部終わったらね。付き合うよ」
「お、珍しいな。そいつは楽しみにしておこう」
 本当はぼろぼろになっている兄二人はニヤリと笑いあってから、体を走る痛みにじっと耐えた。



 激しい風圧と衝撃に意識を奪われそうになりながら、二人は落下する。
 着実に近づいて来る死。にも関わらず、二人は会話を続けていた。言葉を届けるために、大声を上げる形になっている。
「ティフィ、永遠は、何処にあるって言いたい?」
「永遠は私の中に」
 何度聞いても、アティーファはそれ以上のことを言わない。エアルローダは激しく焦れて、首を振った。
「だったらなんで僕を殺さない? ティフィの中にある永遠ならば、僕を殺して、殺した事実を一生君が覚えて行くってことだろう?」
「違う。どうして分からない、エア?」
「分かるわけがない。いっそさ」
 甘美な想像が胸に湧き上がってくる。
 生きている人間が死んだ人間を忘れてしまうから、永遠は成立しない。ならば、忘れるのに必要な時間が流れなければどうなるのだろう?
「僕と一緒に死んでくれる?」
 ―― 二人、同時に死んでいけば。
 未来を立ち切ってしまえば、忘れることはなくなるのだ。
 死なせたくないと願う気持ちも、死へのカウントダウンの中では意味をなくし、共に死ぬ状況に胸を焦がしてしまう。
 エアルローダはアティーファの背に回した手を持ち上げて、細いうなじを捕らえた。落下している間でもお互いの顔が見えるように、固定してやる。
「死は意味がない」
「元々僕は意味がある存在ではないと思うけどね」
「違う、エア。エアは意味がない存在なんかじゃない」
「どう違う? 生れ落ちた瞬間から、間違った価値観を植え付けられ、間違った復讐を望まれた。そんな子供の何処に意味がある?」
「私にとって、意味があるから」
「ティフィにとって?」
 初めて告げられた言葉にエアルローダは素直に首を傾げた。アティーファは蒼い彼の瞳を捕らえ、誤解を与えないように気をつけて言葉を口にする。
「存在は誰かに与えられるものじゃないと思う。存在の意味を付加されなくても、私達は実際にここにいるんだから。ここに居るだけで大きな意味がある。それでもまだ、エアが存在の意味がないというなら。意味は私が付加してみせる」
「どうやって?」
 猫のように目を細めて、アティーファの言葉を面白がっている様子で尋ねる。急速に近づいてくる結果としての”死”への興味は失っていた。彼女が告げる言葉を聞いているのが楽しい。
「いらない命なら、私が貰う。いらない存在なら、私が貰う。そうだ。いらないなら私が貰ってもいいはずなんだ」
「だったら簡単だろう? 一緒に死ぬだけで、僕達は僕達のものになる」
「死体に成ってからの永遠なんて欲しくない。私達は死んだらばらばらにされるだけで一緒になんて居られないんだ」
 エイデガル皇女と、エイデガルに仇なす魔力者が共に葬られるわけがない。そんな冷たい現実を口にする少女に、若干呆れて少年は息を落とした。
「じゃあ、どうやって限られた永遠を手に入れる?」
 一人の死ではなく、双方の死でもなく。アティーファが訴える限られた永遠を保持する方法に、エアルローダも気付きつつあった。
 けれど、彼女の唇から聞きたかった。
 何を願い、そして何を訴えるのか。
 長い睫毛に飾られた瞳を震わせて、アティーファは物言いたげな眼差しでエアルローダを見つめる。
「エアが生きている限り、私はエアを思う。私が生きている限り、エアも私を思えば良い。それが私達が死ぬまで続いて、永遠になる」
「無理だよ」
「どうして?」
「君は、生きている限り常に他の誰かのものでもある。僕は君を独占していたい人間なんだ」
「そんなの詭弁だ、エア。エアが死ねば、私はエアを忘れて生きるかもしれない」
「二人ここで死ねば?」
「それは絶対に有り得ない。だって私を死なせるわけがないから」
 傲慢なまでの、周囲の人間に対する信頼感。
 エアルローダは近づいてくる地上を見やり、待機するように佇んでいるフォイスや、走り込んでくるリーレンを確認した。
 彼等はアティーファの意思を尊重し、この馬鹿げた博打を見守っているのだ。いざとなったら、彼女だけを救い出せるようにと。
 死んでも駄目、共に死ぬのも不可能ならば、共にあり続けるのは叶わなぬ願いなのかもしれない。
 そこまで考えて、エアルローダは表情を和らげた。返事を求める少女の、刃物のように鋭く真摯な眼差しに眼差しをあわせる。
「確かに、君を僕にくれてやるつもりは誰にもないみたいだ」
「毎日を生きて、毎日を繰り返して、永遠を手に入れればいいんだ。死ぬことなんて、今考える必要なんてない!」
「ティフィ、それこそ出来ない約束じゃないかな。こんな約束は子供っぽい夢だったな、と将来思って終わりさ」
 否定の言葉を口にしているが、エアルローダの語気に冷たさはない。拒絶しているようにみえずに困惑したアティーファの唇に、エアルローダは己の唇を重ねた。
 突然の口付け。
「……エ…ア?」
 アティーファの頬がみるみると朱に染まっていく。常に凛々しい少女の無垢な純粋さに、エアルローダは目を細めた。
「本当に少ない未来に希望を見て、君が永遠を望みたいと言うから。だから、君を望んでいる間はそれに賭けよう」
「望む、間?」
「君が僕を忘れる日まで。君が僕に生きていて欲しいと思わなくなる日まで。僕は君の望む永遠を守る」
「私は忘れない」
「簡単に決めれることじゃないさ」
 生きて勝ち取る永遠はかなり難しいのだからと呟いて、エアルローダはアティーファの背に回す腕を外した。
「抗魔力を消して、ティフィ」
「―― エア」
「僕は姿を消さなくちゃいけない。君が僕を殺さないから。君が勝手に敵を許してしまったと、世間一般に知らしめるわけにはいかないだろうさ。この争いを起こした僕は死んだんだ」
 答える言葉は何も見つからなかった。
 エアルローダは答えぬ少女に向かって、幼い頃に浮かべていた屈託のない笑顔を見せる。アティーファは二人を現実に繋ぎとめていた絆である腕の力を離して、抗魔力を消した。
 瞳から涙がこぼれていく。
 それは一瞬に、急激な風に浚われて空を舞った。
 狂うように揺れるエアルローダの髪が最後に見えた。何故か儚く見える色を瞳に焼き付けて、刹那的な閃光と共に消えていくのを、アティーファは意識を手放しながら感じていた。
「―― 水竜…」
 最後に小さく呟いて。



 太陽が二つに分裂し、左右から落下しつつ発光したような衝撃が、突如皇都を中心に発生していった。
 光りは空を覆い、地を走り、五公国へと広がっていく。
 魔力者の最後の攻撃なのかと誰もが認識した光が、実はエイデガル皇族が成し遂げたものであるとは、当事者以外誰も知りようがなかった。立役者である皇王フォイスは皮肉そうに顔をあげて、対魔力封印が再構成されていく様を眺める。
 醜悪な光景に埋め尽くされた異変が、激しい閃光の中で終結するのが、何故か可笑しかった。
 水竜に守られて、アティーファは地上に舞い降りてくる。
 いち早く彼女の元に走り出していたリーレンは、アティーファの背と膝の裏にあたるようにと手を伸ばした。
 ふわり、と布の感触がまず肌に触れて、続けて彼女の重みと温もりが腕にかかる。それだけの事に、リーレンは何故だかひどく泣きたくなった。
「…アティーファ」
 余りに長い時間が経過したような気がした。
「無事で、本当に良かった」 
 声が刺激になったのか。ぴくりと少女の睫毛がゆれて、彼が一番好きな少女の瞳が露になっていく。
「……リーレン? 泣いて…いるのか?」
 最初に目に入ったのがリーレンの泣き顔で、アティーファが思わず微笑んだ。続けて彼が自分の名だけを呼んでいるのに気付いて目を見開く。
「今、なんて呼んでいた?」
「え、あ、その。これにはですね、深い訳がありまして」
 はっきりとした動揺に、単に”皇女”と付け忘れたのではないことを知って、アティーファは嬉しさに肯く。
「理由なんていらないと思うんだけどな。私としては、折角そう呼んでくれるなら公的じゃない場所での敬語も止めて欲しいなって思うのだけれど」
「そ、それは、アティーファ。その」
「その?」
「努力します」
 生真面目な彼らしい返事に目を細めて、屈託なく笑う。精神が緊張に支配されていたのに、こうも簡単に戻りつつある”日常”が愛しくて、切ないほどに胸に暖かかった。
「リーレン、ありがとう。リーレンが居てくれたから、私は負けないですんだんだ」
「私もアティーファが居たから、こうやって今ここに立っていられるような気がします。勿論、助けてくれたアトゥール公子やカチェイ公子のおかげでもありますが」
「うん。沢山助けて貰ったな。私は今まで、随分と甘やかされていたんだって痛いほどに実感した。でも、カチェイにはありがとう、って言えるのに。アトゥールには言うことも出来ない」
 仇であるエアルローダを殺さないと決めたけれど、アトゥールの死が哀しくなくなったわけではない。
 きゅと指を握り締めて、途端に哀しげな声になったアティーファにリーレンは慌てた。彼女はまだ、もう一人の兄が生きていることを知らないのだ。
「振り向いて見てください、アティーファ。私達は今回のことで沢山のことを学んで、沢山の気持ちを得て、沢山を失ったけれど。でも、失っていなかった大切な人もいるんです」
 呼びなれなくて、時々皇女と呼ぼうとしているリーレンに笑いを誘われて、アティーファは顔を上げる。言われたとおりに振り向いて、突如大きく頭を振った。
「そんな…そんな、ことが…」
 一歩、一歩、足元を確認するように歩んでくる人影。
 一人は自分のために命を分けてくれたカチェイだ。彼は高貴な剣である紅蓮を杖代わりにして、もう一人に肩を貸して歩いてくる。長く風に揺れる髪に、澄んだ白い肌。足はもつれているようだが、自らの足で歩んでいる様子がはっきりと見える。
 ―― 失ったはずのもう一人の兄、アトゥールにしか見えなかった。
「カチェイ!? その隣のは何!?」
 すぐに信じてしまったら、嘘だと突き放されるような気がしたのか、アティーファが大きな声を上げる。
「隣の、っていい方はないだろうよ。憎まれっ子世に憚るって言葉を知らないか? こいつがそう簡単に死ぬわけがない」
 やけに面白おかしく答えているカチェイの隣で、本当は仮死状態にはなっていたけれどね、と小さくアトゥールが呟く。まだ距離が離れた相手に呼びかける体力がない為に、声を掛けてやれないで居るのだ。
「でもカチェイ。ほら、よく美人薄命とかいうじゃないか」
 おかげで、混乱したアティーファがとんでもないことを言い出す。本気でカチェイは笑いだし、思いきりアトゥールが脱力した。
「アティーファ、その発言は確実にこいつの寿命を削るぞ? いいのか?」
「え!? それは困るっ! でも、本当に本当にアトゥールなのか?」
 恐る恐る尋ねてくる少女の為に、なんとか普段浮かべていたような笑みを浮かべて、アトゥールは肯いた。ようやく納得がいって、アティーファが目を潤ませる。
「生きていてくれたんだ」
「死ぬかとは思ったんだけれどね、ちょっと用事を思い出して戻ってきた」
 細いけれど、しっかりとした口調でアトゥールが返事をする。話し掛けて、返事がある。その他愛ないけれど、心から優しい事実を実感して、涙はぼろぼろとこぼれ出た。―― もう、我慢する必要もない。
 両手を広げて二人に駆け寄る。
 実は体力を回復していない二人は、かなりの無理を隠れてしながらアティーファを受け止める。
 大地を踏みしめるように近づいて来ていた人影は、おおっぴらに二人に甘えるアティーファの姿に微笑を漏らし、演技がかった咳払いをしてみせた。
 ぴくり、とアティーファの肩が揺れる。
「私の可愛い娘は、父よりも兄の方が好きなのかな」
「―― え?」
 振り向いた先で、あれ程会いたかった父が立っている。
 幼い頃から、自慢だった父。母のいない幼い子供が寂しがらないようにと、常に側にいてくれた大好きな父。
 ぱっと笑顔になって、アティーファは二人から離れて父親の元へと走り出した。
「父上っ!」
 飛びついてきた娘をフォイスは抱きとめる。腰のあたりに手を置いて、軽々と抱き上げて見せた。
「良く頑張ったな。流石は私とリルカの娘だ」
「分からない。でも」
「でも?」
「逃げることだけは、しなかったと思う」
「上出来だよ」
 にこやかに笑って、フォイスは娘を強く抱きしめた。


 
 



 それから時々、アティーファは振り向くようになった。
 荒廃した城下を再建するために、レキス公国への移住民を集めるために。指揮を取って忙しく駆け回っている時に、彼女は振り向くのだ。
 雑踏の中に一人の少年を探しているのを知っているけれど、知らないふりをしてリーレンは笑う。
 大切な少女の中に入り込んできた人物であり、振ってわいた動乱を巻き起こした相手でもあり、従兄弟でもあったエアルローダ。
 正直エアルローダに対しては、複雑な気持ちを捨てきることは出来ない。けれど気にしていても仕方ないことなので、リーレンはアティーファに何も言わない事にしていた。
 しばらく立ち止まった後、彼女は決まって首を振る。
 そしてリーレンを呼ぶのだ。
「……リーレン、向こう行こうっ! あと、まだ床を離れちゃいけないのに抜け出してるカチェイとアトゥールも探し出さないとっ」
 内心の複雑な思いは口にせずに、アティーファは明るく言って走り出す。
 彼女の後姿を見て、思うのだ。
 もしかしたらエアルローダは、自分たちを見ているのではないかと。アティーファに何かあったら、すぐにでも浚いに来るのではないかと。
 ―― 永遠が本当にあるのかを確かめるために。
「負けないようにしないと」
 呟いて、前を走るアティーファを小さい頃と同じように追って、リーレンも走り出していた。

[暁がきらめく場所  ――完――]
第48話 決戦
第47話 嵐前HOME
よかったら感想をお願いします。後日談がお礼ページにあります。