「アティーファっ!」
地上から声を投げられて、アティーファは大きな瞳をさらに大きく見開いた。
聞いているだけで、無条件に安心出来る。幼い頃から耳になじんでいた声だ。心臓が一つ大きく鼓動を打つ。
ゆっくりと視線を落とす。
風に揺れている鋼色の髪。強い意思を宿した双眸。
「カチェイっ!」
突如姿を消してしまった兄代わりの名を叫んで、アティーファは泣きそうに顔を歪める。
少女の表情に、かなりの心痛と心細さを与えていたことを痛いほど思い知らされて、カチェイは心の中で謝った。
水竜の発する光に守られて少女は地上に降り立つ。目の前に佇むカチェイを、何度もまばたきを繰り返しながらアティーファは見つめた。
夢を見ているのではないかと疑っているのだろう。カチェイはゆっくりと無骨な手を持ち上げて、少女の額にかかる髪を掻き揚げて穏やかに告げる。
「今戻って来た」
額に触れる温もりと、耳に心地よい声と、表情。それらを確認し終えて、ようやくアティーファが笑った。
「カチェイ。カチェイ、お帰り。私、私は…」
言いたいことが山のようにあるのだろう。唇が訴えたい気持ちに負いつかずに、舌足らずになっている。
「大丈夫だ。アティーファ。俺はここにいる。リーレンだって大丈夫だ」
―― 大丈夫にさせるんだからな。
最後の言葉は胸の中で呟く。カチェイは少女の額に置いた手をするりと動かして、頭を撫でた。
「大丈夫? だって…カチェイ、私は…リーレンの…」
エアルローダの腕の中で目覚める瞬間、幼馴染の魔力が弾けるのをアティーファは感じていた。目を開けて、倒れてしまったリーレンも確認している。
大丈夫なわけがなかった。ふるふるとアティーファが首を振るので、カチェイは膝を屈めて、視線を少女に合わせる。
本当ならば抱きしめて、怖がらなくていいと慰めて甘やかしたいところだった。
けれど全てが終わったわけではない。
対処すべき相手、エアルローダはまだ上空に佇んでいる。
獣魂水竜によって強烈な抗魔力に支配されたエイデガル皇都の中で、敵魔力者は攻撃能力を失っていない。
けれど何故か攻撃を仕掛けてくる気配はなかった。
静かに佇んで、まるでこちらが動くのを待っているような気がする。
「待っているんだ。エアは」
カチェイの疑問に気付いたのか、突如アティーファが呟いた。
振り返らずとも、エアルローダがこちらを見つめているのを確信している節がある。
少女の側から離れていた間に、アティーファとエアルローダの二人の間になんらかの絆が結ばれてしまったことに気付いて、カチェイは目を見張った。
これは、憎悪し合う者同士の雰囲気ではない。
「アティーファはどうしたいんだ?」
さりげなく、かなり体力を疲弊しているアティーファを支えながら尋ねる。
「俺には、今のアティーファがあのガキを”敵”として認識し、排除を願っているようには見えないな」
淡々とした口調は、少女を責める為のものではない。けれどひどく過剰にアティーファが肩を震わせたので、カチェイは首を振った。
「アティーファ。認識はしておくべきだ。たとえ、周囲を裏切るような事を望んでいたとしても。望みから目を離すのは得策じゃねぇからな」
「……カチェイ…」
「アティーファ。いいか、良く聞けよ。俺はお前の味方だ。それはアトゥールの奴だって同じだし、リーレンは尚更だろう。フォイス陛下だってそうだな」
「―― カチェイ、アトゥールは……」
心底辛そうにアティーファが首を振る。
「―― あん? ああ、そうか」
アトゥールが生きている事を告げていなかった。
獣魂風鳥の気配が色濃く皇都を覆ったことで、生きていると気付いたかと思っていたのだが、そうではなかったらしい。アトゥールの父親が現れたとでも思ったのだろうか。
状況からいって、ティオス公王が皇都に現れることは有り得ない。それを察することは出来ないのは、やはりまだ十六歳の子供であることを証明しているようで、ふと笑みがこぼれる。
「アティーファ、あのな」
どう説明すべきかと考えて、我に返った。
生きていると告げるのは至極簡単なことだ。だが、今のアトゥールの状態は良いものではない。下手をすると、リーレンを救って身代わりのように死にかねないのだ。
希望を与えた上で、与えた希望を粉々に打ち砕く羽目になりかねない。―― それほど惨いことはないだろう。
「……アティーファ。とにかくだ。今の内に考えをまとめろ。お前はエアルローダをどうしたい?」
アトゥールの無事を告げるのは保留した。
問われて、対処すべき現実にアティーファは意識を戻す。長い睫毛を伏せて悩む素振りを見せてから、少女は顔を上げた。
「私は、エアを殺したくない。それは、本当は許されないことだと思うけれど」
平和な時代に波瀾を巻き起こし、レキス公国ではかなりの民が犠牲になっている。
アトゥールを失い、リーレンまでも失い掛けている事態を生み出している相手。―― それがエアルローダだ。
「許せないって思う気持ちもあるんだ。なのに理屈じゃなくて、エアのことを思うとひどく辛くもなる」
「同情か? アティーファ」
皮肉な質問をぶつけられて、はっと少女は顔を上げた。
「違うっ!」
間髪入れずに叫び返す。
エアルローダの境遇を思えば、胸が押しつぶされそうな気持ちにはなる。けれど、彼を哀れんでいる気は一切なかった。
同情は、全てを受け入れて生きてきたエアルローダの人生を”可哀想”だと勝手に断定する行為だ。
「違う、違うんだ、カチェイ」
「じゃあ、なんで殺したくない? アティーファ、気持ちには素直になれ。でなければ、今どんな行動を起こしても後で後悔しちまうぞ」
「後悔?」
「ああ。人は己の気持ちに添う行動をとらなけりゃ、後悔する生き物だからな」
何故か自嘲気味に呟いて、カチェイは目を伏せた。
命の危険に晒されるのが分かりきっているというのに、アトゥールの行動を最後の最後で止めなかったのも、あれが親友の心からの行動であったからだ。
己が下した決断のままに行動する人間を止めるなど、誰にも出来ない。
「だから考えろ。アティーファ。さっきも言ったな? 俺らはアティーファの味方だ。もし、今後にマズイ影響が出ても、それは俺らがなんとかしてやる」
力強く約束をして、カチェイは少女の耳元を隠している髪を払い、耳に唇を寄せて小さく囁いた。
「リーレンは本当に大丈夫だ。俺が大丈夫だと確認している。だから死にはしない」
「―― ! カチェイ、本当に? 本当にリーレンは無事なのか?」
「無事だ」
力強い言葉に、アティーファの体の奥底から安堵が湧き上がってくる。目頭が熱くなって、慌てて手の平で目元を拭った。
「良かった。私は、リーレンに置いていかれてしまったのかと思ったんだ」
「落ち着いたな?」
「うん」
肯いて、アティーファは静かに振り向いた。
風に髪を揺らして、静かにエアルローダが佇んでいる。―― 自分を、待っている。
「私は多分、カチェイ。エアが好きなんだと思う」
「それは一体どういう意味でだ?」
さりげなく、けれど内心は動揺しながら尋ねる。
「分からない。ただ、エアの側にいると色んな気持ちになるんだ。そう、不安に成ったり、妙に安心したり、焦燥感にかられたりしてしまう」
エイデガル皇国の後継者として、アティーファは厳しく育てられて来た。けれど厳しいとはいえ、彼女は溢れるような愛情に守られて生きてきたのだ。
「私は今まで、自分の態度が相手にどう映るのかとか、必死になって考えたことはなかったような気がする。ありのままの私を、当たり前のように受け入れてくれるカチェイ達が側にいたから。だから私は、自分がどれだけ守られてきたのかを知った。―― 自分が、どうしようもない子供だったことも」
エアに出会って、初めて実感したのだ。
言葉一つで、態度一つで。深まりもすれば、離れもする、信頼を築き出したばかりの儚い関係があることを。
信頼して貰いたいと焦る気持ち。
笑顔を向けられた瞬間の温かさ。
心を打ち明けてくれることの、重さ。
「私は、エアを知りたいと思った。理解したいと思った。だからかもしれない。エアが私を知ろうと思ってくれていることも感じた。色々感じて、沢山考えた。だからね、きっと私はエアを好きなんだろうって思った」
「―― そう、か」
恋をする相手に向ける好きなのか、それとも友人に向けている好きなのか。それはまだアティーファには分からないことだ。
彼女に分かるのは、ただ好きと感じる事実のみ。
「そこまで思っているなら大丈夫だな。好きに勝負付けて来い、アティーファ。俺は見守っていてやるから」
「カチェイ?」
「俺が行くとな。手加減なんぞしてやれん可能性が高いからな。第一、第三者の介入なんぞアティーファもあのガキも望んでいないんだろう?」
「うん」
「ただし、危なくなったら容赦なく介入するからな」
「分かってる」
こくんと肯いて、アティーファは上空を仰いだ。さやさやと風に髪を靡かせたままのエアルローダが目を細める。
互いに、互いを呼び合っているかのようだった。
アティーファは再び空中戦を展開するべく獣魂水竜に命を下そうとした。瞬間、おもむろに伸ばされたカチェイの手に腕を引かれる。
「え!?」
声を上げて驚くアティーファの亜麻色の髪が、カチェイが羽織る真紅の外套と共に空に揺れた。
「アティーファ。もう一つ条件がある」
愛でも囁くかのように低くゆるやかにカチェイが囁く。やけに背筋に響くような彼の声音に動揺しながら、アティーファは首を傾げた。
「な…なに?」
「生命力を、先に俺から奪っていけ」
「―― カチェイ!?」
他者の生命力を奪うことが出来る皇族の抗魔力。
使用方法を間違えれば、他者の命を奪ってしまう力を、アティーファが内心恐れていることをカチェイは知っている。
けれど今生命力を奪わずに戦い続ければ、アティーファの体力の限界はすぐに来る。結果、顕現した獣魂水竜は、主の為に無秩序に他者の生命力を奪う行動に出るだろう。それこそが、カチェイが懸念する状態だった。
そんな事態になる位ならば、先にアティーファが生命力を奪っても大丈夫な人間から奪っておいた方が良い。
けれどカチェイの前では子供の顔を見せるアティーファは頑なな表情で首を振った。
「カチェイ。そんなことをするのは、私は嫌だ」
アティーファは、レキス公国にてリーレンとリィスアーダを死に追いやりかけた瞬間を覚えている。恐ろしい力だという認識もあった。それを、よりによって兄代わりの青年に使う気にはなれない。
救うために、ダルチェとグラディールに対して使用せねばならなかった時とは話が違うのだ。
「大丈夫だ。俺の体力が有り余ってること位、アティーファが一番知ってるだろ?」
激しく否定するアティーファに驚いて、カチェイは説得を試みる。けれど首を振るアティーファに、青年は苦笑した。
普段ならば、何故体力のある人間から生命力を受け取る必要があるのかを理解するのがアティーファだろう。けれどその理解度の高さは、周囲の大人、とくにアトゥールが巧妙に理解できるようにヒントを巧妙に与えてリードしていった結果が多い。
冷静なように見えながら、実は混乱しきって判断力を欠いているアティーファに、カチェイはどうするべきかとこっそりと悩んだ。
アトゥールのように、柔らかに諭す方法などカチェイには似合うはずがない。ならばといきなりアデル公子は膝をつき、突如アティーファに対して臣下の礼を取った。
公族が、皇族に対する時に取る正式な礼だ。
アティーファならば、何故いきなりこんな態度を取られるのかと考えるだろう。それがカチェイの狙いだった。
呆然と膝を折る青年をみつめてから、アティーファはゆっくりと顔を上げる。光りをまとう水の柱に守られたエイデガル皇城を確認し、そこに居るであろう父親のことを思った。
―― エイデガルの皇族である父と、自分と。
「私達がするべき、ことは…」
犠牲を如何に少なくして、多くを救って、そして自らも生き残る方法を考えろと。
「私、は」
少し、冷静さを取り戻して自分の状態を確認する。
水竜を顕現させる為に使用した抗魔力と、おそらくはエアルローダによって強制的に使用されていた魔力の消費によって、かなりの体力が消耗されている。この状態のまま戦いを続ければ、限界が来るのは明らかだった。
静かに呼吸を繰り返し、まばたきを三度した。
「カチェイ」
彼が、自分のことを考えてくれているのは分かっている。
「分かった。カチェイの命を少しだけ借りる。でも、一人死んでしまうのは許さない!」
少女が叫ぶ。
膝をおり、眼差しを伏せていた青年はニヤリと笑った。すぐに普段の表情に戻り顔を上げて、「無論だ」と不敵に告げる。
息をする。
何故か胸を押し付けてくるような窒息感を覚えるのは、眼下の光景が原因だろと考えて、少年は笑った。
「僕は案外独占欲が強いのかもしれない」
誰に告げるでもなく、空に向けて声を投げる。
たった一人特別だと認識する少女は、今兄代わりの青年の前で眼差しに安堵を浮かべ、会話を続けている。
過去の光景を見つめ、周囲の人間たちのことを語った少女の言葉を聞く度に思い知らされていた事がある。
彼女は決して自分の為だけには存在することは出来ない事実。
ゆっくりと右腕を持ち上げて、掌を見つめた。
「今思うのだけれど。攻撃を仕掛けていたのは、あの悲劇を起こし、僕達が出会う条件を整えるためだけじゃあなかったのかもしれないな」
攻撃を仕掛け、アティーファが大切に思うものを奪う時、彼女は激しい感情に瞳を染めて自分を睨んでくる。
その瞬間は、彼女は自分しか見ていなかった。
―― 独占不可能な少女を、独占可能にする行為。
「それが、悲劇を与えるということならば」
持ち上げた掌を心臓のある胸の上に置く。
とくん、とくんと、命を刻む心臓の音。
「ティフィ、君が僕を殺さないというのなら」
心音にあわせて魔力を練り上げていく。抗魔力によって奪われていく速度よりも早く、増幅させていく。
「僕が君を殺すよ、ティフィ。そしたら君だって、自分自身を守るために抵抗しなくちゃいけないだろう!」
言いきって、エアルローダは地上を状況を確認した。
最初に現れた冷酷な顔はしていない。
アティーファの前で見せる無邪気な顔でもない。
己の意思で動く人間だけが見せる、激しく強い眼差しを浮かべていた。
「ティフィ」
囁くような声。
「……エア?」
はっと振り向いて、アティーファも小さく呟く。
黒に近いエアルローダの蒼い髪と、亜麻色のアティーファの髪が、オーロラのような光りが降り注ぐ美しさの中に、ひらり、と舞った。
「これで最後にしよう。ティフィ」
目の前に広がる美しい光景。
まるで自分が、全てから祝福されているような錯覚を覚える程の煌きから、エアルローダは目をそむけた。
「僕達の決着は、限りない美しさと、そして果てしない醜悪さの中でつけることこそが、相応しいだろうねっ!」
叫び、冥き雷を突如エアルローダが呼び寄せた。
置き上がる。
「エア!! やめろっ」
アティーファの悲痛な叫びの中で、再び動かなくなったはずの屍達は置きあがったのだ。