第46話 水竜
第45話 封印HOME第47話 嵐前



 唐突に男が笑い出したので、下げようとしていたティーセットを取り落としそうになる。慌ててトレイを支えながら、エイデガル皇女アティーファの侍女エミナは目を見張った。
 笑い声の主は、白銀色の槍を胸の前に捧げるように持っていたエイデガル皇国の主であるフォイス・アーティ・エイデガルである。
「陛下!?」
 エミナの知るフォイスは、常に冷静であり、突飛な行動を取らない紳士だった。その男が、さも可笑しそうに大声で笑い出したのが不気味に感じられる。
 考えてみれば、美しい碧の宝石と称えられるアウケルン湖の水が柱となって天を目指し始めてからどれほどが経過したのだろうか。この異常現象は、皇城が危機に晒されている状態を意味していたことを今更だが思い出す。
 ―― 危機。
 皇城にこもるエイデガルに保護された魔力者達と、退避を是とせずに残った臣下たちすべての命の危機なのだ。
 ぞくり、と突然に悪寒がしてエミナの手が震える。
 何故今まで危機が怖いと感じなかったのかが、不思議なほどだった。
 まだ笑っている男を前にして、手が震えてしまう。途端トレイの上の陶器が、かちり、かちりと音を立てた。
 ぴたりと、フォイスの笑い声が止んだ。
「怖いか、エミナ」
「い、いいえ」
 否定しながらも、一度怖いと思った気持ちは消えそうにない。指先が震えることで、ゆれる陶器がトレイの上で震えるように、彼女の歯も震えたままだった。
 フォイスはエミナの状態を確認して、両手で持っていた白銀色の槍、ガルテ公国の至宝光牙銀槍を片手に持ちなおしてリラックスした態勢を取る。
「私は怖くないな。逆にひどく楽しいのだ」
「―― 楽しい?」
 どうしてですか? という言葉が継げずに、エミナは首を傾げる。フォイスはまだ二十歳を出たばかりの年頃である娘の為に柔らかな笑みを浮かべた。
「安心して良い。我が民は私が守る」
 続けて断言する。
 保証など何処にもない言葉だというのに、エミナの体の震えがぴたりと止まった。本当ですか、と縋るように尋ねているような侍女の目を見つめたまま、フォイスは肯く。
 態度一つで、人々を安心させることも、不安がらせることも出来る男。それが、曲者揃いの五公国の王たちを手足のように扱い、巨大な国を治める皇王だった。
「―― 陛下、なにが…その、楽しかったのですか?」
「知りたいか?」
「はい。その、良いことであるなら」
 おずおずと尋ねるエミナを見つめながらも、フォイスは確実に獣魂の力を借りつつ、抗魔力を行使して城を守り続けているのだ。
「まだまだ子供よと思っておった次代の公王たちが、それぞれ動き出したのが楽しかったのだ」
「動き出した?」
「ああ。どうやらこの調子でいけば、エイデガル皇国はまだしばらく安泰でいられるらしい。カチェイもアトゥールもセイラスも良くやっている。そうそう、公族贔屓はいかんな。リーレンもだ」
 目を細め、今度は満足げな笑みをフォイスが浮かべた。
 まるで公子たちの教育係りが漏らすような言葉に、エミナは人の関係の暖かさを感じて微笑む。
 フォイスは身動きが取れない状態に置かれていながら、城下で起きている動きを確実に把握していた。
 不利なことがあるとフォイスは思っていた。 
 それさえも、今、解消されつつある。
 若い頃、親友のロキシィに強引に連れ出され城を後にした時、偶然フォイスは水竜宝珠を所持していた。そのまま、魔力者たちが隠れ住んでいた村に訪れたのだ。
 リルカは、フォイスが持つ水竜宝珠が魔力者達の力の暴走を食い止める力を持つことに敏感に気付いている。
 彼女には、禁忌をおかして純血の魔力者をこの世に産み落としてしまった兄と姉がいる。その二人の子供であるリーレンが、一度魔力を暴発させて死にかけたことがあった。リルカは手助けをしない村人に怒りを燃やし、フォイスに水竜宝珠を貸してくれと懇願したのだ。
 美しく輝く宝珠。それが未来を約束し合う証なのだと思い込み、ルリカが奪ってしまったのだ。
 フォイスは水竜宝珠を取り戻すことが出来なかった。これが一つ不利がある、と彼が口にした言葉の意味だったのだ。
「水竜宝珠は戻って来ようとしている。同じ血を持ちながらも、覇煌姫の血を引かぬ者の腕の中にあった。―― それも終わる、か」
 近い内に決着がつくだろう。
「エミナ、祝賀会の準備でもしておいたほうが良いかもしれんぞ?」
「え?」
「この異常事態はそろそろ終結するであろうからな」
 被害を最小限に食い止める手段を取って来たとはいえ、被害がないわけではない。散る命が少なければ良いがと、フォイスは願った。



 突如脳天を殴られたような衝撃を覚えて、エアルローダは信じられないとうめいた。空に翼のように広がって行く光を睨みつける。
 新たなる対魔力封印が結ばれていく現実。
「この、抗魔力は…」
 殺したはずの人間の力だ。
 生きているはずがないと呟きながら、激しい眩暈に襲われて首を振る。発し続けていた魔力を維持することが突然に難しくなり、エアルローダの体は空中でぐらりと揺れた。
「そんな…そんなはずが」
 アティーファを手に入れるには、最も警戒せねばならない人間だった。それを前以て知ることが出来ていたからこそ、計画を練り、確実に排除するべく動いていたというのに。
「なのに、なんで今、この力が皇都にある! ティオス公子!」
 駄々をこねる子供のように叫ぶ。
 魔力が奪われていく。体内で作り出す速度よりも早く、奪い取られていく。
「なんでだっ!」
「―――― エア」
 声。
 突如広がり、確実に範囲を広げていく対魔力封印に気を取られ、注意がそれた瞬間の出来事。
 首筋がちくりと痛い。鋭利な何かが、柔らかな肌を薄く破ってくる痛み。
 空中に佇み続ける力だけはなんとか保ったまま、エアルローダは視線を落として開かれた瞳を確認する。
 少女の眼差しは少年を捕らえ、華奢な手は覇煌姫を抜き、少年の頚動脈を押さえている。
「何故に復讐に走ったのか、とは聞かない。私はその理由を知ったから。けれど一つ教えてくれ、エア」
 エアルローダ・レシリスにとっての復讐の相手であり、唯一欲する相手でもある娘。
 アティーファ・レシル・エイデガル。
「……その前に、僕の質問に答えてくれないかな」
「なにを私に尋ねたい、エア」
「僕が君を呼ぶべき名前はなに?」
 再会を果たす前のアティーファは、エアルローダの名前を呼ぶどころか、名前を呼ばれることさえ嫌悪していた。
 けれど今、翠色の瞳を開いて少年を見上げる少女の唇は”エア”と音をこぼしている。
「エアが私を呼ぶ名は、一つしかない」
 切なげさと、苦しさと、激しい怒りを同時に抱きながら、アティーファが答える。
「エアにとっての私は、ティフィだ」
 瓦礫に覆われた大地。
 静けさを失った湖面。 
 眠りを妨げられ、立ち上がっていた屍達。
「リーレン…」
 睨み付けるように、現実を認識していくアティーファは、最後に倒れている幼馴染の名前を呼んだ。
 ぎり、と手を握り締める。
 現実から逃げるわけにはいかなかった。紛れ込んだ過去で、エアと繋いだ手を離せなかった結果が今なのだから。
「私は目をそらしたりはしない。これが現実で、エアが私の敵であることも否定しない。だから、答えろ、エア」
 厳しさを増していく少女の瞳を、逃さず見つめ返しながら、エアルローダは静かに待った。
 ずっと己を偽り、演技をしてきた。
 理由は簡単だった。最初に出会うアティーファは、”エア”の存在を知らない。ならば過去に戻ったとき、エアルローダとエアが同一人物だとすぐに判断されてしまうのは良くないだろうと思ったのだ。
「エアは私を憎めるのか?」
 エアルローダの想像していた質問とは全く違う問いを、アティーファがなげる。
「……ティフィ?」
「聞いている。答えろ、エア」
 魔力者の村がザノスヴィア親衛隊に襲われた時、アティーファは魔力者達を救おうと行動をした。けれど行動は裏目に出て、結果彼女が村に止めを刺すことになってしまったのだ。
 村に止めを刺した人間を、エアルローダが憎むというならば、否定しない。
 だからアティーファは尋ねるのだ。
 憎めるのか?と。
「―― 憎めない」
 エアルローダは首を振る。
 彼にとってアティーファは、唯一”生きろ”と言って泣いてくれた特別な少女なのだ。だからこそ悲劇を巻き起こしてまで、出会いが発生するように仕組んだ。―― 憎めるわけがない。
「なら、これは復讐ではない。憎むことが出来ない相手に、復讐することなんて出来やしないんだ。ならば、エア」
 淡々と言葉をつづっていたアティーファは、眼差しを鋭くし、突如語気を強くした。
「お前が望んでいるのは、復讐なんかじゃない! エアが望んでいるもの。それは私に出会い、そして私に殺されていくことなのだろう!?」
 少女が突然涙をこぼす。
 アティーファから引き摺り出される魔力を封じ、守るように広がりつつあった天の光に反射して、涙はきらきらと光った。
 ―― 殺されていくことを望んでいる。
 断言されて、激しい衝撃を覚えてエアルローダは目を見開く。
 アティーファと出会うことだけ考えてきた。
 出会って、彼女が自分に対してどのような態度を取るのか。それを知りたかった。
 だから出会った後のことなど、考えたこともなかったのだ。
 しばらく絶句した後、エアルローダは天を見上げて笑い出す。
「ティフィ! 君って人は何だって、そうやって全てを見抜いてしまうんだろうね! 僕は、僕自身が望んでいることなんて、ちっとも分かっていなかったっていうのに!」
「復讐だけが望みなら。もう全てを壊してしまっていただろう? それが望みなんかじゃなかったんだ。でも」
 吐息のように呟いて、アティーファは覇煌姫を静かに降ろした。名残惜しむかのように、首筋から離れて行く刃をエアルローダが見送る。
「私はエアを殺さない」
「ティフィ?」
「それがお前の望みなら。私はエアを殺さない」
 決意をはっきりと告げて、突如アティーファは少年を突き飛ばした。不意を付かれたエアルローダがバランスを崩す。両腕に抱いていた少女の体が離れ、空中へと放りだされた。
「ティフィ!」
 慌てて手を伸ばした少年に向かって、少女は微笑む。
 空を包み込みはじめた獣魂の気配を、ざわめく鼓動を、アティーファは先程から感じていた。
 ―― 来る。
 胸の前で指を組む。祈りを捧げるように瞼を閉ざし、目の際に残っていた涙が天へと放たれた。
 きらり、きらりと。涙は光りを受け、反射し、さらに大きな光りへと膨れ上がっていく。
 エイデガル皇国を守る対魔力封印の中に、突如作り出されたもう一つの対魔力封印。―― それが封じようとしているのが、自分の中にある魔力なのだと唐突に理解する。
 対魔力封印の発生。爆発的な力を解放している公族達。そして顕現している他の獣魂。
 ―― この特殊な条件下ならば。
「帰ってこれるだろう?」
 時をさ迷う水竜宝珠。
 祈りの形を取る指を離して、アティーファは天に広がる光を抱きしめた。
「私はここにいる! お前の求める他の獣魂たちも! だから目覚めよ水竜! 血筋を求めて時を旅し続けた大いなる存在よ! 目覚め、そして私の魔力を封じよ!」
 呼び声と同時に訪れる、翠色をした奇跡。
 水面が波打ち、空気中に広がった光の質感が変化する。
 ―― 水竜。
 五公国を守る獣魂達の王。
 覇煌姫レリシュを守り、恋するように彼女の血筋を求め続ける存在。アティーファを、そしてアティーファを守ろうと無謀な行動に出る者を守護するモノ。
「水竜」
 アティーファの落下がぴたりと静止した。
 


 翠の光りと共に水竜が現れる。それを見つめようと、セイラスはゆっくりと顔を上げた。
「―― 軽くなった」
 まるで首を締めるようにして抱きしめてくる妻の手をやんわりと離させて、ガルテ公子セイラスが呟く。
 水竜が姿を現したと同時に、対魔力封印とやらを作り出すのに強いられた苦痛が突然軽くなったのだ。
 セイラスの横手でカチェイが立ちあがり、張りついた前髪を払いながら、驚きの声を上げた。
「アティーファが水竜を目覚めさせたのか?」 
 獣魂は皇公族に対して、封印などの抑制行為を働こうとしない。アティーファの魔力とシンクロし合っている者の魔力も抑制しないのだ。
 だからこそ、少女の魔力を封じるために、獣魂の力を頼るのではなく、人間の力だけで対魔力封印をもう一つ作り出そうとしていたのだ。
「いかに皇族の力を抑制しない獣魂でも。求める主が命じれば別、か」
 急速に、皇都を覆い尽くしていた魔力が排除されていく。結果、無理をする必要がなくなった三名の苦痛は軽くなったのだ。
「―― なんつーか。獣魂ってのは、従順な犬みたいな存在だな」
 呆れ声を出して肩を竦める。なあ、と同意を親友に求め視線を落として、カチェイは顔色を変えた。
「アトゥール?」
 安堵の表情を浮かべたセイラスとカチェイとは対照的に、アトゥールはひどく厳しい表情を浮かべている。手を大地の上について、ふらつきながら彼は立ちあがった。
「……まずい」
 搾り出すような声。天に生まれた水竜ではなく、地の上にある何かを探すように、視線を周囲に走らせる。
「アトゥール、どうしたよ?」
 カチェイの質問にも答えずに、うるさいと手で彼を制した。探す対象を見つけたのだろう。息を呑み、ふらついている癖にアトゥールは走り出す。
「おい! 答えろ、アトゥール! どうした!」
 訳が分からずにカチェイは叫んで親友の後を追った。
「リーレンだ!」
 ようやくアトゥールは返事をして、水竜顕現と、エアルローダの魔力が抑制されたことで、単なる屍に戻った敵を前に、ざわめく近衛兵団の中に飛び込んでいく。
 アトゥールは一度死にかけている。
 かなり博打性の高い賭けを行って、彼は命を永らえる事が出来た。けれどまだ、傷が塞がりきったわけでも、体力が回復したわけでもない。
 本当は無理などしてはならないのに、無理だけをし続けている。おかげで、人込みを掻き分けるだけで体力を消耗していく親友の様子にカチェイは舌打ちをし、大剣紅蓮をいきなり抜いて、周囲を威圧し一喝した。
「近衛兵団、下がれっ!」
 戦場で兵に指示を下す時の声と同じ迫力がある。驚いて左右に割れた人々の間をアトゥールは走って、大地の上で膝を付いていた近衛兵団長に叫ぶ。
「キッシュ! どけっ!」
 大地の上に、リーレンが横たえられていた。
 完全に血の気を失っている。感心するほどに感情豊かだった眼差しはきつく閉じられ、胸が上下している様子さえなかった。
 キッシュが離れた場所に倒れこむようにして座って、アトゥールは手を伸ばした。心音を確認する。
「良く頑張った」
 動いていた。かなり微弱だが心臓は動いている。自力での呼吸も行われていた。
 巨大な魔力放出によって、全ての器官が機能低下しているのだ。外傷があるわけではない。急ぎ魔力を排除すれば、器官は正常に戻り、助かるだろう。
 ―― 抗魔力で魔力を奪うしかない。
 瞬時に判断し、延ばしかけた手を取られた。
「アトゥール! お前、馬鹿か!? お前が死んじまうぞ!」
 細い親友の腕を捻り上げて、カチェイが叫び声をあげた。仇にでも出会ったような目で親友を睨み上げ、アトゥールは首を振る。
「馬鹿はどっちだ!」
 今助けてやらねば、リーレンは死ぬ。
「顕現した水竜の巨大な抗魔力によって、エアルローダもリーレンも、新たな魔力を作り出し難くなっている。私が封じるのは、リーレンの中に残っている力だけだ。そりゃあ少しは大変だと思うよ。意識をまた失うかもしれない。それでも、死ぬほどのことじゃない」
 助けねばならないのだ。
 もし、リーレンが死んでしまったら、アティーファは一体どうなってしまうだろうか?
 悲しみに胸を塗り潰しながらも、目の前で発生する危機に対処しようとアティーファは懸命に動くだろう。
 全てが終わった後は、自分の力が利用された事を責めて、苦しんで。けれど持って生まれた役目を放棄できずに強く生きていこうとするのだろう。
「私は嫌だ。あの子が毎日涙を流して、皇女としての役割を果たそうと無理をし続ける姿など見たくない。いいか、カチェイ。私達は兄代わりにはなれるけれど、あの子の友人にはなれない。アティーファにとって、リーレンは掛け替えのない友人であるだろう。―― 失わせるわけにはいかないんだ」
 真剣な面持ちで訴えながら、アトゥールは親友を見つめる。訴える気持ちが、わからないカチェイではないのだ。アティーファとリーレンの二人を弟妹のように大切に思ってきたのは、二人とも全く同じだ。
 リーレンを救って、再び命の危機に親友が落ちるのを肯定するのか。それともリーレンを見殺しにするのか。
 とんでもない二者択一を迫られて、カチェイはぎりぎりと奥歯を噛み締める。鋭く親友とリーレンとを確認し、うなだれるように肯いた。
「分かった」
 答えを吐き出すと同時に、弱さを捨てて立ちあがる。
 アトゥールはリーレンを救うために動く。ならば、カチェイはアティーファを救うために動かねばならない。
「アティーファは、水竜を呼び出したことでかなりの体力を消耗しているはずだ。主人第一主義の水竜は、アティーファの体力低下を補わせようと、他人の生命力を勝手に奪いかねない。それで死者を出したら、リーレンを救っても意味がなくなるな」
 饒舌に告げながらも、アトゥールを見ていない。カチェイは抜いた紅蓮を刀身を強く見つめる。
 呼吸を整えた。
「またな」
 アトゥールに軽く告げて、彼を見やる。
 ひっそりと親友は笑って、軽く手を上げ言った。
「じゃあ、あとで」
 手と手が打ち合わされた音が、高く響く。
 振り向かずにカチェイは走り出した。アトゥールも見送らずにリーレンに向き直り、子供の熱を測るようなしぐさで、額と額を合わせる。
 セイラスは一人皇都を眺め、歩き出した。


第46話 水竜
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