熱い。
これは一体、何の熱さなのだろうか?
肌が焼かれていく感覚に似ている。
ならば、側に炎でもあるのだろうか?
―― 私は、今何をしているのだろう。
夢を見ているような感覚だった。確かに戦っていたはずなのに、穏やかな空間の中に閉じ込められて。出会いを繰り返している。
「エア」
気づかねば駄目だと、警告を促す声が心の中でしている。
何に、気づかねばならないのだろうか?
何が、危険なのだろうか。
エアは嫌いではない。何故かひどく悲しくて、切なくて、抱きしめて泣きたくなる。
―― 敵ではないと思う。
けれどエアは似ているのだ。
彼に……誰に?
「ティフィ!」
叫ばれて、はっと目を見開いた。
体の周囲を取り巻いてこようとする火が見える。驚いて一歩後退した腕を、強く掴まれた。
「なんだって、こんな時に現れるんだろう。ティフィは」
呆れた声の中に含まれた、懐かしさと嬉しさと……悲しみの影。
振り返らずとも分かる。―― エアだ。
「…エア」
名前を呼びたくなる。呼べば、微笑むのを知っているから。
「ここは?」
森の中ではない。―― いや、森の中か?
「今までティフィが現れた場所と、変わっていない。変わったのは、この森の方だよ」
肩を竦める仕草がやけに大人びて、似合っている。
―― 変わらないくらいの年齢になっている。
突然、アティーファは泣きたくなった。
―― エア。
「どうしたの? ティフィ」
「エア。君は……君と、私は…」
声を出すのも辛くて、アティーファは眼差しを曇らせる。エアは首を傾げたが、火がみるみる二人の側まで迫ってきて、彼は少女の手を取って走り出した。
「ティフィ! 話は後。奴等をなんとかしないと駄目なんだっ!」
「奴等!?」
「何でか知らないけれど、奴等、この場所を嗅ぎ付けたんだ。放っておいたら、村は破壊されてしまう。それは嫌だ」
手を引かれるままに走る。
エアの能力は、以前出会った時と異なって完全に安定している。能力を無闇に解放し続けるのではなく、随時出しても平気な魔力をコントロールしているのだろう。
―― 同じだ。
同じすぎる。
突如エイデガル皇国に現れた少年魔力者。
絶大な能力を、抗魔力によって守られた国の中でも行使し、効果的な攻撃を繰り出して来た少年。―― エアルローダとエアは類似点が多すぎる。
「エアっ!」
悲鳴のように叫んで、手を振り払った。
心底驚いた顔を浮かべ、続けてエアはこの上なく傷ついた表情を浮かべる。
「ティフィ?」
「……エア……エアは、私を…」
「知っているよ。ティフィ」
真顔になって、エアは目を細めた。
己を捨てた男を愛しながら、憎み続ける母親がいる。
その眼球で世界を見つめることが出来ない彼女。―― 狂気に落ちて魔力を異常増幅させ、光景を見つめるようになった母親。
「僕はきっと、君の従兄弟だよ」
アティーファとティフィが同一人物であるのなら。―― 出てくるはずの名前がある。
「!? 従兄弟」
驚きに揺れる翠色の瞳に、一つ尋ねる決意をした。
「ねぇ、ティフィ。お母さんの名前を言える?」
「―― 母上の名前? リルカ。どうして?」
「やっぱりそうか。……僕の母もね、自分のことをリルカだと名乗るよ」
「ちょ、ちょっと待って。だって従兄弟なら、私たちの親が兄弟だということだろう? 何故リルカという同じ名前になる?」
「……ティフィ。母は双子だったって言っていた。知っている?」
アティーファの質問をはぐらかして、エアが尋ねた。
リルカとルリカという名前の双子。
似すぎていて、誰も判別をつけれなかった二人。―― 愛する人を奪われた可愛そうなリルカを生み出してしまった、双子の事実。
「エア?」
「答えて、ティフィ」
眉間に皺を寄せて、詰め寄るエアは沈鬱な目をしている。彼にとって、重い意味を持つ質問なのだろう。だがアティーファに何が重いのかを理解出来るわけがなく、ただ困惑する。
「父上が、母上にはお姉さんと、お兄さんと、双子の妹さんがいるって言っていた。父上が見た妹さんは、母上ととても良く似ていたけれど、目が少し違っている時があったって」
「目が?」
尋ね返す少年の目が怖いほど冷たくなっていく。エイデガル皇国に攻撃を仕掛ける時のエアルローダの冷たさとは質の異なる冷たさ。まるで絶望の色だ。
「詳しくは知らない。でも、そう言っていた。エア、どうしたんだ?」
名を呼ばれて、驚いて顔を上げる。ひっそりとエアは笑った。
「とにかく、今は言い争いをしている暇はないんだ。奴らを止めないと、何もかもが壊れてしまう。全てがなくなるのは…嫌だから」
再び走り出した少年を、少女は慌てて追った。追いすがろうと伸ばした手が、相手の手を捕らえる。
「エア! 教えてくれ! 今、何かに傷ついた顔をした。どうして!?」
「……信じていた、真実が覆りそうな予感にかな」
「真実? 真実って、どうして? 私が答えた言葉は少なくて、特に変わった事実なんてなかったはずなのに!」
「そうだね。変わったことはなかったよ」
答えながら、握り合う手にさらなる力をエアはこめる。
握りしめてくる強さは、まるで一つしかない確かなものを守るような真摯さに満ちている。エアが何を思っているのかは分からないものの、その手を振り払ってはいけないことだけは理解していた。
ただ分からないことが多すぎて、混乱する。
―― ここは過去のはずだ。
何故、時間を遡ることが出来たのか、理由は分からない。
もしかしたら、心だけが過去に飛ばされたのかもしれない、とも思う。
飛ばされた精神が、魔力者しか存在しない特殊な場所に出会って、不可思議な現象を―― 過去に自分が存在する事態を生み出したのかもしれなかった。
「分からない。アトゥールだったら、きっと、色々分かってくれただろうけれど」
―― 死んでしまって、もういない彼。
考えれば悲しみが持ち上がってくる。手を握り合っている、相手はエアルローダなのだ。ならばアトゥールの仇なのだ。
けれど 手を振り払うことが出来ない。自分が何を思っているのかが分からなくて、僅かに走るのが遅れた。引っ張るように繋いだ手の力が増して、目線を送って来る。
彼の瞳を見る度に、否定したくなる。―― 敵ではないと思い込みたくなる。
「ティフィ? アトゥールって、誰?」
尋ねられて、アティーファは瞬きをした。
「私の、血の繋がらない兄みたいな人。頭が凄く良くって、なんでも理解してしまう」
「ふぅん」
気のなさそうに答える、エアの瞳が剣呑さを増す。
母親が映し出す映像の向こうで、エアはアティーファを取り巻く人々を見つめて生きてきた。周囲の人間の性格や特性までは分からないが―― 大体は把握している。
アティーファと、リーレンの二人の従兄弟。そして二人の公子の存在。
「もう一人居るよね。お兄さんみたいな人」
「え? ああ、うん。いるけど」
何故、知っているのだろうかと困惑するアティーファに、見つめていたのだからとエアは心の中だけで答えた。
「どんな人?」
「どんなって…そうだな、凄く強いよ。意志も強くて」
―― アティーファを守る人々。
今まで遠いと感じなかったアティーファを、突然遠くに感じた。それが、ひどく悔しい。
エアルローダがエアだとアティーファが認識したように、復讐してくれと母が泣いて訴えるアティーファという娘が、ティフィなのだとエアも理解してしまった。
ならばそう遠くない未来から、ティフィは過去に現れてしまったことになる。
「けれど何故?」
疑問を抱けば、血液が凍りつくような恐怖の真実が首をもたげようとして、エアは薄い唇を噛む。
「エアっ! 前を!」
耳に心地よい響きで、アティーファが叫んだ。目を上げれば、完全に武装した物騒な者達が見える。
「三人、……五人…十人!?」
数えて、エアルローダが舌打ちする。多い。
「あれはザノスヴィアの親衛隊!?」
「ティフィ、見たことがあるのか?」
「一度だけザノスヴィア王がエイデガルに来たことがある。その時に連れていたのが、ああいう格好の親衛隊だった!」
魔力者を道具のように扱い、そのように扱う為の手段を多く持つ国、ザノスヴィア。
その中でも、国王直属の親衛隊は、かなりの特殊技術を保持しているという。
「いけない。あんな奴らが大挙して押し寄せてきたら、魔力者達はっ」
困惑と恐怖に戸惑うのではなく、対応方法を求め思案し始めたアティーファの手を、エアが不意に離す。何を!?と、叫びかけた声を飲み込む目の前で、エアは吹き矢のように鋭い魔力を放って三人の敵を沈めた。
一瞬息を呑み、次いでアティーファは倒れた兵を確認する。―― 息があった。
エアルローダならば、容赦なく殺していただろう状態で、エアは殺さない。
―― 似ているのに。ひどく似ていない二人。
「エア?」
アティーファがもらした怪訝な声に、エアは振り返って苦笑いした。
「殺すのは簡単だよ。でも殺したら、こいつらは復讐に燃えるだろう。理由もなく魔力者を憎悪する人間に、憎悪にたりる理由を与えてやる必要なんてない」
どこか冷静なエアの声に、ザノスヴィア親衛隊の襲撃は初めてではないとアティーファは悟る。続けて、気になる事は山のようにあるが、今は目前の危機に集中せねばと思った。
「エア、今まで襲ってくる敵を一人ずつ眠らせて対処して来たのだろうけれど。それだけじゃいつか守りきれなくなる時が来てしまう。さっき、森に火が付けられていた。それを消し止めるためにエアは走って、その隙に別の場所が襲われていたんだろう? 今、火は消えている。なら、火を消し止めることが出来る人間―― いや、魔力者が他にも居ることになる」
だったら、と続けようとするアティーファの言葉を、エアは手を上げて制した。
「残念だけどね、無理なんだ。村に居る人間たちは、個々で判断し、行動する能力を持たない。彼等は皆、ある一人の人間の狂気に侵食されて、呪詛の言葉を吐き続けている。火が消えたのは、きっと自分が熱かったからだ。それだけの意味しかないよ」
言って、大人びた表情で肩を竦める。
アティーファは目を見張った。
「一人の狂気に侵食されるって」
「もっと子供の頃に言ったと思うけれど。僕は、僕らしく生きることを望まれていない。母親である女と、この村に住む人間が僕に望むのは、たった一つだけだ」
アティーファの前に現れた時に、炎に煽られたのだろう。ちりちりと焼かれて不揃いになった髪を掻き揚げながら、くすり、とエアが笑う。
―― ゾクリ、と悪寒。
エアルローダとエアが持つ、造形以外の類似点をはっきりと見つけた。
無意識に恐怖して、一歩下がったアティーファにエアが首を傾げる。手を伸ばしてきて、離れた手をもう一度繋いだ。
気づき始めている真実を、はっきりと見せ付けられるのに恐怖しているのは、エアも同じだ。
けれど、背をそむけ続けるのには限界がある。
息を呑み、呼吸を整えた。意を決する。
「母は、ただひたすらに復讐が履行されることを望んでいる。相手は」
アティーファに悪寒を抱かせた凍りついた笑みを消し、薄い唇を切なげに噛んだ。鮮やかな、黒に程近い深遠の青を宿す瞳が、切ないほどに何かを求めて、豊穣を宿す翠の瞳を見つめる。
「エ…ア…?」
息苦しさを覚えるほど、眼差しには感情が秘められている。アティーファの声にエアは首を振り、一歩進んだ。
「君だよ。ティフィ。君なんだ、アティーファ・レシル・エイデガル」
言い切って、エアは突然アティーファを抱き寄せた。
直後、エアの背後、アティーファの前方が紅に染まる。
「キッシュ団長! なるべく、固まっていて下さい!」
ぎりぎりと、重圧のように押し包んでくるエアルローダの魔力攻撃を防ぎながら、リーレンは叫ぶ。
少年魔力者が繰り出してくる攻撃に切れ間はない。その上、体の中で膨れ上がろうとする魔力も、衰える気配はなかった。
自分は大丈夫なのだろうか、と思う。
アティーファを救う為ならば、死を覚悟しても良い。けれど真実彼女を守り救いたいのならば、自分も死んではいけないと、リーレンは悟っていた。
命を落としたアトゥールを目前にした時、カチェイが凄まじい衝撃を受けていた。その様のなんと悲しく、惨い光景であったことか。
「だから、絶対に」
死ぬものか、と決意を繰り返しながら、リーレンは必死になる。
魔力を抑制するエイデガル皇国内で、高い威力を発揮させるためには、かなりの力を必要とする。おかげでかなりの魔力開放を促されていた。
加減が難しい。間違えれば、命を奪われる魔力暴発が起こってしまう。
歯を食いしばり、必死になるリーレンを横目で見やって、エイデガル近衛兵団長キッシュはニヤリと笑った。
彼の知っているリーレンは、控え目で、素直すぎる頼りない人間だった。けれど今の彼は、男らしさを感じさせるほど、頼もしくなっている。
人は成長するものだと考えながら、キッシュは保持する銀槍を勢いよく横に凪いだ。
びちゃり、と嫌な音を立てて大地に倒れる影。
エアルローダが呼び起こし、尖兵とした死者の群れだ。リーレンの魔力は、敵の魔力を防ぐ為だけに行使されている。ゆえに物理的な攻撃を防ぐのは、近衛兵団の役目だった。
魔力に対し威力を発揮できなかった近衛兵団員が、直接攻撃を仕掛けてくる敵を相手に、思う存分能力を発揮している。
自然とリーレンを中心に近衛兵団員は集まり、距離を広げないようにしつつの防衛が続いていた。
エアルローダは冷めた視線を地上に落とす。
アティーファが目覚める前に、彼らを排除しておきたい。そう冷たく思っていた。
気高いエイデガル皇女が目覚めた時、屍に埋め尽くされた原野があったら、どう反応するのだろうか。邂逅を終えた状態で、再会を果たしたらどういう瞳をするのか、―― それを知りたい。
彼女が一体、どの名前で己を呼ぶのかもだ。
「ティフィ、でもどうしてかな。全てを壊してしまう前に、君に目覚めて欲しい気もするんだ」
呟くエアルローダの周囲を、淡い燐光が包んでいく。それは、ザノスヴィア王国にある森の中で、打ち滅ぼされていった魔力者達の無念の気持ちの結晶だった。
滅ぼせと、死者達が囁いてくる。
自分たちと同じように、無に帰してやれとせがんでくる。
耳を塞ぎたくなった。
もし、誰かを恨んでいるだけで村の人間たちが滅んでいったのなら、ここまで縛られずにすんだかもしれない。
「そうやって、お前達が僕を支配する。呪詛というのは、案外有効なのかもしれないね。なにせこうやって、囚われる者がいるのだから」
―― 自分は開放されたいのだろうか?
分からない。自分が、何を望んでいるのか、その確たるものが分からない。
ただ一つ。目撃したくて、エアルローダは行動する。
爆発炎上、という言葉を当てはめれば良いだろうか? 翠色の双眸の先に広がる光景に、アティーファはそんな事を咄嗟に考える。
エアが体を震わせたのが、触れ合う個所から如実に伝わってきて、アティーファは降ろしていた両手を持ち上げて少年の背に回した。
「ティフィ。何が、起きた?」
尋ねる、少年の声が冷静なのが逆に悲しい。
「……私が、答えたほうがいいのかな」
「ティフィの声で聞いたほうが、落ち着いていられるような気がする」
赤い。
燃える、赤が黒を生み出している。
木々が燃えて、煙を吐いて、黒く煤けて視界を埋め尽くしていく。なのになんの悲鳴も聞こえてこないのが、ひどく不思議だ。
物言えぬ木々とて、泣いているだろうに。
「燃えている。エアの後ろ、私の前で。全てが赤くなっていっているんだ。エア、人々はどこに?」
「ティフィの視界の先に。いる。でも―― まだ、死んでいないかな」
「どうして分かる?」
「声が聞こえないんだ。いくら自我を失い、呪うことしか出来なくなった人々でも、死ぬ瞬間は叫ぶよ。それが聞こえないから、まだ死んでいない」
「なら、行こう。エア」
強く。エアの背に回した手に力をこめる。
彼はエアルローダで、レキスの民の、大切な兄の仇なのだ。それでも自分は彼の手を振り払えない。
いや、自分自身の意思で振り払いたくないと望んでいる。
復讐するべき相手が、自分なのだとエアは告白した。理由はわからない。分からないが、それが事実だろう。
手を振り払わぬなら、覚悟せねばならない。今、温もりを手放せないでいる相手は、後の敵だ。
―― 決めた。
「ティフィ?」
「私も一緒に行く」
はっと、息を呑む気配。
復讐すべき相手だと断言してなお、態度を変えぬアティーファの潔い決断を知る。エアは頷いた。
「分かった。行こう、ティフィ」
ぬくもりが離れる。至近距離に、整った少年の顔立ちがあった。そう変わらないだろう年齢。確認したくなる。
「エアは、何歳?」
「僕? 十六だよ。ティフィは?」
「私も十六だ」
同い年。
この過去に存在するエアは、すぐに自分と再会する。そして―― 攻撃を仕掛けてくる。
何故? と、聞きたい気持ちは覚悟を決めてもあった。
二人だけの、まるで約束のように名前を呼び合った。心が繋がっていると思った。なのに彼は復讐を捨てずに、攻撃を仕掛けてくる。
けれど、答えはここにはない。あるのはエアにとっての未来にだ。
二人、別々の決意を瞳に宿す。そして走り出した。