軽やかに腕を持ち上げて、最終的な指示をアトゥールが下す。
彼の命令を望む大いなる存在風鳥は天に向かって咆哮し、柔らかな光りの粒子と共に風を生んだ。
即座に続く銀猫騎士団の矢の雨。
―― アポロス橋を越え、ザノスヴィア王国内の平野にて発生した戦は、こうして一時沈静した。
血で凝固した上着を脱ぎ捨て珍しく軽装になったアトゥールが、親友のカチェイに尋ねている。恐らくは不在時に何が起きたのかを質問しているのだろう。
ミレナ公家の至宝魔弓天雷を無造作に下ろし、ロキシィ・セラ・ミレナは二人が帰還してくる光景を無感動に見やっていた。逆に彼の一人娘シュフランは、きらきらとした眼差しを公子に向けている。
父親としては余り楽しい光景でもない。骨ばった大きな手を娘の頭に置き、呆れ声を出す。
「シュフラン、お前趣味悪いんじゃねぇのか?」
「ロキシィ父様と同じ位、異性の趣味はいいと思うわ」
間髪いれない返事に、ロキシィは口笛を吹いた。
「あいつらが、ネレイルに匹敵するほどに魅力的ってか? シュフランお前ほとほとガキだなぁ」
「娘の年をすぐに忘れちゃうロキシィ父様は知らないかもしれないけど、十歳は子供でいいのよ」
「事実ガキってことか」
「カチェイ公子も、アトゥール公子もご無事で本当に良かったって思うの」
「聞いちゃいねぇな。人の話を」
親ってのは悲しいもんだよ、とわざとらしく嘆きながら、ロキシィは紫がかった双眸を細め思い出す。
カチェイが戦場に現れに、濃厚な死の気配が広がったのは先程のことだ。直感的に死人が出たと悟り舌打ちをする。
アトゥールとカチェイの二人が、プライドが高いという理由を隠れ蓑に、実際は誰にも頼れない欠点を持つことをロキシィは知っている。だからこそ、彼はあの二人を大人として認めていない。
―― アトゥールが死んで、死体を持って来やがったな。
とち狂いでもしたか?と、ロキシィは内心冷笑した。抗魔力者や魔力保持者が、生還率は限りなくゼロに近いが、生き延びるための方法を持つ事は知っている。それをアトゥールが使った可能性も考えたが、迷わずに弓を引いた。
死の淵から戻れる人間など、そうはいない。
健やかな日々を送ってきた者でさえ、死の淵の冷たさと苦しみの記憶に敗北するのだ。健やかどころか、傷だらけの心しか持ち合わせず、普段も時折苦しむ者が帰ってこれるわけがない。
無残に散るのが分かりきっている希望など、後に絶望を与えるだけだ。だからこそ、魔弓天雷で完全な止めを刺してやろうと考えたのだ。
死ぬと思っていた。だが、生きて戻って来た光景が目の前にある。
『ロキシィが考えるよりも、あの二人は絆が強いからな。ま、大丈夫だろう。お前は単体での弱さを見過ぎだよ』
紅茶の器を持ち上げながら、かつてフォイスが言った言葉の意味を、なんとなく理解する。
「俺は単体で強い奴じゃねぇと、好かんなぁ」
「ロキシィ父様?」
「カチェイはともかくだ。見ろ、シュフラン。お前が美形だわ、と目を輝かすアトゥールなんぞ、単なる女顔なだけだ。普段ぞろぞろした服を好んで着てるのだってな、男らしからぬ体格をごまかす為だぞ。あれみりゃ分かる」
いっそ素直に女物でも着たらどうだと言葉を続ける父親が、実際に嫌がらせのように女物の衣装やら化粧道具だのをアトゥールに送りつけたことがあるのをシュフランは知っている。思い出して腹が立ち、いきなり彼女は思いきり父親の足を踏みつけた。
痛くはないが、なにやら傷ついた顔をして放浪皇王は娘を見やった。
「―― ―シュフラン、あのなぁ」
「ロキシィ父様の大馬鹿者っ! 公子方を馬鹿にする人なんて、シュフラン大嫌いっ!」
「なんでそんなに好きかなぁ」
「格好良いし、素敵だし、優しいし! 全部好きだものっ!」
人当たりが良く見えるのは、他人を受けれることも出来ない弱さを繕ってるからに過ぎんだろうが、とは、ロキシィも口にしなかった。十歳の子供には二人の欠点など到底理解出来ないだろう。―― 他人を頼れない人間が、どれほど弱い存在でしかないかなど。
「ったく。つくづく弱いねぇ、奴等は」
言い切った父親を捨て置いて、シュフランは走り出した。
戻って来る二人が、アポロス橋に辿り着いたのだ。突然の暴風と炎の痛手から立ち直っていないザノスヴィア王国軍が、組織的な反撃に出る様子はない。二人を迎えても問題はないだろう。
「カチェイ公子、アトゥール公子っ!」
少女らしい弾んだ声に、二人はシュフランに視線をやった。
カチェイはゆっくりと手を振って、アトゥールは笑みを浮かべる。二人の好意的な態度に、内心飛びあがらんばかりに喜びながら、シュフランは彼等の前で頭を下げた。
「ロキシィ父様がとんでもないことして、ごめんなさい」
とんでもない事というのは、アトゥールに魔弓天雷を放った行為を指す。仮死状態だった本人はシュフランの謝罪の意味が理解出来ず首を傾げたが、カチェイが頷いた。
「シュフランのおかげで、第二射がこないですんだからな。謝ることはないさ。俺の代わりに、なにやらミレナ公王を叱り飛ばしていたみたいだしな。ありがとな」
アティーファ以上に気が強いシュフランの言動は、年長者から見ればひどく可愛らしい。懸命に謝る少女を怒るわけがなく、優しく言って、彼女の頭を撫でた。
「―― カチェイ、一体何があった?」
「俺がお前を抱えたまま戦場に来た時にな、一瞬で状況を見破られたわけだよ。で、あの放浪公王の奴、お前の眉間を打ちぬくべく、いきなり魔弓天雷で矢を放ったんだ」
「……それはまた…」
「相変わらずやり方が派手だろ?」
揃ってミレナ公王を脳裏に描いて息を付く。アトゥールは肩を竦めた。
「……まあ、気持ちも分からないでもないけどね。豪快すぎるよ、あの公王は」
確かに、もし自分の目の前に死体を抱えて戻ってくる人間が現われれば、それが死んでいるということを証明しようとしただろう。魔力者や抗魔力者が持つ最後の賭けに、成功例が殆どないのは、こういった周りの人間達の行動にも原因があるかもしれなかった。
今、こうして生きていられるほうが奇跡に近い。
「じゃあ、シュフランは私n命の恩人ってわけだ。礼を言っておかないと駄目だね。ありがとう」
やんわりと言って、カチェイと同じようにシュフランの頭を撫でてアトゥールは笑った。
ミレナ公女は、真っ赤になってはにかんでから、父親を連れて来ると言って踵を返す。軽やかな少女の動きに、別行動させてしまっているアティーファを思い出して、二人は表情を変えた。
「……カチェイ、私たちはエイデガル皇都に戻る必要がある」
アトゥールの声に、カチェイは深い懸念を感じ取る。
「どうした?」
「一つね、少々厄介な符号に気付いたんだ。詳しい背景は分からないけれど、それが何を意味するのかはわかる。けれど、ここに居れば説明してやることも出来ない」
「…何が言いたいのかよく分からねぇな。詳しく説明したくはないが、アティーファの元に早く駆け付ける必要は有るって事か?」
「―― いや、説明したくないわけじゃない。私自身まだ混乱している部分が多くて、上手く説明できないだけだよ」
「……アトゥール?」
心底驚いて、カチェイはアトゥールの横顔を凝視した。
混乱している部分が多いのは、考えがまだ憶測の段階であることを意味している。
ようするにアトゥールは間だ、推測を確定に変える”証拠”を掴めていないのだ。
にも関わらず、説明したくないわけではないと彼は言った。
余程しつこく食い下がらなければ、確証がないままの憶測を口にしなかったアトゥールがだ。
―― アトゥールの心情が変化しつつある。
そう考えればなんとなく楽しくなって、カチェイは笑った。驚いて見上げてくる親友の肩を叩く。
「上手くない説明部分は、勝手に考えて補足しとく。あとで話してくれ。それよりだ。俺たちが早急に皇都に戻る必要があるなら、ザノスヴィアとの戦闘はどうするよ」
敵王国軍はまだ混乱から回復していないが、戦闘再開は時間の問題だ。
今、有利な立場を保持しているのは、ミレナ公国の銀猫騎士団に、アデル・ティオスの騎士団の戦力が加わっためだ。金狼・風鳥両騎士団が離れれば、ミレナ公国軍は再び付利な状況に陥ってしまう。
「ガルテ公国の獅子騎士団が辿り着かなければ、行動は出来ないのが現実なわけだから…」
囁くように呟いて、アトゥールは主君の帰還に沸き立つ配下の騎士団員に視線を向けた。
抗魔力を悟らせるわけにいかない以上、軽軽しく口には出来ないが、彼等を伴って皇都に戻るには、抗魔力の守護が必要になる。
不可能ではないだろう。
ここに来て気付いたのだが、戦場にあるミレナ公家の銀猫騎士団員は、抗魔力の守護を受けているように見える。近衛兵団も抗魔力の影響下に有った。―― 仕えるべき公王、公子が一定の距離内に存在することによって、抗魔力を持たぬ者を守ることが出来るのかもしれない。
公王の抗魔力が充分ではないキス公国の天馬騎士団員の亡骸からは、何も感じられなかった。
「……考えていても無駄か…。調べる本があるでもなし。嫌だな……結局、あの放浪皇王に尋ねなくちゃならないわけだ」
幾年重ねようとも、自分達を子供扱いし続けるミレナ公王はアトゥールにとって苦手の部類に入る。辟易したまま、ロキシィに質問しなくてはならないとカチェイに告げようとして、息を飲んだ。
―― 何かが接近してきている。大きな……力を伴った何かがだ。
弾かれたように振り返って、アトゥールは目を凝らす。五公国とエイデガルを繋げる運河に並び整備された街道の先に、小さな影を見つけた。―― 人の影というよりも、まるで威圧感の塊だ。
過大すぎる抗魔力が反応を示すのを感じながら、一歩、後退する。
―― 似ている。
この感覚は、エアルローダに酷使している。もしや排除し損ねた敵少年魔力者は、皇都ではなく国境を先に潰すつもりだったのかと、アトゥールは氷華を片手に走り出した。
同時にカチェイも走り出した。同じく、異変を感じ取ったのだろう。
「カチェイ、あれは……恐らく」
告げるアトゥールの息が上がる。僅かに走っただけなのだが、死の淵から戻り来て即座に戦闘を行った為に体力が限界寸前なのだ。気付いてると短く答えて、カチェイは手短にいた兵に馬を貸せと叫ぼうとして目を見張った。
金狼・風鳥騎士団が駐屯する場所から、勢い良く二頭の馬が飛び出してくる。
間違いない。エイデガルから連れて来た、自分達の愛馬だ。
「……賢いなあいつら」
驚いたカチェイの声に、アトゥールも頷く。
「時々、頭が下がる思いがするね。そういえば―― 凛毅はどうした?」
レキス公国に姿を見せた凛毅の気配をアトゥールは覚えている。あの山猫は、アティーファについてエイデガルに戻ったのだろうか?
「良く知らんな。なにせアティーファに告げてからここに来たわけじゃないんでな」
「アティーファに告げてきたわけじゃない? ……そうか…」
カチェイの言葉に、彼にかけた負担の大きさを思い知って、眉をひそめる。
「良いってことよ。戻って来た、それで全部チャラだ」
あっさりと会話を打ちきらせて、カチェイは前方を睨んだ。
小さな点にしか見えなかった影は、徐々に形が分かるようになり始めている。どうやら馬の背に誰かが乗ったまま、こちらに駆けて来ているようだ。
「―― ……違う?」
呟いて、目を凝らす。威圧感を与える魔力の気配なのだが、想像している人物らしからぬ艶やかな色彩が、馬上に満ちていた。
しなやかに揺れるのは漆黒。風にそよぐは緋色。―― 陽射しを受ける白磁。
「ザノスヴィアのマルチナ姫だと!?」
カチェイが言い放った言葉に、アトゥールは凄まじい違和感を覚えて唇を噛んだ。
「―― あれが、ザノスヴィアのマルチナ姫、だって?」
無意識に手綱を引いたアトゥールの横を過ぎ、カチェイは駆けこんでくる馬を確認する。騎手は馬を操っておらず、気を失って倒れ伏していた。幸運にも振り落とされていないが、今にも大地に叩きつけられそうな勢いだ。
カチェイが低く唸る。助けるべく行動を起こすのだろう。手伝おう、と思いながらも、何故かアトゥールは己の身体が動かないことを自覚した。
―― 目の前で黒髪が揺れている。
『マルチナは、変な違和感を持っている。本人なのに、本人ではないような…』
異変に対処すべく動く前。鋭い勘の持ち主であるアティーファは、ザノスヴィア王女をそう評した。
「王族の気配を全く持たない。けれど―― 正真正銘王族であった、王女マルチナ…」
カチェイは動かないアトゥールを、まだ無理は出来ぬからと考えたらしかった。即座に馬の腹を蹴り、疾走してくる王女の馬の横につける。一人で王女を助け出すつもりだ。
狂ったように黒髪が揺れる。漆黒でありながら、どこか青みがかった風情のある髪が。
―― 僅かに青みがかった光沢のある黒髪は、ザノスヴィア王国民の特徴だ。
本来、見事過ぎる漆黒の髪というのは、それほどお馴染みの色でもない。エイデガル皇国で最も多いのは銀髪だ。決して、黒ではない。だが。
「リーレン、エアルローダ、マルチナ……そして、アティーファの母君…」
身近過ぎる場所に、今まで、黒絹の持ち主達は多くいた。―― これは偶然か?
動けぬアトゥールの視界で、走る馬に愛馬を並走させたカチェイがタイミングを図って手を伸ばす。力強い腕は王女の華奢な腕を取り、同時に鐙から外した足で彼女の馬の脇腹を蹴った。狂ったように前に走り出したマルチナの馬と、腕を掴んだ状態のまま後方に引かせた相反する力を利用して、勢いよく引きこむ。
―― あざやかに空中を染める、漆黒の世界。
「……カチェイ…」
短く告げた。心臓が狂ったように高鳴り始めている。逆に、脳は恐ろしいほどに醒めていた。
―― あれは、誰だ?
違和感が頬リ投げて来た疑問が、狂ったように点灯する。
王女であって、王女に見えなかった娘。殆どの男を確実に魅了する、狂気の魅惑を持つ少女。
投げられた声の低さに、尋常でないものを感じとってカチェイは振り向く。抱き取った王女の首筋にふれて、脈を確認しながら。
「アトゥール?」
「……何も、今、感じないんだな?」
王女の首筋に触れているのを確認して、尋ねた。
最初マルチナを見たとき、カチェイでさえ魅惑されていたことをアトゥールは知っている。別段何も興味を感じない自分の方が異様なのだろうと、その時は軽く考えていのだ。実際に、他にも興味を感じなかったフォイスとリーレンが居たことも忘れて。
「魔力以外はなにも感じてないな」
答えるカチェイの声が、どこか遠く感じられた。
「―― ………そういう、ことだったのか……」
呟いた後、いきなりアトゥールは馬を返した。カチェイが止める隙もない。
目指すのは、ミレナ公王の佇む陣営。
―― 確認せねばならない事を、見つけた。