第33話 過去
第32話 暗雲HOME第34話 兆候



「皇女! 敵の心理攻撃に乗っては駄目です!」
「リーレンっ! 離せ! 私は…」
「忘れては駄目です、皇女。私達には今、激情にかられ動いたときに、止めてくれる人達はいないことをっ!」
 常に振りかえればカチェイとアトゥールの二人が居た。
 アティーファにとっては大切な兄代わりで、家族との記憶の殆どを失っているリーレンにとっては家族そのものだった。彼等の不在が、二人に不安と恐れを与えることを知っている。
 だからこそ、今はお互いで互いを留め、制し合うしかないのだ。
「皇女、分かって下さい。今の私達が一人暴走するのは、命取りです」
 しっかりとアティーファの目を見詰めて、リーレンが訴える。
「……リーレン」
 皇女は掴まれた部分を見やって、アティーファはゆっくりと息を吐いた。あたかも昂ぶる激情の全てを外に出すための仕草にみえて、リーレンは内心安堵の息をつく。逆に、上空にて佇んだままのエアルローダは舌打ちをした。
「なるほど。リーレン、君は何時の間にか、僕の邪魔が出来るようになっていたわけだ。良く考えれば、僕の同朋であるんだ。その程度の成長は、当たり前、といったところかな」
 相手のペースに乗ってはならないと、心に繰り返し強く命じながら、リーレンはエアルローダを睨みあげた。
 上空に佇む少年魔力者との距離は、張り上げた声が辛うじて届く位置を保ったままだ。だがいつ状況が変化するか分からぬので、リーレンはエアルローダを睨んだまま皇女に声を向ける。
「皇女、エアルローダはまた味方を作り出そうとするやもしれません」
「―― 近衛兵団を屍に変えて、操ろうとして来るとでも?」
「いえ、今になって気付いたのですが、近衛兵団員には抗魔力の守護が施されているようです。はっきり申し上げれば、フォイス陛下の守護の元にあると考えていいと思います」
「父上の?」
「近衛兵団に任命されると、陛下から抗魔力の守りを与える何かが渡されるのではないでしょうか? 例えば獣魂の宝珠に似た物を渡される、とか」
 前を睨んだままのリーレンと同じく、アティーファもエアルローダをひたりと見詰めたまま微動だにしない。けれど向けられた問いを考えているのは明確で、ふと、大きく一度瞬きをした。
「そういえば、近衛兵団に渡される紋章には、獣魂の宝珠と同じ鉱物が使用されていたような気がする。ということは、抗魔力の守りがあるという考え、正しいかもしれないな」
 手軽な位置に佇む近衛兵団を操り、己が尖兵に変えることが出来ないのならば、エアルローダはどうするのか。考えて、アティーファは細い眉をしかめる。
 船でエイデガル皇都に戻る際に、皇国民の殆どが避難させられているのを確認した。恐らく、精神を操る敵魔力者だと察知した父王フォイスが、被害拡大を防ぐ為に取った手段の一つだっただろう。おかげで、レキス公国の悲劇のように、民が殺された後に死体を操られる懸念はない。
 ―― ならば、エアルローダは何を操る?
「動物は有り得るだろうな。あとは余り考えたくないが…」
 目に見えて嫌悪を表に出した表情になったアティーファに、敵を睨んでいた視線を移してリーレンは頷く。
「既に死亡した民の……亡骸こそを、使うかと」
 エイデガル皇国は水葬の風習を持つ。
 けれど全ての死者を水葬にすれば、湖や川はとんでもない状態になることだろう。そういう事情も重なって、近頃では土葬や一部火葬も行われるようになって来ている。
 死者が土の中から、水の中から、起きあがる歩み出す光景を想像して、アティーファは身震いした。
「最悪だな。あの敵、顔だけなら綺麗だが、心は全然綺麗じゃない」
 吐き捨てた後にエアルローダを警戒していてくれと頼み、エイデガル皇女アティーファは小船を下ろすようにと命じた。抗魔力の守りを与えられている近衛兵団とは異なり、乗船する船員たちは精神呪縛の格好の餌食になる可能性が有る。遠ざけておく必要があるだろう。
 リーレンと共に急ぎ小船に移りながら、急ぎ近衛兵団にも声を投げる。
「キッシュ!! あの魔力者の相手は私がする。近衛兵団は、上陸して敵の攻撃に備えろっ!」
 詳しい状況を説明している暇はない。
 けれどフォイスに城外退却命令を下されたことに憤っていたキッシュは、守るべき皇女の命令に首を振る。皇王に続いて皇女を守る権利までも剥奪される謂れはないと主張したいのだろう。
「皇女、そのご命令には従えません。我々は、フォイス皇王陛下、アティーファ皇女殿下をお守りする為に存在する近衛兵団。皇女殿下を守らず、去ることなどは出来ません」
 第一、と語気を強め言いきり、言葉を続ける。
「皇城下に上陸しても、備えるべき敵の攻撃があるとは思えませんな。いかに敵とする魔力者がエイデガル皇都に訪れてきているとはいえ、他国がここまでいきなり攻めこんで来れるわけがない」
 精神を自在に操る魔力者、エアルローダの真の恐ろしさを知らぬキッシュが”敵兵となる死者”を想定出来ないのは無理もない。彼が懸念するのは、敵対するだろう他国の情勢のみなのだ。
 状況的には、機能停止したレキス公国を補うべく、ザノスヴィア王国との国境に、ミレナ公王親子が配下を率いて急行している。ガルテ公太子が指揮する軍も辿り着くだろう。
 ザノスヴィア以外の国に対して、アデル公国、ティオス公国が完全武装の体制で睨みを効かせている。
 彼が懸念する他国は皇都に攻撃を仕掛けることは出来ない。可能なのは唯一、エアルローダのみだ。
「違う、キッシュ。私は、不当に近衛兵団を退けようとしているのではないし、信用していないのでもない。真実、皇都側に上陸する必要があるから命じているんだ」
 豊かな亜麻色の髪を風に揺らせて、アティーファはきっぱりと言いきった。
 凛々しい横顔には、エアルローダと対してる時に見せた動揺も脆さも一切ない。全てを預けてしまいたくなる高貴が輝いていた。
 それでも、彼女が焦りや恐れを抱いていることに気付けるようになったリーレンは、安心することなくエアルローダの警戒を続ける。
 とにかく今は、アティーファが近衛兵団を説得する時間を稼がねばならない。敵対するだろう死者と動物達に対する部隊がなければ、敵本体であるエアルローダを攻撃することが出来なくなるのだ。
 勇ましい様子のリーレンに、エアルローダは何度見せたか分からぬ笑みを、また向けた。
「とんだナイト気取りだな、リーレン。過去のことも、己のことも、何も知らないままでいる愚者であり続けているくせに」
 断言したエアルローダの瞳に、突然、リーレンの胸が痛んだ。
 思い出せないでいるままの過去の中で、僅かに取り戻した過去がある。母に手を引かれ、逃げなくてはいけないと言われていた。狂った娘がいて、戦わなければならないとも告げられた。
 一体何と戦わなければならないと、記憶の中の母は言ったのだろう? 何故、エアルローダと対する時に限って、今まで思い出したこともなかった過去が溢れてくるのだろう。
 ―― なくした記憶の変わりに、身体が過去を懐かしむこともある。
 そう言った誰かが居た。ならば今、自分自身でも気付いていないが、過去を想起させるものに遭遇し、身体が何かを懐かしんでいるのだろうか?
 エアルローダが笑う。血の気を失った薄い唇のままに。
 ―― リーレンに罪は無いわ。でも、この力の巨大さが…。
 ―― 生きていくこと、それ事態が辛いかもしれない。
「……あ…」
 空中に佇む敵を、目は確かに睨みつけている。にも関わらず、聴覚が現実逃避をしていた。
 聞こえてくる声は、取り戻した僅かな記憶の中で、確かに自分を慈しんでくれた人達の声と全く同種のものだ。リルカと、ルリカ。母の、綺麗な妹達。
「……リルカ…と、ルリカ?」
 双子の名前。同じ顔と声をしていた、名前までもが似ていた、双子。
 リーレンの呟きに意外そうな表情を浮かべて、エアルローダは皮肉げに眉をしかめた。
「思い出せるかい? 君に。唯一、狂気を食い止めることが出来る位置にいながら、自分たちの安泰の為に逃げ出した両親を持つ、生まれながらに卑怯な君が。リーレン、君が忘れようとも。僕は知っているよ。本来なら、僕は君のことなど知らないはずなのだけれどね」
 エアルローダの唇が笑いの形を取る。
 さざめくように、常に声をかけてきてくれた人に、あの唇は似すぎている。―― だから。
「まさか、まさか、あの、村というのは」
 襲いかかってくる”過去”に、リーレンは激しく恐怖した。
 魔力者だからと道具にされた、幼い日々よりもっと前の記憶を自分はなくしている。
 確かに与えられていた、家族と、周囲の人々と過ごした安らぎの日々だったというのに。
 ―― 何故それを忘れねばならなかった?
 辛い記憶なら、封じるのも分かる。けれど、楽しい日々の記憶を何故消さねばならなかった?
「リーレン・ファナス。血に呪われた村の、呪いを避ける唯一の”掟”を破った両親を持つ子供。―― ファナスの一族でありながら、外に出ていった魔力者!」
 ひときわ高く笑って、エアルローダはリーレンを指差した。
「何かが守れるわけがないだろう? 祝福など受けてはならぬ状態で生を受けて、生れ落ちて秩序を破壊した。破壊しか出来ぬ存在だと知っているからこそ、過去の記憶を抹消し、故意に平凡に埋没して生きてきたはずだろうよ。本当は、そんな殊勝さなんて、これっぽっちもなかったはずなのにね」
 故意に記憶を抹消してきたと断言されて、リーレンは雷に打たれたような衝撃を覚えていた。
 すぐ背後で、アティーファは近衛兵団を説得するべく声を張り上げている。彼女に助けを求めて叫び出したい衝動をなんとか押し留めて、リーレンは一人強く額を押さえた。
 記憶が、過去が、今―― 交錯しようとしている。
 エアルローダの言葉。取り戻したばかりの母の声。可愛がってくれた母の妹達―― リルカとルリカ。
 記憶と、現実とに残っていた静かな符号が、ゆるやかに重なる。
「……皇女の……母君の、名前は…リルカ・ファナス……」
 ―― 記憶の中で、幼い自分を撫でてくれていた双子の一人。
「エイデガル皇国民ではなく、陛下が旅先から連れ戻ってきた異国の娘」
 ―― 唯一生前の彼女の風貌を残す肖像画を、アティーファに見せて貰ったことがある。
「……目を見張るほどに…漆黒の髪と、眼差しを持っていたという、神秘的な……」
 ―― 漆黒の髪と眼差しはザノスヴィアの代表的な特徴。
「僕の母親の名前は、ルリカではなくて、リルカっていうよ」
 優しささえ含まれているような声で、エアルローダが混乱する相手に告げる。
 今度こそ、はっきりとした驚愕に双眸を揺らせてリーレンは顔を上げた。
 ―― 二人のリルカ。
 リーレンが今知るリルカは、フォイスの妻に迎えられた異国の娘だ。生まれを示す名を捨てるわけにいかないと言い張り、頑なにエイデガル姓を取らなかった気高き皇王妃リルカ。
 エアルローダが知っているのは母親であるリルカ。かつて一人の男に恋をし、想いを通い合わせあわせ、男と村を出る約束までした。けれど同じ顔をした双子の妹ルリカに陥れられ、愛する女の区別さえ出来なかった男の愚かしさの為に、リルカであることを奪われた悲しい女。
 そして悲劇の双子リルカとルリカを妹に持っていた娘がライレル。……リーレンの母親だ。
「……ライレル…母、さん」
「ふぅん。親不孝だね、リーレン。ライレル叔母のこと、今の今まで忘れていたわけだ?」
 にんまりと、とんでもない事実を言い放ってエアルローダは笑った。
「ライレル…叔母!?」
「だから何度も言っているだろう? 僕は権利を持っているらしいよ、とね」
 エイデガル皇国皇太子、レシリスを名前に抱く少年。何故か皇族達の事情に精通し、アティーファを呼び捨てにする権利を持つ、とも言い放ったエアルローダ。
 権利を持っている、と言い放つ。それは―― 自分こそが、かつてルリカにリルカである権利と愛する男を奪われた悲しい娘、リルカの息子だからというつもりなのか?
 ―― 彼が、フォイスの息子だと? レシリスを冠されるべき少年だと?
「違うっ! そんなことは有り得ない!!」
 誰が間違えても、あのフォイスが愛する女を間違えるわけがない。アティーファが、フォイスの娘でないことなど、あって良いわけがない。
「有り得ない、と断言できるほどには、君は全てを思い出してはいないよね。ライレル叔母のことは思い出したけれど、父親のことは一切思い出していないんだから。―― そんな君に、すべてを知っている僕を否定することなど出来やしない」
 他人を追い詰めることが快感であるように、エアルローダは目を細めて言う。
 耐えきれず、リーレンは振り向いてアティーファを見やった。彼女は今、凛とした眼差しで近衛兵団に指示をしている。ついに近衛兵団は説得に応じたらしく、キッシュの号令下、船団が動こうとしていた。
 結局、近衛兵団はアティーファの命令を受け入れる。命ずるに相応しい理由と、気品を彼女が持っているからだ。
「生まれより、育ちってことなんだろうさ」
 冷酷に、リーレンの考えを見ぬいて彼は言った。
 狂気に侵食されていく村に居ては、自分達も正常ではいられないからと、逃げると決めた母。生まれてくるさらなる狂気と戦いなさいと、母は言った。―― リルカの選んだ男がいるエイデガルに行きましょう、とも。
「どっちだ? どっちが、リルカでルリカなんだ? 私は、それを知っているはずなのに」
 冷や汗が額を伝っていくのを感じながら、リーレンは己を悔やんだ。
 記憶を完全に持っていれば、真実を知ることが出来ていたはずなのに。―― そう、エアルローダに指摘された通り、まだ全部は思い出せていない。
「何故、思い出せないっ!!!」
 とてつもない悔しさに、初めてリーレンは大声を上げた。
 自分と、エアルローダと、アティーファと。三者を繋げていた、暗い過去の呪縛の影に。


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