第32話 暗雲
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 自分自身の鼓動と、重なり合うように響くもう一つの鼓動。
 それが聞こえていたのは、もう随分と昔の話だ。
 一人別行動を望み、レキス公都からザノスヴィア王国との国境である石橋アポロスを目指すリィスアーダ・マルチナ・イル・ザノスヴィアは、襲いかかってくる疲労に眩暈を起こしかけていた。
「腕の力も……つづか、ない…」
 あえぐように呟き、乾き切ってしまった喉を自覚する。
 本来ならば、少しの休息を取らせてはくれまいかと、民家に請うことは出来たはずなのだ。だが、目の前に存在している家に住人が居ない事実を知っているので、リィスは馬を進め続けている。
 レキス公国。この国は本当に―― 公王である二人を除いた全ての民が死に追いやられてしまったのだろうか。
「―― なんて、恐ろしいこと」
 あどけなく呟いて、リィスはせめて小川の水を口に含もうと馬を下りようとした。だが、鐙にかけた足は、重くもない体重を支えられず、バランスを崩して落馬してしまう。
 全てが限界に近かった。
「やっぱり無謀……だったみたい」
 切れ切れに呟いて、主が落ちて驚いた馬が近づけて来た鼻面を、なんとか撫でてやる。
 馬は乗れる。小刀を扱うことも出来る。
 だがここまで苛酷な状態に耐えるだけの体力は、持っていない。
「そういう訓練など……受けたことがないのだから、当たり…前だとは、思うけれど」
 息が切れるのが悔しい。
 同い年で、同じ王女という地位にあるにも関わらず、強い意思のままに剣をふるい戦いを続けることが出来る皇女アティーファの姿を見てきた分、悔しさもひとしおだった。
 布を幾重に重ねた色合いの鮮やかな袖口を持ち上げて、熱を持った自分の頬に手を触れる。
「暑い……」
 生きて辿り着くことは出来るのだろうか?
 ザノスヴィア王国が攻めて来ているのだという。自分以外の人々は、エアルローダによってザノスヴィア王国民が操られているか、最低でも国王ノイルは操られているだろう。
 ―― でも…それだけでは、ないはずだわ…。
 恐らく、ひどく敏いというエイデガル最強の五公国の公子である二人が側にずっと居たのならば、自分自身に秘められた”異常”に気付きもしたのだろう。だが―― 側近くに居る機会が長くあったのはアティーファとひどく素直な性格の魔力者リーレンだけだったのだ。
 だから恐らく、誰も気付いていない。
「だから…行かなくては、いけないのよ。ザノスヴィアを、あの男の狂気に侵略させるわけにはいかない。エアルローダの好きにさせてもいけない……」
 付きかける気力を復活させるために、必死に言葉をつづる。首筋に張りつく黒絹の髪を払って、目の前にある青空を見詰めた。おもむろに上体を起こし、長く続く道のりも見詰める。
「頑張ってね、お前も。悪いと思うけれど」
 例え気絶してでも、辿り着いてみせる。
 ―― レキス公国とザノスヴィア王国を分ける国境にかかる橋、アポロスまで。 
 それが自分とマルチナが抱き続けて来た一つの出来事に決着を付けるための行動だと、リィスは気付いていた。
「例え父でも…いいえ、我が父だからこそ。許しはしないわ、私は…」
 
 
 一つの鼓動が確かに消されたのだ。
 それはずっとずっと昔の出来事。
 不可思議な魅力を保持する、籠の中で大切に慈しまれていた娘が外に出た。それを連れ戻そうと、同じように出てきた娘もいた。―― 漆黒の瞳に、漆黒の髪。そして象牙色の肌。髪に宿る鮮やかな艶が、光りをまとっているように見せた、輝くほどに美しい二人の娘。
 それほどまでに美しい娘に、男が目を奪われたのは罪ではないだろう。
 なにせ、自らの意思で美しい娘は男の腕の中に飛び込んでいった。だからきっと、男が娘を受け止めて恋をしたのは正常なこと。
 戻ろうとした娘を無理矢理に男が阻止しようとした事と。
 連れ戻しにやってきた娘が、帰ろうとする娘を助け逃がしたことに腹を立て、変わりに彼女を閉じ込めてしまった事、以外は。
 男は―― あるものを嫌っていた。理由はない。とにかく生理的にあるものを憎んでいた。どうすれば根絶できるのかと、そればかりを考えてもいた。
 無理矢理手元に止めた美しい娘は、男が憎むあるものを持っていて。
 そして二つの鼓動が産まれた時、一つは消されたのだ。
「可哀想なことだとは思うんだよ」
 やんわりと呟いて、だらりと両腕を下ろしたまま少年は呟いた。
 どこか青みがかった色の黒髪を、ゆるやかに流れる風に遊ばせながら。
 足元には湖の碧がある。どこまでも澄み通った、それは美しい色だ。
 少年が負っていたはずの傷は完全に塞がっていた。行動を再開させる体力も取り戻していたのだ。皮肉げに笑った後、立ちあがって頬にこびりついた髪を払う。一本一本が指の隙間からこぼれず絡まるのは、血を大量に浴びてしまった為だろう。
 黒く固まってしまった鮮血がこびりつく掌を見やって、少年は無造作に手を前方に伸ばす。途端に空気中の水分が呼び出され、雨となって彼の身体に降り注いだ。
「―― 大気だって、こうやって泣ける。涙を何処かにおき忘れてきた僕には出来ないことだというのにな」
 聳え立つ白亜の城。運河を進んでくる瀟洒な船。双方を見極めながら、呟いて顔を上げた。
 首筋にかかる細い髪、前方を見詰める暗い色の青。少年魔力者、エアルローダ・レシリス。
「決着を付けさせてもらう。せっかく離した君達を、まだ再会させてやるつもりなんてない」
 指先で空を示す。持ち得る魔力を両手に集中させた。
「―― 仕方ないだろ? これが、狂気が残していった望みなのだからっ」
 叫ぶと同時に、両手を突き出す。
 指先から漆黒の闇が生まれた。派生した闇は咆哮し首をもたげ、激しい勢いで前方に滑り出る。
「エイデガル皇国城を、先に打ち壊してくればいい」
 闇が向かう遥かなる先で。激震は起こった。



「団長!! 城……城が!!」
 足元が激しく揺れる中、前方を指差しながらの叫び声に、エイデガル近衛兵団長キッシュ・シューシャは凛々しい眉の下にある澄んだ双眸を、見開かせた。
 いきなり頭上にて輝いていた太陽が、煌きを失う。代わりに、人に嫌悪を与える忌まわしい闇が遥か彼方から飛び込んで来たのだ。
 近衛兵団が命に変えても、唯一守らねばならない皇王フォイスが残るエイデガル皇城目指して。
 手にする銀槍を持ち上げたことを覚えてる。命令に背くわけにゆかず、アウケルン湖上で待機している自分自身を、キッシュはここまで厭わしく思ったことはない。
 闇が飛来した。
 まるで生き物のような形を取る闇だ。エイデガルを守護する獣魂の一つ、水竜が闇に染まったかのような形をしている。顎を広げ全てを飲みこまんとするかのようだ。
「陛下っ!」
 叫び声を上げた。同時に、さらなる激震が足元を襲う。
 驚きに細く狭めた視界の先で、翠色に煌く閃光が巻き起こった。
「城が……水に……」
 閃光に導かれて、天を刺し貫くかのようにアウケルン湖の水が持ちあがる。
 合計五つの水柱。それらは互いに光りを発し合い、複雑な印を形作ってゆく。―― 光りが、闇の顎を完全に防いだ。
「これが……フォイス陛下の…エイデガル皇王家の力なのか?」
 攻撃を繰り広げる闇と、防御する光りの奥に佇む、エイデガル皇城を睨みつけながらキッシュが呟く。光りと闇と水に阻害された視界の先に、目的の人物を捕らえることは出来なかった。
 皇王フォイスは、今、ガルテ公国に伝わる光牙銀槍を目の前に捧げるようにしながら、ひどく不敵な笑みを口元に浮かべていた。
「―― 子供の悪戯は、可愛いものだとは思っているのだが」
 息を、一つ落とす。
 たかが冥い魔力から生み出される精神攻撃を防いだだけで体力を消耗するのは、ある事が不利になっているからだ。自業自得だが、やんちゃを相手にするのも面倒なことだと呟いて、眼差しを上げた。
 こうなったら、皇城内に保護した魔力者たちの力を借りるしかないだろう。
「仲間が欲しくなるのもわからないでもないがな。エイデガル皇国内に居る魔力者たちを無理矢理仲間内に引き込もうというやり方は好みではないものでね」
 翠色の光りが、ヴェールのようにフォイスを包み込み、純白のケープを静かに揺らした。
「さて、あとは我が愛しき娘が頼りというところかな。頼れ過ぎるほど、たくましくなられても困るな。父はまだまだ、娘には甘えてもらいたいよ」
 僅かに再び笑って、フォイスは目を細める。
 娘と同じ、美しく釣りあがった双眸は、遥かなる前方を睨みつけ、
「そうか…やはりあれが、産まれていたのか」
 低く呟く。フォイスが手にする光牙銀槍からは、絶え間無く光りがこぼれ続けていた。
 彼が生み出す光りが、光を宿す水の柱を作る出す現実を、どう判断して良いものかキッシュは分からなかった。手にする銀槍を握り締めたまま、配下の近衛兵団にエイデガル皇国城に進めと命令しそうになる自分を、懸命に押さえる。
 剛毅で、面倒見のよい彼はとにかく部下に好かれている。そして部下に好かれているキッシュは、心から皇王フォイスを尊敬していたのだ。
 エイデガル皇国を後にし、レキス公国へと向かった皇女アティーファ見送った後、フォイスは次々と策を講じた。エイデガル五公国に命令を下し、充分な篭城が可能な物資を城内部に蓄え、登録されている魔力者たちを次々と入城させていった。
 変わりに、皇都に住まう一般市民をレキスを除く四公国に退避もさせた。
 魔力者が関わっている大きな異変が必ず起きると断言をしたのだ。被害を最小限に食い止め、解決せねばならぬだろうな、とも続けて言った。
「―― 陛下…」
 恐らく何が起きるのか、皇王は全て理解していたのだろう。だが、指示を受けて動く近衛兵団が知っている事柄は余りに少ない。せめてここに、次期皇王であるレシルの称号を持つ皇女と、彼女を支えている二公国の公子が居れば、とキッシュは不意に思う。
 フォイスが唯一、自分より高い判断能力と状況分析能力を持つと断言した公子アトゥールならば、少ない情報でも何が起きているのか正確に把握して見せただろう。常に余裕を崩さない公子カチェイがいれば、誰も不安など抱きはしないはずだ。そして守るべき皇族、アティーファがいれば。
「―― 団長!! あれを見て下さいっ!」 
 考え込んでいたキッシュの広い背に、慌しい部下の声が届く。
 暗い龍のような形をした闇色の攻撃が、またもや来襲したのかと振り向いて、キッシュは視線の先に帆を受けて進み来る美しい船影を見つけた。
 出立した時と同じ、皇女アティーファを乗せた船だ。
「皇女殿下!」
 心が弱いわけでもないキッシュでさえもが、近衛兵団の存在意義である守るべき皇女が戻ってくるのを心底で望んでいたのだ。配下の団員達が帰還を喜ばぬわけがない。当然沸き立つエイデガル近衛兵団の様子に気付いて、船首に佇んでいたアティーファは眦を吊り上げた。
「なぜ、父上と共に有らねばならない近衛兵団が外に出ている!?」
 船から身を乗り出すようにして、アティーファは何が起きているのか確認しようとした。当然その動きを見て取って、彼女の身体を支えようとしてリーレンは震える。
 ―― 前方に何かが有る。激しすぎる、それは魔力の気配か?
「な………っ!」
 エイデガル皇城が翠色の光りを纏い、五つの水柱に守られて佇んでいた。
 煌きの色。周囲を色濃く支配しようとする魔力と、阻止する抗魔力のせめぎあいの光景だ。
「―― ―リーレン、あれを!」
 アティーファが叫んで上空を指差した。
 さやさやと、どこかアンバランスな美しさで、その髪が風にゆれていた。
 青みがかった漆黒の髪。足元に大地はなく、空中で佇んで見せる現実からかけ離れた光景。
「エアルローダ!!」
 先にリーレンが叫んだ。アティーファは無言で覇煌姫を構える。
 ゆうるりと髪を揺らせて、闇の持ち主であるエアルローダは振り向いた。
「そろそろ、決着をつけようと思ったんだ。アティーファ、そしてリーレン」
 ようやく邪魔をしてくる最後の相手を封鎖することが出来たしね、と呟く。
 聞こえるはずのない距離であるにも関わらず、エアルローダの声を二人ははっきりと聞き取った。
 彼の背後には、闇に攻撃され続けるエイデガル皇城がある。抗魔力の輝きが城を守っているというのなら、フォイス・アーティ・エイデガル本人は城に残っているということになる。唯一皇族だけを守ろうとする、近衛兵団は外に控えているというのに。
『アティーファ、何があったとしても、後悔だけはせぬように冷静になって考えろ』
 父親は、何度もそう言った。紅茶を口にしながら、頭を撫でてくれながら。常に―― そう言って笑ってくれていた。
 全てが側に有る、保証など何一つない事を知ったからこそ、急いで戻って来たというのに。
 フォイスは―― 父親は何処にいる?
 アティーファの中に駆け巡った懸念を正確に読み取って、エアルローダは嘲笑する。
 敵対する皇女の感情が、昂ぶれば昂ぶるほどいいのだ。そうさせる為の、エアルローダの行動だった。
「ち……」
 沸きあがってくる激情と恐怖に叫びかけたアティーファの腕を、迅速にリーレンは掴んだ。


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