第31話 変化
第30話 再開HOME第32話 暗雲


 
 高く靴音を響かせて、一人フォイスは歩いていた。目指す部屋に続く階段を登り、扉を開ける。
「―― ああ、良く考えれば、久しぶりだったな。ここに来るのは」
 温もりを与えるような色彩に統一された、エイデガル皇城最上階に位置する部屋。
「無駄なものはいらないと―― 言っていたな。ただ風を感じていたいと」
 笑いながら言って、フォイスは部屋の中に進む。
「―― ―リルカ。お前が私とアティーファを置いて逝ってから、もう十年以上になる」
 さらりと亡くなった妻の名を口にして、フォイスは苦笑した。
「特に哀しんでいる様子を見せない私を、酷薄だと思うか? だが、お前が居ないことが当たり前になったからな。お前が生きていた頃を、随分と昔のように思える。時の流れは、そうやって人の心を変えていくのだから当然だが」
 どうやら例外が存在するらしいと呟いて、フォイスは頭を掻く。
 齢三十九なのだが、この皇王は時折ひどく少年のような仕草をする。年よりかなり若く見えるのも、仕草の若々しさの為かもしれなかった。
「過去の亡霊に、付き合う暇はないのだが。亡霊のほうが、遊んでくれないと盛んに抗議を始めてな。今ごろになって何を言っているのだと、肩を竦めてやりたいところだが、竦めても何も解決せんしな」
 魔力者を巻き込んだ戦いがこれより勃発するだろう。
 エイデガル国内で起きる戦いに付け込み、他国から攻められることに対しては、まだそれほど心配していない。五公国のうち一国が欠けたとはいえ、残り四国でも対応可能なことは多い。
 問題は魔力者であり―― 首謀者の人間についてであった。
「もし、予想が正しいなら、一つこちらには不利があるな」
 魔力者の攻撃に対して動じるわけもなかったエイデガルが、五公国のうち一国を欠けさせてしまう事態になった理由。それを、フォイスはただ一人理解している。
「……全てが解決しても、これは黙っておこう」
 子供のような口調で言った後、フォイスは窓から外を遠望した。
 アティーファに直接説明しておくべき事柄は幾つかあった。娘の心を守る上で重要な役割を担うだろうリーレンと、臨機応変な対応を取れる二人の公子にも、だ。
「とはいえ、出来ないものは出来ないのが現実だな。これだから、紅茶の時間も待てないせっかちな敵は好まんのだ。仕方ない、泣かれるか怒鳴られるかを覚悟に、話しを後に回そう」
 眼差しをふと細める。
 広がるエイデガル皇国の光景。アウケルン湖上の、町に近い側には幾つもの軍船が煌びやかに威容を揃えていた。キッシュ・シューシャ率いる近衛兵団に、城外にて待機と命じた為だ。
 近衛兵団の代わりに、城内には皇国内の魔力者達を入城させている。
「なに、私は大丈夫さ。悪運の高さはロキシィと同等だからな。中々のものだろう。―― リルカ、だからお前はアティーファを守ってやれ。こうして現実を生きる私は、手を伸ばす距離にいない娘を守ってやれんからな。その点、死んだお前には距離など関係ないだろう?」
 ゆっくりと槍を持ち上げながら、不意に窓に背を向けた。
 手にするのは、御剣覇煌姫、大剣紅蓮、細剣氷華、双刀風牙、魔弓天雷。これらの武器と同じ特性を持つ槍、ガルテ公国に伝わる光牙銀槍。―― ザノスヴィアとの戦いに参戦を命じたガルテ公太子が、つい先程現われて、フォイスに預けて行ったのだ。
 向けた背の奥。窓の上枠から、何かが伝い落ちてきている。
 まるで闇の触手が流れ、静かに絶望が忍び寄るかのように。
 ―― 闇の色。蒼褪めた色の黒。人の……髪。
「なにもかも、思い通りになると考えるのは、子供の傲慢というものだろうな」
 瞬間、フォイスは足元の影に視線を落とし呟いて、光牙銀槍に己の抗魔力とを同調させた。



 激震。
 突然の激しい振動で、運河を進む船体が軋む。悲鳴はあがらぬが、今まで記録されたこともない揺れに驚きを隠せぬ船員たちを見まわした後、アティーファは声を上げた。
「リーレン、大丈夫か?」
 幼馴染は、生れ落ちた瞬間から船上にある時間を多く持つ生粋の皇国民とは違う。ゆえに当然の心配をして振り向いて、リーレンが腹を立てた表情を一瞬浮かべたことに気付いた。
 あまり馴染みのある表情ではない。怒りや妬み、憎しみなどといったマイナス面の感情が欠落しているのではないかと兄代わりの二人が懸念するほどに、リーレンは滅多に怒らないのだ。驚いて、アティーファはまじまじと彼を見やる。
「―― ―リーレン?」
「はい? どうかなさったのですか? 私は大丈夫ですが」
 訝しがるアティーファの問いに、リーレンは不思議そうに返事をした。彼は本当に驚いているようで、不機嫌な顔をしたことに気付いていないように見える。けれど、自分自身の感情に気付かないなど有り得るのだろうかと、更にアティーファは不審を覚えた。
「アティーファ皇女?」
「今、リーレンは怒ったか?」
「はい? いいえ、何も」
「そう…だよな」
 分からない。けれど、一つの分からないことに固執することはできないので首を振った。
「……とにかくアウケルン湖まであと少しだ。今の揺れの原因、わかれば良いんだけれども。―― まさか…あの魔力者ってことは…」
「あの傷です。いかに魔力を使おうとも、エアルローダが動けるようになっているとは思えませんが…」
「だと、いいんだけどな。とにかく進まなければ話にならない。船体も大丈夫だったみたいだからな、考えるのは父上に合流してからで良いだろう」
 分からないことが多すぎた。
 大人に頼らねば何も出来ない無力な子供でいるつもりはないが、レキス公国で兄と慕う二人の内、一人を完全に失ったことがアティーファに大きな痛手を与えている。
 これは彼女の精神的な面だけに影響を与える問題ではなかった。
 命を落としたティオス公子アトゥールは、常に的確な状況把握と分析をしてみせ、予知能力でも持っているのかと疑いたくなるほど、正確な仮定を立てる人物だった。しかもカチェイも姿を消してしまっている。―― 冷静な公子二人の離脱の影響で、情報判断能力の低下は否めなかった。
 これこそが、先に二人の公子を狙ったエアルローダの思惑の一つだ。
 まんまと策略に嵌められたことが悔しくてならないが、今悔いてもどうにもならない。事態を打開するためには、一刻も早く父親であるフォイスと合流することだけだった。
 前を睨みすえ、船がアウケルン湖が近づくのを待つアティーファの横顔を盗み見て、リーレンは憤りを押さえるように拳を握った。
 彼女が無理をしているのが、リーレンには良く分かる。
 まだ幼い頃から側にいて、長いこと好意を抱いてきた。彼女がどういった無理をするのか知っている。外見をどんなに平静に保とうとも、本当はアトゥールを失った哀しみから抜け出せていないのだ。―― 抜け出せるわけがない。
 皇女の思い詰めた眼差しにリーレンは悔しさを覚える。何時もならば、痛々しいアティーファの気持ちに胸を痛めていただろうに。何故か―― 哀しみではなく憤りを感じてしまう。
 ―― 何故だろうか?
 分からなかった。何故、悔しさを覚え、そして怒りさえも感じているのか。
 先ほどアティーファが、「怒ったのか?」と尋ねてきたのも当たり前だった。確かに、ふと気付くと怒ってしまっている。怒っていないと応えたのは、何に対して怒っているのかが分からないからだ。
 ―― ただ、ひどく悔しい。そして焦っている。
「リーレン?」
 厳しい表情をしていたのかもしれない。困惑を含んだ皇女の呼び声に、リーレンは慌てて考えるのをやめた。
 エイデガル皇城で静かに暮らしていた頃に自覚したことはなかったが、いつも彼女に心配をかけてばかりだった気がする。アティーファ・レシル・エイデガルは単なる子供ではなく、偉大な水軍国家の後継者の肩書きを持つ特別な人間だが、自分より二つ年下の少女でしかないのもまた事実だったというのに。
「なんでもありません、アティーファ皇女。なにかこう、不思議な感覚がして」
「……疲れているのかもしれないな。エイデガル皇都に戻れば戻るほど、抗魔力は効力を増してきている。リーレンは常に、この抗魔力によって魔力を奪い取られているようなものだからな」
 どこか自嘲する響きの有る声。抗魔力の存在を、特に抵抗なく受け入れたようだったアティーファだが、実際は葛藤していたのだろう。はっとリーレンは顔を上げる。
 今、言葉を飲みこんでいるだけでは駄目だと咄嗟に判断した。
「皇女、私は抗魔力の存在は良いことだと思っています」
「リーレン?」
「私は、エイデガル皇国の恩恵をうけて、初めて人らしい暮らしを送ることが出来るようになったんです。その贔屓目も多分にあるとは思いますが、民衆というものは……異質で手におえない力を保持する相手を許せないものだと思うんです」
 事実、同じ魔力者であるというのに、エアルローダの巨大過ぎる能力を目の当たりにした時、リーレンは底知れぬ恐怖を覚えたのだ。同時に―― 排除せねばならないとも思った。
 魔力者同士とでさえ、そうなるのだ。もし、魔力者たちが好き勝手に力を行使するのが当たり前だったら、排除の気風は消えなかったはず。
「持って産まれた力というものは、他人にしてみれば特別なものでも、本人にとっては”当たり前に存在する”力だったりします。だからこそ、いかに力を使っては駄目だといわれても、咄嗟の時には使ってしまうものでしょう。それを押さえるのがエイデガル皇国と五公国の抗魔力であり、抗魔力結界なのだと私は考えています。ならば、それは悪いことではない」
 珍しく饒舌に語る幼馴染を、アティーファはゆっくりと見上げた。
「……けれどリーレン。私達皇族は、魔力者を騙しているようなものなんだ。保護してやっているという態度を取っていないが、他国がそう思っているのは事実。そして魔力者たちに感謝されているのも事実だ。実際は―― 彼等の能力を私達が奪い取り、自国の有利を得ようとしているだけかもしれないのに」
「……皇女…」
「正直なところ、分からないんだ。エイデガル皇国の皇族が抗魔力を持ち、魔力者たちの力を強引に奪い、持って産まれた力を使わせないようにしていることが、正しいのか。勿論、魔力者たちが自由自在に力を使い続け、結果畏怖され、排除されていくのが正しいとは思わないけれど」
 きゅっと手を握り締めた後、リーレンを見上げた視線をはがして前方を見詰める。
 真面目過ぎるアティーファの考え方が痛々しかった。彼女の心を安らかしめることが出来ないことに、リーレンの胸は痛む。
「皇女―― それでも、私は幸せでした。正しいとか、正しくないとか……その判断基準が何処にあるかは分かりません。けれど、私はエイデガルが保護してくれたからこそ幸せになったのです」
 僅かに戻った記憶がある。母親に手を引かれ、無邪気に笑っていた自分。戦わなければいけないと、母親である人は言った。全てが狂ってしまう前に逃げ出さなければならないとも。
 取り戻した記憶は暖かかったが、その後は地獄のような日々でしかなかった。
 虐待と、能力を向上させる為だけが目的の訓練。人間らしい扱いなど、何一つ受けなかった日々。
 幸せな気持ちが再開したのはまさしくあの時だ。魔力者を利用するのが目的なのかもしれないとアティーファを思い悩ませる抗魔力を持つ、二人の公子が救いに来てくれたあの日からだ。
 だから、抗魔力の存在を知った瞬間は魔力者である自分達を利用しているのかと動揺した気持ちを捨てる事が出来たのだ。例え利用しようと思って、魔力者保護政策を打ちたてていたとしても、自分は確かに平穏を取り戻したのだから。
「皇女、私は幸せだったんです。そして―― 今だって幸せだし、エイデガルにいる自分を後悔したりはしていません。抗魔力の存在を知った今でも」
 ゆっくりと言いきった後、前方を睨む為に背を向けてしまったアティーファの小さな両肩に手を置いた。返事はなかったが、手を振り払われることもない。そしてふと、リーレンは先ほどまで抱いていた原因不明の怒りが、消えてしまっていることに気付いた。
 なにやら自分自身の心が、壊れていびつな方向に揺れる振り子のようで、リーレンは首を傾げる。
 ―― 常に誰かを頼ってしまう癖。
 幼い頃の受けた虐待によって、精神に傷をつけられた少年が今の今まで抱えていた行動原理。
 けれど、リーレン自身はまだ気付いてないが、それが緩やかに変わろうとしていた。
 彼は今悔しいのだ。アティーファが、葛藤を表に出さずに胸に秘めて苦しむのが。―― 自分を頼ってくれぬことが、純粋に悔しくて仕方ないのだ。
「………リーレン」
 ぽつりと、アティーファは声を出す。視線は前を睨みつけたまま、振り向こうとしない。けれど。
「せめてお前だけは……これから先、何が待ち受けていたとしても、側に―― 側に居てくれ」
「アティーファ皇女?」
「アトゥールは死んでしまった。カチェイは私を置いて消えてしまった。先ほど起こった激震はなんだ? 私は本当に父上にもう一度会えるのか? ……確証なんてどこにもない」
 アティーファを産み落として、すぐに母親は死んだという。
 それをひどく不憫がった父王フォイスは、執務室の中でまで娘を離さず、愛情を注ぎ続けたという。そして時がたって、お互いだけを認めあった二人が現われて、彼等もまた妹に向けるような愛情を惜しみなく与えてくれて来たのだ。
 幸せは、永遠に続くと思っていた。これが壊されることなど、決してないと思いこんでいた。
 ―― なんと傲慢な思いこみだったろう。
「本当は……なにも、保証されてなんて居なかったんだ。だから、だから」
 今、ここに確かにあるのは。
 そっと手を持ち上げて、アティーファは両肩に置かれたリーレンの手に自分の手を重ねる。
 伝わる温もりが、手を伸ばす距離にある事実が―― 唯一の確かであるような気がした。
「だから、せめて側にいてくれ。その代わり、私は絶対に勝って見せるから」
 まるで誓うようにアティーファが言う。
 その気持ちの清らかさに、与えられた言葉に単純に喜ぶ気持ち以上の神聖な何かを感じて、リーレンは目を細め、そして息を整えた。
 この気持ちが、今までの自分を支えてきたのだ。そして、これからも支えであり続けるだろう。
 だから―― 軽い返事に受取られるわけにはいかなかった。
「側にいます。なにがあっても、皇女の側を離れたりはしません。今までと同じです」
 そして静かに告げた。


第31話 変化
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