第30話 再開
第29話 召喚HOME 第31話 変化


 
 水があった。
 ひたひたと、全てを包み込むような水が。
 触れた箇所から感覚がなくなっていく。それほどまでに冷たい水の流れだった。
「―― なんだ?」
 暴力的な風が突如竜巻となり、頭上から牙を向き身体を押し包んできた瞬間を、カチェイは確認している。その暴風の中で、命の気配を失った親友を支えている力が抜けるのを懸念した。
 そして、今、ここにいる。
 なぜか風がない。あれほどまでに目前に迫ってきた敵兵の姿もなかった。広がっているのは、肌から内部に直接忍び込んでくる質感の、闇と冷たい水があるだけ。―― そしてなによりも、抱えていたはずの親友の姿さえもが腕の中にない。
 一歩進む。気配と状況を確認する為に、鋼色の双眸を細めてカチェイは周囲を見つめた。
 ―― 闇。とにかくどこまでも続く、果てない闇。
 進む毎に身体が疲労する。気分が重くに落ち込んでいって、ふと疑問を覚えた。
「俺が歩くだけで疲れる?」
 そんなことがあるはずがない。もしそうだったら―― 自分は今を迎えていなかったはずだ。
 かつて、アデル正妃が放った刺客によって、命を狙われ続けた子供時代があった。
 ただ一人の味方であり、唯一守りたい人でもあった母親と共に生き延びる為には、頑健な身体が必要だった。結果、僅かな睡眠時間で体力を回復でき、最低限の栄養だけでも体力を最良の状態に持っていくことが出来るようになっていったのだ。
 だから余人ならばともかく、カチェイ・ピリア・アデルが歩くだけで疲労するわけがない。
「ならば、ここは何処だ?」
 常識では判断できぬ場所である気がした。無闇に歩いて、体力を失うことを懸念し立ち止まると、途端に水の冷たさが正常な思考を奪おうとする。
 ―― ここはまるで、人の心を絶望に落とし、そして無気力にしようとしているようだ。
「……無気力、か…」
 無気力であっても、自分は死んでいただろう。
 カチェイは、父親のアデル公王と会話した覚えが殆どない。それは、正式に公太子となった今でも同じだ。
 五公王の中でも、最も合理主義で知られているのがアデル公王で、彼は徹底して自国と自国民を愛し抜いていた。彼が持つ唯一の判断基準は”アデル公国にとって利となるか否か”だけであったのだ。
 そんな男が、家族を無条件に愛する相手と認識するわけがなかった。
 彼が豪商出身の娘を妻にしたのは、財力と商家ならではの情報力を良しとしただけだ。愛情など欠片もないのが真実で、それを証明するように彼は妻を娶ったと同時に、移民の娘に手を出している。
 その娘が―― カチェイの母ヴィオラだった。
 遠方の国で発生した政変に負け、故郷を失い各地を放浪するしかなくなった主に、一族で仕えていたという。落ちぶれていく主君を見捨てれず、見返りもないのに仕え続けるのを若いヴィオラは是と出来ず、単身移民となったのだ。
 辿り着いた先が―― 豊かゆえに移民を受け入れることが出来るエイデガル皇国だったのだ。
 ヴィオラは、女性とは思えぬほどの武芸を誇っていた。彼女自身の身長を遥かに超える長い鞭を自由自在に操る様は勇ましいと共に美しく、それを一芸として当座の糊口を凌いでいたのだ。
 そのヴィオラに、青く澄み通った刀身を持つ細剣と共に挑んできたのが―― アデル公王だった。
 民衆はどっと沸きあがった。例え家族内で冷たい男と知られているアデル公王も、公国民からみれば聖王である。敬愛する美丈夫の公王が、美女であるヴィオラと対する様は最高の見物であったのだ。
 勝負は、見守る人々が考える以上に接戦で―― なんと武芸に長ける娘が優勢だった。
 けれど結果は呆気なかった。ヴィオラが剣に巻き付かせた鞭をアデル公王は逆手に取り、剣を力任せに引き込んで鞭を奪い取ってしまったのだ。
 民衆は鮮やかな戦いに満足し、公王が負けなかったことに安堵もし、惜しみない拍手を贈った。
 その後に、ヴィオラを襲った未来なども知らずに。
「………考えれば考えるほど、なんというか…」
 自分が不幸というよりも、母が不幸であったと思う。
 戦いに負けた時のことを、母は鞭が氷結させられた感覚がしたと語った。負けるはずはなかった、とも。それが何を意味していたのかを理解したのは、氷華を手にし、親友のアトゥールが抗魔力の存在に気付いた時だった。―― なんのことはない。父親は剣術でヴィオラに勝ったのではなく、細剣氷華と抗魔力を使って、勝利を収めただけだったのだ。
 ようするにアデル公王は、勝負を楽しみたいが為に挑んだのではない。
 理由は一つ。武芸のセンスには欠けていた彼自身を補わせるのに、武芸に長けた娘が必要だったのだ。唯一大切に思うアデル公国を守るに相応しい嫡子を手に入れる為に。
 ―― 最初から、娘の腹を使うつもりだったのだ。
 そして、長子として生れ落ちたのがカチェイである。
 エイデガルは、正妃側妃関係なく、最初に生れ落ちた長子を後継ぎにする慣習が存在している。その徹底振りはかなりのもので、弟が産まれようと、姉が女公王として即位することが頻繁にあったのだ。
 一方正妃が身篭った子供は、カチェイが生まれた次の日に産声をあげた。
 自分を愛するべき夫が、まさか同時期に他の娘に手を出し、あまつさえ子供を孕ませていた事など何一つ知らなかった正妃は、己の息子より一日早く誕生した長子の存在に、当然ながら激怒した。
 そして―― ヴィオラと、カチェイ二人の激動の日々が始まったのだ。
 正妃は、なんとか二人を闇に葬ろうと金の力で刺客を雇い、放った。アデル公王は、その状態を知っていながら、全く口を挟まなかった。それどころか―― どちらが生残るかを楽しげに見ていた節がある。
 それが王者というものであるのなら、地位などいらぬと思ったことがカチェイは幾度もある。
 けれど己と我が子の誇りを手放さぬ為に、鞭を手に戦い続けたヴィオラを見るたびに、そんな自暴自棄な気持ちは捨てるしかなかった。確かに見返してやるためには、生き延びて―― なおかつ公太子に相応しい人間になってみせねばならないのだ。
 ヴィオラはアデル公国が剣を重視することを知って、幼い息子に鞭ではなく剣を持たせた。高い教養を持たぬゆえに、自分ではカチェイに充分な教育を受けさせることが出来ぬ事を悟って、設立されている学院に忍び込んでは抗議を盗み聞きさせた。その間にも、刺客は毎日のように襲ってくる。
 気が休まる時間など一つもなかったと思う。
 けれど溢れるような母親の愛情に包まれ育ったのだ。―― 辛くても、幸せでも有った。
 カチェイが苛酷な旅が出来る程まで成長したとき、ヴィオラは息子の手を引いてアデル公国を抜け出した。目指すはエイデガル皇都。―― 直接、皇王に直訴しようと考えたのだ。
「正直……楽じゃなかったな…」
 次々と蘇ってくる過去の記憶に、カチェイは立ち止まって眉をひそめる。刺客と、飢えと、恐怖と、疲労に満ちた逃避行は、二度と体験したくもなければ思い出したくもない過去だった。
「――― 俺は…」
 冷たさが身体の芯を凍えさせていく。
 さらに浮かび上がってくる記憶たちに、カチェイは唇を噛んだ。無意識に拳を握り締めて、ふと気付く。―― なぜ今突然、こんなにも過去が思い出されてしまうのか?
「……おかしくないか?」
 既に乗り越えてきた過去だ。確かに思い出せば辛いが、引きずってはいない。
 世界の全てが敵で、誰の助けもなく自分一人で、自身の命も母の命も守れると思いこんできた頑なな拒絶心など、初めてアトゥールに出会った時に打ち砕かれている。
 自分より二歳年下の子供。大人になった今は別だが、当時は二歳の年の差は大きかった。だからこそ、笑顔で人懐こさを演じながらも、内心で全てが敵だと認識していた自分は、こんな子供ならば、襲い掛かられたとしても排除は容易だと踏んだのだ。
 ―― その、カチェイの判断をアトゥールは察知したのだろう。
 如何なる手段を使ってでも生き延びてみせるという貪欲さで世界を見ていたのがカチェイならば、徹底的な冷たさで世界を見つめ、見放していたのがアトゥールだ。その眼差しが、排除可能だと勝手に判断してきた相手を突然見やる。
「殺せるよ」
 唐突にとんでもない言葉を放った。
 一瞬何を言われたか理解できず呆気に取られたカチェイの隙を付いて、アトゥールは滑るように抜刀し、踏み込む。はっと事態の深刻さに気付いて、避けようとしたが既に遅かった。―― 急所である喉元に、ひたりと切っ先が付きつけられる。
「―― 自分の命なんて、簡単に守れるものじゃない」
 静かに、剣を付きつけたままアトゥールが言った。
 それはまるで、自分だけの力で全てを守って見せると決断していた心を見抜かれたようだった。まさかそんなことを言われると思っていなかったカチェイは、首は動かさずに瞳だけで小柄な子供を見やる。
 一瞬、ひどく暗くアトゥールは笑った。
「必要のない敵意を向けられるのは嫌いだし、世界の全てが敵でも生き延びることが出来ると考えるのも嫌いだ。他人を守るより、自分自身を守るのが一番……難しいことだっていうのに…」
 それはカチェイに対しての言葉だったのか、アトゥール自身に対する言葉だったか。
「―― ……アトゥール…」
 自分自身を守るのが一番難しいと言った。それは―― 親友にとっては実感を伴った真実の言葉だっただろう。
 だからこそ、アトゥールは常に冷静であろうとする。敵と、味方と、利用出来るものと出来ないものと、事実と虚構と策略とを、同時に考えるのだ。自然、その有効性をカチェイも知った。
 ―― 生き延びること、それだけに凄まじい努力をする。これが二人に共通していること。
 カチェイは首を振る。意識しないどころか、過去をやけに回想するのはおかしいと気付いていながら、気がつけば過去に思いを馳せている。
 まるでこの佇んでいる場所が力を持っていて、強制的に過去を思い出させ、ひそむ心の傷痕に攻撃を仕掛けてくるようだ。
 打開する為に、強く紅蓮を握り締めた。とにかくこの場所に居続けてはならない。例え今は平気であっても、平気ではなくなる瞬間が来ないとも限らないのだ。
「好んで、嫌な場所に居続ける趣味など持ちあわせていないからな」
 不敵に呟き、意識を鋭利にする。ひたひたと世界を埋めている冷たさを無視して、紅蓮の持つ炎の気質だけに集中した。
 ―― 風の音。
 現実の、この場所に置き去りにされる前に聞いていた、確かさを抱かせる、音。
 自然に発生したものではない。簡単な魔力によるものでもない。今はもう分かる。これは―― 覚醒し召喚された風鳥の力なのだ。
 だから目覚めねばならない。
 ここは、今自分がいるべき場所ではないのだ。



 唐突に戻った意識に、目を見開いて、カチェイは眩しさに目を眇めた。
 暗い、あの闇に満ちた世界はもうどこにもない。
 さらに情況を確認する為に、目を眇めて顔を上げる。そうやって、カチェイは円を描く竜巻の中心にある無風空間の中で膝を付いていた事を知った。
「随分と弱くなったんじゃないかな。その見かけには似合わない事だって言うのに」
 突然に声。
「――― !?」
 心臓が突然跳ねる。
 まさか、と思った。確かに、僅かな希望を信じ抜くと決めはした。だが、響いた声に動揺を禁じ得ない。
「……アトゥール……?」
 ゆっくりと顔を上げていく。無惨に血に濡れた、かつては白かった長い衣が風に揺れ、青い刀身と鞘を持つ剣が見え、そして風にゆれる明るい茶の色をした髪が静かに流れる様子が見える。
 青でもなく、緑でもない微妙な色彩を持つ、意志を宿す眼差しの、色。
 口の中が突然に枯渇して、言葉が出てこない。佇んでいた彼は、柔らかな仕種で首を傾げる。
「おはよう、って所かな?」
 突然にこんな事を言った。これが今の今まで死人だった人間の言葉かよと思ったが、カチェイは文句は言わずに真意を理解する。
 深刻な事態になればなるほどに、平気な振りをするのが自分達なのだ。その自分達に、涙の再会劇などが似合うわけがない。心で思っていればいいことだ。
 ―― 生きていて良かったと。
 本当は叫び出したい程に思う、この切実な感情などは。
 無意識に笑みが浮かんでくる。無性に大声で笑い出したい気持ちにもなった。
「どっちかというと、それは俺のセリフだな。随分と長いこと、寝こけてくれたからな、こっちは大変だったんだ」
「確かにね。まさか、ザノスヴィアの得意戦法にわざわざ戦いを挑もうなんて酔狂なことを実行するくらいだから、そりゃあ、大変だったんだろうけど」
「まな。この突風がこなかったら、今ごろは乱戦中だったろうさ」
 さらりと自らの失敗を言ってのけて、立ち上がる。瞬間、凄まじい勢いで作戦をまとめ始めたのだろう親友の眼差しに、カチェイは不意に痛みを覚えた。
 凄絶な瞳。まるで―― 見てはいけなかったものを、見てしまい、完全に傷つけられた人間の目をアトゥールはしている。
 ふと、先程突然に引き込まれたあの暗く冷たい空間を思い出してカチェイは眉をしかめた。
 獣魂同士は呼び合う力を持つという。ならばあの空間は、アトゥールが死に抱かれていた間ずっと身を置いていた場所だったのだろうか。そして親友に与えられた痛みに、呼び合う獣魂の影響も受けて同調し、似た経験をした。
 それが正しいなら、突然あのような場所に佇む羽目になった説明も出来るのだ。
「―― アトゥール。お前、泣きそうな顔してるぞ」
 あえて言葉にして、カチェイは親友に問い掛ける。辛いことを辛いとは決して言わぬ親友だが、言わずにいられなかった。はっと目を上げて、アトゥールは何故か寂しそうに笑った。
「いや……どうだろうね、なにがあったか…今はもう、覚えていないんだ。また、覚えていられなかった、っていうのが正しいのかもしれないけどね…」
 幼い頃、記憶を消さなければならないほどに追いつめられた過去。それは―― やはり今も同じなのだ。だから、その記憶は丸ごとあの闇の中に消えた。
 アトゥールが見つめ、そして再度消さねばならなかった記憶について唯一知っているカチェイは、静かに口をつぐむ。
 そして言葉の代わりに軽く、アトゥールの肩に手を置いた。
「ま、人なんてそんなもんだ。死んじまったら負けだ。だが、お前は死ななかったからな。負けちゃいない。それより、どう動くつもりだ?」
「――――。カチェイ」
「ん?」
「これは、借りとくよ」
 苦笑して、アトゥールはくるりと振り返る。その視線を、カチェイはすぐに追った。
「んじゃ、あとで思いきり返して貰わないとな。色々考えておこう」
「甘いね、カチェイ。こんな危機を勝手に呼び込んだんだ。それを打開する方法を見付ければ、全部清算だと思わないかな?」
「―― ま、それでもいいけどな」
「……ザノスヴィアを完全に追いつめるわけにはいかない。軍を撤退させる」
 眼差しを不意に鋭くして、アトゥールが断言する。
 調子を取り戻す為にあえて軽口を叩きあっていたのだが、もうそれは必要ないということだろう。カチェイも肯いて、紅蓮を一旦背負う鞘に戻し腕を組む。
「確かにな。追いつめて、敗北に追い込んだら、エイデガルの版図が広がり過ぎる。それは―― 負けるよりも性質が悪い」
「…今の大きさだから、エイデガルの存在を世界は容認出来ている。これ以上大きくなってしまったら、完全な脅威になってしまうわけだからね」
「ぎりぎりの版図、か…」
 世界中央に存在する巨大な大陸の、ほぼ三分の一を支配下にするエイデガル皇国。もし隣国ザノスヴィアを併合する羽目になれば、大陸の約半分を手中にすることとなる。このような状態になれば、他国が黙ってはいないだろう。危機を打開するべく各国が連合を組み、大きな戦乱を呼びこむことになりかねない。
「かつて、フォイス陛下の母君慈母王マリアーナの時代、アポロスを巡る滑稽な事件が起きたのだって、常に他国がエイデガルを危険なものと認識している背景があるからだ。―― だからこそ、私たちはザノスヴィアに対して完全勝利を収めるわけにはいかない。それに…」
「それに? 他にまだ、懸念があるのか?」
「……あの国を追い詰め敗北を重ねさせれば、民の最後の一人まで戦うという徹底抗戦の構えを取らないとも限らないからね。そういう相手とは極力戦いたくない。力は、無駄な争いを開始させない抑止として持っていればいいんだ。見せ付ける必要はない」
「―― 確かにな。とにかく、撤退させるにも俺らが指揮を取る必要がある。この風を解け、アトゥール。騎士団員が恐らく動揺している」
「分かってる。問題は、どう撤退させるチャンスを作るか……だね」
 呟きながら、ふわりと腕を持ち上げる。青い燐光のようなものを突然まとい、アトゥールは目を細めた。周囲を取り巻いている竜巻とは異なる、どこか優しげな風がそよぎ始める。
 ―― 心得て、高く頭上にて風鳥が鳴いた。
 突如現われた竜巻に、あることを確信していたミレナ公王ロキシィは、娘を肩に担ぎ上げた状態のまま、風鳥の声に確かな好機を掴みとって、詐欺士のように笑う。
「シュフラン。矢に全ての神経を集中しろ」
「ロキシィ父様?」
 呆然としていたシュフランが慌てて父親の顔を見やる。
 撤退を手伝う合図をするためには、敵味方を完全に翻弄している竜巻を打ち破って進む矢が必要なのだ。それはロキシィの抗魔力のみでは不可能だ。だが、親と子の二つの力が交わるならば、不可能が可能に変わる。
「―― シュフラン、魔弓天雷に矢をつがえろ。触れているだけでいい、あとは俺がやる。急げ!」
 説明をする暇がないことを、理解するのも次期公王たる者の勤めだ。シュフランは幼いながらも凛とした表情に切り替えて、渡された矢を魔弓天雷にそっとつがえる。その手の上から、強く父親が矢を引いた。
 銀色の光りと共に、銀猫が現われる。そして、魔弓天雷が吼えた。
「―― 気付けよっ!」
 風を切り裂き、矢が走る。
 その音を聞き取って、風鳥に命ずるべく意識を集中させていたアトゥールが目を開いた。
「……なるほど。それなら、撤退も容易になるわけだ」
「アトゥール?」
「カチェイ、この竜巻を消したと同時に銀猫騎士団が撤退を援護させるべく弓を一斉に打ち込んで来る。私は敵陣に向けて突風を向けるから、カチェイは紅蓮で焔を呼べ」
「なるほど、戦車が脅威ならば……その車体を引く馬を怯えさせ混乱させるか」
「その通りだよ。ただ、我が風鳥騎士団の馬も怯えるからね。混戦は必死になる」
 如何に敵が混乱しているとはいえ、そろそろ冷静な対応を取るべく動き出している頃合だ。うかうかとはしてはいられない。―― ならばいっそ自分達二人が殿軍を勤め、神懸り的な力を見せ付け、さらなる動揺を煽った方がいいだろう。
「なにせ、今、ザノスヴィアの中にエアルローダはいない。いれば、竜巻や雷で驚くわけがないからね。とうことは―― 負った怪我を治療するために動けていないのか、それとも…」
「―― アティーファを追って皇都に向かっているか、か」
「カチェイ、アティーファを一人にした状態でエアルローダと対峙させ続けるわけにはいかない。こればっかりは……リーレンが側にいるだけでは駄目だ。フォイス陛下と無事合流できていればいいけれど、なんとなく……それは出来ていないような気がする」
「合流できない?」
「――― ああ。話しは終わりだ、カチェイ。風を切る!」
 声を張り上げ、強く空を切った。瞬間、周囲を取り巻いていた竜巻が閃光を発し、勢い良く形をかえて敵陣へと吹き込んでいく。
 風の中に主君である人物を奪われ、呆然と見守るか叫ぶしか出来なかった騎士団員達にしてみれば、震える程劇的で―― 感動的な光景であっただろう。
 光りを発し、風が巻き起こり、そして姿を顕わす二人の公子。
 一人は焔を纏う剣を、一人は冷気を纏う剣を、それぞれ手にしている。そして、瞬間アトゥールが歓喜の声を上げようとした騎士団員に伏せるように叫び、カチェイが金狼と共に激しい焔を風に乗せて放った。―― 最後に、空を切った銀猫騎士団の数多もの矢。
 焔を恐れ、馬が怯え高くいななく。
 状態を確認し、二人の公子はザノスヴィアの敵陣前まで突如走り出た。
 動揺しながらも、高貴なる二人の登場に色めき立った敵の一団がいる。それが、走り出てくるのを確認して、当たり前のように背中合わせの体勢をカチェイが取る。珍しく物騒にアトゥールは笑った。
「さて、誰から先に血祭りに上げられたいんだろうね」
「俺らじゃないってぐらいしか、確実なところは分からないな」
 カチェイが返してくる余裕の言葉に、アトゥールは笑う。
 本当のことを言えば、まだ身体は完全に治っていない。当然痛みはあるのだが、不安はなかった。ただ一つ気をつける必要があるとすれば、無理をしすぎてもう一度冥土に逆戻りすることだろう。
 とはいえザノスヴィア兵の全てを相手にする必要はない。
 エイデガル皇国の人間を相手にすれば、あたかも魔力者を相手にしているような不可思議な事態が起きると、恐怖を与えればいいだけのことだ。
「来るぞ、アトゥール!」
「分かってる」
 そして、二人は同時に紅蓮と氷華を構えた。


第30話 再開
第29話 召喚HOME 第31話 変化