第29話 召喚
第28話 狭間HOME第30話 再開


 
 ―― 空白の、記憶。
 何があったかを知らない過去を体験する。
 それは、未来と同じように感じるのではないだろうか?
 手放してしまった記憶の変わりに、情報は与えられた。
 母親が幼い我が子に毒を飲ませ、子供は血を吐いて倒れた。危機を感じ取ったのは父親。真っ青になって駆け込み、取り乱しながらも妻を人に預け、息子を抱え毒を吐かせ、血圧が異常低下する体をかき抱いて医師の元へと走る。
 そんな事実があったことを知っている。
 ―― これは誰の身に、あったことだ?
 今、この身体を抱え、血を吐き、どうしようもない現実に涙を流すことさえ出来ない今の自分と、知っている出来事は酷使しすぎている。母親が子供を殺す例は他にもあるだろう。だが、ここまで細部が一致するのが偶然とは思えない。
 ―― ……母に殺され、死に逝こうとしている…自分…。
「違う」
 血が溢れ、呼吸さえもがままならなかったはずの唇が、突如滑らかに声を発する。
 降り注いでいた夏の陽射しが消え失せて、耳に響き続けた謳い笑う声が遠くなった。
 無意識に封印してしまった記憶がある。それが、精神を完全に破壊してしまう可能性を持っていたから。―― これは…体験している事実は、この失った過去の再現に過ぎないのではないか?
「そう……だから、私は…」
 生き延びねばならない。
 頭に痛みを覚えて、いきなり思い出したはずの記憶が再び閉ざされていく。
「アトゥール!!」
 ―― また聞こえた。
 今はもう分かる。この声は、正しい時間の流れの中で共に歩んで来た親友の声だ。朦朧とする意識をなんとか手繰り寄せ、アトゥールは立ち上がる。
「……カチェイ?」
 名を呼んで、懸念に目を細めた。自分と同様、プライドも高ければ、他人に弱みを見せたくないと考える傾向も強いカチェイの声に、隠せない悲痛な色があった気がしたのだ。
「……なぜ…だ…」
 考えるのに答えが出ない。意識がまだ、現実がどこにあるのか把握しきれていないのだ。
 最悪の状態が発生しつつあることしか分からぬ現状に、心が焦り出す。それに気付いてアトゥールは首を振った。焦りは解決をもたらしはしない。取り乱し、助けを待っていて全てが解決することもないのだ。
「私―― わたし、は…」
 必死に考える。かちりと、心の中で時が一つ進んだ。
 闇の光景が急激に変化して、血の臭いに気付く。咽るほどに激しい、その血臭。なにがあったのかと眉をひそめた瞬間、そこに氷華を握り締める自分が佇んでいた。
「これだか、ら、嫌いなんだよ!!!お前達は!」
 子供のような叫び声をエアルローダが上げる。―― これも過去か?
 周囲の警戒も忘れ、取り乱した少年魔力者は剣を握り締めている。常に余裕を残し、全てを嘲笑うようにしている様は子供時代の自分自身にひどく似ていて、嫌悪さえ覚えていたのだ。けれどそのおかげで、エアルローダの行動を的確に把握することが出来る。
 踏み込んでくる。それを、理解していた。だから本当は簡単に攻撃は避けれたのだ。
 ―― 避けるべきだと。
 理解しながら、反撃に移るべく動いている自分が居た。
 わざわざ危険を招き寄せる自分の行動が馬鹿馬鹿しくて、アトゥールは己を嘲笑う。
 待つべき助けを待てない。それほどに、自分は弱かったのだ。
 かつて心に刻み込まれた過去の痛みなど、既に吹っ切れていると思いこんでいた。けれど実際は、親友の助けさえ待つことも出来ない程に、自分の精神は闇に落ちたままだ。
 ―― 恐いのだろう。
 いかに望んでも、温もりも安らぎも助けも得られなかった過去のせいで。
 助けを求めて得られなかったらどうしようか。
 逆に助けが与えられてしまったら、自分は弱くなって、一人では何も出来ない人間になってしまのではないだろうか?
 そんなことを、きっと勝手に考えて、恐れて、怯えて。
「……弱すぎる…」
 思っているくせに、剣を受ける自分は、踏み込んできた相手の切っ先を避けずに身体で受け止めて、氷華を突き込んだ。
 ―― 衝撃。
 髪が舞い上がる。長い―― 邪魔だと思っているのに切らないでいる、その髪が。
 自然髪の流れを追った瞳が青空を見つけた。目が痛くなるように、静かで綺麗な空。そして、抜けていく刃の感触に視線を落とし、感情を繕えなくなったエアルローダの瞳を至近距離で見つめる。分からなかった、ある疑問の答えをそこに見つけて、目を開く。けれど声は出せず変わりに血が溢れた。
 忍び寄って来たのは、死の足音。
「アトゥール!!」
 声。呼び声。過去から今に続こうとする記憶の中で響く声。
 カチェイは知っていただろう。反撃になど出る必要は無かったのだ。避けることは出来たのだ。けれど―― 助けを待てなかった、一つの理由にきっと打ちのめされて……。
 身体を受け止められる。なんとか最後に親友を見やろうとした。けれど瞳が画像を結ぶ前に、瞼が落ちる。意識は途切れる。そして死を迎える。
「けれど…私は今、ここにいる……ここは……?」
 完全に死んでいるのではない自分。だから思い出さなければならない。何をしたのか、それが全ての鍵を握っている。
「私は……意識を失って、けれど…違う、一度…」
 意識が戻ったのだ。まるで、忘れ物に気付いたかのように、突然現実に戻った。
 くぐもってしまった瞳が伝えてくる現実は危機に落ちていた。守るべき妹代わりの少女が激情にかられ取り乱し、親友は戦うことを放棄して自分を抱え、凄まじい瞳で見つめて来ている。
 まるで生残る術を探すかのように、記憶が一気に逆流を始めた。
 そして―― 一つの光景を見つけた。
 エイデガル皇国に連れて来られたばかりの頃。話しをしているのはフォイスと、そして幼い自分だ。
「保持する魔力を極限まで高め、自分自身に使用することによって、仮死状態に自らを落とすことが出来る。他者から見れば完全な死だが、実は魔力によって致命傷をゆるやかに治しつづけて行くのだ」
「……そんなことが可能ならば、魔力者たちは誰も不慮の死を遂げないのではないですか?」
 あの頃の自分は、生死に興味が持てなくなっていた。
 記憶の中のフォイスはゆっくりと子供の側まで歩んで、何故か悲しげに笑う。
「殆ど、成功した者はおらんのだ」
「―― 何故ですか」
「例え魔力を使用したとしても、双方が耐え切れぬ事が多い。死を見守っている人間、そして死の狭間に陥った人間の双方がな」
「―― 理解できません」
 死を耐える。その言葉の意味すら分かりたくはない。だからアトゥールは首を振って、興味のなさを示すようにただ空中を見つめた。
 フォイスは可愛げのない子供の反応に呆れもせずに、言っておかねばならないことのように、言葉を続ける。
「天命以外で迎える死は、突然訪れる場合が多い。それは分かるであろう?」
「―― そうでしょう。死は突然で、そして不可抗力だから」
「その突如訪れる死の恐怖の中で、冷静を保てる者は少ない。例え、魔力を高めることによって仮死状態に入る方法を知っていたとしても、使おうと考え得る人間は少ないのだ」
「考えることが出来る者もいると思いますが」
「そうだな。強い精神力を持つならば考える者もいるだろう。だが、仮死状態に陥る際、”自分は今から仮死状態に入るから、埋葬したりしないでおいてくれ”と説明可能な時間を持つ者はいないだろうな」
 完全な死にしか見えない、魔力による仮死状態。
 突如大切な者に去られた者達は嘆き哀しみ、判断能力は低下してしまうだろう。いや―― 冷静さを保持し続けているほどに、死んでしまった者を放置することなど出来ず、安らかに眠らせてやろうと考えて、埋葬するのが当然だ。
「その上仮死状態になった者たちは、ひどく不安定な状態に陥ってしまう。死と生の狭間に落ちるのだから当然だろうな。己が誰で、何をしたかったのかさえ、記憶し続けることは出来ない。その上、負った致命傷の痛みを、永遠に与えられ続けるのだ。死は甘美な魅惑に見え、唯一の安らぎのように感じられる。これに―― 耐える人間は殆どいない」
 まるで、知っていることであるかのように、フォイスが続ける。アトゥールは感情を余り宿さない瞳のまま、そっと彼を見上げた。
「埋葬されてしまえば、完全な生き埋めと同じだ。我がエイデガルならば水葬だな。生きた状態で、助けを求めることも出来ず、沈められる。やがて仮死から目覚めても、そこは水の底だ。到底生き伸びることは出来ん。魔力によって守られている身体であっても、魚についばまれている箇所も多かろう。―― そんな無残な死の結末の可能性が如何に高くとも、生き延びる可能性があるのも事実だ」
 ―― 生き延びる、その可能性。
 全てを達観することで、唯一自我を保ち続けていた。
 何かを抗うこと拒絶して、受け入れて処理することだけを行えば、生きてはいけると思っていた。
 どうしようもなく弱かった幼い自分に興味を与えることが出来なかった、その可能性。
「生残る…選択肢が残る……」
 死の僅か手前で思い出した希望を伝えることは出来なかった。
 なんとか残っていた余力は、妹代わりのアティーファを救いに行くように訴えることで使い切ってしまって、出来たのは掛けるからと小さく言うことだけ。
 だから、仮死であるとなど誰も思わないだろう。
 命を長らえた状態で水に沈められ、苦しみ、目覚めた瞬間も苦しみ、そして死んでいくのだろう。
 ―― それでも。
 生きていく可能性を、握り潰すのは裏切りだ。心で泣き叫んでいるカチェイにとっても、なにより生きていたいと思う自分自身に対しても。
 だから遠く消え行こうとする現実を引き止める為に、命を掛ける。そしてカチェイも命を繋ぎ止める狂気じみた希望に気付いたのだ。
「―― こんなものは全て、幻にすぎないはずだから」
 目を閉ざす。指先に、握り締めていた氷華の感覚が戻った。
 思考を奪う冷たさがあった。哀しみに心を沈めようとする過去もあった。生き長らえても、払拭できぬ絶望と恐怖を永遠に抱いて、うなされ苦しみ飛び起きる夜を繰り返し続けるだろう。決して楽ではない生き方を続けていかねばならないだろう。
 けれど、それらの苦痛をゆっくりと振り切って、アトゥールは意識を集中する。
 そうやって生きてきたのだ。そして今、死の中で眠りたいとは思わない。
 ――― 風が、そよぐ。
 その意志を、その心を、彼の激しさこそを慈しみ守るように。
「目覚めよ、風鳥!!!!」
 眼差しを開き、そして叫んだ。



 天が咆哮した。
 ザノスヴィア王国軍の戦車隊が、平野に浸入した愚かな軍兵を確認し突撃をかけた瞬間に。
 割れた天をこえて、凄まじい勢いの風が逆巻いている。それは人々の頭上をよぎり、大地を削り、その形さえも変えながら、最も激しい牙をザノスヴィアの戦車隊に向けた。
 巨大な車輪が風にあおられ、戦車部分が大きく傾いでいる。曳いている馬たちのバランスは崩れ、隣の戦車との衝突が起きていた。
 それを大地に伏せた歩兵や、必死に馬の背に伏せた騎馬兵たちが、必死に目を眇めながら確認する。
「公子!! カチェイ公子、敵は、崩れてます!!」
「とはいえ、こっちだって崩れているな。隊列を乱さないようにしろ! …一体…何が起きやがった」
 紅蓮で目を庇うようにしながら、カチェイは激しく舌打ちをする。
 冷静な判断能力を欠き、困惑してしまったが為に自軍を不利に落としてしまったのはつい先程のことだ。そして、ザノスヴィア王国の戦車隊が突撃を開始したのも。撤退させるのは混乱を招くだけだと、横に並べた大盾の間に、長槍兵を配置させ、紅蓮を構えようとした。
 その、瞬間に襲ってきた突風。
 風が激しすぎて、視界が殆どきかない。風向きも一定ではなく、前後左右から狂ったように吹き付けてきている。まるで―― 上空に風が集まっていくかのように。
「上空?」
 風の動きに不自然さを感じて、カチェイは空を見上げる。けれど、凄まじい勢いで動く大気の有様は壮観だが、なにが起きているのかまでは分からなかった。
 異変を目で見て取れたのは、カチェイではなく、離れていたミレナ公王ロキシィの方だ。
「―― とんでもねぇな…」
 きっちりととめていない上着の布が、風の中で異常なほどはためいている。自然に発生した風ではないことは、すぐに理解できた。けれど魔力によって呼び起こされた風でもない。
 ここまでの風を発生させようとすれば、魔力者が百人いても足りぬだろう。
 流石に頭を低くしながら、ロキシィは視線をあげて空の形を確認する。
 天が割れ、そこに一つの形が出現しようとしていた。
 風の真下にいるカチェイには、巨大過ぎて形を見定めることは出来ない。それは僅かな力を貸して、本体は長い眠りに就いたはずの創世神話に関与する者なのだ。
 ―― 風を大気を統べる王者。……風鳥。
「んな馬鹿な……、獣魂そのものが目覚めただと…」
 轟然としている彼には似合わぬ呆気に取られた声を吐き出す。その男を目指して、風に何度も足を取られそうになっている娘が駆け寄ってきた。
「ろ、ロキシィ父様、あ、あれはなに!!」
「……説明は難しいからな、ど派手なペットだとでも思っとけ。シュフラン、チャンスが来るぞ」
「チャンス?」
 娘の身体を肩に担ぎ上げて、ロキシィは魔弓天雷を取り上げた。僅かに目を細め、風の具合を確認する。―― 獣魂銀猫と自分自身の抗魔力だけでは、この風を切って合図の矢を届かせることは出来ぬかもしれない。ならば。
「いいか、シュフラン。もう少しすれば、かならず戦場に変化が起こる。その時が撤退のチャンスだ。時がくれば、一斉に矢の雨を降らせる。―― 魔弓天雷の矢を撃ちこめば、合図だと気付くさ」
「矢を撃ちこんだだけで!?」
 風に負けないように声を張り上げる娘に、ロキシィは自信に満ちた眼差しで頷いた。
「分かる奴が目を覚ます。その前兆だ、これは。いいか、合図の矢を放つ時はシュフラン。お前も手伝え」
「ロキシィ父様!?」
 娘が驚愕するのも構わずに、ロキシィは考える。
 命を死に追いやる弊害を持つほど強い抗魔力持って産まれたアトゥール。力の巨大さは、ようするに必要以上に風に愛されていることを今知る。
 ―― ならば力を貸してきて当然なのかもしれない。風が認めた者が、目覚めを望むならば。
「来るぞっ!」
 ロキシィが叫んで、上空を睨みつける。つられ、シュフランは空を見上げ。
 翼広げた鳥がそこにいた。青い、大気そのものが身体なのだと主張する程に巨大な風鳥が。
 爛々と、その瞳がゆるかやに揺れる。そして、風鳥は突如地上目指して急降下した。
 光りの残滓と風が溶け合う。力と力が互いに干渉を始める。―― 結果。
「カチェイ公子!! アトゥール公子!!」
 騎士団員の叫ぶ声が響いた。
 ―― 竜巻。
 カチェイは完全に取りこまれた。


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