―― 痛い。
現状を説明するのに、これほど便利な言葉は他にない気がした。
冷たく押し包み、触れては流れていくせせらぎが足元にある。せせらぎの冷たい水は、見渡す視界全てを埋め尽くして続いていた。
体温が酷く低下している。随分と前に感覚は麻痺し、体重が何倍にも膨れ上がったような重苦しい錯覚を与えてくる。
「―― どうせなら、痛みもだるさも麻痺させてくれれば便利だったんだけどね」
まるで子供のように拗ねた口調で言って、佇んでいた彼は細い眉をひそめた。華奢な指で押さえつけている肩口から、真紅の血液が溢れ出て、足元のせせらぎを赤く染めている。
かなりの重傷だ。痛みに気を失って当然だろうに、平気そうな素振りを続けていた。やせ我慢に過ぎないだろうが、かなりの精神力だ。
―― 闇だけが広がっていた。
彼の周囲に侵食し、包囲し、支配しようと企んでいる貪欲な闇。
「………」
意識の混濁を防ぐ為に、ゆっくりと首を振った。揺れた視界に、ふと光が映る。太陽のように瞳を焼く閃光ではない。どちらかといえば、人の眠りを優しく守る月明かりに似た静かな光だ。
何故か、光を認識してはいけない気がした。反射的に目を閉じると、突如激痛が襲いかかってくる。
まるで、彼が保っている理性を奪い尽くそうと放たれた攻撃のようなタイミングだった。
肺腑を抉るような暴力的な痛みに、眩暈がする。
それでも光りはないと否定して、目を閉ざしたまま俯いた。
―― 光りを認識してしまえば、耐えられなくなる気がした。
「……耐え…る?」
一体何を耐えようとしているのだろうか?
「……考えろ」
答えを取り戻さねばならない気がして、自分自身に尋ねた。―― 一体自分はなぜここにいるのだろうか? 何があったのだろうか? ……自分は一体誰なのか?
分からない。
「―― 考えるんだ…」
首を振り、諦めずに更に考える。何故か、そうやって今までも生きてきたような気がした。
いかなる状況に置かれても。泣き叫びたいことがあっても、屍の中に一人取り残されていても。考え、対処して、全てが解決して初めて、取り乱すことを許していたような気がする。
不器用で、余り良い生き方とは思えない。酷く負けず嫌いな人間。それが自分か?
「……私…は…」
痛みのせいか、流血のせいか、心臓の音がひどく煩く感じる。
けれどこの音が響く間は生きている証しだった。痛みとて、感じている間が花だろう。
数少ない情報を得ようと指先を動かして、傷口を確認する。気付いた時からずっと出血が続いている肩口の傷は、それほど大きくはない。だが出血が止まる気配がないので、単なる外傷ではないのだろう。心臓近くにある傷痕は、貫通して背まで届いていた。細い剣によって貫かれでもしたのだろうか?
「……これで、良く生きてる…」
―― 本当に生きているのだろうか?
ふと、疑問を覚えて眉をひそめた。
人間が、こんな怪我で生きていられるのだろうか? 万が一生きていたとしても、こんなにもはっきりした意識で、立っていることなど可能なのか?
「………有り得ない…」
ならば自分は死んでるのだろうか?
今佇む場所こそが、死んでしまった魂の場所だとでも?
それも有り得ない気がした。
簡単に、死ぬことなど許されていなかった気がする。なにより、死にたくなかったはずなのだ。
―― 視界に誘うように入ってくるのは光。
安らぎをもたらし、苦痛を癒し、そして全てから解放させる唯一の場所を示す光り。
「……私、は…」
死にかけているのだろうか?
光りを拒絶しているのは、光りの元に辿り着けば完全に死んでしまうからではないだろうか。
そう考えれば、全ての説明が可能になる。致命傷だと思われる傷を負っているくせに、先程から立ってることも。自分という存在に対する記憶があやふやであるのも。光りを否定するのも。
死にたくないからだろう。
「―― 行ってはいけない」
「どうして?」
不意に質問を受けた。
暗闇の中、誰も居らず、何も聞こえなかったはずの場所から、高い娘の声が響いてくる。
誰だと尋ねるより早く、本能が恐怖を覚えた。背筋が凍り、動くことも出来なくなる。
足音がした。
ひたり、ひたりと接近してくる音。小さな手が血に汚れたまま俯いていた彼の頬に伸ばされる。
「楽に、なってしまうこと。それをどうして否定するの?」
逃げられずに、凍り付いてしまった彼の反応を楽しむように、ゆっくりと触れてくる。
「ねぇ、どうして? わたしは、頑張っていたのに」
娘の声が囁く。
背後から頬に触れてくる手は冷たく、残されていた僅かな温もりも奪い取られるようだった。
―― かつて一つの結婚があった。
まだ、身体が大人になる兆しを見せたばかりの少女が、青年に望まれた。望んだのはティオス公国の公子たる男、望まれたのは実力重視である為に、人材を輩出出来ずに今は没落した名家の少女。
「…全てを忘れて、一人で楽になってしまっていたの? ねぇ、アトゥール」
声が過去を暴き立てる。頬に触れた指先の冷たさが、心の中にも忍び込んできて、隠していた傷を確実に広げた。
―― 思い出してしまう。
自分が誰であるのか、それが分からなかったのが幸せだった気がする。
無意識の状態でも恐怖を覚える彼女についての情報が、情け容赦なく蘇ってくる。
少女を望んだティオス公子は父親。望まれた少女は母親。……自分の、両親が紡いだ悲劇の形。
「こちらを向いて、綺麗なだけだったら良かった、私の子」
―― 悪夢が帰ってきてしまう。
世界を常に冷たい眼差しで見つめてた頃。親友と出会い、妹と思う少女に出会い、時の流れがゆるやかに人らしい心を取り戻させていった。次第に強くなり、弱さを自覚しなくもなったけれど、どうしても取り戻せないでいた空白の記憶が存在している。
昔は、空白の記憶について尋ねられただけで、激しい発作に似た症状を起こしたという。長じて尚、貧血じみた状態になるのだから根が深い。
―― 生きていく為に。覚えていてはならないと心が決めた辛い過去。負けず嫌いの彼が、唯一克服を諦めた、空白の記憶を与えた当人が背後にいる。
「アトゥール」
頬に添えられた指先が、滑るように降りてくる。
細い彼の頤を、そっと華奢すぎる白い指がなぞった。花の色に染められた、その爪と指の動きはひどく艶めかしい。けれど仕種の妖艶さとは裏腹に、外見が少女のような彼女をアトゥールは知っている。
「…母……上…」
年齢も幼く、精神はさらに幼かった少女ディーテ。
それがティオス公子アトゥールの母の名前だ。
か細い印象を与える色白さと、華奢な骨格が、二人はひどく似ていた。
どうしようもない恐怖に、心が悲鳴を上げる。体が感じていた痛みも、心の悲鳴に呼応し際限なく跳ね上がっていく。息がつまり、平然とした態度を繕うのも不可能になる。
脹脛までひたひたと濡らす水の中に、崩れ落ちた。
―― ここが何処で、何をしていて、死にたくないと思ったはずの心が消えていく。
母親である小柄な娘はあどけなく笑い、膝を突いた我が子をかき抱いた。
「何時も、そうやって苦しがってばかり。貴方はわたしを困らせることしかしないのね。そう…いつだって貴方は苦しがって泣いたわ。口を塞いでも、目を塞いでも、首を絞めても、それでも泣き叫び続けたわね」
やんわりと言って、息子の首筋を弄ぶ指にディーテは力を込めた。
「何度も、何度も、楽にしてあげようとしたのに。そういう時だけ、あの人は帰って来て。わたしを止めたわ。どうして、ねえ、どうして? どうしてあの人はわたしではなくて、貴方を助けるの。どうしてわたしを助けてはくれないの!」
態度を豹変させ、穏やかさをかなぐり捨ててディーテが叫ぶ。
喉を圧迫し、呼吸が詰まり、意識が消えてしまいそうな自覚に、アトゥールは抵抗することを思い出した。なんとか力を振り絞り、背後から伸ばされた腕を振り払う。
身体を前に出し、水の中に手を付いて振り返った。
母が佇んでいた。
克服出来ない辛い記憶をアトゥールに与えこんだ、ディーテが当時の姿で立っている。
「……あ…」
―― 今、何故母と出会うのか。
混乱が激しさを増した。分からないのだ。終ったはずの事実が目の前で再現されようとしている訳が。
今になって何故、この事実が牙を剥いてこなければならない?
「アトゥール。綺麗な子。ねぇ、わたし思うのよ。貴方がもし女の子だったら、あんなに泣き叫ばれても、わたし笑っていられたと思うの。だって、貴方、わたしが大好きだった金色の髪に青い目のお人形にそっくりだったものね。だから、愛せたと思ったけれど。あなた、男の子だった上に一番最初の子だったから。ちゃんと、育てなくちゃ駄目だって、怒られるしね」
くすくすと笑いながら、置かれた情況さえもがわからなくなっているアトゥールの目の前で、母親であるディーテは告げる。
少女に恋をして、少女に求婚したアトゥールの父は―― 精神が僅かに破綻している男だった。
重度の潔癖症である、と断言して良いかもしれない。
彼は、家族が住まう空間に、他人が入りこむのを病的に嫌悪した。不必要に他人が入りこまぬように、外界を遮断させて作らせた屋敷の中に家族を閉じ込め、隔離する。幼い妻が行えない家事や、後継ぎの教育などは、わざわざ作らせた別棟の中で行わせるようにしていた。
だからディーテは常に孤独だった。
相談をする相手はいない。頼りとなる夫は公務に忙しく、殆ど側に居てくれない。ディーテが一番不幸だったのは、ティオス公国を継ぐべき立派な子供を産まねばならないと、必要以上のプレッシャーを与えられていたことだろう。そして生まれた第一子は、期待通り男の子だったけれども―― ひどく身体の弱い子だったのだ。
ぐったりと細く浅い息を繰り返すしか出来ない、か弱い赤子。
泣くのは苦痛を訴ええる時だけだった。笑顔一つ見せず、ただ毎日弱って苦しんでいる。
いつ突発的な高熱が来るのか、いつ泣き出すのか、いつ命が途切れてしまうかも分からない日々の連続は、ディーテを確実に追い詰めていった。毎日恐怖に怯え、自分に落ち度が有ったから、こんなにも弱い子供が生まれてしまったのかと、己を責めるようになっていく。
―― ディーテのせいではないと、常に説得し慰め、支える人間がいれば良かったのだ。
アトゥールの身体の異常な弱さは、生まれつきのものではない。彼を蝕むのは、成長するに従ってゆるやかに覚醒するべき抗魔力が、すでに顕現していたせいだったのだ。
他の誰よりも強い、抗魔力。
赤子の体は抗魔力に耐えることが出来なかった。だからアトゥールは、毎日のように死線をさ迷うほどの苦痛に日々襲われねばならなかったのだ。
真相を父親は知っていた。けれど、ディーテに説明はしなかった。
元々幼い精神の持ち主であるディーテは、怯えて、疲れて、次第に壊れていった。
子育てを、人形遊びと同じだと彼女は考えていた。だから、高熱で泣き叫ぶ赤子でも、抱き上げれば泣き止むと思っていた。
痙攣を起したと思えば、身動き一つしなくなる赤子でも、そっと手で額に触れてやれば治ると信じていた。
毎日、毎日、毎日。
泣き声、苦しそうな呼吸。また泣き声、抱き上げても、撫でても、嬉しそうな顔など殆ど見せずに、ただ苦しそうにする子供。帰ってこない夫。愚痴を零す相手もいない環境。泣いている赤子。
――― 繰り返される、これが日常の全て。
「わたしが、憎かったのでしょう? だからあんなに困らせたのでしょう? だって、貴方はわたしを困らせるだけだったけれど、貴方の弟はわたしの声に笑ったわ。抱き上げれば良かった。撫でてやればよかった。それだけで、普通に反応をしていたでしょう! 貴方は私が憎いのでしょう? だから、こんなにもわたしを苦しめ続けるのよね」
素直で、輝くほどの健康で、苦痛を理解できなかった年子の弟。
激痛に苦しむ兄にむかって、彼は笑っているほうが綺麗だから、笑っていてよと告げる弟だった。笑わないのではなく、笑えないのだということが分からないのだ。弟は常に母親の側にいた。そして、母親の望む笑顔をみせて、子供は人形のように扱えばいいと信じさせてしまった―― 哀しい……弟。
「……楽になれるのよ。やっと」
にっこりと、また激情を治めて母親が笑う。
優しい顔。何時の間にか手にしていたらしい、赤い液体がグラスの中で揺れている。
―― 赤い、グラス?
母親が目の前にいる。エメラルドグリーンの吸い込まれそうな瞳や、少女じみた顔に覚える恐怖を捨てられず、後退しようとするアトゥールの記憶が、きりりと痛んだ。
この、情況は―――?
思い出せない過去がある。
生きて行く為に、身体が記憶しておくことを拒絶して、忘却させた過去が。
―― ここは、狭間の世界。
人を、完全なる死へと誘う為に、闇の腕を広げる場所。
「飲んでしまえばいいの。そうすれば、すぐに終るわ。ええ、すぐよ。わたしも、貴方も、もう辛い思いをしなくていいの」
動けない。瞳を動かすことも出来ない。
―― こんな事が昔にあった。
思い出してはいけない。思い出してしまえば、全てが壊れて崩れるから。
指先が、近付いてくる。赤い液体の色だけが、目に焼き付いてくる。
そして白い指が、動けない唇へと近付いて。そしてグラスが傾いて。
―― 喉が焼けた。
時の定義はどこにあるだろうか?
今があり、過去があり、そして未来がある。けれど過去に帰ってしまったとき、体験したはずの記憶を一切失っていれば、真新しい未来を歩んでいるような気になるのではないだろうか?
時間の概念など、本当はひどく漠然としたものなのかもしれない。
そんな事を考えながら、膝を折った。
肌を焼くような日差しの強さに、目がちかちかしていた。膝を付いたのは、日差しを避けるものは何一つない大地の上で、気分が悪くなる。
心臓部がきりきりと痛い。頭痛も激しかった。けれど、これらの激痛は普段から経験していることで、珍しいことではない。だから、症状に怯えはしなかった。
ただ。たった一つだけ、知らない痛みが喉を滑り落ちて行く。
―― 中に、入って、くる。
それが異常な程に恐い。
衣擦れの音が近くでした。崩れ落ちた彼の目の前で、女が少年と視線を合わせる為に膝を折ったのだ。
「また、そうやって苦しがってばかりね」
ひどくやんわりと、女が告げた。抑揚のない綺麗なだけの声音。
硝子のグラスを、手袋に包まれた手が握っている。グラスの中で、僅かに残された赤い色が揺れていた。
飲んで、と先程差し伸べられたものだ。
拒絶する理由はなく、母の願い通り飲んだ液体。
―― 滑り落ちてくる。喉を、身体を、血液の中にまで侵入して来て。
「……は、…はう…え…」
絞り出した声と共に、喉から鮮血が溢れてくる。
焼きついた器官がこぼす赤が、日焼けしていない白い肌を滑り落ちて、大地に赤い染みを作った。
―― 命を奪い去る痛み。
―― 今、少年の命を奪い取ろうとしている痛みだ。
「ねぇ、アトゥール。これでもう、わたしを憎めないわね?」
にっこりと、母親が笑う。
久しぶりに向けられた、明るい笑顔だった。
笑み返せるわけがなく、溢れ出る血と痛みに耐えられずに右手を大地の上に落とて身体を支えた。口元を押さえている左手からは鮮血が止めどなくこぼれていく。
血液の色。赤い色。
痛みに、眩暈に、意識の混濁に、視覚の機能が低下していく。右手が身体を支えきれなくなって、ついに倒れこんだ少年の身体を、母親のディーテが受け止めた。
「静かにね、眠っていればいいのよ。そうすれば、わたしを憎めないでしょう? わたしを、困らせたりもしないでしょう?」
謳うように告げて、母親は血を吐く我が子の背を撫でた。
「憎…んだ、こと…なん、て…」
ない、続けたいのに血が邪魔をして声が出ない。
背を優しく撫でる感触に泣きたくなった。ひどく穏やかな微笑みを浮かべて、子守り歌まで謳い出した母親から感じられる偽りではない優しさに叫びたくなる。
―― 自分が死ぬことだけが。
母親が、安らかになるために必要な唯一の状態なのだろうか?
悲しませたかったわけではない。なのに、確かに自分のせいで母は悲しむばかりだった。
激痛に苦悶するたびに、母が壊れていく。笑顔を返せないことで、母親が苦悩するのも知っていた。それが母を追いつめ、苦しめ、精神のバランスを壊させてしまってのは事実だ。
―― けれど、どうしようもなかった。
助けて欲しかったのは自分も同じだ。苦痛を味わいたくなどなかった。苦しくて、どうしようもなくて、いつ死んでしまうのかと怯えるのは恐かった。
「もう、誰からも憎まれないですむわ」
母がうっとりとした声で言っている。
霞んでいく。全てが終わるのだ。助けなどあるわけがない。死という明確な意味を知らない母は、死と永遠に眠り続けることを同じだと考えているのではないだろうか。
感覚が消えて、まるで他人のもののように遠く感じる自分の手を握り締める。
このまま死んでしまうわけにはいかない。眠り続けるだけではない、本当の死を目撃すれば、母はより狂ってしまうだろう。本当に、硝子のような心しか持っていない人だから。
きょとんと、なにが起きたのか分かっていない弟が隣で膝を折った。
母を連れて、立ち去るように伝えねばならない。何も分かっていない加害者と、傍観者が側にいても助かる可能性は増えはしない。―― 命乞いをするに相応しい相手さえ自分は持っていないのだ。
手を伸ばした。なんとか弟の衣服を掴む。
立ち去れと、叫ぼうとしてかわりに血液が溢れる。激痛とひどい熱さに身体が言う事を聞いてくれない。二人を去らせねばならないのに。
「兄上、なにかあったのですか?」
痛みをく理解できない弟でも不思議に思うのか、顔を寄せてくる。
発作を起こしても、血を吐いても。”わざとやっている”と思う弟の無邪気さが、今は少し救いだったかもしれない。
「……向…こうに…」
行っていろと、必死に訴える。
切れ切れの声が純粋に聞き取りにくいのか、無邪気に弟は首を傾げた。
せめて声を、聞き取ろうとする努力をしてくれてもいいのに。
「――……」
声が出ない。指先さえもが動かない。
母が幸せそうに笑っている。弟が返事を求めて体を揺さ振ってくる。
―― なにがそんなに楽しいのか。
死に逝こうとしている中で、何故幸せな声を聞いて、無邪気な反応を示されなければならない。
―― 睨んだ。
初めて、人を睨んだ。残っている力はそれだけで、だから全ての力を込めて二人を睨んだ。
―― 思えばそれが。世界を見放した初めての瞬間だったかもしれない。
びくりと弟は怯えて、手を引いた。子守り歌を続けていた母親も、驚いたように声を止める。残る命の全てを掛けて、アトゥールは二人を睨み続けた。
「母上、行きましょう。兄上は機嫌が悪いみたいです」
「あの子はいつだって機嫌が悪いわ。でも、そうね。もう―― そんなことはなくなるんだものね。もう少ししたら、貴方の兄様も、いつも静かに優しくなるわ」
怯えて弟が立ち上がる。おっとりと母が言った。
―― そんな事に、なるわけがない。
朽ちて、壊れて、彼女たちが知らない穢れた物質に成り果てるだけだ。それを見て、この二人は一体何を思う?
「……怖……い……」
全てが闇に包まれて行く。恐怖も、命も、何もかもを巻き込んで。
咽喉が焼き付いて息が出来ない。酸素を取りこめなくてさらに苦しさは増す。痛くない場所など何処にもない。自分で自分を抱きしめる、その力さえも残されていない。
―― 助けを求める相手がせめて欲しかった。
幸せそうに謳い、会話を続ける二人の声だけが、耳の中で響いている。
こうやって、ただ、死んで、行くしかないのなら。
―― 死んだ?
「アトゥール!!!」
唐突に、謳いさざめく声の変わりに、急激に別の声が蘇ってくる。
はっと目を開いた。血だまりになった大地の色が飛びこんでくる。流れ落ちてしまった血液を浴びて、重たげに葉を揺らせた名もなき草の形までもはっきりと知覚しながら、違和感を認識した。