第27話 困惑
第26話 希薄HOME第28話 狭間


 
 戦場が近い。
 空気から伝わってくる獣魂銀猫の気配も、さらに濃くなってきていた
 馬の脇腹を蹴って、目の前にある崖目指して全力疾走をさせる。通行可能とはとても思えぬ険しい崖の下は、戦場の舞台になっているアポロス橋のすぐ側なのだ。
 遅れて来た分、派手に登場して敵を威圧しようと考えたための進路だった。
 ―― 追い詰められるほどに余裕を装え。深刻にならざるを得ないほどに笑ってみせろ。
 これがカチェイとアトゥールの生き方だ。過去も、未来も、これだけは変わらない。
「お前が本当に死んで居たって、俺は笑ってなくちゃなんねぇんだよ。ふん、何の因果なんだか」
 弱音を偉そうに言いきって、カチェイは親友を抱える腕の力を込めて馬を加速させた。
 崖が迫り、そして馬を空中に躍らせた。
 視界に、陣を張りながらも仲良く動いていない金狼・風鳥両騎士団が見える。動きたくないのは分かるが、二つの騎士団が寄り添っていなくても良かろうにと思って、僅かに笑った。もしかしたら、主君たる人間が親友をやっていると、兵たちの仲まで良くなるのかもしれない。
「殺されるよりも殺せ。戦えるなら死ぬ寸前まで戦って見せろ。それが騎士団の鉄則だったはずだけどな!」
 向かい風が凄まじい。風の音がひどく、向けられる声を確認することは出来なかった。土煙にやられても困るので、目を伏せる。そんな状態の中、感極まった歓声をあげる騎士団の声を聞き取った。
 待ち望んだ主の登場に、騎士団員は下ろしていた公家の旗を勢い良く風に翻らせる。
「ロキシィ父様! 来たわっ!」
 金褐色の髪を揺らし、シュフランも振り向いた。確実に戦場を左右し得る個性の登場に、味方が沸きかえっている。放浪公王ロキシィは目を眇め後方を確認し、一人眉をしかめた。
「―― 異常だな」
「異常? なにが?」
 きょとんとした返事をする娘は、父親が何を見て異常だと判断したのか全く分からないのだろう。
 いかにませた子供でも、十歳の判断には限界があるのだと妙にロキシィは納得する。
 大体、五公国きっての美形であるカチェイとアトゥールの二人に夢中になっているシュフランに、カチェイが登場しても冷静でいろ、というのは無理な問題なのかもしれなかった。
「シュフラン」
 鋭く名を呼んで、魔弓天雷を放し変わりに娘を肩車した。
「――― なぁに? ロキシィ父様」
「良く見て確認しろ。馬は一頭だ。にもかかわらず、忠実な風鳥騎士団まで旗を振る。ならば風鳥騎士団の主がいるってこった。だが、どこにいる?」
 娘が異常に気付けないから不機嫌なのか、娘が男に夢中になる様に嫉妬しているのか、それは分からないがロキシィの声はひどく厳しい。シュフランは慌てて目をこらえた。
「――― カチェイ公子が、アトゥール公子を抱きかかえているわ…」
「それが普通の状態か? 恋人でもない奴にかかえられるなんぞ、公家の人間は女でも嫌がるぞ」
「……普通じゃないと、思う。じゃあ…」
 アトゥールが馬にも乗れない―― いや、意識さえ完全にない状態にあるというのか?
 途端に不安そうな顔になったシュフランを、大人気なくロキシィは下ろした。下げたはずの魔弓天雷を再度構え、おもむろに矢をつがえる。
「―― ロキシィ父様!?」
「死霊ごときに、取り付かれてんじゃねぇよ、ガキがっ!」
 シュフランの制止は間に合わず、我が子の目の前でロキシィは味方を狙い定めて矢を放った。―― 百発百中の矢が勢い良く空を翔ける。
「――― カチェイ公子っ!」
 声にならない悲鳴をあげていたシュフランが、ようやく名を呼んだ。遥か遠く、馬上のカチェイが切れ長の眼差しを上げる。―― 手には紅の刀身を持つ鮮やかな剣。
「あれは――」 
「ティオス公家の大剣紅蓮っ!」
 父と子が、同時に叫んだ。
 風を切り舞い飛んでくる矢を、滅ぼそうと唸るような音が剣から漏れた。同時にカチェイを守るように金色の獣が出現し、矢に向かって激しく吼える。
「―― 抗魔力だと?」
 ロキシィは憎憎しげに吐き捨てる。
 抗魔力の存在を、皇公王以外で知る者は本来いない。
 だからこそ、皇公王位にある者が魔力に似た力を使うのは、獣魂が守護しているからだと単純に信じられてきている。だが、カチェイは抗魔力を操った。ということは、彼は抗魔力の存在を知り、なおかつ使用方法も知っているというわけだ。―― 間違いない。小生意気なアトゥールの入れ知恵だろう。
 ロキシィの視線の先で、カチェイは大剣紅蓮を軽々を扱う。
「――― 畜生、あの放浪公王がっ!」
 シュフランが叫び声に頼ることもなく、カチェイはロキシィが放った矢に気付いていた。標的にされているのがアトゥールだということも瞬時に理解する。ようするに死体にしか見えないアトゥールを腕に抱えていることがばれたのだ。―― 生きているわけがないと、引導を渡すつもりの行動だろう。
「小さな親切大きなお世話だっ!」
 悪態を付きながら、ロキシィを無視して騎士団との合流を図る。
 普段ならば、苦手な人間が相手でも、作戦を打ち合わせることはしたはずだった。けれど、今のカチェイは戦力的に有利でもないというのに、そのまま前線に駆けていこうとしている。―― 死霊にとりつかれて、判断力を低下させてるんじゃないと吐き捨てるロキシィの考えはある意味正しい。
 けれど放った矢は防がれてしまった。
「あのガキ一号め…フォイスがいらんことを教え込んで、腕だけは立つようにしたからだ」
 実は男の子も欲しかったんだとあっさりと言いながら、フォイスがひねくれたガキ二人に剣術を教えていたのをロキシィは覚えている。各公家に伝わる武器とは異なる種類のものを使わせているのを見て、呆れたので印象に残っていたのだ。
「ロキシィ父様、ひどい! どうして、カチェイ公子を攻撃するの!」
 今にも泣き出しそうな顔で、シュフランが叫ぶ。
「なにいってる、シュフラン。俺が攻撃したのはガキ一号じゃなく、ガキ二号の方だ」
「……その、一号・二号ってなによ、ロキシィ父様」
「カチェイとアトゥールにつけた渾名だ。いつもセットでいやがるから、これで充分ってもんさ」
 からからと笑い出して、さらにロキシィは弓を構えようとした。
 シュフランは鋭く父を睨み付けて、思い切り突撃をかける。
「う…うげ…」
 幼い少女の頭は、父親の鳩尾に見事に入った。意表を付かれて、ロキシィは呻く。
「ロキシィ父様の馬鹿! 馬鹿馬鹿! 誕生日にも帰ってきてくれないし、ネレイル母様との結婚記念日にも返ってこないし、お土産はろくでもないし、いっつも家にいないし! そうやっていっつもシュフランを苛めてるくせに、どうしてカチェイ公子とアトゥール公子まで苛めるの!」
「…だ、だから、攻撃したのはガキ一号ではなくってだな…」
 大体、文句の大半はガキ共を攻撃したことに対するものじゃないだろうと、心の中で抗議する。
 幼い娘は頬を紅潮させて、父親が取り落とした魔弓天雷を引きずるようにして持ちあげた。
「聞く耳なんて持たないんだから! こんなの、没収!」
「お、おい、シュフラン!」
 シュフランがロキシィを霍乱している隙に、カチェイは完全に騎士団と合流を果たした。寸時に報告を受取り、眼差しをあげて状況確認を急ぐ。のんびりとして、アトゥールの様子を風鳥騎士団に気取られるわけには行かなかった。
 僅かに焦りつつ戦場を確認していきながら、カチェイは今更ながらに、親友の判断能力の高さに感心する。
「…ま、人には役目ってものがあるからな。これは元々俺の役割じゃなかった。俺が得意なのは―― 」
 カチェイが軍を指揮すると、軍全体の戦闘能力が上がるのが凄いところだよと、アトゥールが笑いながら評したことがある。その言通り、アデル公子カチェイは智将ではなく猛将なのだ。
「敵の第一陣は、ミレナ公家の銀猫騎士団の一斉斉射によって崩れている。今のうちに、敵の第二、第三の攻撃を阻止する。突撃!」
 指示を下すと同時に馬を加速させた。
 自らが指揮する歩兵集団の金狼騎士団を抜いて、機動力を誇る風鳥騎士団がカチェイのすぐ後に続く。
 途中、馬上から魔弓天雷を抱えて手を振っているシュフランが見えた。
 彼女がロキシィを牽制したおかげで、魔弓天雷の第二・三射が防げたのだ。その上放浪公王が呻く隙も作ってくれた。感謝を表す為に僅かに頷く。
「―― ま、運も将軍の実力の内ってことにしといてくれ」
 話し掛けるような口調でつい口走ってしまってから、カチェイは眉をひそめる。
 アポロス橋を渡り切った先には、ザノスヴィア王国軍が展開している。攻撃命令を下し、敵本陣をつくように命じるカチェイの目には、敵の数がかなり多く映っていた。
 ザノスヴィア王国軍が得意なのは、平原における三頭の馬に引かせた戦車の突撃だということも、忘れてしまっている。
「あの、馬鹿ガキ一号!! 完全に死霊に取りつかれて、判断力低下もいいところだ! やっこさん達の得意戦法が可能な場所に出て行ってやるなんて、アホそのものだっ!」
 ロキシィは目を剥いて叫んだ。
 迅速に配下の銀猫騎士団に前進を命じ、突撃していったカチェイ率いる金狼・風鳥騎士団が破れた際の撤退を援護するように指示を飛ばす。跳ね橋を上げる準備もして置けと、続けて叫んだ。
「―― こんなミス、アトゥールならせんし、させんだろうが。死んでる奴は―― 静かに眠らせてやるのが、情けってもんなんだぜ? …カチェイ」
 呟きながらも、ロキシィは最前線へと走り出した。置いて行かれたシュフランが抗議の声を上げたが、戻る気にはなれない。流石に、負ける部隊が出る可能性の高い戦場に、十歳の娘を連れ出したくなかった。
「ガルテ公国はまだか。あののんびり一族め」
 状況を変えるには、援軍が必要だ。だが、ガルテの獅子騎士団の姿はまだ見えない。
 カチェイの様子がはっきりと見える位置まで来て、ロキシィは首を振った。一見颯爽としているカチェイだが、その実ひどく動揺し、冷静さをしまっていることが良く分かる
 果たさねばならない役目が有るから、今、彼はまともであろうとして動いているだけだ。
 ロキシィに冷酷な判断をされているカチェイも、冷静さを失おうとしている自分自身に気付いていた。理性が必死に動いて、状況を確認しようとし続けている。
 何が間違ってしまっているのか?
 国境を侵すザノスヴィア王国軍を撤退させねばならない判断は、間違っていないだろう。ならば、何を間違おうとしているのか? 分からず、腕に抱えたアトゥールの髪が風に流れていくのを無意識に追いかけて、カチェイは気付いた。
 国境の橋アポロスを渡ってしまっている。
 目の前にあるのは広々とした平野。そして―― 戦車隊!!!
「………しまっ…!!!」
 ザノスヴィアは常に国民を飢えから救ってもやれない貧しい国だ。だが、保持している軍事力はかなりのものがある。軍事力を増強することにばかり金をかけるザノスヴィア王国の政治の有り様に、アティーファが怒り出したことがあった。答えたのは―― アトゥールだった。
「恐らく、飢えた国民に向かって、他国を侵略すれば豊かな暮らしを手に入れることが出来るのだと叫んでいるのだと思うよ。政治が悪いのではない。他国が豊かさを独占しているから、飢えねばならないのだとね。それを信じこむ民は、軍力が全てを解決する唯一の手段だと信じてしまう。だから、戦では結構強いものだよ。総合力ではなく、兵士個人で比較すれば、ザノスヴィア兵の方が強いだろうね」
 淡々と言いきるアトゥールに、アティーファは眦を吊り上げた。
「―― 近衛兵団や、各五公国直属の騎士団は強いと思う。そんな、ザノスヴィアの方が強いだなんて断言することない」
 不満も露に語気を強めるアティーファの隣で、リーレンも神妙な顔つきで頷いている。
 二人の反応に、何か間違ったことを言ったろうかと考えて、アトゥールは首を傾げた。
「騎士団員や、近衛兵団員のことを言っているのではないよ。言ったのは、一般兵の質さ」
「―― 一般兵ですか?」
 唇を尖らせて沈黙したアティーファの変わりに、リーレンが質問する。
 やれやれと肩を竦めて、アトゥールの隣で壁に寄りかかっていたカチェイは歩き出した。拗ねているアティーファの頭を軽く叩く。
「なにを拗ねてるんだ? アティーファ」
「…だって。悔しいんだ。ザノスヴィアの方が兵士が強い、だなんて断言するから」
「アトゥールは、騎士団員と近衛兵団員のことを言ってるんじゃないさ。アトゥールの言い方が悪かったからな、勘違いするのも仕方ねぇが」
 説明には気をつけたほうがいいじゃねぇか?と、指摘する視線をカチェイは親友に向けた。アトゥールは困惑した表情になる。―― アティーファを拗ねさせるつもりは毛頭無かったのだう。
「騎士団員や、近衛兵団員が弱いだなんて思ってないさ。困ったな、なんて説明すればいいのか。……例えば、今戦闘が開始されたとしよう」
 実際に戦いが起きたことを想定しての説明ならば、誤解も解けると思ったのだろう。おもむろに語り始めて、アトゥールは窓の外に視線をやった。
「初戦は両軍共に、正規軍が戦場で凌ぎを削るだろう。レベルが高い兵同士がぶつかるだろうけれど、エイデガル皇国側は勝利を収めるだろうさ。けれど、初戦に勝ったからといって戦いが終了するとは限らない。もしかしたら、国の誇りをかけて戦いを続行するかもしれない」
 そして、ザノスヴィア王国は徹底抗戦を選択する国であるだろう。
「次の戦場に出す正規兵がいない場合、敵国は働き盛りの民を出してくるだろう。次はもっと若い者達や、年配の者達も出すかもしれない。―― 結果、戦いは長期化する。長期化は、参戦してくる国を生むだろう。そんな事態になったら、防衛側に回っているエイデガル皇国も、正規兵だけでは兵力が足りなくなってきてしまう。そこで、兵力の補充を計るとする。さて、どうやって?」
 拗ねながらも、説明はきちんとアティーファが聞いていることにアトゥールは気付いている。尋ねて、少女の目を覗きこんだ。
「……兵の数が減ってしまって、正規兵だけで軍を保てなくなったら。徴兵を行う、かな」
「そうだね。そうなるよ。最悪戦争が泥沼化してしまったら、いつか戦いには程遠い民からの志願兵を募らねばならなくなるだろうね。そしたら、何があっても大丈夫だと安心しきっている民が戦場にでてくるんだ」
「……そうそう。パン屋のオヤジやら、裁断屋やら、農民やらが、今まで持っていた商売道具を武器に変えて、戦場に出てくるってワケだ」
 ニヤリと笑って、カチェイが簡単に補足する。
 アティーファとリーレンはお互いの顔を見合わせてから、小さく頷いた。
「男手がなくなってしまった皇公国内では、若いもんには負けないと常々活躍の機会を狙っていた老人やら、勝ち気な娘達やら、健気な子供達やらが、必死に働き出すというわけだね」
「なんか悲劇っぽい光景だな、アトゥール」
「そりゃあ悲劇を想定して話しているんだから、当たり前じゃないかな」
 二人、睨み合ってから突然に笑う。
 相変わらずの二人を見つめてから、リーレンは溜息をついて考えてみた。
 平和に享受している国。軍人以外は戦う術を知らない穏やかな民。その民が戦場に出る。彼等は皆、人を傷つけることなど、良くないと純粋に思っている優しい人々だ。
 飢え、豊かな生活を渇望しているザノスヴィア王国の民は、手段を選ばない苛烈さを保持している。
 民と民の戦いになってしまえば。確かに強いのは―― ザノスヴィア王国民の方だ。
 リーレンがそこまで考えた時、アティーファが立ちあがった。彼女の眼差しも、アトゥールが言いたかったことを理解している色が有る。
「国民を、戦わせるわけにいかないな。確かに、我が国の民は戦いでは役に立たないだろうから。でも…最初のアトゥールの説明は悪かった。私は、カチェイやアトゥールよりもザノスヴィアの兵士が強いって言われてしまったのかと思ったんだぞ」
 拗ねた口調で抗議して、アティーファは腕を組む。
 アトゥールは驚いて少女を見つめ、続けてカチェイに視線を移した。
「なに驚いてんだよ、アトゥール。光栄じゃねぇか。俺らが馬鹿にされたと思ってアティーファが怒ったんだからな」
「それは…嬉しいんだけどね。幾らなんでも、自分達を貶めやしないよ」
「まあなぁ。そりゃ、そうなんだけどな」
 二人、今度は揃ってアティーファを見つめた。
「だって、アトゥールは味方でも何でも冷静に切って捨てるじゃないか」
 何故か威張って、皇女は断言した。
「お前の負けみたいだぜ? アトゥール」
「そのようだね。じゃあ、今後はもっと表現方法には気を付けるよ、アティーファ」
「うん。そうしてくれ。でも―― その、エイデガル皇国の民まで駆り出すような戦いは…本当に起こしたくないな。民は弱くて結構だ」
 凛々しさを取り戻した眼差しで呟くと、アティーファがまゆをひそめた。リーレンは皇女の考え方が嬉しかったのか、ひどく幸せそうな表情を浮かべる。
「―― でも、話を蒸し返すようで悪いんだが。ザノスヴィアの正規軍は…その、弱いのか? こちらがそんなに簡単に勝つことが出来る程に?」
 聡明な眼差しを向けて、アトゥールに尋ねた。
「野戦に持ち込まなければね。大丈夫だと思うよ」
「―― 野戦に? それはどうして?」
「ザノスヴィア王国軍は三頭の馬に引かせた戦車隊を持っている。弓、槍、そして投石といった武器を積み、随時攻撃を仕掛けてきながら突撃してくる恐るべき軍団なんだ。ただ、これはね。戦車を無事に走らせるだけの平野がなくちゃ駄目だからね。野戦をしなければ大丈夫だよ」
「ふぅん。野戦か…」
 ―― 戦車隊の突撃。
 長く続けてしまった回想の果てに、カチェイはある事実に気付いて息を飲んだ。
 今。軍を率いて、辿り着いたこの場所は何処だ?
「―― しまった!」
 臍を噛む。冷静さを失っていた事を、痛いほどに実感した。
 上げた視界に、アトゥールをして恐るべき兵団だと言わしめたザノスヴィアの戦車部隊が姿を見せ始めている。―― 突撃を仕掛けてくる寸前だ。
 ―― 撤退するべきなのか、それともこのまま進ませるべきか。
 判断に僅か悩んだ瞬間に、地鳴りが響く。敵が動いた。
「――っ! 金狼騎士団前に出ろっ! 大盾を前にし、その間に長槍部隊を配置っ!」
 敵の足を止めるしかない。今撤退命令を下せば、軍の指揮系統は混乱するだろう。ならば伸るか反るか、留まって突撃を耐えるしかない。
 迂闊な自分を激しく呪いながら、カチェイは抗魔力と大剣紅蓮の力によって、敵の突撃を食い止めるべく陣の最前まで馬を走らせた。
 だから、気付いていなかった。
 過ぎようとしている大気が、風の形を取ろうと蠢き出す。
 ―― あたかも髪を、肌を、指先を、唇を。全てをかすめ、過ぎて行くかのように。
 風が目覚め始めていたことを。


第27話 困惑
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