第26話 希薄
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 ざわめきが喧騒となって大地を支配し、普段は静かなレキス公国とザノスヴィア王国を分ける国境の川エウリスは、今ひどく異様な活気に支配されていた。
「敵の第一陣が橋に取りつき始めました!!」
 張りのある声が上がる。それを受けて、濁流の川の左右に高くそびえている堤の横から、のっそりと起き上がる影があった。
「やあっとアポロスを渡る決意をしやがったか。あんまりにも待たせるから、寝てやろうと決めた所だぜ」
 関節が音を立てるほど首を左右に動かして、男は目を細める。年は恐らく三十代の後半か四十代前半といった所だろう。隆々とした筋肉に、日焼けした肌に良く似合う金褐色の髪をしていた。
「ロキシィ父様っ! 服のボタンをちゃんと全部止めてから起き上がりなさい!」
 叱責の声が飛びこんできて、男は肩を竦めた。軽やかな足音が頭上で響き、堤の上から少女が顔を覗かせる。男と同じ金褐色の長い髪を、左右二つに分け高く結い上げていた。
「どうしてそんなに、お行儀が悪いの、ロキシィ父様は」
「シュフラン…お前、随分とませた口をきくようになったなぁ。ところで何歳になったよ?」
「娘の年も覚えてない父親なんて最低最悪だわ。ロキシィ父様!! ネレイル母様に見捨てられても、シュフランは知らないから」
「お、それは違うぞシュフラン。女を口説くなら、年は数えないに限るって事を覚えとけ? 事実、俺はネレイルの年は二十歳から先は覚えてないぞ」
 自分自身の台詞が気に入ったのだろう。からからとロキシィと呼ばれた男が笑い出す。シュフランという娘は、腰に手を当てて父親を指差した。
「それって凄く厭味よ、ロキシィ父様。第一女を口説いたりしないから関係ないの。それに、その言い分だと、二十歳までは覚えておくべきだって事じゃない。シュフランは二十歳はまだ遠いわ」
「……お前口が達者になり過ぎだぞ。ネレイルの教育もろくでもないな」
「ひどいわロキシィ父様! 口が達者なのは、父様とシュフランが親子だっていう何よりの証しなのよ。それなのに、ろくでもないだなんて。だいたい、口が達者なのは公家の遺伝なんだから、勝手にネレイル母様のせいにしないのっ!」
「へいへいっと。ったく、男は悲しいねぇ。妻と娘にゃからっきし頭が上がらなくなっちまうんだからな」
「―― で、シュフランは一体何歳なのよ」
「十歳だな」
「―― 嘘吐き! 意地悪! ちゃんと覚えてるじゃないっ」
「忘れたとは言ってねぇよ、シュフラン」
 にんまりと意地悪く笑うと、頬を膨らませた我が子の小さな身体を担ぎ上げ、歩き出す。
 彼こそが、エイデガル皇国を支える五公国の一つ、銀猫宝珠と魔弓天雷を持つミレナ公国のロキシィ・セラ・ミレナだった。抱えられている娘は、一粒種のシュフラン・リリア・ミレナだ。
「公王!! 先程申し上げた通り、敵の第一陣が橋に取りついたのです! なにかご命令はないのですか!?」
 怯えと緊張とでカチコチになった騎士が、公王親子の指示を求めて叫び声を上げる。
 エウリス河にかかる橋アポロスを挟んで、完全武装したザノスヴィア王国軍と、ミレナ公国の銀猫騎士団が対峙していた。
 ―― ここは戦場の最前線だ。
 鷹揚に構えていたロキシィは、娘を抱えたままアポロス橋に視線をやる。
 水軍国家エイデガルの性格を現し、船の行き来を可能にする為に配慮された橋は跳ね橋だった。
「跳ね橋をあげて、敵が渡れない様にしろっつー意見もあったがな。もしその通りにしていたら、この楽しい状態は生まれなかったわけだ」
 行動命令を求める騎士団員をからかうかっているのか、見当違いな意見をロキシィは述べる。
 もしアポロス橋を使用不可能にしていれば、ザノスヴィア王国軍が攻めてくるポイントを限定できなかっただろう。今、こうして準備万端の状態で敵軍を迎えることが出来るのは、ひとえにアポロスを正常に使える状態にしておいたためだ。
「ま、橋を上げなかった本当の理由は、一斉に色々な箇所を攻められたら、防衛する兵力が足りなくて困るところだったんだけれどな。ザノスヴィア王国が馬鹿でいてくれて助かったぜ」
「ロキシィ父様、攻撃命令出さなくていいの?」
 いきなり語り始めた父親にむかって、現実的なことを娘が尋ねる。地の色が分からないほどに日に焼けた顔をロキシィはシュフランに向けて、ウインクをした。
「まぁだ耐えられるさ」
「そうかしら?」
「そうさ」
「敵が突撃を開始しました! ご命令を、ロキシィ公王っ!!!」
 そうさ、と言いきったロキシィを否定するように、騎士団員の絶叫が響く。シュフランは藤色の双眸を胡散臭げに細めて、父親を睨んだ。
「ロキシィ父様、あれは私、恐いと思うわ。なにか命令してあげるべきよ」
 幼い手を持ち上げて、注意を促す為に戦場を指差す。
 アポロスは、横に大人十人が並んで渡ることが出来る橋だ。その橋を、一斉に得意な武器を手に突撃してくる様はかなり迫力が有る。間近に迫り来る敵兵を確認しながら、土嚢に身を隠し、矢をつがえたまま大気を命じられる銀猫騎士団の恐怖は如何程だろうか。
「恐いもんか? あれだけ突撃してきたら、何人矢の餌食にしてやれるかって考えて、血沸き肉踊ると思うんだがなぁ。俺が留守にしてる間に、肝っ玉小さくなっちまったのか? 奴等」
「ロキシィ父様に比べたら、全人類の肝っ玉が小さいことになってしまうわ」
「そんなもんかねぇ。結構フォイスの奴は肝っ玉大きいほうだったような?」
「フォイス皇王陛下は、ロキシィ父様と親友をしてしまうくらい奇特で不思議で稀なお方なの。そんな方を一般市民と同じように比べては、普通の人類に失礼よ」
「―― その言い方だと、俺もフォイスも変人中の変人って言われてるみたいだな」
「その通りよ。だって、そう言ってるんだもの」
「はっはっはっ。シュフランは賢いな」
「ロキシィ父様がお馬鹿なのよ」
 断言した後、シュフランは素早く戦場を確認する。ザノスヴィア王国軍兵士は、銀猫騎士団員の能力ならば、目をつぶっていても矢を当てれるだろう位置まで距離を詰めていた。シュフランは父親を睨んで、ロキシィが背に担いでいる金と朱の色で装飾された見事な魔弓天雷を指差す。
「限界よ。―― あのままじゃ、敵に殺される前にみんなショック死だわ」
「それもそうか。俺は騎士団を捨て駒にするほど気前はよくないしなぁ」
 ニヤリと笑って、ロキシィはシュフランに親指を付きたてた。
 合図だったのだろう。娘は抱えられた肩から飛び降りる。父親は背にする弓を、目にもとまらぬ速さで構え、素早く引き絞った。引かれた弓が、満月のごとき円を作り出す。
「騎士団! 頭、下ろしとけよっ!」
 ロキシィが大声を張り上げると同時に、風が鳴くような音が突如響く。
 御剣覇煌姫、大剣紅蓮、細剣氷華、双刀風牙、魔弓天雷は、それぞれ特殊な力を持っている。獣魂たちが、抗魔力を与えた皇公族使用者を補佐するために、力を附加させたのだ。―― 全て、最初に抗魔力を手に入れた者達が扱っていた武器が基本になっている。
 当然時代はすぎ、代は変わる。自然と、初代が持っていた武器が、子孫に合う保証は無くなっていった。―― アトゥールに大剣紅蓮が、カチェイに細剣氷華が合わないように。
 ロキシィが唯一、現在公王位につく者の中で伝わる武器と最高の相性を保持していた。
 武器を操る技量。高い抗魔力。獣魂の充分な覚醒。これらの条件を満たした者が魔力持つ武器を使う時、巨大な魔力が発動する。
 そして今、魔弓天雷と獣魂銀猫の力が合わさろうとしていた。
「唸れよ、天雷!」
 格好良さげな言葉を口にするのが好きなロキシィを、恥ずかしそうに睨むシュフランの目の前で、大気が変化した。吹き込んできた風が空を貫き、暗闇が生まれ、雷の気配が忍び寄ってくる。
 ロキシィ・セラ・ミレナは、魔弓天雷と獣魂銀猫の力によって、自在に雷を操るのだ。
「攻撃準備!」
 叫ぶと同時に弓を放った。放たれた矢が舞い降りた地点を狙って、巨大な落雷が起きる。
 晴天だったはずの空が吐き出した突然の雷に、ザノスヴィア王国軍の足並みが乱れた。突撃は高い攻撃力を誇るが、足並みが乱れた時は弱い。これこそが、ロキシィが狙っていた好機だ。
「――― 撃ちなさいっ!」
 父親の合図を受けて、シュフランが澄んだ声を張り上げる。
 女子供であっても、戦場では最高の将軍であるようにと育てられる公家の姫君だ。凛々しい公女の命令に、攻撃命令を待ち望んでいた銀猫騎士団員達は矢を放つ。
 白亜の橋は、瞬時に紅に染まった。
「とはいえ、決め手がねーんだなぁ。うちの騎士団だけだとよ」
 巨大な魔弓天雷を僅かに下げて、ロキシィはぼやいた。
 五公国が保持する軍力には、やけに偏った特徴がある。
 ミレナ公国は遠距離攻撃を良くこなし、ガルテ公国は篭城・攻城を得意とする。アデル皇国は歩兵のみで戦い、ティオス公国は機動力重視の騎兵を持つ。レキス公国が、歩兵と騎兵の半々で構成された騎士団を保持していた。
 五公国全てが揃えば、厚みのある戦力を持った頼もしい集団になる。だが、一国だけではどうも心もとない集団になってしまうのだ。
 もし、ザノスヴィア王国が誇っている三頭の馬に引かせた戦車による突撃が可能な場所に戦場が移されてしまえば、勝機はかなり減るだろう。
「ったく。ガルテんとこの後継ぎと、獅子騎士団は何してんだか。うちだけだと、ちとマズイってのに」
「ロキシィ父様、愚痴ってる場合じゃないわ」
「だなぁ。けどな、軍を下げるわけにもいかないんだな、これが。エイデガルの合言葉は昔から、合戦するなら国外でだ。ここを引いたらレキス公国内で戦うことになっちまう」
「―― 金狼・風鳥両騎士団はどうして戦わないの? ロキシィ父様」
 厳しい声で指摘して、シュフランは結い上げた髪を血の臭いを含んだ風に揺らし振り向いた。
 主君の命令により、アポロス橋に集まっていたアデル公国の金狼騎士団とティオス公国の風鳥騎士団が、動く気配を見せずに佇んでいたのだ。
 両騎士団が加われば、問題はなかったはず。 
「公家の騎士団にゃ、問題が多いんだよ。シュフラン」
「―― 分からない」
「各公国の民が被害に合わない限り、自主的に騎士団が動くことはないのさ。騎士団を動かすには、指揮するに相応しい人間が必要とされてる。あれは公子直属の部隊だからな。カチェイとアトゥールがいなけりゃ、動かんさ」
「でもっ! こんな状況だってのに!」
「シュフラン。五公国の兵力を自在に動かしていいのは皇王だけだ。そういう事にしておかねぇと、いつ公国同士が手を組んで、反乱を起こすかわからねぇだろ?」
 口元だけはおどけていたが、眼が全く笑っていない。咄嗟にシュフランは怯えた。
 他国から見れば、奇跡に等しいのだろうエイデガル皇国と五公国の関係。だが、それは綺麗なだけのものではないのだ。協力し合っていなければ国が保てぬから、協力を続けているだけ。
「―― なんだか、悲しい…」
「だな。ま、潔癖な事を言っていて許される子供時代に、沢山怒っとけ。シュフラン」
 娘を撫でながら言って、ロキシィは次の手を考える。ガルテ公国は既に本国を出ている。来援はあるのだ。それまでは、なんとしてもミレナ公国だけで凌がねばならない。
 しかも苦戦して凌ぐのではなく、余裕があるように見せる努力をせねばならないのだ。
 もしザノスヴィア相手に苦戦する醜態を見せてしまったら、エイデガルが最強だということを他国は疑うだろう。そうなれば、混乱に乗じて参戦してくる国が出ないとも限らない。
 少しは命をかける必要もあるだろう。
「ま、死ぬつもりはねぇけどな」
 不敵に言いきって、彼は魔弓天雷を再度構えた。
 敵兵が落雷に驚いた様子から、レキスに干渉したらしい魔力者は、戦場に現われていないとみた。ならば、人知を超えた力を見せ付けて、敵の足を止めることは可能だ。
「趣味じゃねぇんだな。こういうのはよ」
 戦いは一瞬で終わらせる。
 ロキシィの趣味は―― 本来そういった戦いなのだ。

 
 
 眉をひそめて、カチェイは突然目を上げた。
 空気中に、肌を刺してくるような激しい感触が潜んでいる。
「―― 銀猫…か? ってことは、戦があるってんで戻って来たわけだ。あの放浪公王が。……ちっ…他の奴なら、どうとでも言いくるめる自信があったんだけどな」
 前進しようとする馬の手綱を引いて足を止めさせた。
 常に闊達で、強い意思を宿していた鋼色の瞳が曇ってくる。いや、眼差しだけではなかった。カチェイという人間そのものが、ひどく憔悴しているように見える。
「ったく。こんなところ、誰にも見せられんな」
 自嘲気味に言って、手綱を離し、そろりと額の汗を拭った。
 弱みを他者に何があっても見せたくないのがカチェイという人間であり、親友のアトゥールの考え方でもあった。だが今回ばかりは、そのやせ我慢のような信念を嘲笑したくなる。
 弱みを見せたくないから、アティーファの事情を説明出来ずカチェイは姿をくらませた。
 敗北したままの状態が許せずに、危険を承知で仲間と合流する前に反撃に出てしまったアトゥール。
「良く考えれば、俺たちは大馬鹿野郎かもしれねぇな」
 お前性質は扱いにくい、と子供だった頃に皇王フォイスに指摘されたことがある。特にアトゥールの方は、いつかその性格が命に関わってくるとも断言された。
「あの時は、何を言ってんだと思ったもんだけどな」
 指摘は正しかったなと呟いて、カチェイは前を睨んでいた視線を剥がして、腕の中に落とす。
 生きている人間の証しを、何一つ持たない親友が、静寂の中で目を閉ざしていた。
 意識を失っている人間を運ぶときは、細心の注意を払わねばならない。なにせ衝撃が来ても、身を竦めることも、避けることもしないのだから当然だった。
 蒼褪め、心音も、呼吸音もさせないアトゥールはどう見ても死んでいる。なのに、生きているのだと信じてしまった。
 他人がこの状況を見れば、死体を持ち歩く人間が居ると驚き、嫌悪するだろう。
「…狂人扱いは免れないだろうな。ま、当然か。俺自身、気が違ってきたような感じがするからな」
 冷静さを取り戻そうと頭を振った。
 本当は正気を手放すことが出来れば、楽になるはずだった。だが、公家の人間として果たすべき役目や、残してきたアティーファのこと、国境で起きているだろう戦乱のことを思うと、おちおち狂ってもいられない。
「あっちについたら、どうやって説明するかな。状況的には、呼吸停止、心音停止。不審なのは、直後の異常な冷気だけ。―― 今は凍りつくほどの冷たさは去ったが、それでも冷気自体はなくなっていない。あまりに説得に使える材料が少ねぇな」
 希望を抱いたのは、最後にアトゥールが”かけるから”といった言葉にだ。
 だが、これは説得材料にはならないだろう。勝手な思い込みだと、死んだことを認めたくない心が縋ってるだけだと一笑に伏されてお終いだ。
「――― ちくしょうめ…」
 こんなにも確証にかけた状況のなか、それでも死んではいないと信じている。
 そうでなかったら、腕に抱えてここまでこなかっただろう。
 エイデガル皇国は水葬が主体だ。皇公族の場合は、アウケルン湖に埋葬することが多い。勿論、各公国内にも、特別な湖は存在する。先程まで戦っていたレキス公国城のすぐ近くにも、それはあるのだ。
 ならば、アティーファは主張するだろう。エイデガル皇国に戻すよりも、遺体が痛んでしまう前に、埋葬しようと。―― そして、アティーファを説得する材料をカチェイは持たない。
「……アトゥール。お前、生きてるのかよ、死んでるのかよ…一体どっちだ」
 生きているのだと、なんとか信じ込み続ける。
 腕に抱いたアトゥールに視線をやる度に”死”という現実を繰り返し見せ付けられても。他人を説得することも出来ない根拠の希薄さに、自分自身も激しく揺さぶられながらも。
 ―― それでも信じていた。
「せめて返事ぐらいしやがれってんだ!」
 カチェイが希望を手放すのは、冷気が去り、腐敗が訪れ、身体中の至る個所から汚物が流れ、何処からともなく沸いてくる虫達に蹂躙されてからなのかもしれなかった。
「―― ちくしょう…」
 ―― 吐き気がした。
 恐怖と、嫌悪と、希望と、絶望と。あらゆる感情が間断なく押し寄せてくる。平気だと思いこもうとしているが、本当は平気ではない辛さが、吐き気という自覚症状を訴えているのかもしれなかった。
 それでもカチェイは、公家の人間として行動する。
 手綱を握り、前進を命じた。馬が動くと同時に風が動いて、アトゥールの長い髪が静かに流れる。
 ―― 生きているはずだ
 もう一度、カチェイは強く思い直した。
 何時まで信じていられるかは分からない。それでも、可能性がある間は、精神の限界まで希望に縋って居たかった。


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