第25話 岐路
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 馬を走らせている。
 エアルローダの気配はエイデガル皇国付近から突如消えた。折り重なる抗魔力によって守られている皇国内では、深手を癒すことが出来ないのではないかとリーレンが言う。
「対魔力結界が完全に途切れたレキス公城内に入った時、激しい熱さを感じたのです。今思えば、あれは急激に魔力が解放されていった感触もあったと思います。干渉下から離れただけであれだけの影響が出てくるなら、撤退したほうが無難ではないでしょうか」
 リーレンは器用に手綱を操り、少女の隣を並走しながら呟く。
 騎馬民族ではないエイデガル皇国民であるアティーファとリーレンが、自由自在に馬を操るのは、カチェイの影響が強かった。そのカチェイは、騎馬を重んじる風鳥騎士団の主であるアトゥールの影響を受けて乗馬になれた節が有る。
 道を進むのは二人だけで、リィスアーダ・マルチナ・イル・ザノスヴィアの姿はない。
「……リィスは大丈夫だろうか?」
 激しく吹きつけてくる風のせいで、目に砂が入ったのだろう。アティーファは眉をひそめる。
 本当は、リィスアーダも連れてエイデガル皇都に戻るつもりだったのだ。
 だというのに、レキス公王夫妻を救い、カチェイとアトゥールの姿が消えたことが分かると、ザノスヴィア王女は突如ザノスヴィアに戻ると言い出したのだ。
 リィスアーダが決断する寸前、アティーファはひどく切なげな表情をしていた。アトゥールを失い、側から離れることなどないと信じていたカチェイにまで去られて、寂しくて仕方ないのだろう。
 アトゥールが死んだことを、アティーファは事実として認識はしている。
 だが、実感は無かった。性質の悪い夢を見ただけのような気がしている。だからこそ、アトゥールにあって、”彼が死んでしまった”という事実を自分自身に言い聞かせねばと思っていたのだ。
「なんで――」
 呆然と息をついて、二人が確かに居た形跡―― 流れた血の色に染まった大地の上に膝を付く。
「―― カチェイの気配は……どうやら、国境の方向に、むかっているような…感じが僅かにします」
 唐突に、ゆっくりとした口調でグラディールが口を挟む。
 いきなりの発言に驚いた人々を見渡しながら、なにか?と尋ねるように首を傾げた。
 グラディールは突飛な発言や、行動をして見せることが数多くある。
 エアルローダの精神支配から解放された瞬間、ダルチェは夫を詰問としようとした。けれど彼女が口を開くよりも早く、いきなりグラディールがダルチェを叱りつけたのだ。
 まさか夫に叱責されるなど考えていなかった妻は呆気に取られる。その隙に、グラディールは嬉しそうにローブを脱ぎ、ダルチェの肩にかけた。
「ダルチェ。非常識だよ。―― お腹に子供がいるというのに、そんな格好で戦っていたなんて」
 あまりに暢気すぎる言葉ではないだろうか。
 ダルチェが一人戦わねばならない状況に追い詰められたのも、夫を殺そうと決意せねばならなくなったのも、本来ならば表立った意思をまだ伝えない赤子が目覚めたのも、グラディールに責任がある。天馬騎士団員の屍を切り刻むのが可哀想だからと、抵抗を放棄し、結果精神を呪縛されなければ、ダルチェが追い詰められることはなかったのだ。
「いい加減にして! 元々、私がこんな状態で戦わなくちゃいけなかったの、誰のせいだと思っているの!?」
 妻の怒りをひどく不思議そうに見て、夫はなんとなく笑った。
「多分、あの少年魔力者のせいじゃないかな?」
「そ、それはそうなんだけど」
「大丈夫だよ、ダルチェ。もう操られたりしないから。そうだ、赤ちゃんがお腹を蹴る音ってもう聞こえるかな? 聞きたいな」
「そ……そんなこと、言ってる場合じゃないんだってば!」
 叫んで、ダルチェは夫に指を付きつける。
 飼い主に怒られた犬のように首を竦める仕草をした。ふと妻の後ろに視線をやって、アティーファの様子に気付く。呆然と立ち尽くして、居るべき誰かを探す目をした、悲しい少女の姿。
 グラディールはいきなり妻の手を取り、二人揃って初めて機能するレキス公王としての力を集めた。カチェイは同じ五公国の人間であり、獣魂の守護を受けている者でも有る。
 互いに呼び合う獣魂の性質を利用すれば、カチェイの大体の位置を把握するのも可能だった。
 ―― これが、カチェイが国境に向かっている、というグラディールの発言に繋がる。
 アティーファは訝しんで首を傾げた。国土の殆どが海と川に面してるレキス公国にとって、最大の国境はザノスヴィアとレキスを繋ぐアポロス橋を意味する。
「―― 今、カチェイがアポロスに……ザノスヴィアとの国境に行かねばならない理由はなんだ?」
「国境沿いで何かが起きていれば…何か…?」
 アティーファの問いに相槌を打つようにして、リーレンは考え込んだ。
 隙あれば妻のお腹に耳を当てようと機会を伺っている長閑なグラディールが、ふいに眉を潜める。
「お願いだから、グラディール。体温が低下しすぎとか、そういうことを今言わないでよね」
「流石はダルチェ。私が言いたいことは全部分かってるみたいだね。じゃあ」
 邪気のない笑顔を浮かべて、彼は両手を広げて妻の身体を抱きしめようとした。
「だからっ! どうしてっ! 貴方は、そんなにペースが変なのよ!」
「どうして夫が妻を抱きしめちゃいけないんだ、ダルチェ」
「時と場合があるの。それを分かってくれないと、嫌いになるから!」
「―――― そ、それは困るよダルチェ」
「困るんなら真面目にしていて! 今は対策を考えなくちゃいけないのよ。レキス公国はこの通り、今、エイデガルを守る五公国の役目を果たせなくなってしまった。今出来ることといえば、かろうじて復活させることが出来た対魔力結界を守ることしかない。あとは―― 四公国の軍勢をかりて、戦場にかけつけるだけ……戦場?」
 ―― 常に戦争が起きる波瀾を抱く場所。…それが国境だ。
「…失念していたわ。グラディール、ザノスヴィア王国が攻めてくるんだわ」
「―― 当たり前じゃないかダルチェ。敵はレキスの封鎖を目的に動いた。異変を周囲に気取らせないことで、完全に沈黙させたかったからだろう。なにかを隠したかったんだ。なら、それはなんだ? 簡単だよ。国境を破り、アポロスをこえてくる何かをぎりぎりまで隠すためだ」
「……グラディール……」
「ん? なんだい、ダルチェ? 惚れ直すのは何百回でも大歓迎だよ?」
「そういう事は先に言って!!」
 今度こそ頭に血が上ったのか、ダルチェはいきなり拳を振り上げて夫を殴る。
 漫才のような会話をして見せるカチェイとアトゥールも、この二人にはどうやら負けていたようだ。この夫婦の会話は漫才じみているのではなく、そのものだ。
 夫婦の会話の中にある有効な情報だけを聞きとりながら、アティーファは思案を続ける。
 少年魔力者エアルローダの目的は何一つわかっていない。
 ただ一つ。彼と剣を交え声も交わしたアティーファは、気付いたことがある。
 ―― エアルローダを突き動かしているのは、底知れぬ憎悪の影なのだ。
 彼自身のものであるのか、別の誰かのものであるのか、それは分からない。けれど常に口元に浮かべる作り物の笑みが剥がれた瞬間に見せる冷たさは―― 激しい憎悪そのものだった。
 片手を上げてリーレンを招く。
「アトゥールがレキス来る前に言っていた。この国で異変が起き、そこに魔力者も絡むならば、事件は小さくないと。ザノスヴィアが攻め込んでくる可能性が最も高いとも、言っていた。…そして憶測は現実となり、このタイミングでカチェイが姿を消した。何故そうしなくちゃならなかったのか、悔しいけれど私には分からない。けれどカチェイが五公国の人間である責任を放棄する人間ではないことを知っているし、信じてる。なら…」
 長い言葉を一旦アティーファが切った。相応しい言葉を捜しているのだろう。それが分かるので、リーレンはあえて口を挟まなかった。
「多分―― 答えは簡単なんだ。ザノスヴィアとの国境で近々戦の火蓋が切って落とされる。それに対応するべくカチェイは動いた。知らせてくれなかったのは…私に会いたくなかった理由があったから…だろう」
 気高いほどに自尊心が高く、親友を失ってもなお強さと態度を崩そうとしなかったカチェイ。心から自分を可愛がっていてくれた彼が一言も告げずに姿を消した。―― そうせずにはいられなかった、彼の心はどれほど苦しんでいたのだろうか?
 今までのように大人達に甘えきって…立ち止まってる場合ではない。
 誰だって辛いことはある。―― それはどんな強さを持つ大人でも同じだったのだから。
「リーレン。私はエイデガル皇都に戻る」
 断言し、黙って決断を下すまで待っていてくれたリーレンに視線を向ける。
 例え側から誰が離れていこうとも、彼だけは離れることはないと、ごく自然に思うことが出来る。この無意識の信頼が、今のアティーファの気丈さを支えていた。
「―― 起こるだろうザノスヴィアとの国境紛争はカチェイ公子に任せるのですね?」
 確認の為にリーレンは尋ねる。アティーファは肯いた。
「ああ。それに父上のことだ。すでに残る四公国を動かしていると思う。兵力的にも大丈夫だろう。あと、ダルチェとグラディールは、復活した国内の魔力を封じる力の場を崩させない為にも、レキスを離れアデルに身を寄せてくれ」
 突然の宣告に、寝耳に水といった有り様でダルチェが顔を上げる。
 レキス公国と隣接するザノスヴィアとの戦が勃発すれば、動員される国はエイデガル皇国領を挟んで両隣にある、ガルテ・ミレナ両公国だろう。このどちらかと合流するならば、来るべき戦いにおいて武勲をあげる機会はある。だが―― アデル公国に動いてしまってはそうもいかない。
 どちらかといえば幼い顔に朱を走らせて、ダルチェは怒りを露にした。
「…我々には、汚名返上の機会も与えて下さぬということですか!?」
 アデル公国の役割は、同じくレキスから離れているティオス公国と同じく、ザノスヴィア以外の諸国に睨みをきかせる為に臨戦体勢を取りながらも、あえて動かずに静観する構えを取るはずだ。
 ようするに言葉を簡単にすれば、役立たずは後方で大人しく下がっていればいいと断言されたようなものだ。怒りに震えるダルチェの有様に、やんわりと夫グラディールは慰める為に微笑む。
「…気持ちは分かる。でもね、ダルチェ。考えてもごらんよ。我々の公王としての力は余りに不確かだ」
「―― どうしてそんなに長閑なことを言っていられるの!? 私達は償いきれない失敗をしてしまったのよ。しかも、私達は意味のない民なき王になってしまった! 今の私達は、公王と呼ばれる資格だって本来ないのよ!」
「―― ダルチェ!」
「うるさいわ、グラディール。黙っていて! 皇女、私達は貴方の言葉に絶対服従しなくてはならない義務は本来ないのです。そこまで理不尽な命令、直接、エイデガル皇都でフォイス皇王から直接命令されねば承諾など出来ない!」
 ダルチェは激していた。
 確かに皇王位に付いていない子供の命令に、服従する義務はレキス公王にはない。
 けれどそれを考えてもダルチェの態度は度が過ぎていた。グラディールとリーレンが、揃って困惑の表情になる。
 アティーファは今まで、こうもあからさまな不満をぶつけられた経験はなかった。
 命令せねばならない事柄が起きれば、アティーファの希望を上手く取り入れて、カチェイとアトゥールが上手く対処してきてくれたのだ。こういう事柄一つとってみても、今までどれだけ庇護さえてきたのかを皇女は実感する。
 不思議と怒りは感じなかった。アティーファはただ静かに右手をあげて、さらに詰め寄って来ようとするダルチェを制する。そして目を細めた。
「ダルチェ、そしてグラディール。二人揃っていても不完全でしなかった能力が今、完全なものになっているのは何故だ?」
 静かに、父王フォイスに良く似た凄みを宿す翠色の瞳を真正面に向け、尋ねる。
「―― 恐らく…この、新たに授かった赤子の力が加わったからだと思われます」
 直接的な質問に、屈辱を感じたのか僅か震えたダルチェの返事に、アティーファは鷹揚に頷いた。
「だからこそ。今、戦場に出ることを許すことは出来ない。この状態を持続させるためには、ダルチェが懐妊した子供が無事で居続けることが必要なんだ。戦場に出すことなど―― 許すわけにはいかない」
 本来、国民も、率いる兵力も、補給物資までも失ったレキス公王に存在の意味は無い。
 彼等の価値は今、抗魔力保持者という事実だけだった。
「ひどいかもしれないけれど、これが現実だと思う。おそらく父上もそうおっしゃるだろう。だからこそ、国境にやるわけにも―― 共にエイデガル皇都にくることも私は許さない」
「―― 戦場が赤子の命を縮める可能性があることは納得します。けれど何故、我々がフォイス皇王の口から命令をうける権利までも奪われねばならないのか!!」
 ダルチェがさらに叫ぶ。一度感情が高ぶると、彼女自身でもコントロール不可能になる激しすぎる性格こそが、「自分は公王の器ではない」と彼女に悟らせた一因でもあった。グラディールは心配げに妻の肩に手を伸ばし、そっと抱きしめる。
 落ち着くどころか怒りを増していくばかりのダルチェに、アティーファは黙り込む。
 父王フォイスならば。カチェイならば。アトゥールならば。こうも彼女を昂ぶらせずに話を進めることも出来たのだろう。やはり自分は未熟過ぎるのだと、実感させられるのはやはり辛かった。
「…エイデガル皇都が最大の激戦に陥ると、私は思っているんだ」
 ぽつりと、呟くようにアティーファが言う。ダルチェが言葉の意味の重さに、敏感に顔を上げた。
「―― 皇都が?」
 流石にそんなことは考えてもいなかった、というダルチェの声だ。
「エアルローダはエイデガルを憎んでいる。しかも……国の象徴である私達の血筋を憎んでいるような気がした。だからこそ、動けるほどに怪我が回復すれば、エアルローダは確実に皇都に攻撃を仕掛けて来るだろう。周囲の国の指導者を操り、エイデガルに戦を仕掛けさせ、皇都の護りが薄くなった隙を突いて」
 各地で戦いが起きてしまえば、抗魔力を持つ数少ない公族たちも戦いに奔走せねばならなくなる。そうなれば―― 五公国を含むエイデガル皇国全土を包む対魔力結界の効力は薄れる可能性が高い。
 抗魔力の力が落ちれば、確実にエアルローダが操ることが可能な対象は増える。結果、不気味な軍勢が皇都を攻め上ってくるだろう。だからこそ、アティーファはエイデガル皇都に早急に戻らねばならないと判断したのだ。
「抗魔力を持つ者を―― 減らすわけにはいかない。分かってくれ、ダルチェ、グラディール」
 静かに言って、アティーファは二人を見つめた。
 エイデガルという大きな国を守るため、最善の策を自分たちは取らねばならない。その程度のことはダルチェも分かっているはずだった。
 引っ込みがつかないダルチェの腰に手を回し、グラディールが強引に彼女を引き寄せる。
「ダルチェ、皇女殿下のおっしゃる言葉が正しい。今はアデルに引こう。汚名返上は生きていれば何時か出来る。エイデガルが存続し続ければ、レキス再興も容易だろう。…だからこそ、ダルチェ」
「…分かった…わ…。皇女殿下、我々はアデルに退却します」
 強く拳を握り締めた後、ダルチェは必死に言ってアティーファの前に膝を折った。
 グラディールもすぐにそれに続く。
「―――― すまない。よし、皇都に戻る。行こう、リーレン、リィス」
 安堵の表情を見せたのは一瞬で、すぐにアティーファは言った。待たせている軍船まで馬を飛ばせば、かなり短い時間で皇都に戻れるだろうと計算する。リーレンが心得て、城外に置いてきた馬の元に走り出した。
 ふと―― 返事がないことを訝しんで、アティーファが振り向く。その先でリィスアーダが立ち止まっていた。
「リィス?」
「…アティーファ。私はエイデガルには行かないわ。…国境に行かなくてはならないみたい…」
「―― リィス!?」
「私はザノスヴィアの一の姫。そして、皇太子である幼い弟が成人するまで、弟に代わり王を補佐し諫言する役割を持つ者」
 断言して、リィスアーダは身体をザノスヴィアの方向に向けた。
 遥かなる祖国が視線の先にある。
 そこは、エアルローダの魔力につけこまれた愚かな男によって、大量の血が流されようとしている国民が大量に生活する方角なのだ。
「私は止めなくてはならないわ。ザノスヴィア王族として。諫言の役割を持つ姫として。そして―― あの愚かしい男を父に持ってしまった、娘として。止めなくてはならない」
「愚かしい男って…リィス?」
「―― もう一度会いましょう、アティーファ。その時に必ず。私とマルチナの関係も、あの男がなにをした人間であるのかも―― 全て話すわ。私は予感がする。今、起こりつつある動乱は、全てを巻き込み集約して、最後エイデガル皇都で決着がつくと」
 ―― だから、今は行かないと。
 リィスアーダは静かに断言し、馬を引いてザノスヴィアとの国境に向かったのだ。
「リィスの魔力はかなり高い。だから大丈夫だと思うが―― やっぱり心配だな」
 そう呟きながら、アティーファとリーレンもまた、エイデガル皇都へと急ぐ。


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