第22話 離合
第21話 静動HOME第23話 静謐


   ―― 投げた。
 親友の命そのものに濡れ、名の通り紅一色になった紅蓮を投げた後、カチェイは歩き出す。
 アティーファとエアルローダの瞳が驚きに揺れ、振り向いたのを冷静に観察した。
 彼が戦闘に入ってくるわけがないと、二人が判断していたのも無理はない。
 実際、カチェイ自身も瀕死の親友を置いて戦闘に出るつもりは当初なかった。当人に行けと指示されなければ動かなかったはず。
 二人が呆然と硬直している。都合がいいので少し笑えた。
「……カチェイ?」
 かすれた声で呼びかけてきたアティーファに、カチェイは戦場を無視した笑顔を返し、肩を竦める。
「どうやら俺は、ちと遅刻だったみたいだな」
 場違いな程明るく言ってた。
 けれど内心、声が震えるのではないかとひやひやしていた。
 背中に感じる親友の視線の弱さに動揺し、エアルローダがアティーファに仕掛けた罠に激しい怒りを抱いているのが事実なのだから。
 それでも動揺や、怒り、懸念を彼等に悟らせるわけにはいかない。自分の動揺は、精神が不安定な子供のままのアティーファたちに悪影響を与え過ぎる。
 紅蓮が大地の上で、墓標のように突き立っている。
 アティーファの抗魔力が、リーレンとリィスアーダの二人をこれ以上侵食させない為に、投げた魔剣だ。
「リーレン、よく耐えたな」
 立ち上がろうと必死だったリーレンの隣で、カチェイは短く言った。紅蓮の防御能力を越えてなお、彼らの力を貪ろうとする抗魔力を直接消滅させてやる。二人の生命力を食い荒らすアティーファの抗魔力の影響がかなり強く、助けに出るのが遅ければ、二人とも急激な衰弱死を迎えていたかもしれなかった。
 ―― 一番、今死に掛けている癖に。
 己が死に掛けてなお、いかなる危機が迫っているかを把握しようとする親友の生き様に苦笑したくなる。確かに、彼の性格のおかげで戦力を低下させ、アティーファの心を傷付ける事態を防ぐことは出来たが、その判断力を彼自身にも使って欲しかったと思うのも人情だ。
「死にたくなかったら、しばらく魔力は使うな」
 命令口調でリーレンとリィスアーダに告げた。厳しい言葉の癖に、まるで子供を誉めるようにカチェイは彼の頭を撫でてやる。
 その手が僅かに震えていたことに、リーレンは目を見張った。 
 カチェイが戦場に出てきたこと。
 それは、アトゥールの生死の帰趨を如実に伝えているのだろう。カチェイが慟哭を隠し平静を装う事実が、ひどくせつなかった。
「いいか、リーレン。魔力を使うなら、少し回復してからにしろ」
 更にに諭されて、必死に肯く。
 カチェイは突き立てた紅蓮を抜き去ると、エアルローダに向かって構えた。
「子供の悪さってのは、大人が叱らなくちゃならないことだって知ってたか?」
「―― ふぅん。君は、一応大人だったわけだ」
「冷静を取り戻しつつあるのは結構だけどな。真実冷静なら、この状態を楽観は出来ないと判断するだろうよ」
 衰弱が激しいリーレンとリィスアーダには、金狼を呼び出したことで大量に体内に受け入れてしまった魔力を、与えてある。元は健康体の二人だ。再行動可能になるのに必要な時間は意外と短いだろう。
 戦闘可能人物が増えるのは、エアルローダにしてみれば楽観出来ないはず。
「あれが死に掛けてるってことかな」
 ひやりとした印象を与える黒ずんだ蒼の瞳を泳がせて、エアルローダは分かりきった現実を口にする。
 心理的な圧力を掛ける気なのだ。
 その程度でカチェイは動揺しないが、顔色をかえてしまったアティーファを懸念する。
「そうだな」
 あえて否定せずに答えて、攻撃に移るべく紅蓮の柄を強く握った。
「―― 否定しないんだ?」
「事実は事実だ。否定しても意味がない」
「冷たくない? あれは、君の親友なのに?」
 せせら笑うエアルローダに、カチェイは静かな憎悪を燃やす。
 現在こちらが使える能力の全てが正常であったなら、減らず口を叩かせる前に殺していただろう。けれど現状は、引き分けに持っていくことが出来る程度に過ぎない。
「アトゥールを瀕死に追いやった。その原因を作ったお前に、冷たい呼ばわりされる筋合いはないな」
 怒りを押し殺して断言すると同時に、魔剣覇煌姫を構えていたアティーファがアトゥールを振り返ろうとした事に気づいた。手を伸ばし、強引に少女の小さな身体を引き寄せる。
「カチェイ!?」
「振り向くのは後に取っとけ、アティーファ」
「だが―― 後になってしまったら、アトゥールは……」
「振り返ったところで、奴の瀕死がどうかなるもんでもない。忘れるな、アティーファ。常に皇公族たる者が勤めねばならないのは、なんだ?」
「―― 周囲を判断して、理解して」
 カチェイに促されるままに、アティーファは答える。
 言われ続けていたこと。二人に、そして父王に。―― 思い出した。
『アティーファ。後悔せずに戦いを切りぬけたいのなら、常に冷静さを捨てぬことだ。如何に少ない味方の損害で、多大な戦果をあげるか。これが基本だ』
「―― 父上……。私は……」
「皇女!」
 背を打つ声に振り向けば、多少体力を回復させたリーレンが、リィスアーダと共に走って来る。
 例え本調子ではないとはいえ高度な能力の魔力者二名を含んだ四対一の状態に持ち込んだのだ。敏感に勝機を嗅ぎ取って、カチェイは紅蓮片手に前に滑り出る。
 覚醒させることに成功した抗魔力の結晶体である金狼を呼び戻し、エアルローダに威圧を掛けた。
「アティーファは抗魔力、リーレンと姫さんは左右から魔力展開をしておけっ」
 吼えるように指示し、カチェイはひそやかに笑った。
 急所は逸れたものの、アトゥールの攻撃は少年を傷つけている。誰よりも親友の技量を理解しているカチェイには、エアルローダが負った傷が軽くはないことを確信していた。
 敵少年魔力者が一見平気そうに見えるのは、傷口を魔力によって一時的に塞ぐと共に、痛覚を麻痺させているからに違いない。ならば、一太刀でも攻撃を加えれば、確実にエアルローダは撤退する。
「―― くっ!」
 短くエアルローダが歯噛みした。
 親友が瀕死状態にあるカチェイが、こうも正確な判断と共に戦闘復帰してくるとは思っていなかったのだ。アティーファに命を絞り取られたも同然のリーレンが、この現実に動揺しないとは思わなかった。
 大陸一の剣豪の名を欲しいままにするカチェイの剣は―― あまりに鋭い。
「陳腐なんだよ、お前たちはっ!」
「命を預けるに足る人間も作れないお前に、言われる筋合いはないなっ」
 軽々と大剣を扱い、カチェイは下から上に切り上げる。
 咄嗟に魔力を展開しようとしたエアルローダに向かって、アティーファは覇煌姫を頭上にかかげ抗魔力を放った。続いて少年の退路を塞ぐべく、リーレンとリィスアーダは攻撃能力を付加した魔力を投げ付ける。
 血が散った。
 散々他人の血に両手を染めた少年の、鮮血が視界を埋め尽くす。
 何が起きたか分からなかったように、ひどくあどけない表情をエアルローダが浮かべた。多分―― それが作っていない少年の素顔なのだろう。
 ゆっくりと、己の肩口を切断するように切り上げていった紅蓮を見やり、カチェイを見詰め、同胞であるはずの魔力者二人を見やり。
「………」
 最後にアティーファを見詰めて、一瞬微笑んだ。
 痛いほど透明で―― なぜか、アティーファの懐かしさを喚起させる、笑みを。



「―― 消え、た?」
 呆然とさせるエアルローダの静かな笑みを認識した後に、純白の閃光が視界を塗り尽くした。今度ばかりは目を閉ざさぬようにはしたが、光の強さに結局は何も見えず、気付けば少年の姿はない。
「引いただけだ。死んじゃいない」 
 乱暴に断言をして、カチェイが血糊を払って紅蓮を空で薙ぐ。
 エアルローダは傷口を強制的に塞ぐ術を持っている。魔力を使用できない意識不明の状態に陥れるか即死させるかしなければ、完全排除は不可能だろう。
「アトゥールは!」
 当面の危機が去ったことで悲鳴のように叫び、アティーファは走り出そうとした。
 心配だった。自分を庇ってアトゥールは怪我をしたのだ。けれど走り出した腕を掴まれて、少女はつんのめる。
「―― !? カチェイ!?」
 なんで止めるんだ、と続けようとしてアティーファは息を呑む。
 ひどく、困った顔をカチェイはしていた。怒っているとか、哀しんでいるとか、そういう激しい感情ではなく、なぜかひたすらに彼は困っている。
「アティーファ、ダルチェがグラディールを取り戻す為にレキス公城に走った。エアルローダが姿を消した今なら、精神支配を取り除くことも可能だろうからな。悪いが、行ってやってくれないか?」
「だって―― カチェイ、それは」
 せめてアトゥールの元に駆け寄ってからにしたいと、懇願するような眼差しになる少女の頭を、無骨な手で、カチェイは黙って撫でる。
「気持ちは分かるんだ。これは俺の我侭だしな。ただ―― ちょっと弊害がな」
 珍しくはっきり理由を口にしないカチェイに、リーレンは切なげな表情を浮かべた。今のカチェイの心境がわかる気がした。―― そしてアトゥールの状態も。
「皇女」
 大切な少女を呼んで、リーレンは側に駆ける。
「行きましょう。リィスアーダ姫もよろしいですか?」
 返事を待たずに続けて言って、リーレンは二人の姫君の腕を取ると強引に歩き出した。
 アティーファは驚きながらも、なんとかアトゥールの様子を見つめようとする。だからリーレンはひっそりと告げた。
「私たちがいると、カチェイ様はきっと動けないんです」
「―― …!?……な、なら…」
 自分たちがそばに居ると取り乱すことさえ己に許さない、プライドの高い彼が。取り乱すことを想定して自分たちを遠ざけようとするのならば。その理由は―― ただ、一つしかない。
「アティーファ」
 リィスアーダは唐突に腕を伸ばし、絶望に立ち尽くしたアティーファの頭を抱いて、名を呼ぶ。
 アティーファは気付いて、そして理解してしまった。
 ――― アトゥールが……。
 零れ落ちてくる涙を、リィスアーダの腕が誰にも見えないように隠す。その温もりと優しさに、アティーファは涙を止めることが出来なくなった。
 なんとか二人の公子の視界から自分達の姿が消える場所まで、姫君たちの肩に手を添えて先導するリーレンも―― 泣いた。



 カチェイはゆっくりと見送っていた。
 悪かったな、と思う気持ちはある。
 彼女達とてアトゥールに縋って泣く権利はあるのだから。
 けれど―― 自分の弱みを見せてもいい相手は一人しかいない。
「……この、大嘘付きが」
 せめて戦いが終るまでは生きていろと、約束させたはずだというのに。ゆっくりと踵をかえし歩き出して、静かに呟く。
 もう分かっていた。感じていた視線が消えた時に、何が起きたか理解したのだ。
 大地を踏み締める音が、やけに大きく感じる。
 流れる空気の音までもが、聞こえてくるようだ。
 ―― ただ、視線を固定して。
 ゆっくりと、歩く。
「―― アトゥール」
 目の前まで進み名を呼んで。カチェイは膝を付いた。
 親友は答えない。唇が動くことも、瞼が動くことも―― 呼吸する、気配すら、ない。
 彼らしい静かさだ。息を止めて、心臓を止めて、静寂に落ちて、そして眠りに落ちて静かなまま逝ったのだ。
「――― っ!!」
 声にもならない悲鳴が喉を突き上げてくる。
 これが鳴咽というものかもしれない。
 触れることが恐くて、手を伸ばせずにカチェイは動かなくなった親友を見詰める。まるで無駄だと知りながら、生きている証がどこかにないかと、探すかのようだった。
「なんでせめて、俺が戻って来るまで生きていなかった!」
 叶わなかった望みが悔しくて叫んだ。
 子供じみた自分を自覚していた。けれど、あの辛く苦しかった過去の全てを、気にせずにいられる現在を支える一因だった親友を失って、どうしても冷静ではいられない。
 命の価値が、自分自身と同じだと思える相手を得た人間は幸せで、得たものを失って今を生きていかねばならない人間こそが、最も悲しい。かつて皇王フォイスが笑いながら呟いたこの言葉が思い出される。
 誰よりも辛い経験も幸せな経験もしてきた人間だからこそ。
 常にエイデガル皇王の言葉は、あらゆる局面において、重いのかもしれなかった。
「―― ちくしょう……」
 万感の思いをこめた言葉を吐き出した後、声を押さえる為に無骨な手で自分の口元を押さえ、彼は俯いた。
 ぽつりと、大地の上に染みが浮かぶ。
 指に、手に、塗れた鮮血を洗い流す涙が、零れ落ちていく。
 泣いている自分が惨めだ。
 泣いている自分を何時ものように笑い飛ばして来ない親友も惨めだ。
 寿命でもない人間が死んだ。その事実こそが、一番哀れだ。
 カチェイは声を殺したまま、涙を落としたまま、意を決して手を伸ばし触れて感じた。血に濡れた服の感触、流れ落ちたままの彼の長い髪、そして。
「――― !? ……アトゥール!?」
 恐ろしいほど真剣な表情に切り替わって、突如カチェイは刮目する。


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