響いたのは、砕け散っていった何かが奏でたひどく儚い音だった。
急激に目の前が閃光に支配され、視界の自由が奪われていく。閉鎖空間を排除せしめた四人の意志が呼び起こした、魔力が結晶化されて生じた光だろう。
カチェイは咄嗟に紅蓮を構え耳を澄ませた。リーレンは目を細めつつ伸ばされた手を強く握り、アティーファは触れあった温もりを確かなものにするべくに息を潜める。
アトゥールは、戦闘レベルの緊張感を持続させたまま微動だにしなかった。この閃光の中、エアルローダが動くことを確信している。
なにせ、少年魔力者は物事を把握し予測をたてる人間がいることが、どれほど邪魔なのか熟知しているのだ。簡単に、一同を再会させるとは思えない。
相手が動いた瞬間こそが、アトゥールにとって、エアルローダに一矢報いる唯一の機会だろう。
助けられるだけなど、好みではない。それがアトゥールの素直な気持ちだ。
穏やかな気質の持ち主だと思われているのは、彼が自分自身の本質を隠しているからに過ぎない。不必要に負けず嫌いで激しい闘争心を持っているのが本当だ。
つめていた息を僅かに吐き出す。そして、エアルローダが止めを刺すべく一歩踏み出し、魔力を放った瞬間を察知した。
身じろぎもせずに、右手を持ち上げて今まで使用を控えていた抗魔力を展開させる。同時に手渡されたばかりの、馴染む細剣氷華を構えた。
音を聞いた
飛来した魔力の攻撃を相殺し、飛びこんでくる気配をぎりぎりで避けた瞬間に。
確かな心臓の音だったような気がする。
全身に血液が送り出される鼓動の音だ。そして微かな呻き声だ。
氷華からは、確かな手応えが伝わってきている。切っ先は敵を捕らえ、剣を握る手はぬめりを持つ鮮血に濡れていく。だが、致命傷は与えることに失敗した。
触れる血液がひどく熱い。それは、自分自身の身体が体温を失いかけているからだろうか?
(い、しき……が…)
消えていこうとしている。
強制的にまばたきを繰り返して意識の混濁をなんとか防ぎ、すぐ目の前にあるエアルローダをアトゥールは睨もうとして、あるひらめきに息を飲んだ。
余裕をなくし、苦痛と驚愕と怒りに双眸を歪ませているエアルローダの眼差しが、如実にある人物を思い出させるのだ。
「……アティーファ……?」
常に清冽な意思を瞳にたたえる者。
他者を率いるに相応しい意思をその瞳に宿すもの。
エアルローダとアティーファは似ている。
「お前、は…アティーファと……」
一体どのような繋がりを持つのだと続けようとした言葉は、途中で咳に変わった。声の代わりに、急速に肺腑からせりあがってくるものがある。――
強烈に熱い。
「これだか、ら、嫌いなんだよ!!! お前達は!」
エアルローダが子供のように叫ぶ。眉をゆがめ首を振って、右手を強く後方に下げたかと思うと、少年魔力者は大きく後退した。
ふわり、と。身体がゆれた気がした。
戦闘によって解けた髪も、空に舞いゆるりと広がる。
―― 音。
ずるり、と。何かが抜けた音。
心臓が狂ったように血液を送り出していく音。
―― 双方が耳に痛いほど響いて。
何故か瞼を閉ざしたくなった。
「礼はいらねぇから、紅蓮をこっちによこせ!」
アトゥールが氷華をよこせと叫んだ時、同時にカチェイが叫んだのもこの言葉だった。リーレンが魔力の仕組みに気付く寸前、アトゥールの存在と危機を既に感じとったのだ。
呼んでくださいと、指示される前にアトゥールの名を叫んだ。親友にこそ相応しい氷華――
今までは、各公家に伝わる魔剣だからと取りかえることは一応遠慮し控えていたソレ
―― を前方に滑らせる。同時に、唐突に目前に現れた紅蓮を、受取り片手で構えた。
指先馴染む感覚に、やはり自分には背丈より僅かに低いほどの大剣こそが扱いやすいことを再実感する。
紅蓮の柄にぬめりがあるのは、アトゥールが大量に出血している為だろう。アティーファの元にはすぐリーレンが駆けつけるだろうから、カチェイは親友と合流するために視線を上げた。
―― 赤。
鮮烈すぎる、視界は余りに鮮やかな赤。
アトゥールとエアルローダが、まるで寄り添い合うように佇んでいた。
―― 零れ落ちている赤。
深々と何かに付きたてられた氷華と、別の場所を刺し貫く剣。それぞれ二つの切っ先から、とめどなく零れ落ちるのは鮮血。
「アトゥール!?」
叫んだ瞬間、血の気がさめるのがはっきりと分かった。
何が起きたのかを、理解してはいけない予感がする。けれどそれらの気持ちを抱えながら、カチェイは何も考えずに走り出していた。
手を伸ばし、感じ取る。
指先に先に触れてくる血液のぬめり、外気に触れて冷たくなった血を吸い込んだ緋色の衣服、親友の重み。
「アトゥール!」
もう一度名前を叫ぶ。
意識を失わさせては、終わりだという冷静な認識が頭の片隅に有る。だがそんな理屈は通り越した感情が、親友の名前をカチェイに連呼させていた。
ぎりぎりで地面と衝突してしまう前に左腕で彼を抱き取ることに成功した。同時に紅蓮を横になぎ、駆けこんでくるやもしれない敵を牽制する。
唯一攻撃を仕掛けてくる可能性のある少年は、はっきりとした憎悪に身を委ねて、ゆらりと立ち尽くすだけだった。
「嫌い……な…ん、だよ」
切れ切れに彼は言う。
心臓からは僅かに外れている場所を、震える手で押さえつけていた。呼吸は正常なリズムを失い完全に荒れている。――
認識するたびに、エアルローダの心に波が生まれる。
自分自身の血が流れ出していく。これが現実だった。圧倒的な優勢を常に保ちつづけていた少年にとって、他人に傷を負わされた事実がひどく苦い。
熱い痛みをもたらす傷口を押さえながら、閃光によって視界が塗りつぶされた瞬間を、エアルローダは想起する。分断させた空間が破壊され、敵の頭脳であるアトゥールを効率する排除する機会が失われつつあった瞬間のことだ。
理解した瞬間に、魔力を集め攻撃に移した。
流れ出た血の量をみれば、アトゥールは既に動けない状態であることは明白だった。意識を失っていないことが驚きなほどだ。だからこそ、排除は容易に可能だと判断したのだ。
だから走り出した。失敗するなど、一つも思っていなかった。
にも関わらず、怪我を負わされた現実がある。
牙をむき飛来してくる魔力の前で、アトゥールはひどく穏やかなまま、右手をそっと前方に差し伸べた。何気ない仕草から、抗魔力が展開される。
魔力が相殺され、吸収された。エイデガルの皇公族が、対魔力者の切り札的能力を持つことは知っていた。だからこそ、それが使えぬような状態に追いやってきたというのに。
白き魔力の光が、穏やかな漣のように広がった青い光に飲み込まれる。
自分の魔力が食われていく。その光景に、エアルローダは不覚にも絶句した。
―― 余裕が壊れていく。
少年の目の前で、魔力の残滓を完全にアトゥールが払った。困惑しつつも突きこんだ一閃は、氷華によって払われてしまう。
―― 信じず、認めず、唾棄したいこの現実。
第一撃を受け流された隙に、氷華の青く澄んだ刀身が迫った。避けきれないと悟った瞬間に、大地を踏み込み剣を敵めがけて突きつける。
そして音。
二人が同時に聞いた、この音。
氷華がエアルローダの左胸に刺さりこむ。
少年の剣が、アトゥールの左胸より僅かに高い位置を貫く。
切っ先から、刀身から。血が伝わり落ちて、真紅の光景を作って、エアルローダの精神が――
驚きと焦りと驚愕とで、飽和した。
「お前、は…アティーファと……」
吐息のようなアトゥールの声。今になっても冷静を失わない彼がひどく疎ましい。叫びたくなる。
「これだか、ら、嫌いなんだよ!!!お前達は!」
癇癪のように思わず叫び、思考をまとめられないまま勢い良く下がる。
身体に、肉に、筋肉の中に。埋めリこまれた双方の剣が、ひどく嫌な音をたてて離れた。
ごぽり、という音もする。刺さりこんだままの剣が、かろうじて蓋をしていた傷口から、大量の血液が一気に体外に流れ出たのだ。
(うるさい)
血の音がうるさい。今、それだけが癇に触る。
どうやってこの煩い音を止めようかと考えた。視界の端で、あの大嫌いな公子の親友が走り寄り、彼の名を叫びながら蒼白になっているのを嘲笑ってやることも出来ない。
―― どうにかして全部消してやる。
思いだけが、怒りが、少年の精神を食い荒らしていく。
のろりと緩慢に、エアルローダは傷口を押さえていないほうの手を持ち上げ、魔力による攻撃を仕掛けようとした。それに気付いた黒髪の男が、刹那全てを庇いこむように、両手を広げて走り込んでくる。
「エアルローダ!!!」
黒髪の男が自分の名を呼ぶ。吐き気がするほどに同じ気配をもつ、同胞が。
「……リーレ…ン」
「カチェイ公子! はやく、後ろに下がってください!! 攻撃は食い止めて見せますから!皇女は、アトゥール公子の止血を!!」
一気に叫んで、リーレンは鋭くエアルローダを睨む。
リーレンの迷いは完全に晴れていた。
確かにエイデガルが魔力者を利用する術をもっているかもしれない。皇族そして公族たちは他人の魔力を奪う能力を保持しているかもしれない。
―― けれど害されたことはないのだ。
エイデガルは常に魔力者を保護してきた。
そのおかげで、静かに人生を送った者たちが何人いるか。魔力を保持することが露見するを恐れ、常に怯えて続け、ようやくエイデガルに辿り着いた者がどれだけ幸せそうだったか。
―― そして自分がどれだけ幸せだったか。
「あの人達には指一本もふれさせはしない!」
「お前が!? お前程度の魔力で、僕に抵抗できると思っているだって? 楽しすぎて、笑うことも出来やしないっ!」
調子が外れた声でエアルローダが叫ぶ。
倒れ込んだティオス公子に駆け寄ったカチェイとアティーファを見詰めながら、二人の魔力者の対決を見守ろうとしていたリィスアーダは、ふと、己の足元を見つめた。
「………? マルチナ?」
不思議そうに囁く彼女の足は、歩き出そうとしていた。
リィスアーダの意志ではない。二人が戦い黒髪短髪の青年が命を落としても、リィスには関係ないのだ。元々興味も持っていない。
―― けれど。
「そう。マルチナ。そうなのね」
歌うようにリィスアーダは呟いて、戦場に走り出した。
狂ったように声を上げる、エアルローダがとてつもない熱量の魔力を、発生させた瞬間に。
手を、伸ばしリーレンの肩に触れる。
「マルチナ…姫………違う?」
「ご助力します」
「え!?」
「氷結の力を、前方に!」
動じながらも、指示のままにリーレンは魔力を冷気に変えて前方に投げつけた。リィスアーダは冷気を吹雪にするべく、旋風を巻き起こす。
「引きなさい、エアルローダ・レシリス。たとえ貴方でも手負いの状態で二人を相手にすることは出来ませんわ」
続けてリィスアーダは宣言した。
退けることなど出来ない、あまりの威厳を称えて告げている。
「……消してやる」
首をもたげて、少年は言った。
リィスアーダとリーレン。
普段の彼ならば、二人を相手にする不利を即座に理解したはずだ。そして各個撃破の要領で、個別に戦闘をする術を模索していたはず。
―― エアルローダが動揺している今なら。
彼を排除することが出来る。
リーレンは判断して、僅かに昂揚する気持ちを感じていた。
―― 冷たい。
貫かれ、倒れこんだアトゥールを受け止めたカチェイの元に走り、その手に触れた瞬間アティーファは恐怖した。
生きている人間とはとても思えぬほどに、今の彼は冷たすぎる。
「……アトゥール?」
呆然と、耐えられぬように名を呼ぶ。
普段なら、呼べば彼は振り向いてくれるはずだった。自分の声を認め振り向いて、笑ってくれるはずだった。――
いつもと同じように。
けれど反応はなく、意識を手放し瞼を下ろして、彼は力なく親友の腕の中ぴくりとも動かない。
先程までは意識を取り戻させるために名前を叫んでいたカチェイも、今は黙り、どこか機械的な動きで止血処理を素早く行っていた。
アトゥールは大丈夫なのかと、聞くのが恐い。聞いてはいけない気がする。
「……ちくしょう…」
カチェイが唐突に呻くように言って、親友を抱えていない方の手で大地を殴りつける。冷水を頭からかけられた気がして、アティーファは素早く顔を上げてカチェイを見た。
―― まるで慟哭しているように見えた。
涙を流しているわけではない、悲しみに打ち震える表情をしているわけでもない。けれど、今の彼は余裕が完全に欠落していた。
慈しまれ、守られて。育ってきた時間の中――
こうまでも余裕と表情を失った彼を見るのは初めてだ。
―― 私は、今、何をしているだろうか。
分断された空間からようやく解放され閃光が満ちた後、不覚にもエアルローダの存在を失念し、再合流した者達の存在を確かめようとしたのだ。
生きるか死ぬかの戦いが、始まっていたというのに。――
アトゥールが怪我をしていたことは、誰よりも一番、自分が知っていたのに。彼の元に走るのではなくて、合流できるかどうかに気を取られた。
いざという時の判断がまるでなっていない。
頑張っているつもりでも、これでは足手まといの子供と同じだ。――
しゃしゃり出てきている分、泣いて下がっている子供よりも性質が悪い。
今、自分がすべきことはなんだ?
血に濡れた部分だけが色を持つ蒼褪めたアトゥールの顔を見て、考える。
彼を救うために、最も適切な処理を感情を殺したまま行っているカチェイが居る。背後で続いているのは、戦闘だ。
「カチェイ。アトゥールを頼んだ。――
アトゥール。死ぬな!!」
高圧的に命令した。
そうしなければ泣いてしまいそうだ。僅かに目線をあげたカチェイが、決意したふうの皇女をみやり、そして笑みを作ってくれた。大丈夫だと、言ってくれている。
―― 無理をさせている。
これが現実だ。自分は彼らに守られる子供にすぎず、精神的支えになれるわけもない。
けれど、出来ることはするべきだ。そうでなければ――
この関係は永遠に平行線をたどり、彼らを頼る子供から成長できない。
「……死なないで。お願いだから!!」
もう一度叫んで、アティーファは覇煌姫を握り締め駆け出す。
リィスアーダとの戦闘で極度に疲労した体は、閉鎖が弾け、全員の魔力が結晶化したときに僅かに回復した。――
理由はわからぬが、それを今は天に感謝する。
倒さなければならない。あれが、あの存在が、レキスを死に追いやり、グラディールを操り、そして今、アトゥールを死の淵に追いやっているのだから。
「リーレン、リィス!!下がれっ!」
アティーファの叫びに、エアルローダに対し優位な立場をとりながらの戦闘を開始しようとしていたリーレンとリィスアーダは驚愕に振りかえり、そして突如として襲ってきた脱力感に苦悶の表情を浮かべる。
凄まじい抗魔力をアティーファが展開していた。
しかも―― 相殺するためではなく、他人の魔力を奪い取るための力だ。
「皇女!?」
「アティーファっ!」
二人、声を重ねあわせるようにアティーファの行動に叫ぶ。
けれどそれを無視し、少女は握りこんだ覇煌姫を構え二人の横を過ぎた。
極度の動揺によって、一時的なパニックを起こしていたエアルローダの瞳に、はっきりとした意思の色と――
恋人を迎えるような優しさがよぎる。
「アティーファ!」
「エアルローダ!」
叫び合った瞬間、皇女は唐突に理解した。
―― これは私の敵だ。
自分以外の何者が倒しても、許しても、ならない敵だ。
閃光のように剣を合わせ、二人、見詰め合っていた。