「エイデガルの皇族達は、ひどく特殊な魔力者であるはずだと言ったな、アトゥール」
今、氷華を天に指し示すカチェイの中には、強烈な違和感があった。
体の中に、存在する必要のないものが入り込み、浸入し、居座ってこようとする気配。
―― 表現など不可能なほどの痛みが肉体の中で発生する。
少しでも気を抜けば、言葉ではなく悲鳴が出るような気がした。大地を踏みしめる両足は力を失い、倒れふすような気もする。
エイデガル建国の覇者レリシュと、それを支えた兄姉たちが唐突に所持した能力。
かつてアトゥールが気が付いてしまった、対魔力者に絶大な効力を発揮する、魔力を奪い取り己がものとして吸収する能力だった。
魔力の突然変異のような能力は、不思議と各家を継ぐ子供に受け継がれ、今に至っている。唯一レリシュとは異なる血筋をもつガルテ公国でも、エイデガルの血が入ったことによって、同じ能力を子孫に繋げているのだ。
皇公族たちは、普通に生きているだけで魔力を吸収し、抑制し続ける。
だからこそ、エイデガルは魔力者に対する温和な政策が可能だったのだ。
「エイデガルが人道的だったとかいうお奇麗な理由だったからじゃない。ただ偶然に、魔力者を押さえる術を持っていたから、それをしただけってことだ」
政治に綺麗事を求めるつもりは毛頭ない。ゆえに、魔力者に対して温和政策を取ることが可能だった真相にショックはなかった。それはアトゥールも同じだったろう。
寧ろ、明確過ぎる理由があったことで安心した程だ。
けれど、魔力を制する能力にも限界がある。
必要以上に魔力を引き受けた場合、相手の魔力を吸収し己の力に変換させる働きが追いつかない場合がある。受け入れた魔力を己の力に変換さえることが早ければ早いほど、彼らの特殊な能力は高いといえた。
今現在、フォイス皇王に並ぶかそれ以上に能力が高いのはアトゥールである。
アデル公子カチェイの抗魔力は、特記するほどに高いわけではない。ただ、同じ能力を持つ者同士が側にいると、能力同士が補い合い、能力は一時的に上がる。
だからこそ、ダルチェを救って初めて、リーレンが必死になっている攻防から、本当は一つの魔力しか関与していないことに気づけたのだ。
捻じ曲げられた空間なのではとリーレンは最初叫んだ。分断させられた二人は側近くにいるはずなのに、気付くことも触れ合うことも出来ない滑稽な空間だと。
空間を操ることが出来るならば、リーレンが放つ魔力を反射させて、彼自身に跳ね返すこともエアルローダには可能であるはず。
だから悟った。
―― 襲ってくる攻撃も、守る防御も。二つとも、リーレン自身のものなのだと。
「ちくしょうめ!!」
吸収しきれない魔力が、咆哮をあげて体を蝕んでくる。
分かる。―― 分かるが、これで挫けるのは己のプライドにかけて出来なかった。
「……アトゥールにあとで馬鹿にされんのは、たまったもんじゃないからな」
減らず口を叩く息が切れた。目の前が白濁して行く。
そしてようやく魔力の切れ目が見えた。
「走れ、ダルチェ!!」
叫ぶと同時に、アデルから始まった公国の主たちの魔力を少しずつ受取り、獣魂の宝珠を依代に姿を得た守護の獣――
金狼にも走れと命じる。脱兎のごとく駆け出したダルチェの進路を確保するためだ。
続けて、奪い取ったリーレンの魔力を自分の力に変換させたものを放つ。
リーレンは信じられない出来事の連続を、尻餅をついた形のまま、唖然と見つめていた。
―― 全ての疑問の解答がそこにあるのだ。
魔力の盾を作ろうとした瞬間、全てを奪い取られる感覚がした理由。
魔力を使うことが異様にためらわれた理由。
魔力者に対する防御が薄れつつあるレキスに入ったことで、体内の魔力が膨張を始めたような感覚に陥り、熱を訴えて仕方なかった自分自身の体。
―― それら全ての答えが!!
「私は……支配されて、利用されていただけ、だったのか?」
エイデガルに縛られた同胞と、エアルローダは自分を評した。
魔力者を支配する為に、魔力者を利用する。――
彼ら自身は魔力者ではないような顔をして。
―― これほどの裏切りがあるだろうか?
「そんな…エイデガルの皇族は………私達を…利用していただけだった?」
認識がとてつもなく寒い。どうしようもなく恐い。
震え出す身体を少しでも暖めたくて、両手で己の両腕を掴んだ。
「嫌だ……こんなの、こんなには、嫌だ!!」
一つの過去がある。恐怖しか覚えなかった日々から、救い上げてくれた人達のこと。
優しいあの時間が壊れて、突き崩されてしまうというのか?
浮かんでくるのは、微笑を浮かべたアトゥールや、幼かった自分を抱き上げてくれたカチェイの顔。
笑顔を向けてくれて、一緒に遊ぼうといってくれたのはアティーファ。
恐かった夜。頭を撫でてくれていたのは、フォイスだった。
その日々が、全て、偽りで。
利用するためだけに、自分は―― 自分は?
ふと、何かがはじけた。
自分の中の何処か。本当に、硝子でも壊れるような音がして、何かが弾けた。
「逃げるしかないわ。リーレン」
―― 声がした。
暴力的で圧倒的な懐かしさを持った、声がした。
え?と振り向いた自分には気付かぬように、豪華に波打つ黒絹の髪をゆらせて、ゆっくりと一人女性がこちらに向かって歩いてくる。
懐かしかった。
(あれは…誰、だ?)
―― 分からない。
「リーレン。ここは、狂い始めているの。ずっとここにいれば、今は正気を保ってる者達の心だって壊れるわ。リルカが消えて、現実を見せ付けられて夢が壊れたから。だからルリカは狂ったわ。正気の現実が自分を傷つけるから、狂気の夢を現実にするために狂ったわ」
女性は喋り続けている。
立ち尽くしている、自分に話し掛けているわけではない。なにせ彼女は自分を見ていないのだ。もっと下の方向をみやって、なのに自分の名前を呼んで、彼女は喋りつづけている。
なぜか声が聞こえるたびに、心臓がひどく打った。おかげで鼓動の音が耳に煩いほどだ。
―― 誰だ? 懐かしい。でも誰だ? 分からない。
繰り返す自問自答。
「私はリーレン、お前を守りたい。だから――
逃げるわ。この村を捨てる」
ついに彼女は目の前まできていた。そして、女は足をかがめて膝を折る。
そこにある何かと、目を合わせるように。けれどなにがあるのかが分からないリーレンは、彼女の動きにつられて視線を動かす。
見つけた。
黒い髪。黒い瞳。あどけない、絶対の信頼と慕情を浮かべて彼女を見上げる、子供の顔。
―― 自分!?
「お母さん、何処に行くの?」
笑っている子供。どうみても、幼いころの自分自身だ。
応えて彼女は笑い、子供を抱き上げようとする。慈愛に満ちた優しい母親の顔で。
―― お・か・あ・さ・ん・?
「外の世界にいくのよ。リーレンが大好きだったリルカ叔母はもうここにいないわ。ルリカ叔母は狂気を増幅させ始めたわ。だから――
均衡が崩れてしまう。その前に。逃げられなくなる前に、私に行動する意思がなくなってしまう前に。狂ってしまう前に。行きましょう、リーレン」
「また、リルカ叔母様と遊べる?」
「そうね。エイデガルは、魔力者たちと戦うために、そして守るために。猛く気高い行動を取った四人を先祖に抱く国。そして――
リルカを選んだ男が居る国。そこに行くのが多分一番安全だわ」
「リルカ叔母様のやいたケーキが食べたいな」
話している大人の瞳にうかぶ焦りと怯えなど気付くことも出来ない子供は、そんな無邪気過ぎる事を言う。苦笑して、彼女は息子の頭を撫でた。
「お母さんが焼いてあげてるのじゃ不満なの?」
「両方なくちゃやだ」
「リーレンは我侭ね。でも……きっと、無事にエイデガルにいくことが出来れば、きっとまた焼いてくれるわ。リルカは優しいから。――
それに、もしかしたら従兄弟だって出来るかもしれない」
「従兄弟!?僕のお兄ちゃんかお姉ちゃんになってくれるかな」
「無理よ、リーレン。だってリルカが彼の元に走ったのは一週間前のことよ? だからまだ、この世に生を受けてもいないわ。だから、お兄ちゃんかお姉ちゃんになるのは無理よ。でもその変わりに、妹か弟みたいになってくれるかもしれないわよ。だから――
だから、ね。リーレン」
「うん!お母さんとお父さんが一緒なら、どこに行ってもいいよ、僕」
「……いい子ね、リーレン。ありがとう」
にっこりと微笑み、彼女は幼い頃のリーレンを抱きあげ、そして歩き出す。
嬉しそうに笑う子供とは正反対に、どこか周囲を警戒する眼差しで。
闇の中―― もしかしたら、彼女達の目にはあるべき光景が映っているのかもしれない。けれど、それを見ているリーレンには、闇の中二人が消えていくようにしか見えなかった。
―― お母さん?
子供のころの記憶といえば、魔力者の素質を持っていたが為に、闇で武器売買をしていた老婆に閉じ込められていた記憶しかない。――
母親の、父親の、記憶など何一つなかった。
そしてそれを、不思議だと思ったこともなかったのだ。
生まれた時からすでに、両親とは死に別れていたのだろうと思っていたから。
けれど本能が叫んでいる。覚えていないにも関わらず、懐かしさが心で叫んでいる。
あれが母なのだ。今まで思い出そうともしなかった、母の記憶がそこにある!
「……まっ…」
呼び止めたいのに、口の中が干上がって声にならない。
そして完全に闇の中に姿を消す前に、母親だと認識した彼女が、言った。
「覚えておきなさい、リーレン。これだけは何があっても覚えておくの。貴方は多分、この村に誕生した最後の純血の魔力者だわ。その魔力は――
多分貴方自身をも壊すほどの力を、外の世界では持ってしまうことでしょう。だから――
心を強く持ちなさい。高い魔力がゆえに、狂う確立の高い私達一族の現実を乗り越えなさい。そしてやがて世の中に産み落とされるだろう、ルリカの子供と――
狂気と戦いなさい、リーレン」
―― ルリカの子供?
―― 純血の魔力者?
―― ・・・・・・。
思い出す。
そして、ようやくリーレンは闇の中消えていった二人の親子の光景を、己の過去のものとして実感し、思い出した。
生まれた村のことが記憶に上る。
ひどく閉鎖された村の中で、数少ない子供だった為に可愛がられていた。
優しかった母。強かった父。そして、自分をひどく愛してくれた、母の双子の妹達。
「でも……村を出て、そして私はどうなったんだ? そしてあの村は一体……何処に、あった?」
記憶が欠落している。
肝心のことが、何一つ分からない。どうして忘れていたのか、それさえもわからない。
―― リルカとルリカ。
どこかで聞いたことの有る名前。
「リルカ……そうだ、皇女の母君の名前が、リルカ様だった」
美しかった人だという。神秘にゆれる漆黒の髪と、漆黒の瞳を持っていた女性だったという。
―― 漆黒?
なにかに気付きかけた瞬間に、激しい音が響いてリーレンは目を開いた。
闇に包まれていた周囲が一瞬に瓦解し、土煙と、閃光と、そして血の臭いに咽る現実が蘇ってくる。
―― 血の臭いに咽る?
現実を認識して、裏切られ利用されていたのかと混乱するリーレンははたと眉をひそめた。
カチェイの傷はそこまでひどくはなかったはずだ。ダルチェに外傷はなかった。そしてレキスでおきた惨劇によって流された血はすでに乾き切っていたはず。
「なら、この血の臭いは誰の?」
慌てて周囲を見渡して、リーレンはふと、陽炎のようになにかを見る。
振り上げた氷華から発する光を、今度は封じ込めようと腕を震わせるカチェイの背後だ。まるで誰かが膝をつき、必死に剣を構えようとしているかのような淡い影。
皇公族が持つ力は、常に魔力者の能力を阻害しつづける。けれど今、リーレンの力を妨害するものは、偶然だが何一つないのだ。おかげで、彼の魔力は本来の力を取り戻そうとしている。
―― だから、見えて、そして分かった。
うっすらとした影の意味が。
「アトゥール公子っ!!」
認識を確信にするべく叫んだ瞬間、もう一度、己の中で壊れた音を聞いた。
今度は闇は広がらない。―― 変わりに、眩しすぎる暁が見える。
「―― んだって?」
声がした。
気づけば、光あふれる草原の上に自分は佇んでいる。
視界の奥で首を傾げているのは、何年か前の姿をしたアトゥールだった。
「―― 馬鹿にされたんです、だから」
「どうして?」
「魔力があったから、だから皇女の側に居れるだけの捨て犬の癖に、って。人間としての存在価値なんてないくせに、って言われて」
両手を握り締めて、うつむいているのは自分。
―― 恐らく、五年くらい前の姿。
「だからといって、折角皇王の指示で通えるようになった学院を飛び出してきても意味がないだろう?」
「だって……だって、悔しいから」
「悔しいのなら、一つ、見返す方法はあるのだけれどね」
「―― 方法?」
「リーレンが頑張らなければ出来ないことの上に、私はあまり人にものを教えるのは得意ではない。まあ、それでもいいのなら、という条件付だけどね」
「なにをやればいいんですか?」
「―― 簡単さ」
さらりと言い放って、高貴な身分を持ち、リーレンが本来気軽に口をきける相手ではない彼は歩いてきて、俯いている子供の前に立つ。あの頃はまだ自分の方が背が低くて、よくああやって覗きこまれたものだったと、思い出した。
「主席を取ってみせればいいのさ。そんな、地位か学歴かでしか人を判断できないような馬鹿を見返したいのならね」
「僕が…あの学院で、主席を!?」
「―― 取れるさ」
「無理です」
「確かにリーレンが頑張れないなら無理ろうね」
「それは頑張れます! 頑張れますけど、ちゃんと授業をききたくても、邪魔ばかりされて、聞く事も出来ない。あれじゃあ――
ちゃんと勉強なんて出来ない」
「だから」
いまいち理解が遅いよと息をつきながら言って、アトゥールは、目を細めて笑った。
「私が教えてやるといってるんだよ」
「―― !? こ、公子が!?」
「ついでに、カチェイに剣術を習っておくとよいさ。エイデガルでは魔力が仕えない。いざ喧嘩になったときに役に立つのは、魔力ではなくて剣術――
そして体術だからね。そうだろ、カチェイ?」
一体いつまでそこで出てくるのを待ってるつもりだよ、と続けて、色素の薄い髪をゆらし彼は振りむく。木陰から出てきたカチェイは、いきなり乱暴に子供のころのリーレンの頭を撫でた。
「ま、そういうこった。悔しがる前に、馬鹿にされない人間になっとけ」
「―― どうして」
どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?
尋ねた過去。
―― こんなことは忘れていた。
忘れてしまっていたのだ。
二人、随分と大げさに驚いた顔をして。顔を見合わせ笑い出して。
「気に入ってるから」
答えてくれたことを。
―― 忘れてしまっていた!!
「公子、危ない!!」
咄嗟に叫んだのは、利用されていたのかと疑い絶望する以上に、彼らが優しくしてくれた日々の中守りたいと願った気持ちを思い出したからだった。
陽炎のように、うっすらと分断され閉鎖されたもう一つの空間が見える。その向こうでアトゥールが一人戦っていた。アティーファの姿を確認することは出来ない。――
そして戦っている公子の動きは、怪我をしているとしか思えぬほど、どこか鈍かった。
全ての光景がはっきりと見えるわけではない。
ただそこに―― いる―― ということ。そしてアトゥール目掛けて、純度の高い魔力が、牙をむいたということが分かる。
咄嗟に上げた叫び声。
けれどアトゥールに届くわけもない。
―― このままでは彼は死んでしまう!?
悟って戦慄した。今のアトゥールは攻撃を避けれない。そしてあたれば――
確実に死んでしまう。
余りの恐怖に、思わず硬く目をつぶる。
―― 音はしなかった。
(なにも聞こえない?)
今の自分には、二つの空間にて発生している音が僅かとはいえ聞こえているのに。
―― 何もおきなかった?
おそるおそる目をリーレンは開いて、驚くべき現実を見た。
見えているわけがないのだ。
にも関わらず、彼らは背中合わせの位置を取っていた。――
そして。
大地に倒れ込んだ自分自身に呆気に取られて、アトゥールは呆然としていた。
カチェイは咄嗟に誰かを突き飛ばすために腕を動かした自分自身に、驚いている。
何度かまばたきをした後に、二人はゆっくりと振り向いた。
そして呟く。彼らにとって特別な人間――
親友の名前を、呼んだ。
全てが激震する。
魔力によって作られた檻が、激しく揺さぶられて、空気が震えたのだ。
「カチェイ公子!! 呼んで、もう一度呼んでください!」
―― 分かった。この、分断された空間を破壊する方法がわかった。
「リーレン!?」
「今、カチェイ公子には見えたはずです!!だから、呼んでください!それが、多分一番の力になる」
―― アティーファはどこだ?
空間を分断させられながらも、間違わずに相手を見つけることが出来る力が魔力の檻を破壊するのならば。自分が皇女を呼ぶことが出来て、皇女が自分に気付き呼び返してくれれば。
「この空間は、壊れるはずだ!!」
考えを確信に変えるために、叫んだ。
そして、息を大きく吸い込んで。
「―――――― アティーファ!!!」
生まれて初めて。皇女の名を――
彼はなんの敬称もつけずに叫んでいた。