背後の戦闘が激しさを増していくのを感じながら、アティーファはティオス公子アトゥールからは死角になる部分を見つめていた。
「……マルチナ」
呟いたアティーファの声が驚きにゆれる。
隣国ザノスヴィアの王女であり、粗末な外交戦略の失敗によって、エイデガル皇国に留めおいたはずの妖艶な美少女――
リィスアーダ・マルチナ・イル・ザノスヴィアが、目の前に佇んでいたのだ。
「貴方を、殺しに、来たの」
語句を一つずつ区切って、からくりじみた声で王女が告げる。
アティーファが知っているマルチナは、確かに見る者を不確かな気持ちにさせるあやふやさを持つ娘だった。けれど今の彼女は、存在が不確かというよりも、生きた人としての存在の温もりを感じさえない。
ザノスヴィア王国にマルチナが戻ったというならば、考えられない状態ではない。だが、レキス公国に姿を現すのはひどく怪しかった。もしや罠だろうかと考えて、アティーファは視線を鋭くする。
なにせ、死者や生者の区別なく操る少年魔力者エアルローダが敵なのだ。アティーファ達の記憶を盗み見て、ザノスヴィア王女マルチナの姿をした敵を作り出すことも可能なのかもしれない。
罠か、それとも本物なのか。
疑問は、かなりの知識を誇るアトゥールに尋ねることが出来れば、解明されたかもしれなかった。だが、今は質問できる状態ではない。
「……アトゥールは怪我をしているんだ。そして、今も戦っている。だからこそ、一刻も早くこの状態を打開しないといけない」
何をなすべきかを改めて口にだし、アトゥールの元へ駆け出したい気持ちを押さえてアティーファはマルチナを睨み付ける。
本物だと確信しきれないのは、何かが欠けている気がしたからだった。
容姿が美しさだけではなく、存在そのものに艶と花を持つ。傾国の器と絶賛されるマルチナが持つ最大の特徴なのだが、今の彼女からはそれが欠落してしまっているのだ。
整いすぎた冷たい美しさだけがあって、まるで人形じみている。
警戒心を解くことなく、アティーファは一歩下がって覇煌姫を構えた。けれどマルチナは全く臆する様子もなく、武器を構えるエイデガル皇女ににじり寄る。
―― マルチナは、確かにアティーファを殺すと言った。
だが武器を構える気配も見せないザノスヴィア王女の本意を図りきれず、アティーファが声を覇煌姫を僅かに下ろし声を掛けようとした瞬間、マルチナが高く手を持ち上げる。
白い掌が顕になると同時に、緋色の光が閃いた。
「くっ!」
咄嗟に瞳を保護するために手を目の前に翳す。純粋な個人戦闘能力は高いのだが、アティーファは実戦経験が全くない。その為に、咄嗟の判断が後手に回り、攻撃を予測する能力に欠けていても仕方なかった。
今までは、カチェイやアトゥールといった実戦経験を持つ二人が補佐に入っていた為に、危険な事態になっていなかっただけのことだ。
閃光となって飛び込んでくる攻撃を、避けられないと覚悟した瞬間、上体に思い切りなにかが衝突してきた。予期せぬことにバランスを崩し、後方によろめく。
目前を、掠めるようにして緋色の衝撃が貫く。
倒れていなければ、確実に怪我を負っていただろう。では、何者が突き飛ばして来たのだろうの視線を泳がせ、アティーファは大地に優雅に着地した影に目を見張る。
「凛毅!?」
声を上げたアティーファに、彼女を救ってみせた山猫は、動けと指示するように首を振った。確かに再会を祝っている場合ではない。返事もそこそこに、バランスを立てなおし後方に飛び退る。
緋色の衝撃は、避けた第一撃に続いて次々と牙をむいてくる。
無残に穴を穿たれていく大地の様子に、避けながらアティーファは一つ確信する。これは魔力による攻撃そのものだ。
―― ならば、マルチナは魔力者だったのだ。
「凛毅!! マルチナを守っていたお前がここにいるのなら、あれはマルチナ本人なんだな!?」
跳躍し攻撃を避けていた山猫は、主の声に金色の漣のような双眸を向けた。続けて、無感動に攻撃を仕掛けてくるマルチナを見やる。
凛毅の仕種を肯定と受け取って、アティーファは肯いた。
「……マルチナがマルチナであるのに、別人の気する?」
繰り出される攻撃をなんとか避ける中、アティーファは抱いた疑問に思案を巡らせた。
これはレキス公国に訪れる前。まだこれほどの異変が起きているとは知りもしなかった頃、マルチナに感じた感想の一つだ。
―― 偽者である可能性は低いですね。
―― マルチナからは王族の気配がしないんだ。
仕草一つに妖艶さが漂ってしまうくせに、誘っている自覚は皆無だったマルチナ。
「マルチナであって、マルチナではない……本人」
本人であることに間違いはない。
だが、自分が知る彼女とは別人でもある矛盾。
―― エアルローダは人の精神を操る。
エイデガルに攻撃を仕掛ける一端として、隣国ザノスヴィアの王女を手駒にするべく動いたのではないだろうか?
王族としての誇りと自覚をもつ人物は、精神的に強い者が多く、操るには適していない。しかも今の状況で分かったのだが、王女マルチナもかなり高度の魔力を保持している。本来ならば操ることの出来ない相手だったはずだ。
けれど、何らかの出来事があって、ザノスヴィア王女の精神はエアルローダによって封じられた。結果、気高く他人に屈することを良しとしない”王女”としてもマルチナは封印され、新たに従順で穏やかな人格をもつ”一般人としてもマルチナ”が誕生した。
そう考えれば、王族の気配がしなかったのも、操り人形のように見えるのも、全て説明が可能なのだ。
そして魔力を封じ込められ、発露する場所を失ってこもってしまった魔力が、異性を異常に魅了する妖艶さを生み出したのでは?
一つの解答を出した瞬間、ひときわ高い音が響く。
逃げ回っている間に体力が落ち、マルチナの攻撃を避ける動きが鈍くなっていたのだ。そろそろ、避けるだけの行動を続けるのは無理だ。
「……私は」
目の前にいる少女は、人格こそ別人かもしれないが、マルチナ本人であることに変わりはない。そしてアティーファは、マルチナを得難い友人だと思っていた。
―― その、彼女を攻撃できるのか?
『一人娘を心配せぬ親がいるか』
出立間際に、浮かべていたはずの笑顔を消して、そう言った父を改めて思いだす。
続けて、背後で戦っているアトゥールのことを思い、はぐれてしまった大切な幼馴染のこと、飄々と軽口をたたいているのかもしれないカチェイのことも思い出す。
―― 決して、犬死することなど許されていない、自分自身。
「私は、ここで死んでいい命など持ち合わせていない!!」
迷いを断ち切るべく凛と叫ぶと、アティーファは閃光となって飛来してくる魔力に向かって、咄嗟に剣を振り下ろす。
火花にも似た閃光が煌き―― 魔力が両断された。
「……魔剣と呼ばれてきた…剣…」
己がなしたことに驚いて、アティーファは覇煌姫を見つめる。
―― 偉大なる女皇王レリシュが保持した、建国の魔剣。
覇煌姫は主たる人間の気力が純粋な戦闘心を持てば持つほど、応えて威力を抱く。だが、長く平和の歴史が続いたことで、覇煌姫が魔剣としての姿をみせたことはここ何年もない。ゆえに魔剣である証を見たものは誰もおらず、いわば伝説だけが残されていたのだ。
だが。今、アティーファの覇気に応じ、銀色の光を発する剣は、確かに魔剣そのものだった。
「凛毅!!」
鋭く誇り高い山猫の名を呼ぶ。
本来が肉食獣としての高い戦闘能力をもつ獣は、呼び声にひとつ咽喉をうなせると、飛来する攻撃を跳躍して躱し、皇女に寄り添った。
「手加減することは出来ない。だから、マルチナが致命傷をおうことだけは、凛毅がぎりぎり防いでやれ」
お前だって折角可愛がってくれるマルチナを失いたくないだろう?と小さく囁きかけると、言葉を理解したように凛毅は優雅に頷く。同時に四足に力をこめて、いつでも動き出せるようにと構えた。
「マルチナ!!」
「……貴方を…必ず…殺す…」
二人の国を背負って生まれた姫君の声が空中にて唱和する。
アティーファは、マルチナが魔力を繰り出すべく手を上げたタイミングをはかると、腰をかがめたまま一気に走り出た。
―― 悪い、とは。
思いもしなかった。謝ることもしなかった。
ただ、この戦闘を勝ち残る必要があったから。
―― 心を返して。
私の、心。
―― 縛らないで。
生まれながらに縛られた私の心を。
―― 解放して。
守りたいから。
―― 私と。
貴方とは……
走り出したアティーファの亜麻色の髪が、緋色の光にゆられ、金色に染まる。
マルチナが魔力を繰り出す前に攻撃を仕掛ける必要があった。至近距離の魔力の全てを覇煌姫が封殺できるとは思えない。
ゆえに彼女の懐に飛びこむ前に、発動を始めてしまった魔力の光を前にして、エイデガル皇女は攻撃が失敗に終わったと思ったのだ。
―― 当然、魔力の直撃をうければ死ぬだけだ。
にも関わらず、アティーファの心は静かだった。
なぜか確信がある。ここで、朽ち果てることなど決してないと、信じることが出来る。
翠色の瞳は穏やかで、戦場には似合わぬほどの涼やかさを見せていた。自分自身を骨まで焼き尽くすだろうマルチナが生み出した緋色の光の中、彼女はそっと目を閉ざす。
―― そして。
翠色の閃光が生まれた。
唯一の目撃者である凛毅が、首をもたげ光景を見つめる。
凄まじいまでの威圧感が大気を支配していた。
続くのは、大地が震えるほどの衝撃。そして全てを晴らす大いなる存在、自由なるもの――
風。
緋色をした魔力の塊が、持ちあがった翠色の閃光と風によって瞬時に相殺されていく。
光るのは覇煌姫ではない。―― アティーファ・レシル・エイデガル本人。
秘密がある、とアティーファの父フォイスは確かに言ったのだ。
考える方向を変えていれば、理解は多分容易なことだった。
魔力者を恐れず、魔力者に理解をしめし、魔力者に対抗できるもの。
―― それは、同じ魔力者でしかない!
「マルチナ!」
攻撃を封じられて、人形のようだったマルチナが、なぜか呆然と目を見開く。
操られているはずの彼女が、出来るはずのない眼差し。
―― 感情が戻ったんだ!!
咄嗟に気付いたが、全体重までもかけて振り下ろす剣を止められるわけがない。そして、呆然とするマルチナもまた、避けるための動けるほど意識を回復していなかった。
(殺してしまう!!)
覚悟は出来ていたが、やはり心が震える。叫ばずにすんだのはプライドではなく、声にならなかっただけだ。
刹那、凛毅が駆けた。
主たる皇女と、お気に入りの王女、二人の少女をあらゆる意味で救うために。
―― 夢はさめるものなのよ。
そう、自由なる心を縛りつづけるのは不可能。
―― 呪縛はいつしかもろくなり。
稀有なる力によって解放され。
―― 目覚めろと
覚醒を促す声がしている……。
「……エイデガル皇女、アティーファ」
飛びかかってきた凛毅によって後方に倒され、振り下ろされた覇煌姫によって長い裳裾と大地とを縫い付けられた少女は、濡れる漆黒の双眸をあげて、震えるエイデガル皇女を見つめていた。
アティーファはどこか呆然としていて、問いかけに応えようとしない。
主の望みどおりマルチナを救った山猫は、高貴なる少女ににじりよると、必要以上に強く覇煌姫を握り締める右手を僅かに舐めた。
湿った感触に、ゆっくりとアティーファは瞬きをする。
「……マル…チナ…?」
「礼をいいます。気高き、エイデガルの皇女」
「……君は…一体」
激しすぎた戦闘と、閃光を起こした脱力感とで呆然とする勇ましき姫の手に、己が手をザノスヴィア王女は重ねる。そして漂っていたはずの妖艶さなど偽りであったといわんばかりに、清浄で威厳に満ちた雰囲気で、姫君はゆっくりと微笑んだ。
「ザノスヴィア王ノイルが一の娘。わたしの名は、リィスアーダ」
どうぞリィスと呼んでくださいと微笑んで、彼女は大地に己を刺しとめている覇煌姫を抜くために、力をこめた。
「本当に心から、あなたに礼を。わたしと、わたしの哀しい妹、マルチナを救ってくれて。ありがとうと」
そしてさらりと、言い放つ。