身体中がひどく重く感じられた。
一歩、一歩。馬を進めるたびに、鐙に置く足を、まるで力いっぱい引かれているような違和感さえある。
たびたび下を見てしまうのは、足を取られる感触があまりにリアルだからだった。まるで大地から自分の足を引く誰かの手が伸びているのかと、思えてしまう。
リーレンは救いを求めるように口を開き、酸素を大きく吸い込んだ。
こんなにも身体を重いと感じたことは今までない。その上この暑さはなんだろうかと、漠然と思う。前を行くアティーファ達が汗ばんでいる様子はないので、外気温が高いわけではなさそうだった。恐らく――
自分の体の中が熱い。
助けてくれと、喚いて逃げてしまいたい衝動にかられる。
そうすれば、感じる苦痛から逃げられるのだと本能が知っていた。けれど逃げるわけにはいかない。なにせ逃げ出すのは、皇女アティーファの側を離れることを意味している。
苦痛さえ我慢すればアティーファの側に居られるのだ。
そう強く考えると、不意に楽になった。足を取られる感触も、ひどい熱さも続いているが――
耐えられぬ程ではない。
苦痛を越えてしまうほど、アティーファの側に居たいと望んでいる理由を、リーレンは自分自身の事だというのに分かっていなかった。
気付いた時から彼女が好きだった。恋をしていた。だから側に居たいのだろうと漠然と思っているが、それだけではここまで激しく切実に願う理由には足りないのかもしれない。
「…他の理由、か……つっ!!」
ぽつりと呟いた後、リーレンは突然顔をしかめた。――
頭痛がする。
必要以上にアティーファを思う自分自身の気持ちの訳を考えると、こうしていつも頭痛が襲ってくるのだ。慣れていることとはいえ、痛いことには変わりがない。
「リーレン」
ふと、頭痛を追い払うように、想う少女の声が響いた。
心配をかけたと気付いて顔を上げる。アティーファが振り返って、生命力を感じさせる翠の瞳を僅かに細めて、こちらを見ていた。
何か返事をしなくてはと、思ったにもかかわらず躊躇いが襲ってきた。声が詰まる。
―― 何故、躊躇ってしまったのか?
自分自身の行動に唖然としたリーレンの表情に、アティーファは確信する。
レキス公城に近付くにつれて、なにか空気が緊張しているのを感じていたのだ。これが人を操ったかもしれないという力なのだろうかと考え振り向けば、リーレンが苦痛を堪える顔をしている。
普段エイデガル皇国に保護されている魔力者達は、生まれ持った能力を使用することを基本的に禁じられている。
理由は二つある。一つは魔力を過剰に使用し続けると、確実に生命力が削られていく。その為、寿命が短くなりがちになるので、それを抑制する為なのだ。
そしてもう一つが、魔力持たぬ者達に”魔力”の破壊力の凄まじさを印象付けさせない為だった。
遠い昔のように、魔力者排除の気風を生み出させるわけにはいかない。
もしも魔力者恐るべしの気風が広まり恐慌が始まってしまえば、それは瘧のように広まって全世界に伝染するだろう。そして伝染した恐怖は――
魔力者を多く抱えるエイデガル皇国そのものに対する恐怖と憎悪に摩り替わってしまう。
結果、エイデガル皇国が全世界から孤立しかねないのだ。
そういった説明を、正確に受けている魔力者達も、エイデガル皇国の指示に従い自主的に魔力を使わぬ事を約束している。
当然ながら、リーレン・ファナスも殆ど魔力を使った事がない。
ならばリーレンが動揺を始めたのは、今まで触れる機会さえなかった巨大な魔力が発動している気配に、本能で怯えているのだろうとアティーファは思う。
「リーレン、辛いようなら、少し休もうか?」
余りに苦しそうなので、思わず問い掛ける。先程言葉に詰まったようだったリーレンは、少し傷ついた表情を浮かべてから、首を振り、
「……だ、大丈夫です。皇女」
はっきりと拒絶してくる。無理強いは出来ないと感じ、無理はしないでくれと言ってから、アティーファは再度レキス公城を見上げた。
何故か唐突に、出立前に父王フォイスと交わした会話が思い出される。
挨拶にとノックした部屋の向こうで、複雑な顔をしていたフォイスは両手を広げて自分を迎い入れたものだった。
「アティーファ。もしレキス公国や、国境にかけられた石橋アポロスに発生したと思われる異変が、人を操る種類のものであるのならば。確実に魔力者が関わってくるはずだ」
「……魔力者が」
突然の父王の言葉に驚いて、アティーファは目を丸くする。
滅多に深刻な顔などせぬフォイスが、珍しいほどに真面目な顔をしていた。おかげでアティーファは緊張を覚える。
父王フォイスは、常に動じず、穏やかにけれど強く構える指導者としての態度を殆ど崩さない。その動じない姿に普段どれだけ精神的に頼っているのかを、こういう時にアティーファは実感するのだ。
「エイデガルは建国当時から、魔力者とのかかわりを否定することが出来ぬ国であるということは、アティーファも知っているな」
「うん。知ってる。あまり公にされることはないけれど、国の守りの要となる獣魂の宝珠も、実際は魔力に関係しているとアトゥールに聞いたことがある」
レキス公国におきた異変の重大性を如実に知らしめてきた獣魂の宝珠の一つ、天馬宝珠に視線をやりながら、アティーファは丁寧に言葉を返した。フォイスは唐突にくしゃりと愛娘の頭を撫でて、視線を皇国城をとりまくアウケルン湖へと投げる。
「そうだ。エイデガルが何故に唯一魔力者に対して門戸を開くことが出来たのか。何故に他国には出来なかったのか。その根本的な問題一つにも、様々に秘めた理由をエイデガルは保持している。アティーファはまだ知らぬ事だが、今回の一件において、身をもって知ることになるのではと、思っている」
「父上? なにか…その、心配事でも?」
らしくない父王の真剣過ぎる態度に、アティーファは素直に疑問と不安を覚えたから聞く。
フォイスは苦笑して、一度撫でた娘の頭をもう一度撫でた。
「馬鹿者が。愛娘を一人、異変が――
しかも十中八九魔力者が関与していると思われる場所にやるのだ。心配せぬ親がいるか」
はっきりと心配している父に、アティーファは目を見張る。
「大丈夫。父上より先に死ぬような親不孝は、私自身の名誉にかけてしない」
言い切って、幼い頃のように両腕を伸ばしフォイスに抱き着いて甘えてみせた。
「やれやれ。まったくもって、お転婆娘を持った父親というのは不幸なものだ。ならば行かずに側におりますという言葉があることさえ、知らんとみえる」
「知っているけれど、利用するためにある言葉だとは知らなかった」
「困った娘だ」
精一杯の愛情をこめて娘を抱きしめ返し、フォイスはふと囁く。
「アティーファ。覇煌姫を持っていくがいい」
「父上!?」
驚きに息を呑み、至近距離にある父の澄んだ翠色の眼差しをアティーファは覗き込んだ。
御剣覇煌姫。――
エイデガル皇国を作り上げた姫君レリシュの異名を冠せられた、意思を持つとされる剣の名である。獣魂の宝珠と同じく国の礎となるものであり、国王ないしは第一皇位継承権を持つ者のみが所持可能な大切なものだ。
それをこうも簡単に、父は持って行けという。
「おそらくレキスでは戦闘が発生する。より危険が高い場所に赴く者が持つに相応しい剣であろうよ」
「……分かった。父上、覇煌姫は、たしかにお預かりする」
そうして渡された剣は、今、優美な姿をアティーファと共に外気の元に晒していた。
その上御剣覇煌姫と同じ、意志持つとされる武器を二つアティーファは確認している。アデル・ティオスの二公子が、常時帯刀する剣の他に、布に包まれた武器らしきものを持参しているのだ。
おそらく、建国戦争の際に、レリシュの兄姉であったアデル・ティオスが保持し戦ったという魔力持つ剣であるだろう。確か名を、大剣紅蓮と細剣氷華といったはずだ。
「レキスで大きな危険が待っていると…思ったのは、父上だけじゃないって事だ…」
呟きながら、自然厳しくなってくるアティーファの視線の先に、レキス公国城と城下町を囲みこむ巨大な城壁がついに映った。
閉ざされた城門を想像していたらしいリーレンが、背後で拍子の抜けた声を上げる。
「城門……開いたまま、ですね…」
「歓迎されているって、ことかな?」
流石に中にすぐ入るかどうかの判断に悩む。その為に一瞬足を止めたアティーファの横を、遅れていたはずのカチェイとアトゥールが通り越して行った。
「カチェイ、アトゥール?」
「アティーファに偵察してこいという趣味はないさ」
すぐに城門前に辿り着いたカチェイが、物見遊山にでも行くかのような軽い声をあげる。同時に自然な動きで、背負う大剣を手にして馬を飛び降りた。同じように馬を降りたアトゥールも、細剣の柄に手を置いている。
二人とも、布に包んである武器を使用するつもりはないらしい。
カチェイとアトゥールの二人は、公城内に馬を入れることが許されていない為に、城外に本拠を構えているレキスの天馬騎士団の様子を確認しに行っていたのだ。
公城内は、他の場所と同じく完全に無人であった。カチェイが首を傾げる。
「天馬騎士団の館跡のことだけどな。争った様子はまったくなかった。どう思う?」
歩き出しながら、当たり前のように横を歩く親友に尋ねた。
「……争うことさえせずに、騎士たちもが敵に排除されたとは普通思えない。だからこそ、皇王陛下もおっしゃったとおり」
「人を操るなんらかの原因。面倒なこった。魔力の介入ってとこか」
「多分ね。エイデガル皇国および属国たる五公国の中で、魔力者からの攻撃に対して防御が弱かったのは、レキス公国だ。けれど、それを理解できる者など、そうはいないはず。……リーレンが、それに今まで気付いた様子があったと思うか?」
穏やかな容姿に似合わぬ、布に包まれた重たげな剣を抱えなおしながらのアトゥールの声に、カチェイは振り向いて、自分たちを心配げに見つめているリーレンを見やる。
「いや。今までは、全くなかったな」
「ようするに、確かに魔力に関する防御能力が最も低かったとはいえ、それは単なる比較論の問題で、ごく通常レベルの魔力に対する防御の問題はなかったはずなんだ。それに、リーレンは自覚していないけれど、魔力者の能力はかなり高い。なにせ皇王自らその存在に気付き、保護するべしという命令を、我々に下したほどだったのだから」
純血の魔力者であるはずだと、唐突にフォイスが自分たちに言って命令を下した当時を、アトゥールは良く覚えている。――
尊敬するべき皇王であり、実は命の恩人でもあるフォイスの命令に異存などなかったが、驚いたのだ。
ティオス公国、アデル公国の長男として命を得て、次期公王になることが既に決められている二人が、エイデガル皇国に長く住んでいるのには理由がある。
側妃とも認められないような流民の娘を母に持っていたカチェイは、長男に生まれついてしまったが為に、正妃に命を狙われ続けていた。
頼みの父親は、アデル公国を守ることにしか興味を持てぬ男で、命を狙われる息子とその母親を庇う気持ちは一切なかったのだ。その為、このままではいつか殺されると判断したカチェイの母は、命懸けでまだ少年だった彼を連れ出し、エイデガル本国に保護を求めて逃げ込んだのだ。
一方アトゥールは、公王と正妃との間に生まれた嫡子であった。
けれど生まれつき身体が強くなかった彼を、母は何故か唾棄し嫌悪した。そして翌年生まれた健康な次男を溺愛し始める。ティオス公王である父はアトゥールを可愛がっていたが、公国にいる時間を殆ど持っていなかった。
そして何十ヶ月ぶりに帰還した己が城で、彼は恐ろしい現実を目撃したのだ。
実の母親が、まだ幼い息子に毒を飲ませ、高らかに笑い続けている。
発見が早かった為になんとか一命を取り戻したアトゥールの命を守るため、こちらもまた、エイデガル本国へと彼を連れてきたのである。
似たような過去を似たように持っていた二人は、何故か気が合った。
そして偶然にも、皇王フォイスと、まだ幼い童女であったアティーファに気に入られることになる。
こうして殆どをエイデガル皇国で過している彼らは、他の公家の人間よりフォイスの命で動くことが多かった。
しかし如何に気軽に頼みごとしてくると言っても、一介の魔力者にすぎない子供の保護に次期公王でとなる高貴な二人が借り出されたのは、やはり少々異常だ。
「純血の魔力者。それが意味する本当の所は、まだ私も知らないけれど」
言葉を切って、アトゥールもカチェイと同じく視線を後方にやった。
魔力者として、かなりの才能を持っているだろうリーレン。
その彼さえも気付けなかった、レキス公国の魔力に対する防御能力の低下に気付いた人間が、異変の背後に必ずいる。その事実に、アトゥールは戦慄を覚えずにはいられなかった。