第08話 展開
第07話 疑惑HOME第09話 予感


 目前に空と、遠くなった大地が広がっていた。
 高い塔の上。レキスを象徴する天馬を奉ずる為の、瀟洒な塔の上に彼女は立っている。きちんとした足場はなかった。塔は塔でも、彼女が立っているのは、塔の屋根を形成する部分の上であったのだ。
 強風に揺れる体を支えようと、神像として安置されている天馬の彫像に、彼女は縋りついている。
「一体どうして、こんなことになるというの」
 吐き捨てた声には、激しさと共にまだ幼さが残っていた。
 ダルチェ・ハイル・レキス。
 エイデガル皇国に天馬宝珠と共に、書によって助けを求めた張本人だ。
 長い髪を二つに編み下げたダルチェは、本来五公国一若い公王となるべき人物であった。けれど彼女は自分自身の中に冷酷で激しすぎる性質が潜んでいること熟知しており、エイデガル皇王フォイスに「我、公王の器にあらず」とかつて直訴していたのだ。
 その言を受け入れたフォイスは、彼女が永遠の伴侶と選んだ男―― ガルテ公国の次男であったグラディールとダルチェとを双方呼び出し、二人が合同にてレキス公王を勤めるようにと裁決を下したのである。
 苛烈すぎるダルチェと、温和すぎるグラディール。
 二人が長短を補い合えば、レキスを運営していくに問題ないという判断だった。
 三日も持たずに離縁するのではと噂されていたが、仲は意外なほどに睦まじく、この不思議なレキス公王の誕生から、三年が経過している。
 ―― 幸せであると。
 思っていたのだ。ダルチェも、グラディールも。そしてレキスの民も。
「なのに……一体、なにが……起こったというの!!!」
 助けを求めたエイデガル皇国が動くのを待ち、レキス公国を取り戻す機会を狙う為に、一人孤独に来援を待つ娘は叫ぶ。
 はっきりと思い出せる。突如破滅をもたらした日の事を。
 憎らしいまでに澄み渡る青空が、印象的なほどだったあの日。
 前触れもなくそれは訪れたのだ。
 光景を思い出して、ダルチェは眼差しを伏せる。
 異様は一見、歩いているだけの人の群れに見えた。
 そう、それだけならば異様でも異変でもなかったのだ。パレードか、祭りでもしているのかと思えば良いことだったから。
 けれど。それは―― 間違いのない異変の始まりだった。
 人々の目は濁っていた。まるで死んだ魚のように。表情は全くなく、出来の悪い人形のような顔つきで一様にふらふらと道を進んでいる。時折、ふらつく余りに倒れる者もいた。
 けれどそれを救おうとする者は皆無だったのだ。
 それだけではない。人の群は、倒れ、地に伏せた同胞を容赦なく踏んで行ったのだ。
 人の背を、足を、腕を、胸を、顔を。容赦なく、何十、何百という足が踏みつけて、壊して。付着するのは黒い……多分それは血液の色。
 ―― 滑稽なまでに凶悪な光景だった。
 当初城外だけで発生していた異変は、瞬く間に勢力を拡大し、対策をとるべく騎士団と合流をはたそうとしたダルチェと、夫グラディールの元にも忍び寄って来たのだ。
 刀を抜いて襲いかかってきた、その死んだ魚のような眼の持ち主。それは、合流しようとしていた天馬騎士団員に間違いがなかった。
 温和な夫は操られている民たちに憐れを覚えて戦いを放棄した。
 苛烈な妻は同情などで戦いを放棄するのを潔しとせず、二振りの短刀を構え、かつて味方であった操りの群れを突破する術を選んだ。
 ―― そして。
「……グラディール…」
 ダルチェは待っている。
 この事態には必ず魔力者が関係していると咄嗟に判断し、魔力を増大させることも可能な天馬宝珠を奪われまいと白刃を煌かせ泣きながら戦い、助けを求め天馬宝珠をレキスから外に出すことに成功したのだ。
 ―― だから待っている。 
 レキスと取り戻すと決意を胸に必死に抱いたまま。
「……悔しい。こんなことで、負けたくない。負けたくない」
 操られ、自分を追い詰めてくる濁った目の中に。
 夫の姿さえ見つけてしまった孤独な半分だけの公王は、必死に己を叱咤し続ける。とにかく今は、生き延びてみせねばならなかった。全てを取り戻す為にも。
 そんなダルチェを、どこか遠くから見つめている気配が確かにあった。
 燦燦と輝く太陽の真下であるのに、大地に根を張る樹木のように、闇が根を張りつくした場所からの気配。
「頑張っているみたいだけど。どうも楽しくないんだな」
 恐ろしいほどに深く蒼い双眸を細めて、闇が―― いや、人が呟く。
 声は低くない。どちらかといえば透明な響きは、少年の声を思わせる。
「エイデガルを支える五つの公国。五つの楔。五つの結界。それがこうも脆くて良いものなのかな?」
 腐乱した屍があった。群がる虫たちがあった。そして葬送の炎が高く天を焦がした。全てが死に埋没する中で一人生きていた―― 件の少年が佇んでいたのだ。
「君だけがそうして平常でいるっていうのも、実は楽しい事じゃない。なにせ、君の実力で正気を保ったわけじゃないんだ。偶然、二人分の力を持っていただけじゃないか」
 本当にくだらないと続けて、少年は歩き出す。
 螺旋を描く階段。間違いなく、レキス公妃ダルチェが居る塔へと続く階段だ。
「この事態に、エイデガルはどう動いてくるんだ」
 一瞬足を止め、石枠から外を見やる。どこまでも平和な景色が広がっているように見えるその大地。
 見つめていた瞳を一瞬見張った後、少年は双眸を細めた。何かに気づいた、そんな仕草だ。
「―――― そうか。君がくるんだ。…アティーファ」   
 葬送と焔と呪詛と。
 それだけが似合うはずの少年が唐突に笑い出す。
 気高き皇女アティーファの名を呟く瞬間は、どこか陶酔するような瞳までしてみせて。
 塔の最上階にある部屋に続く施鍵された扉の前にたどり着いた時も、少年はまだ楽しそうだった。
「ねぇ。いつまでそこに立て篭もっていられると思ってるのかな? 君が大切にする人間は僕の手中にあるのだし。素直に天馬宝珠と共に、投降したほうが身の為じゃないかな? それとも。殺してしまってもいいのかな、彼を……?」
 暗い艶のある表情で指を伸ばし、その扉に指を這わせながら、返事など期待していないくせに話しかけている。その背後には、完全に気配を無くしてしまった青年がひっそりと控えていた。―― レキス公王グラディールだ。
「―― 手駒は手駒らしく、使っておかないと勿体無いだろうな」
 脈略無く呟いた少年の指先が、燐光を生み出すした。
 その淡い…けれど際限なく禍々しい光りに呼応したかのように、エイデガル皇国にて闇が派生していた。
 本来の持ち主が出かけた後の、蒼水庭園にて。
「……あ、ああ……」
 ゆうるりと一人座っていたマルチナが、声にならない呻きを漏らす。
 細い眉を、ここには居ない男を誘うように艶めかしくしかめ、彼女は立ち上がった。足元を腐食するように湧きでるのは深淵の闇。
「わたし……わたし……わたしは……」
 白い自分自身の首筋に、彼女は同じく白い指をあてて。
 ―― 唐突に、己の首を締めた。
 気道が狭まる。酸素が途切れる。そして苦痛の色に彼女が染まる。
 己で己の首を絞めるという、醜悪なまでに不可解な光景であるにも関わらず、傾国の器である彼女は……あくまで美しかった。
 自分自身の意志ではないのだろう。彼女の瞳は恐怖に揺れている。けれど指の力はゆるみもせず、気道は狭まっていくばかりだ。
「………わた…しは、い……や……」
 加害者が目前にいれば、救いを請うこと位は出来たであろうに。
 けれど加害者は己自身なのだ。
 そして助けを求める相手も、マルチナは持たない。
 許されるなら助けを呼んで泣いてしまいたかった。
 極限の苦痛の中、ふと思い出したのは、日差しのようだった少女と、自分に下卑た感情を押し付けてこなかった、彼のこと。
 ―― 助けを求めて彼の名を呼べる権利があれば良かった。
 そうならきっと生まれてこの方出した事もない大きな声で、彼を呼んだろう。縋る為に手を伸ばしただろう。けれどそのような権利を持たないマルチナの手は、今、手を伸ばすどころか己の首を絞め続けている。
 限界をこえる苦痛の中。
 ふと、必死に己の裳裾を噛んでくる気配があった。
『……凛毅……?』
 物言わぬ獣だけが彼女を救おうとしている。そして闇は、彼女と、そして唯一彼女を現実に引き止めようとする獣との双方を。
 ――飲み込んだ。



「なんだ……?」
 エイデガル皇国と五公国とを結ぶ運河の上を、滑るように進む船の上でアティーファは一人ごちた。
 翠色の彼女の双眸の先には、普段と変わらぬ穏やかな光景が広がっている。ゆえに少女が眉をひそめた原因が分からずに、側近くにいたリーレンは首を傾げた。
「何があったのですか? アティーファ様」
「う……ん、ちょっとね。リーレンは何も感じていないのか?」
「?……いえ、別段…」
「そうか。なら、私の気のせいかもしれない」
 口ではそう言いながらも、彼女の表情から憂いの色は消えない。
 レキス公国からの連絡は、アトゥールの指摘した通り、報告をうけた次の日から復活した。ご丁寧にも使者が「ご迷惑をおかけした」というレキス王グラディールの直筆の書を届けてきたほどだ。
 けれど慣習であるアポロスからの苦情報告は来ず、商人や旅行者がレキスから出たという報告もない。そしてなにより、危急をつげてきたレキス公妃ダルチェとの連絡は途切れたままだった。
 レキスに異変が起きているのは間違いないと、エイデガル皇王フォイスは断言する。
 結果、愛娘アティーファと、同行を希望したティオス、アデルの後継者である二人の公子。そして皇女の側近たるリーレンらを、レキスに派遣することになったのだ。
 レキスに異変があるならば、すぐさまエイデガル皇国の近衛兵団、および他の四公国もすぐさま出兵可能なように、臨戦態勢を取った上で。
 アティーファが乗る船も、一見は華麗な船だが、実際は軍戦であった。
「アティーファ、エイデガルに残してきたマルチナ姫のことが心配なのか?」
 先程までアデル公国の騎兵団を乗せた船に居たはずのカチェイが、器用にもアティーファの船に小船をよせて縄をなげ、登ってきた体勢で話し掛けてくる。
「……ああ、そうか。今、私は……マルチナのことを気にしたのか…」
 突拍子もない行動のカチェイに驚く様子もなく、アティーファは言われた言葉に我が意を得たりと肯いていた。―― 指摘されて、自分でも分からなかった不安が何処にあったのかに気付いたのだ。
 フォイスからアティーファを守るようにと直々に言葉を賜ったことで意気盛んなリーレンは、時折鋭すぎる勘を頼りにしたエイデガルとそれにつながる血筋の人々の会話の突拍子のなさに、首を傾げる。
「リーレン、あまり気にするものではないよ。考え込んで答えが出るものではないのだから」
 静かな声に振り返ってみれば、カチェイと同じく何時の間にやら乗り込んできたアトゥールの姿があって、リーレンは思わず呆れた。
「お二方とも、よろしいのですか? ティオス、アデルの騎士団の方は……」
 良識的な彼の質問に、カチェイが振り向く。
「ん? 大丈夫だろ? 俺は、俺がいない程度で大丈夫じゃない奴等を騎士団に入れた覚えはないからな」
 随分と呑気な返事に、リーレンはがっくりと肩を落としていた。
 とはいえ、最高の剣豪と尊敬されているカチェイの配下に入りたいと望む若者達は数知れない。自然、選りすぐりの若者達が騎士団に入ってくるのだ。カチェイの言葉はあながち嘘ではなかった。
 カチェイとリーレンが不毛な会話を横目で見やってから、アティーファは穏やかな風貌のティオス公子に会話を向ける。
「アトゥール。なにか、感じたか?」
「…僅かに。気配が動いた気がしたかな…」
「私には…気配というよりも、エイデガル皇城で風の流れそのものが変わったような気がしたんだ」
 何が起きたのだろうと考えていても、今更エイデガルに帰還するわけにはいかない。
 悩んでいても仕方ないと、アティーファは想いを断ち切る為に首を振った。
「私の私室に、ザノスヴィアの使者団が入れるわけがないしな。…まあ大丈夫だと思おう」
 断言しながらも、アティーファの不安は消えなかった。
 実を言うと、出立前にマルチナを同行したいとアティーファは強く希望していたのだ。何か嫌な予感がすると主張したが、流石に一国の一の姫を派兵の共に連れ出すことは外交的に不可能だ。
 ゆえに、マルチナはエイデガルにて視察を続けている事にして、アティーファの私室に一人残されている。
「マルチナはザノスヴィアには戻らないで、しばらくここに居てくれないか? 私たちが、レキスに行っている間も」
 やんわりと告げた時に、マルチナが見せた瘧のような怯えを、アティーファは忘れられないでいた。
 ―― 私を。結局切り捨てるのですね。貴方も。
 唐突にマルチナがそう言ったのだ。
 初めて出会った時と同じ。穿たれた穴のような、感情ではなく闇だけを宿すような漆黒の瞳で。彼女は呟いて……そして俯いてしまった。慌てて問い詰めたアティーファの声に、マルチナは再び顔を上げはしたが、口をきいてはくれなかった。
「……あれは、なんだったんだろう」
 気になって、気になって、仕方ない。
「やはり、無理矢理にでも連れてくればよかった」
 そう締めくくって、アティーファは溜息を吐いた。
 心の救いは、危険を伴う事態が発生した場合は、常に自分の側に居ようとした誇り高いネコ科の肉食獣である凛毅が、マルチナの足元にうずくまり、彼女を守る仕種を取ったことだけであったのだ。
「アティーファ皇女、そろそろレキス公国領に入ります」
 告げられた報告に、アティーファは顔を上げて頷く。
 気になることは数多くあるが、今はレキスの様子を確認するのが先決だった。
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