第05話 胎動
第04話 会見HOME第06話 猛禽


 白い紗のヴェールに囲まれた中に、自分は居るのだとマルチナは思っていた。
 瞳にはっきりと映るものは何もない。耳に意味ある音が聞こえたこともない。彼女にとっての現実はひたすらに白い霧の中に埋没している。
 それが何時からだったのか―― それさえ、彼女は分かっていなかった。
 ただ白い世界の中で生きていくだけなのだと、虚ろながら悟っていたのだ。
 けれど今。
 彼女は確かな温もりを感じていた。
 誰かに取られている指先から伝わる、体温のせいだけではない。まるで木漏れ日のような優しさが、包み込んで来ているような心地よさ。
 不思議と穏やかな気持ちになった。そういえば覚えていないにも関わらず、昔こんな安らぎの中に包まれていたような感覚を唐突に思い出す。
 今までずっと囚われていた。意識も、感覚も、白い靄の中に。
「マルチナ、もうすぐそこだから。リーレン?」
 けれど今。涼やかな少女の声を、クリアに聞き取っている自分がいる。押し包んでくる靄が、晴れていく感覚がする。
「アティーファ皇女、大丈夫ですか?」
 蒼水庭園。一年中美しい緑と花と泉を室内に持つ、艶やかな離宮から、慌ててリーレンが飛び出してくる。相変わらずアティーファを心配し続けていたらしい瞳は真剣そのもので―― 何故か、マルチナの胸が高鳴った。
 ひどく、真っ直ぐで優しそうに見えたのだ。リーレンの漆黒の眼差しが。
「心配が必要なんて事は何一つないよ、リーレン。それより、ザノスヴィア王女マルチナをつれてきた。一応はまだ私の婚約者ってことになるのかな?」
 悪戯な子供のように笑って、アティーファはマルチナの両肩に手を乗せる。
 背を押され前に出て、マルチナは目の前の人々を見つめた。
 リーレンに遅れて姿を見せたのは、二人の公子だった。両方共に、完璧な態度で礼をしてくる。けれどマルチナに背を向けた後、鋼色の髪と目をしている青年が驚いたように口笛を吹いた。薄い青緑色の瞳と光沢のある淡い茶の髪をした方が、咎めるように片割れを睨み付けている。
 鋼色をした青年が見せた反応は、マルチナがよく受けるものの一つだった。
「なにやっているんだ? 二人とも。マルチナ、紹介する。背の高いほうがアデル公国のカチェイで、もう一人がティオス公国のアトゥールだ。二人とも私の兄上みたいなものかな」
 兄上、と言った時のアティーファには甘えたような表情が有って、皇女の言葉は嘘ではないと、マルチナは確信する。それから、最初から全く態度の変わらないリーレンに視線を移した。
「……アティーファ。あの方は?」
「―― え? ああ。私の幼馴染みで、リーレン・ファナスって言うんだ」
「……リーレン…」
 囁いて、マルチナは彼を見詰めた。視線に気付いてリーレンは微笑みを浮かべ、一礼する。
 ―― 微笑みを浮かべて。
 誰もが向けてくる、好色で下品で野卑で淫らな色など全く存在していなかった。本当に優しそうで、だからマルチナはリーレンが自分に対し特別な意味を覚えなかったことを確信する。
 愛しい者がいても、約束を交わした相手がいても。男達は全て、自分を淫らな意味で欲しようとした。―― だというのに。
 霞みが、完全に晴れた。
 無彩色が有彩色に変わる瞬間。
(わたしに、この人は、興味を覚えなかった……)
 新鮮な、あまりに新鮮で優しい衝撃。
「マルチナ、どうしたの? なにか変なものでもあったか?」
「いいえ。いいえ。何も」
(声が、出た?)
 誰かに強要された言葉でもなく、空虚な言葉でもなく、自分の声が。
「疲れたのかもしれないな。エミナ、悪いけど、お茶の用意をしてくれないかな。長旅と、胸の悪くなるような使者の口上を聞いてたから疲れたんだ。全く、マルチナは物じゃないのに、よくあんな扱いするよ」
 心底憤慨したようにアティーファが言う。童顔の侍女は軽やかに答えて、走り去っていった。全てが明るい。そう―― ここは優しい気持ちになれる。
 マルチナの視界の先で、何もなかったかのように二人の公子が話をしている。アティーファがマルチナをエスコートするようにと、リーレンを呼び寄せた。
「…? アティーファ皇女、マルチナ様を奥にご案内すればよろしいのですか?」
「うん。すまない、リーレン。凛毅(りんき)を呼んでくるから、その間マルチナを頼む。すぐに戻る」
 笑顔を残して走り去ったアティーファを、年嵩の二人が後を追った。
 そうして、二人きりになる。
「大丈夫ですよ、マルチナ様。一つ伺いたいのですが、どうしてもザノスヴィアに帰らなくてはならない用事はありますか?」
 特に何もないはずだと答えようとして、不意にマルチナはこめかみに痛みを覚えた。
 震えるような―― 声が聞こえてくる。まるで直接脳に触れるように。
『失敗の場合は、直ちに帰還するのが身の為じゃないかな』
 そんな言葉。行動を、意識を、強要してくる力の言葉。
 頭を振る。靄を作り出してきた声を振り切るように。強くマルチナは首を振った。
「マルチナ様?」
 突然の仕種に驚いたのだろう。心配そうに名前が呼ばれ、支えるように肩を掴まれた。触れられた部分がひどく熱く感じる。意を決して、マルチナは顔を上げた。
 ザノスヴィア王国の人間と同じ特徴を持つ漆黒の瞳が、下卑た色を宿さずに自分を見つめている。
 黙っていたままでは変に思われると考えて、マルチナは慌てて答えなくてはと唇を開く。
「……大丈夫。戻らなければならない用事も、べつに、ないと乳母は言っておりましたから」
「そうですか。良かった。おそらく、しばらくエイデガル皇国に逗留なさることをお頼みすることになるでしょうから。無理強いをしたくはなかったのです」
 にっこりと笑って、リーレンは手を差し伸べてくれた。
「案内いたします。どうぞ」
「もう一度…、名前を」
「はい?」
「教えていただきたいのです。名前を」
 目を上げる。最後の確認の為に、自分から目を合わせてみようと思ったのだ。ひどく緊張している。握り締めた手が、白いレースの手袋の下で汗ばむのも分かる。彼は―― それでも変わらずにいてくれるのだろうか?
「リーレン=ファナスと申します。マルチナ姫」
 彼は変わらなかった。



「アティーファ、何を恐い顔をしてる?」
 カチェイの声が聞こえて、目的に向かって歩いていた皇女は眼差しを上げた。慣れない髪型が嫌になったのか、すでに左手で髪を解きに掛かっている。その眼差しは、どこか恐いほど真剣な色をしていた。
「私は恐い顔をしていた?」
「ああ。なにかを感づいたって顔だな」
「嫌だな。そんなふうにすぐ分かってしまうなんて」
 拗ねたアティーファの声に、カチェイは苦笑する。傍らに佇んでいたアトゥールは、表情を変えてしまった彼女を安心させる為に僅かに笑った。
「私たちにしてみれば、アティーファは妹のようなものだからね。表情の変化には、少々敏感すぎるのかもしれないかな」
 必要以上に気に病むことはないと言ってくれているのが分かるので、アティーファは拗ねた気持ちを払うように首を振る。
「うん。心配してくれるのも、気に掛けてくれているのも、私は嬉しいんだ。ただ、マルチナを前にして私が恐い顔してたんだったらやだなって思って」
「それは」
「してなかったぞ」
 交互に皇女が慕う兄代わりの二人が言う。カチェイは大きく歩いてアティーファの後ろの樹に寄りかかり、アトゥールは少女のすぐ隣に立った。
 何があっても守ってやる、という彼らの心が態度に現れていて、少しくすぐったいような気持ちにアティーファはなっていた。
「…なにか、気になるんだ。マルチナは、存在感がなんていうのかな、少しおかしい。彼女が彼女ではないような、そんな感じがするんだ。それに、ちょっとおかしい所があるし」
「おかしい?」
 言い澱んだ皇女の続きをアトゥールが促す。
「なにが変なのかは分からない。でも、これだけは分かる。マルチナは…王家の人間の気配がしない…」
「けれど、偽者である可能性は低いだろうね。リィスアーダ姫は幼少のころより絶大な人気を国民に誇っていた。国民ならばだれもが彼女の容姿を知っているという事だから。偽者を外交に使うのは、あまりに危険が多すぎる秘密になる。秘密があるのなら、秘密を知っている人間は最小限に押さえるべきだろうに、ザノスヴィア使者団は数が多い」
「うん。そう思う。だから、偽者とかそういうものではなくって、もっと嫌な感じがするんだ…本人なのに、まるで本人じゃないような…」
 わずかに身震いをし、アティーファは眉をひそめた。
「エイデガル皇家に生まれる者は全員、ずばぬけて勘が鋭いからな。調べてみる必要はありそうだ」
 助け船のようにカチェイが言うと、肯いて皇女は同意した。
「なら、ザノスヴィア王国に関連するここ五年の出来事をまとめさせよう」
 さらりとアトゥールは言って、長い衣を翻してその場を去る。アティーファはしばらく、去っていく青年の後ろ姿を見つめた。
 僅かに周囲に向けていた意識が当然おろそかになる。それを狙ったかのように、彼女の横にある木と丈の長い草の陰に一つの影が生まれていた。
 聞き取れないほどの足音がする。けれどそれに気付いて、アティーファは振り向いた。
「凛毅!また、お前は私を驚かせる機会を伺って!」
 快活な少女の声にあわせて、アティーファが凛毅と呼んだものが、軽やかに跳躍する。
 しなやかな身体が空に舞い、それは皇女の隣に着地した。気高さと、激しい気性を秘める獣。―― 山猫である。凛毅は甘えるように鼻面をアティーファの足に押し付けて、彼女の訪問を歓迎してみせた。
「凛毅、お前はちょっと可愛らしいっていう形容からは遠いけど、動物の利点をめいいっぱい活用して、マルチナの心を和ませるんだぞ」
 じゃれてくる肉食獣の心地よい背を撫でてやりながら、そんな事をアティーファが頼む。凛毅は無理を言うなとそっぽを向いた。けれど皇女がいつもより長く、黒絹のような毛皮を撫でてくれる事に気を良くしたのか、いきなり優雅に歩き出す。
「アティーファ…いくらなんでも、あれは少々刺激が強すぎないか?」
 呆れてカチェイが言うと、アティーファは首を傾げた。なぜ?と言いたげな表情に、青年は息を付く。いくら人に飼われていて、大人しいと言っても、世間一般的に、肉食獣は恐いものだという認識が欠如していることに気付いたのだ。
 何を言っても無駄だなと落胆したカチェイには気付かず、アティーファは困ったように腰に手をあてて、唇を尖らせた。
「だって、一番大人しくしてくれるのって、凛毅だけなんだ。小鳥とリスの凶暴なことったら」
 指摘した意味がやはり間違っていることを実感させるアティーファの発言に、カチェイは説得を諦めた。出来ることといえば、せめてザノスヴィア王女が気絶しませんようにと願ってやるだけだ。
 懸念を口にしたことで少し落ち着いたのか、凛毅を連れてアティーファは戻っていく。
 その気配を敏感に察して、マルチナの相手を頼まれていたリーレンが勢い良く振り向いた。
「ああ、アティーファ皇女戻られたんですね。凛毅を……を? り、凛毅!?」
 ひどく嬉しそうな顔が、凛毅と口にした途端に凍り付く。あまりに劇的な変化だったので、実に面白い見物だった。リーレンの叫びと同時に、マルチナもまた肉食の山猫を確認して顔色を変える。
 慌てて王女は立ち上がる。その仕種までもが実は妖艶で、遅れて辿り着いたカチェイは思わずバツが悪くて頭を掻いていた。同時に、多分絶叫を上げるんだろうと考えた瞬間、マルチナが声を張り上げる。
「きゃ、きゃあああ! 可愛いっ!」
「………はぁ?」
 まさか肉食獣に向かって可愛いなどという少女はアティーファぐらいだと思っていたので、カチェイは目を丸くした。リーレンも呆気に取られている。そんな二人には構わずに、マルチナは長い裳裾をはためかせて走り出し、凛毅に抱きついた。
 エイデガル皇国で最も女好きなのは、誰でもないこの山猫だと言われている凛毅である。マルチナほどの美少女に抱きつかれて嬉しかったのか、猫科のプライドをどこかに投げ捨て喉を鳴らし、王女に甘え始めていた。
 軽やかにザノスヴィア王女に駆け寄ったのは、アティーファだ。
「マルチナって、可愛いものが好きなんだ」
「ええ。ええ。大好き。お花も、空にかかる虹も、秋にゆれる稲穂の色も、動物も、みんな好き」
 肉食獣と花を同レベルに考えるのは問題があるだろうと内心思うカチェイの目の前で、あどけなくマルチナは言葉を募らせている。けれどそんな愛らしい仕草や言葉でさえ、彼女の艶かしさを強調するのだから、たまらなかった。
「……あー、もうやめとこう」
 妖艶な美少女マルチナに対し、アティーファが何も感じないのは同性なのだから当然だが、微笑ましく二人の姫君を見守っていられるリーレンは一種奇跡だ。さりげなく溜息と共に、カチェイはぼやいた。
「ま、だから俺はリーレンを気に入っているんだよ」
 続けて突然こんな事をカチェイが言い出したので、リーレンは驚いて目を見張り、どんな嫌味が次にくるのかと身構えた。けれど彼は何も言わず、あっさりと「また来る」とだけ言って立ち去って行く。
「あれ? カチェイ、どうしたんだ?」
 入れ替わりでお茶のポットを手にしたエミナにアティーファが聞くと、童顔の侍女も不思議そうに首を傾げた。
「さあ。でも、不思議なことをおっしゃってましたわ。なんでも、俺も一健全な青年に過ぎないんだから、目に毒すぎるものは見てたくないとか、なんとか…」
「???? 目に毒って、なにかあるかな?」
「さあ。なにがあるでしょうね、皇女」
 エミナがお茶を器にいれ、首をかしげたアティーファと側近であるリーレンの向こうで、無邪気であるが艶めかしい仕草で、マルチナは凛毅とじゃれて遊んでいた。



 はるかなる天を焦がす炎は、高く、激しく、薄黒い不吉な象徴を与えて大地を支配していく。
 清らかであったせせらぎは腐臭をたたえ、どす黒く変色さえしていた。大地を染め抜く暗さをもたらす物体には、ひさかたぶりの馳走に狂乱する地を蠢く者共が群がり、醜怪さを添えてゆく。
 蠢く虫たちの蠱惑な宴。
 大地を埋めるどす黒さ。腐りゆく人の慣れの果て。
 不意に音が響いた。
 硬い靴底でなにかをこそいだ音。
 群がる小さき者達にしてみれば、彼等の生を冒涜する行為だろう。下ろされた靴の真下であった虫たちが一瞬離れ、そしてまた波のように戻ってくる。
 虫達は下ろされた靴の上にも這いずり、そこから伸びる脚も、隠された素肌をも蹂躪してゆく。
 なされる者は腐乱臭を放たぬ唯一の生者のようであった。腐敗が始って一週間は経過しているであろう臭気に満ちた大地を見つめる瞳は、まるで死を宣告する冷たき神の清廉な碧空の色。なびく髪は青みがかった黒色で、長い前髪と故意に不揃いにしてある肩までの後ろ髪とが、風のたびに顔を半面隠す。
 また、脚をあげて何かを蹴った。
 鈍い音。物質の中に簡単に埋まってしまう、弛緩した何かに力が吸収されてしまう音。冷たい視線をめりこんだ箇所にやり、淫猥な音と共に脚を抜く。
「愚かだよ。すべてが愚かだ。なんで全てが滅び、腐敗し、見苦しい物体に変じてまで、僕を支配する権限がお前達にある?生きろとお前達はいい、それを行動に変じた。だが、死人に支配され続ける僕は、本当の意味で生きているといえるのか?」
 ぽつりと呟かれた声は、凄惨な瞳のわりには幼さを宿し、そう年嵩ではないことを表していた。
「ザノスヴィア王国とエイデガル皇国。二つの王国がどうなろうが、僕は興味なんてないってのに」
 また強く緩んだ物体を蹴り付ける。
 かつては彼を腕に抱き、子守り歌のように一つの言葉を吐き続けた女。陶磁器のような肌に、絹糸のような髪。そして類希な魔力を誇っていた、
 彼の、母親であった物体を。
 高く天を焦がす葬送の炎は、幾重も折り重なって腐敗を浄化していくが、不思議と中央に立ち尽くす少年の周囲にだけは恐ろしいまでの静寂が満ちていた。
 しばらく立っていた少年が踵をかえす。
 僅かに開いていた左手を握り締めると、炎は勢いをました。凄まじい勢いで火焔は大地を嘗め尽くし、弱き虫達をも灼熱に巻いてゆく。
「世に名残を残すものなど、完全に消滅してしまえ」
 呟かれた声は、火焔の勢いで巻き上がる気流に飲まれ、高く天へと吸い込まれて消えた。
 そして、また、月が満ちてゆく。
 常と変わらぬ夜。煌々と輝く満月が白き石橋アポロスを照らしだし、神秘の中に沈みゆく中、聴覚では関知できぬ旋律がゆうるりと場を支配した。
 生き物を密やかな眠りに誘う蠱惑の調べ。
「この世に存在する全ては脆く、愚かだ…」
 全てが眠りに沈んだ後、ひっそりとした声音が闇中から僅かに生まれ、また、静寂が場を支配する…。

第05話 胎動
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