第02話:恋心
第01話 回想HOME第03話 隣国


 はらはらと、全てを覆い尽くすように桃色の花びらが風の中を舞っていた。雨のように降り頻るその花弁の中、両手を広げ走る亜麻色の髪の少女が居る。特に秀でた容姿でもないごく普通の黒髪黒眼の少年が、走る少女を追いかけている。そんな景色が目の前に合った。
 これは昔の夢だろうか?
 そんなことを、ふと、彼が思った。
 降り注ぐ花弁の雨のせいだけではなく、彼が見ている全てが白濁している。その奇妙な希薄さが現実感を失わせて、夢だろうかと思わせるのだ。
 考えていると、どこか暖かいような気がした。まるで日溜りの中にいるような温もりに考える。この光景が夢ならば、自分は今どうしているのだろうか? 夜になった覚えはない。布団にもぐりこんだ記憶も無い。
「………?」
 ふい、と唐突に目を開ける。おかげで全てが一気に覚醒した。
 慌ててあげた視界に、塗りこめていたはずの桃色に変わって緑色が視界全てを埋め尽くしている。―― 美しい木々の緑だ。
「うたた寝していたのか…」
 ぼんやりと呟いて、髪をかいた。窓近くに置いてある机の上には、書きかけの書類が所在なげに佇んでいる。外はまだ明るく、長い時間眠ってしまったのではないと分かって、彼は安堵の溜息をついた。昼日中から寝ているわけにはいかない。
「小さいころの夢だったな…」
 桃色の花弁を身体中で受け止めようと走っていたのは、エイデガル皇女アティーファの幼い頃の姿だった。そんな夢を見たせいか、現在の彼女の様子を確かめたくなって、立ちあがり部屋を出ようとして絶叫を聞く。
「―― はっ!?」
 絶叫に身を固くして、夢の中の少女を追いかけていた少年本人であるリーレンは身を硬くする。
 皇女付きの侍女であるエミナという少女が、猛烈な勢いで走りこんできていた。もしかしたら猪と互角勝負できるのではないか、などとリーレンが咄嗟に考えたのは、彼の動揺を表していたかもしれない。
 けれど彼の動揺などお構いなしに、エミナはリーレンを見つけて大声を上げた。
「リーレンさまああああぁ!! 皇女殿下が、お部屋にいらっしゃいません! もぬけの殻なんです!!」
 息を切らしていながらも、はっきりとエミナは叫ぶ。
 ―― 皇女が部屋にいない?
「え、え、えええ? また!? けれど今回からはっ」
 状況を飲み込んで思わず叫ぶ。彼等が仕えるべき皇女―― エイデガル第一皇位継承者である少女は、無性に部屋を抜け出すのを好むのだ。
「言いたいことは分かっています。でも、見張っていました! 今日こそは、逃がしてはならないと思い、心を込めて見張っていました。誓って、皇女殿下は部屋の扉から抜け出していらっしゃいません!」
 早口にエミナがまくしたてる。
 咄嗟に心を込めて見張るという言葉の意味を聞いてみたく思ったが、くだらないと一蹴されるだろうから疑問を胸にしまい、走り出す。
「エミナは中庭を探してください。私は裏門を探しますから!! 皇女は供もなしに城外に出ることはなさらないはず!!」
「かしこまりましたっ!」
「アティーファ皇女ぉぉぉ!!」
 最後の言葉は見事にタイミングを合わせリーレンとエミナが同時に叫ぶ。そして勢い良く走り出した。



「やっぱり今日も叫んでんなぁ。あいつもいい加減飽きればいいものを」
 響き渡った絶叫を聞きとめしみじみと言ったのは、エイデガル皇城内で最も気に入っている大木の枝に腰掛け大剣を磨いているカチェイ・ピリア・アデルだった。
 別の枝にもう一人、開いた本に視線を落とすアトゥール・カルディ・ティオスが座っている。
 アトゥールは何故かカチェイを見やってから、眼下の庭園を抜け裏門へと駆けようとするリーレンを見詰めた。
「…どうもああいう姿を見ていると、八年前まで弱弱しかった子供の成長した姿とは思いがたいんだけどね。とはいえ、心を閉ざすのは皇女に会った瞬間に自主廃業したみたいだったけれど」
 ゆっくりと言いながら、僅かにアトゥールは目を細める。
 かつてカチェイと共に死の商人だった老女の手から救った子供が成長して、こうして毎日のように絶叫して城内を駆けずり回るようになるとは思っていなかったのだ。
「まあな。確かに想像以上に元気になったもんだよ。がばがば食って、がばがば育って、鬼のように勉強もして、頭も良くなって、いつのまにかお前より背もでかくなって……っと、げぇ!!」
 突如奇声を上げて、カチェイは頭を抱えた。昔も今も、優しげな少女のような顔の親友が、時に大剣よりも凶悪になる分厚い本を、いつでも投げる体勢に入っていたからだ。
 こいつは絶対に顔で性格をごまかしていると、カチェイは思わず確信する。とりあえず乾いた笑みを浮かべた後、彼はひょいと木の下に身体を乗り出した。とにかく友人の攻撃を牽制する為に、注意を他にそらそうというのだ
「おーい、リーレン!」
 カチェイの思惑など知りもしないリーレンは、木の上から突如声をかけられて心底驚いたようだった。転びそうになりながら、必死に止まっている。
「駄目だなあ。これくらいで驚いたら、立派な俺のような軍人にはなれないぞ」
 もっともらしくカチェイが言った。アトゥールはやれやれと大袈裟な溜息を付く。
「そんなこと説教していい立場じゃないと思うんだけどね。大体、リーレンがカチェイのような筋肉馬鹿になるくらいなら、私が吟遊詩人にでもなったほうがましってものだよ」
「そりゃあなれるさ。アトゥールは並みの女より別嬪なんだから、すぐに人気者になれるさ。男達に」
「…一度、あの世を見てきたかったようだね。カチェイは」
 整った双眸に危険な光を宿し、アトゥールは腰に下げる細身の剣に手をかける。面白そうにそれを見やって、カチェイも手入れをしたばかりの大剣の柄に手をかけた。
 最高の剣豪と尊敬されているカチェイと、唯一彼に拮抗しうるとされる剣技を持つアトゥールだ。しかもカチェイはともかく、アトゥールは滅多に人前で剣を手にしない。
 その為、彼等の手合わせを見る可能性はかなり低かった。だからこそ、本当に戦いを始めればかなりの見物になるので喜ぶ人間が多いのだが、リーレンはそんな気持ちになれなかった。
 彼はアトゥールとカチェイが喧嘩をしようが剣の手合わせをしようが、興味が無い。今心を占めるのは、ひたすらに皇女アティーファの行方のみだった。
「いい加減にして下さい! お二人とも! ティオス公国、アデル公国の次期公王のお二人が、じゃれあった末に決闘沙汰を起こすなど恥ずかしいと思わないのですか!」
 邪魔をするなとでもいうように、唐突にリーレンが叫ぶ。
 カチェイとアトゥールは、呆気に取られ子供のようにきょとんとしてから、二人、ゆっくりと顔を見合わせた。
「勇ましいなあ。流石は皇女にふさわしい大人になるべく日々精進する奴は、俺達とは違うもんだな」
 これはカチェイの言葉である。
「尊敬に値するね。私達を一喝してくる人間なんて、皇王陛下か皇女殿下だけだと思っていたよ」
「世の中は広いってことだな。なにせ、一介の魔力者が俺達を、なあ?」
 わざとらしい会話は、なんとも分かりやすい直接的な嫌味だった。
 この手の嫌味と二人のふざけ合いなど慣れているらしく、リーレンは僅かに眉を釣り上げ腕を組み、高貴な二公子を睨み付ける。
 最も大切に思う皇女の為ならば、相手が誰であろうとも強い意志を貫く心を持つ黒髪黒眼の少年の気質が快かったのか、二人は笑い出して剣から手を放した。
「悪かったね、からかって。ところで、誰かを探していたんじゃないのか?」
 先に口を開いてアトゥールが首を傾げる。
 その指摘に、皇女の行方を尋ねるのもいい方法だったと今更だが気付いて、リーレンは慌てて顔を上げた。
「そうです! アトゥール様、カチェイ様、アティーファ皇女をご覧になりませんでしたか? お部屋にいらっしゃらないのです。扉は侍女のエミナが見張っていたのに、何時の間にか居なくなってしまわれたのです!」
「……アティーファ皇女。ふむ。皇女ねえ」
 飄々とした態度を崩さなかったカチェイが、唐突に深刻な表情に切り替わって腕を組んだ。普段は年齢より若く見える上、公子という身分にある者にも見えない彼だが、表情や仕種が変わると相応の風格と高貴さが出るのだから不思議だった。
「な…なにかご存知なのですか! カチェイ様!」
「いや、時には知らぬほうが幸せになれることもある。なあ、アトゥール」
「そうだね。真実は時に人に冷たいものだから」
 アトゥールまでもが、常に穏やかな表情を捨て深刻に呟くので、リーレンは目を見開く。まさか皇女の身に何かあったのではと、不吉なことを考え出してしまって、彼は真っ青になった。
「な、な、何があったんですか!」
 激しく打ち出した心音を宥める方法もなく、リーレンは慌てて尋ねようと顔を上げた。当然空を見つめた漆黒の瞳が、太陽に何かが反射した光を捉える。
「……あ…?」
 エイデガル皇国城を抱く碧玉の湖アウケルンとは異なる蒼に染められた天高くに、枝葉を広げた木の上。小鳥ではない誰かが座り、足を振って遊んでいる。
「あ…あーー!」
 礼儀も忘れてそれを指差し、リーレンは絶叫した。
「だから知らん方がいいと言ってやったのに」
 しみじみと、腰の力が抜けて呻くリーレンを見やってカチェイが言う。アトゥールは肯き微笑みを浮かべた。
 太陽光を反射したのは翡翠の髪留めで、座っているのは髪留めの持ち主―― アティーファ・レシル・エイデガルだ。
「あ…アティーファ皇女ぉ!!!」
「あれえ? リーレン、どうした?」
 断末魔の叫びの彼に、暢気な声をアティーファは返しながら、まだ足を振って遊んでいる。
「皇女!! 後生ですから、そんな足なんてそこで降らないでください!」
 泣きそうになりながら懇願するリーレンに、アティーファはひどく不思議そうな顔をした。
「そんなに叫ぶほどのことじゃないと思うんだけどな。それより、リーレンが血相を変えなくちゃならないことでも起きたのか? とはいえ、エイデガル皇国を揺るがすような大事件がそうそう起きるとは思えないけど」
 律義に返事をして、リーレンの要望を受け入れ足を振るのはやめたアティーファは、風に揺れる亜麻色の髪をかきあげようと今度は手を離す。彼女のこの仕草に、飽きもせずにリーレンが悲鳴を上げた。
「お、お願いですから、降りてきてください! そんな危険なことばかりされてしまったら、私は、私は…っ!」
「私は?」
 傍観者を気取っていた二人の公子が、唐突に声を揃えてリーレンの言葉の揚げ足を取る。
「そ、側近として、心配で心配でなりません! 大体、皇女の身になにかあれば、エイデガル皇国全土が悲嘆の嵐に巻き込まれてしまいます!」
 興味深げな公子達の視線に真っ赤になりながら、必死に取り繕ってリーレンは言いきる。大好きな人が心配ではない人間はいない、などと気の利いたセリフが言える性格ではないのだから、これが精一杯だった。
 リーレンの言葉に、公子二人は「素直じゃない」だの「独創性にかける」だの好き勝手な批評を始める。言われた当人のアティーファは、「大袈裟だ」と断言をした。
「リーレン。私は別に皇位についているわけではないのだから、父上が存命であられる以上、私が怪我したくらいでエイデガル皇国全土で悲しみの嵐など起きるわけないだろう?」
 アティーファは続けて言葉を捕捉した。
 国がどうにかなるから心配なのではなく、ひたすら自分は皇女の身が心配なのだと力説したいが出来るわけもなく、リーレンはがっくりと肩を落とす。
 そうではなくて、とぶつぶつ聞き取れないほど小さく呟いている幼馴染でもある自分の側近に、アティーファは笑顔を向けた。
「まあ、降りることにはするよ」
 言って、突然アティーファは両手を離して後方に身を投げた。当たり前だが、小さな身体が落下を始める。
「アティーファ………皇女!?」
 咄嗟に叫んで、リーレンは少女が座っていた木の下に走り出した。このままではアティーファの小さな身体が大地に叩きつけられてしまう。
「今、あいつ一瞬どさくさに紛れてアティーファを呼び捨てにしたな」
「リーレンの夢だからね。アティーファをいつか実力で呼び捨て出来るようになるのは」
 なぜか冷静にカチェイとアトゥールはリーレンをからかって、頭上を見上げた。
 アティーファは落下してはいなかった。むしろ、広がった亜麻色の髪は翼のようで、空を羽ばたいているように見えてしまう。無論それは単なる眼の錯覚で、実際は軽やかに枝に足をかけ、手をかけ、降りてきているのだ。
 ひどく幻想的な錯覚に、リーレンは目的を忘れて思わず見惚れた。
「リーレン! なんで私が降りる先で立ち尽くす!? …あっ!」
 まさか樹の真下で、幼馴染みが間抜け面を晒して立ち尽くしたとは思っていなかったのだろう。慌てて叫んだがすでに至近距離だ。思わず衝突を想像して、アティーファもリーレンも目をつぶった。
「やれやれ。どうも詰めが甘いね、リーレンは」
「まだまだ姫君のナイトには程遠いってもんさ」
 揶揄する声が響く。
 樹の上でのんびりと構えていた年長者二人組が動いたのだ。カチェイは手を伸ばし、枝に座ったまま軽々と皇女を抱き取る。アトゥールは飛び降りてリーレンを後方に引き下げた。
「あ、ありがとう、カチェイ」
「妹を助けるのは、まだまだ兄貴の役目のようだからな」
 何度もまばたきをしているアティーファに、悪戯っぽい笑顔を向けるカチェイを見上げて、助けられたばかりのリーレンが唇を噛みしめた。―― 礼を言うのも忘れてしまっている。
 どんなに頑張っても、二人の公子のようにアティーファの役に立つことは出来ないのだと、なにやら宣告されてしまった気がしたのだ。
「背伸びだけが上手くなってもいいことなんてないさ。ゆっくり大人になっていけばいい。少なくともリーレンには、それが出来る環境が与えられているんだからね」
 唐突に、長い衣についた枝葉を払いながらアトゥールが言った。
 心を見透かされたようで、驚いてリーレンは振り向く。身長だけは抜いていた穏やかな物腰の青年は、ただ静かに笑った。
「どうしたんだ? 皆、不思議な顔をして」
 何故突然リーレンが悔しそうになったのか分からないアティーファが首を傾げる。
「アティーファにはまだ分からない大人の世界の話しってもんさ。それよりもそろそろ、隣国からの使者が来る予定になっているだろ? 何時ものようにしないのか?」
 公国の公子と、エイデガル皇国の皇女の身分の差は本来ひどく大きい。
 にもかかわらずカチェイが敬語を使用しないのは、アティーファが敬語など使ってくれるなと懇願したせいだった。カチェイと、そしてアトゥールのことを本当の兄のように慕っていたので、どうしても敬語を使われるのが嫌だったのだ。
 それと同じような理由で、リーレンもアティーファに敬語を使う必要はないといわれた事がある。けれど彼なりになにか付けたいけじめがあるのか、リーレンが敬語なくアティーファと会話したことはなかった。
 質問を、カチェイに軽くあしらわれた形になって、アティーファは不満気に唇を突き出していた。けれど使者がくるんじゃないかという言葉に表情を戻し、軽く手を打つ。
「そうだった。ザノスヴィア王国の使者が来るんだった。どうせまた、冬の間に貸した穀物の礼を一応言いに来たに違いないさ。貧しい国は、豊かな国から物資援助を受けるのは当然だと思ってるから、本当はありがたいなんてこれっぽっちも思っていない」
「まあ、貰ってやったくらいのことは思っているかもしれないね。ザノスヴィアの事だから」
 少女の真っ直ぐな怒りが微笑ましかったのか、アトゥールが楽しそうに答える。同時に降りようとしたアティーファに手を伸ばしてやった。
「ここ二十年、返してきた試しなんてない。それに、嫌な噂もある。市民にまで物資が行き渡っていないんじゃないかっていうね」
 伸ばされた手に手を重ね、アティーファは降りて静かに言った。そうしている時のアティーファはどこか大人びていて、木登りをして遊んでいたお転婆娘と同一人物には見えない。―― 気高く美しい皇女の顔をしている。
「いい加減調査を出すべきだと、父上に申し上げてはいるんだけれど」
「忙しいものだからな、皇王っていうのは。エイデガルと五公国の領地は半端じゃない程大きい。それをまとめていかなくちゃならないわけだ」
「他人事のように言うけど、カチェイだってもう少ししたら、アデル公国をまとめることになるんだぞ。アトゥールはティオス公国だ。だからこそリーレンだけは、絶対に私の側にずっといてくれなくちゃ嫌だなからな」
 いきなり言葉の矛先をアティーファはリーレンに向けた。驚きながらも、すぐさま感動の嵐真っ只に突入して、リーレンは慌てて何度も肯く。
「アティーファ様の側から離れる事などいたしません。お約束致します!」
 頬を紅潮させて答えるリーレンを見やって、二人組はわざとらしく笑った。
「ああやって、アティーファ皇女はリーレンを餌付けしてると思わないか?」
「無意識でやっているから恐いんだ。哀れなのは少年の純情な恋心だろうね」
「本当だな。しみじみ、同情するぞ。第一、初恋がアティーファだなんてな。一体どうやったら他に乗り換えられることやら」
「不幸なことだよね」
「不幸だな」
 しみじみといって、二人は肯き合う。
 中庭を出て、城の中に戻っていこうとする皇女を追おうとしていたリーレンは、わざと聞こえるように喋っている二人に腹が立ったのか、勢いよく振り向き、
「そーいうことを、わざと私にだけ聞こえるように喋らないでください!」
 勇ましく断言して、走り出す。
 カチェイとアトゥールはしばらく去っていく二人を見詰めてから、どちらともなく「皇女に聞こえたら、冗談じゃすまなくなるんじゃないのかな?」と呟いて、歩き出していった。
第01話:回想
第01話 回想HOME第03話 隣国