第01話:回想
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 膝を抱えていた。
 身を守る術を何一つ持っていない。それを悟っているからこそ、子供は膝を抱え、時が流れていくのをただ毎日待って生きていた。
 明かり取りの窓から日差しが落ちてくる。
 背伸びをしても、土台を使ったとしても、決して届かぬ高みの場所。
 そこから日が差し込んでくれば、朝が来ることを子供は知っていた。
 嫌だった。朝がくれば、どんなに固く膝を抱えていても、力任せに立ち上がることを強制される。ささやかな抵抗の為に、余計に膝を抱える腕に力を込めた。
 そうすれば―― 少しでも長く、自分を守れるような気がして。
 けれどその日はどこか異様だった。
 声が聞こえる。罵倒と文句と叱責だけしか語彙を知らないのだろう、自称養い親の老女のしわがれた声に追い討ちを掛ける、知らない誰かの声。
「あの子にどんな隠された可能性があるかは知りませぬが、あの子は心を閉ざしている気配があります。城勤めなど叶いません」
 そんな事を老女が言っている。
 けれど興味はなかった。知らない声と、知らない人間の登場に、期待を抱けるほど子供の心は健やかではない。ただ膝小僧の上に額をのせて、身体をさらに縮こませる。外界を遮断しようとする精神状態―― 真実、外の様子に興味をもてないのだろう。
 部屋の隅で身体を固くする子供を視界の端で確認しながら、老女に言葉を叩き付ける少年は溜息を吐いた。
「そういう事は、君が決めていいことではないんだけどね」
 宣言し腕を組む。
 来訪者は雰囲気がまるで異なっている二人組だった。
 一人は少女のように柔らかで優しげな印象を与える長い髪の少年。もう一人は剛毅で激しい印象を与える短髪の少年。彼等に共通しているのは、二人とも一目で身分の高さが伺える身なりと、水竜があしらわれた紋章が襟元に縫い取られていることだった。
 水竜の紋章。
 それを衣服に縫い取らせている人間は少ない。
 なにせ水竜とは、最強と謳われる五つの公国を従える最大の国家、エイデガル皇国を指し示すのだ。紋章を衣服に縫い取ることが許されるのは、皇族、宰相、近衛兵団長、そして五つの公国の公族達だけであった。
 ならば突然の来訪者である二人は、かなり高い身分を持つことになる。
「―― しかし、何の価値も持たぬ子供とはいえ……あれは婆の孫代わり。エイデガル皇国に連れて行かれてしまったら、これから先どうしたらいいのか…」
 いかに拒絶しようとも、国家権力に逆らう力はないと悟ったのか、老女は突然哀れみを誘うように懇願を始め、彼等に縋ろうとした。 
 さり気なく一歩下がって縋りついてくる腕を避けると、長い髪の少年は初めて表情をかえた。
「孫代わり? 最近じゃあ、孫っていうのはああやって虐待して扱う対象になっていたなんて世も末だよね。とにかく、どんな状態だったとしても、君が将来寂しいと訴えようとも、彼を連れて行くのをやめる理由にはならないんだ。知らないとは言わせない。あの子供が、国の庇護を受けるべき人間であるという事実を」
 言って、優しげな顔に戻って老女を一瞥する。
 けれど眼差しには底冷えのする激しさが含まれていた。それを感じとって、老女は思わず後退する。
 ―― 威圧されたのだ。
「こういう時だけ、か弱い老人のふりをされても、困るんだけどね」
 老女の動きを見て取って、拗ねたように少年は言った。同時にゆっくりと結んでいる長い髪が頬に落ちて来たので、うるさそうに払う。
 おかげで今まで見えていなかった袖口の刺繍が老女の視界に入った。
 青い神話上の風の鳥を模した紋章。―― エイデガル皇国を支える五公国の一つ、ティオス公国の紋章だ。
 慌てて一言も喋っていないもう一人の方にも老女は視線をなげる。そして同じ場所を確認して震えた。こちらには金の狼を模した紋章がある―― ティオス公国と同じく五公国を形成する一つ、アデル公国の紋章だ。
「そ……んな…」 
 公国の象徴の紋章を衣装に縫い取る者は、公王ないしは後継である公子・公女しかいない。ということは―― この二人はティオス公国、アデル公国の公子なのだ。
 かなりの身分の人間だと分かった途端、さらに怯えの色を濃くした老女に嫌気を覚えたのだろう。交代しろと彼は一歩下がり、短髪の少年が前に出る。
「さて、どうするんだ? 震えてる暇があるんだったら、とっとと子供に支度させて、引き渡したほうが得策だと思うぜ? 孫代わりってのも嘘もいい所だ。―― さっきこいつが言っただろう、国の庇護を受けるべき子供だ、とな。あれは魔力保持者だ」
 ―― 魔力保持者。
 生まれながらに特異な能力を保持する者達のことである。
 何故にそのような力が存在するのか、その謎を解明した者はまだいない。けれど理解出来る出来ないは別として、魔力は確かに存在していた。
 数は少ない。けれどその力は絶大だった。
 彼等はたった一人で火を招き、水を呼び、雷を落とし大地を激震させる事が出来る。
 当然、魔力持たぬ大多数の者達は異質な魔力者たちを恐れた。そして脅威をなくしたい一心が、魔力者排除の気風を生んだ。
 そして、かつて不幸な時代が生まれた。
 彼等の力を抑制し、排除し、そしてコントロール出来るようにと発達した技術によって、魔力者たちは次々と人として生きる一生を奪われていったのだ。
 彼等は生きた兵器にされて、売買された。
 当然魔力者たちがその運命を甘んじて受け続けたわけがない。
 彼等は幾度も団結し、自分達の未来の為に戦いを挑んだ。当然のように国は軍力にて反乱を鎮圧しようとする。
 その戦いの繰り返しが、魔力者達にも、魔力を保持しない者達にも、お互いが共存するのは不可能だという結論を双方に抱かせたのだ。
 この不毛な状況を改善しようと動いたのが、エイデガル皇国である。
 奴隷制度を早くに撤廃したことでも有名なこの国は、魔力者に対して庇護政策を取ることを決断したのだ。
 政策が打ち出された当初、魔力者たちはエイデガルを信用しようとはしなかった。あまりにも無惨な過去の事実が、魔力者ではない者の国を信用することが心理的に出来なかったのだ。
 けれどエイデガル皇国は諦めなかった。
 全国力をあげ、悪辣な死の商人を取り締まる。施設を整え、魔力の資質を持つ幼い子供等を手厚く庇護した。当然気が長くなるような時間が掛かった。皇王も何度も変わった。―― そして魔力者もゆっくりと心を開いていったのだ。
 エイデガル皇国が法治国家となったのも、この時代のことだった。
 魔力者を高率よく守る為。彼等を今なお武器として扱おうとする、死の商人達を取り締まる為。たとえ身分の高い者であっても処罰可能な社会がなければ守り続けることは出来ない。そう―― 当時の皇王が決断したのだ。
 今なお、その伝統は綿々と受け継がれ、放火、殺人、汚職、そして魔力者たちに対する不当行為は、最大の罪として指定されている。
 それでも、エイデガル皇国の放棄をかいくぐって魔力を持つ子供をさらい、養育し、他国に兵器として売りつけようとする者が消えることはない。
 ようするに老女は―― そういった死の商人の一人だったのだ。
「魔力保持者を不当に皇国から隠し、暴行を加えた重罪人は即時拘束することが許されているんだ。まだ駄々こねてんなら、俺が連行してやるぞ」
 遠慮することはねぇよと続けて、短髪の少年が物騒に笑う。下がってしまったほうの長髪の少年が、思い出したというように口を開いた。
「そういえば皇王陛下は、彼を死なせなかったという事実に免じて、貴方を永久国外追放だけで許すとおっしゃっている。けれどこれ以上引き渡しを拒むならば、魔力者保護において不当行為があったとして、刑を執行する権利も五公国の公族は持っているんだけどね」
 囁くように言って、少年は腰に下げている細剣の柄に細い指を添えた。
 老女は驚きに目を見張り、怯えたように身体を引く。流石に五公国の公族が出てきてしまったのでは、時間稼ぎは命取りだと考えたのだろう。全ては命あっての物種。そういう事だ。
 二人は窓さえろくにない陰湿な家の中に入っていって、膝を抱えたまま動こうともしない子供の前に立つ。
 栄養状態がいかにも悪い。けれど艶を失わぬ黒髪だけがやけに目立っていた。
「いきなり私たちを信用してくれ、などと図々しいことは言わない。でも、ここよりましな場所を提供できるのは事実なんだ。君の意志で、共に来てはくれないかな?」
 穏やかな口調で言って、長髪の少年は踝まで届く長衣が床につくのも構わずに子供の前で膝を折った。視線を同じくすることで圧力感を消そうとしたのだろう。子供は相変わらず膝を抱えたままで顔を上げようとしない。けれど僅かに身じろぎをした。 
「まあ、完全に興味を無くしてるってわけじゃないみたいだし。ひどくなると、完全に外界を遮断するっていうからな。どうやら、少しは俺らに興味を持っているようだし」
「話をややこしくしないで欲しいね」
 優しい笑みを浮かべたまま、口を挟んでくる軍服めいた衣装をまとう少年を牽制する。それから返事がないことは気にせず、さらに言葉を重ねた。
「私は、アトゥール・カルディ・ティオス。後ろに立っている粗雑そうで、やっぱり真実も粗雑な彼がカチェイ・ピリア・アデル」
 口調も表情も穏やかなものだが、かなり内容が凶悪な自己紹介だ。うんうんと肯きながら聞いていたカチェイと紹介された少年が目を剥く。
「おい、アトゥール」
「なに?」
「子供に勝手な先入観を与えるなよ」
「あれ? 先入観を持ってほしくて、そんな言葉づかいをしているんじゃなかったんだ?」
「じゃあお前は、限りなく陰険であると知ってもらいたくてそんな言葉づかいをしているんだな」
「君と基準を一緒にする必要はどこにもないね」
 微笑んだままさらりと言い放つアトゥールと、眉を釣り上げるカチェイ。
 外見と同じく、どうも性格も正反対であるらしい。けれど口論らしきものをしている彼等はなんと親友同志なのだ。二人しばらくは睨みあっていたが、結局笑い出してしまった。そんなティオス公国とアデル公国の高貴な二人を、初めて子供は怪訝そうに見上げた。
 ―― 顔を上げたのだ。
 重大だが僅かな変化に目ざとく気付いて、カチェイがにまりと笑う。アトゥールを押しのけるようにして前に進み、子供の両肩に手を置いた。
「よし。今日は特別だ。俺が粗雑じゃなくって、優しいお兄さんだということを証明してやろう」
 晴れやかに言って、カチェイは子供を抱え上げる。年齢的には十才前後ということだったが、その割には哀しいほどに子供は軽かった。
「そういうことを、相手の断わりもなくやるから、粗雑だって言われるんだよ」
 肩を竦めながらアトゥールは言う。入り口で立ち竦む老女には、子供の荷物をまとめて早急に国外に立ち去るようにと言い置いた。
「じゃあ、行こうか。気が向いたらでいいけど、なるべく早めに名前を教えてくれると嬉しいよ」
 言って、アトゥールが笑う。カチェイは抱え上げた子供を落とさないよう支え直して、歩き出した。
 朝日の中、佇み広がっていた外を初めて子供は美しいと思った。
 風が強く、桃色をした花びらが舞い飛んでいた。眩しさに子供は目を細める。長い髪が風にさらわれて、アトゥールは鬱陶しそうな顔で片手で押さえた。それを切れば楽なんじゃねぇとカチェイが笑い出す。
 ―― 余りにも長閑で。
 ―― 知らない優しさが広がっていて。
 だから子供は、この日のことを鮮明に記憶に焼き付けたのだ。
 そして出会った。
 碧玉を溶かし込んだように美しい湖の中央に、希なる姿を見せる建造物。―― エイデガル皇国城にて。
「カチェイ、アトゥール、どうして私も連れていってくれなかったんだ!!」
 唐突に聞こえてきた幼い声。
 子供を支えているカチェイも、声を掛け続けていたアトゥールも、響いた声の方向を見やり、二人ひどく優しく笑う。
 太陽の日差しに亜麻色の髪を靡かせ走り寄って来た声の主は、即座に甘えるように二人の手をせがんだ。そこで初めてカチェイが知らない子供を抱えている事に気付いて、あどけなく首を傾げる。
「だぁれ?」
 翠色の瞳にあるのは、どこまでも無邪気で明るい健やかさ。
 それが子供の胸に無性に響いていた。同時に、まるで条件反射のように顔が赤くなる。
 この反応に、ひどく驚いたように二人の少年は助け出してきたばかりの子供をみやった。
「おいおい。どんな説得よりも、姫君の笑顔が一番ってことか? まいったな」
「ま、仕方ないだろうね。カチェイの笑顔なんて、見ても面白くもないし」
「そうそう。お前の笑顔なんて、なに企んでるか分からないからな。末恐ろしいったらない」
 勝手なことを言い出す二人を、幼い少女は交互に見やる。最後にまじまじと黒髪黒眼の子供を見上げて、抱えられていることが羨ましくなったのか、アトゥールに同じことをせがむ。
 当然、笑みを深くしてアトゥールは少女を抱え上げた。
 高くなった視界に少年を収め、満足そうに少女は頷く。
「私は、アティーファ・レシル・エイデガル。よろしくな」
 あどけなく笑いながら名乗ると、君は?と尋ねるようにアティーファは首を傾げる。
 子供はさらに顔を真っ赤にした後、ひどくか細い声でリーレン・ファナスと名乗った。
 それがエイデガル皇国第一皇位継承権を持つアティーファと、魔力者のリーレンの出会いだった。

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