暁がきらめく場所
喧嘩
目次


 ねぇ、と甘えるように膝に乗って来る。
 ふっくらとした子供特有の手を伸ばし、幼女は青年の首の後ろに手を回した。
「カチェイって、喧嘩したこと、ある?」
 新緑色をした瞳が、必死の色を称えている。
「どうしたよ?」
「あのね。喧嘩しちゃったの」
 頬を膨らませて俯く。言われてみると、瞼が少し腫れていた。
「苛められたのか?」
「違う。多分、アティーファが悪いよ」
 さらに頬を膨らませてしまう。続きの言葉を待ったが、小さな唇を閉ざすばかりで続かない。ぽりぽりと鋼色の髪を掻き、二十歳のカチェイは首を傾いだ。
「じゃあ、謝ってくればいいだろ」
「いや」
「嫌なのか?」
「うん。アティーファが悪いけど、でもアティーファ悪くない」
「悪いのに、悪くない?」
 意味が分からんと真剣に悩む。八歳のアティーファは首の後ろに回していた手を離して、胸元でとまっているカチェイのマントを握った。
 うまく誘導する話術など心得ておらず、カチェイは妹代わりの子供の背をとんとんと叩く。
「だってね。リーレンね、アティーファのこと姫様っていうんだよ」
「嫌なのかぁ?」
「いーーやっ。だってリーレンは、アティーファの友達でしょ。父様、友達になってよいって言ったもん」
 リーレンとは、つい最近カチェイとアトゥールが救い出してきた魔力者の子供の名前だ。万事が控え目な性格をしているらしく、それなりに格式ばった城の中で必死に礼儀正しく勤めようとしている。
 ようするに、それがアティーファには面白くない。
「アティーファね、歳が近い友達は初めて。だから嬉しいのに、リーレンは嬉しくないのかな?」
「嬉しいだろ。ありゃあ」
「だったら、なんで二人でいるときも”アティーファ皇女殿下”って言うの?」
「身分ってのは、結構な重みがあるらしいしなぁ」
「だから、他の人がいる時じゃなくて、二人のときとか、カチェイとアトゥールがいる時だけで良いって言ったもん」
 子供らしいふっくらとした頬を、面白いほど激しく膨らませる。
 おお、と謎の声を発して、カチェイは両手でアティーファの体を支えながら天井を見上げた。どうも上手な説得が出てこない。
 困ったときには他人に任せるに限る。妹分を抱き上げると、そのまま窓辺に向かった。この時間なら、樹の下で本を読んでいる奴がいるはずだ。
 案の定、さらりとした薄茶の髪を風に揺らせながら、本を読んでいる。
「アトゥール」
 十八歳という年齢以上に、少年っぽさの抜けない彼の親友だ。瞳がカチェイを確認し、それから腕の中の子供を認めて瞳を細める。
「アティーファ、リーレンと喧嘩したんだって?」
「……。な、なんで知ってるの?」
 大仰に驚いて、アティーファが小さな手を空中に伸ばす。衝動でバランスが崩れたので、慌ててカチェイが抱えなおした。
「今そっち行くから、ちと待っててくれよ」
「ああ」
 ぱたん、と本を閉じる。
 そのまま姿が窓辺から消えたのを見て、アトゥールは視線を後方に投げた。
「リーレン。隠れてないで出ておいでよ」
「……アトゥール公子」
 大木から、ひょっこりと子供が姿をあらわす。しょげかえった姿が哀れなのだが、同時に笑いも誘って、ティオス公子は穏やかに笑った。
「どうしてもアティーファのことを呼び捨てにはできない、っていうんだろう?」
「はい。だって、僕はそんな……皇女を呼び捨てに出来るほど……」
 言葉がどうも途切れ価値になる。常に罵声を浴びせられてきた子供特有の、周囲を伺うような様子に、アトゥールは息を落とした。
「アティーファも来るから。座ってなさい」
「……でも」
 瞳が泣き出す寸前の色をしている。
「ここで逃げていたって、何も解決しないだろう? どうしても気後れしてしまって、呼ぶことが出来ないんだって正直に話すといい。どうせアティーファが怒っているのを前に、すまなくて、でも”はい”と言えなくて、項垂れていただけなんだろうから」
「あの、公子」
「なに?」
「どうして公子、僕のやったこと分かるんですか?」
 その年頃の子供らしい好奇心が、僅かだが瞳に浮かんでいる。アトゥールは内心ほっとして、直ぐ隣を指し示した。座れば教えてやるという意思表示だ。
「リーレンは分かりやすいからね」
「分かりやすいですか? やっぱり、それって、馬鹿ってことでしょうか」
「素直ってことだよ。なんでもかんでも、悪い方向に持っていかない。リーレンは馬鹿でもなければ天才でもない。ごく普通だよ」
「そうでしょうか?」
「私は馬鹿は嫌いだしね。その私が構うんだから、馬鹿じゃないだろう?」
 何時までも納得しない子供に、悪戯っぽい言葉を投げる。リーレンが首を傾げ、笑ったので、弟にするようにアトゥールは肩に手を置いた。
「ちゃんと説明しないから、アティーファが怒るんだよ。説明してもらえないのは、理解する必要がないって思われているように感じるから」
「僕は、皇女に理解して欲しいって思ってます」
「そう思えるなら上出来なんだから。その思いのままに、説明するんだね」
 やんわりと逃げるなと釘をさして、アトゥールは視線を城にやる。
「あーっ!」
 庭に続く扉から声が響いた。カチェイに抱きかかえられたまま降りてきたアティーファが、声をあげたのだ。
「アティーファ皇女殿下」
 アトゥールに背を押されて、リーレンは立ち上がる。少し足を震わせながら、ぱたぱたと走ってカチェイの前に立った。アティーファが降ろしてとせがむ。
「あの、僕はまだ、そのアティーファ皇女殿下のことを名前で呼べるような人間じゃないって思うんです。皇女殿下はそんなの関係ないっておっしゃるけど、やっぱりそうは思えなくて」
 初めて必死に言葉を向けてくるリーレンに、アティーファは沈黙を続ける。
「だから、いつか、僕がもっともっと立派になって。皇女殿下のこと、私的なときにはお名前だけで呼べるようになれるように頑張りますから。今は、その」
「我慢してってこと?」
「えっと、我慢っていうか。その」
 アティーファのむくれた声に気圧されて、リーレンの声が小さくなる。カチェイは妹分の頭に手を置いて、落ち着けよと声をかけた。
「なにもリーレンは、呼びたくないって言ってるわけじゃねぇだろ?」
「だって」
「今呼んで欲しいってのは我侭だ。いいじゃねぇか、お前の為にいい男になるって言ってんだぜ? 男を奮起させるのは、いい女の条件だ。まだちっこいのに、そう思わせてるんだからな。よし、と思っとけよ」
「――いい女ってなぁに?」
「んー、俺が口説きたくなるような女かな」
「アティーファ、カチェイには口説かれたくないな」
「言ってくれるな、アティーファ」
 からりとカチェイは笑う。それから視線を焦っているリーレンに投げた。少し、助言してやらないと駄目かもしれない。
「リーレン、約束してやれ。いつか呼び捨てしますっ!ってな」
「え、ええ? 呼び捨て?」
 真っ赤になる少年の純情が清々しい。それなら許してやるよなとアティーファに尋ねると、不満そうながらもこっくりと頷いた。
「リーレン、なるべく早いうちにしてね」
「は、はい。頑張ります」
「それから、せめて皇女だけにして欲しいな。皇女殿下じゃなくて、皇女まで。だったら我慢する」
「え、あ、はい。分かりました」
 まだ照れているリーレンに向かって、約束、とアティーファは小指を伸ばした。



「いやぁ、可愛いもんだな。チビってのは」
「そうだね」
「まあ、チビだったら誰でも可愛いってわけじゃないけどな」
「そうだね。カチェイはどっちかっていうと、二足歩行の猿をみて可愛いって思ってる感じだったもんね」
「そういうお前は、お人形を見て可愛い、可愛いって言ってる感じだったもんな」
 ははは、と乾いた笑いをカチェイが浮かべた。
 不穏な眼差しでアトゥールは微笑む。
 それを見やって、そういえばとアティーファが声をあげた。
「ねぇ、カチェイ、アトゥール。さっきも聞いたんだけどね、そういう冗談の喧嘩じゃなくて、本当の喧嘩ってしたことあるの?」
 横から入ってきた幼い声に、気力をそがれて二人の兄は振り向く。
 それから顔を見合わせ、真剣に悩んだ。
「いや、そりゃあもう思い出すのも恐ろしいほど」
「会ったころは喧嘩しかしてなかったね」
「そうそう。こいつとだけは絶対にあわねぇって思ったもんだよ」
「そうだよね。なにせ山猿と人だから。合う訳ないよ」
 またもや二人でくだらない掛け合いを始めている。
 なにかこう、はぐらかされた気分になって、アティーファは口を尖らせた。
「そういえば、アティーファ皇女。僕きいたんですけど、昔カチェイ公子とアトゥール公子が近隣の視察に行ったとき。途中で視察団とはぐれて。で、お金をカチェイ公子がなくしちゃって。大変なことになったんですって」
「大変なこと?」
「ええ。なんでも酒場でカチェイ公子があることをしてお金を稼いで、それを見たアトゥール公子が”気絶するほど恐ろしいものを見せた”って言って激怒したらしいですよ」
「そうなんだ」
「なんでも、その酒場。公子を働かせた店って言って今大繁盛してるとか」
「いってみたいなぁ、そこ。でも何をしたんだろ?」
 子供たちは首を傾げる。
 その前で、親友たちは戯れ合いのような会話を続けていた。

[終]
竹原湊 湖底廃園
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