暁がきらめく場所
帰郷
※カチェイが20歳/アトゥールが18歳


 陽が傾き始めて、夕焼けが現れた。
 空にまるで一滴の血が落ちたような錯覚を覚えて、カチェイは騎乗する馬の足を止めさせる。
「赤いな」
 空に落ちた染みのような赤が、空を覆い尽くす光景を想像してカチェイは不機嫌な声を出す。愛馬が主の心境の変化に敏感に気づいて、突然激しく首をふった。
「ああ、すまん。大丈夫だ」
 落着かせるべく愛馬の首筋を軽く叩き、カチェイは少し休もうと地面に降りる。
 アデル公国からエイデガル皇国に向かう船を途中で下り、馬を走らせているところだった。
 特例中の特例が認められて、エイデガル皇国で生活をしているが、一年に何度かはアデル公国の公太子としての役目を果たさねばならない。今回もその役目を果たしてきた帰りだった。
「毎度のことだが、なんか気分良くねぇよな」
 父であるアデル公王と面会すると、カチェイの神経は逆なでされる。父親であるあの男は、カチェイがアデル公国を守っていけるかどうかだけを懸念しているのだ。
 あそこまで露骨な品定めは、父親以外から受けたことはない。
「ただでさえ楽しくねぇってのに、空はこれだしな。今日のところは皇城には戻らんで、城下で宿でも取るかな」
 公族として育てられてきたわけではない彼は、気さくな街の者達と接するのが好きだった。
「よし、陽がくれる前に行くとしよう」
 血に染められて行くような空の下で、カチェイは騎乗すると足を急がせた。



 特に馴染みの宿ではない
 エイデガル皇国と五公国を繋ぐ運河の合流地点には、毎月のように新しい宿が出来て、どこかが姿を消していく。
 運河の合流地点は宿の激戦区で、余程の店でなければ長続きしないのだ。
 カチェイが宿をそこに決めたのは、単純に馬を休ませてやる場所が綺麗だったからだ。他に理由はない。
 開いているだろうかと考えながら中に入ると、宿の主らしい上品な婦人に「お待ちしておりました」と告げられて首を傾げる。
 商売人ならば、カチェイが着る衣服の良さは一目瞭然だろう。金払いが良さそうだと判断し、丁寧な応対をしてくるのは分かる。だが「お待ちしておりました」の意味が分からない。
 納得がいかないが、どうぞと笑顔を作る宿の婦人を拒絶するのも不憫な気がして、カチェイは黙ってついていくことにした。
 自分に危害を与えようとする罠であれば排除すれば良いか、などと考えるあたりはカチェイらしい短絡さだ。
「こちらの部屋をお使いください」
「ここか?」
「はい。先に、お連れ様がお待ちです」
「連れ?」
 馬以外に連れはいない。
 部屋の中で優雅に茶を飲む馬を想像してカチェイは笑った。いきなり表情を崩した客に内心不気味なものを感じただろうに、婦人は礼儀正しい態度を守ったまま、ふかぶかと礼をして階段を降りて行く。
「さて、なんだってのかな」
 状況を楽しむ声を出して、カチェイは扉を開けた。部屋にある窓は完全に夕日の方角を向いていて、眩しいほどの赤い色が飛込んでくる。
 ――まるで血の色。
 立ちすくんだカチェイの耳に、髪が肩を滑るような音が聞こえる。強制的にまばたきを三度ばかりして、窓辺に腰掛けて頬杖をついている人物の影を確認した。
「……は?」
 マヌケな声を出す。
 窓辺に座って外をもの憂げに眺めていたのは、ティオス公国に行っているはずのアトゥールだった。



 父親が嫌いという事はない。
 ただ、どうやって接すればいいのだろうかと困惑している様子がはっきりと分かる父と接するのは苦痛だった。
 泊まっていけと言い出せずに困っているのが分かる。けれどかつて殺されかけた場所に長く留まりたくはなかった。
 子供ではないのに、記憶から消えた出来事を引きずる自分は情けない。それでも泊まって行きますと口に出来ず、踵を返した。
 ふと、見ないようにししていた塔が視界に入った。
 条件反射のように立ち竦み、血の気がざっと下がっていく。
 情けない。
 思っているのに、呼吸まで浅くなった。
「アトゥール?」
 不思議そうな父の声。
 彼は公王としては尊敬出来る人間だが、精神面は弱さがやたらと目立つ。視界に入る塔の主である母も同じだった。
「私は?」
 小声で自分に尋ねてみる。
 覚えていない過去に縛られて、現実と対峙することが出来ない自分も精神が弱いのだろうか?
 そろりと手を持ち上げて、心臓のある胸の上に置いた。昔のような激しい発作が訪れなくなって久しいが、それが再発してしまうような恐怖が今はある。
「戻ります」
 父親の心配を振り払って、強く告げた。
 息苦しくて、どうしようもない。
 ティオス公城の傍らを流れる運河で待っていた船に乗り込んで、エイデガル皇城へと向かった。長い間行き交う船を見詰め時間を過ごして、ティオス公国とアデル公国は天領地を挟んで隣同士だったことを思い出す。
 親友も母国である公国に一時帰っているはずだった。
 カチェイはアデル公国に一泊するのだろうかと考えながら、空を見上げて眉をひそめた。
 血の染みのような色に部分的に支配された空。
 ここまで鮮やかに赤い夕焼けは滅多に訪れないというのに、それが始ろうとしているのだ。
「……嫌だな」
 血の色は、記憶を刺激されて蘇りかけたばかりの過去を、思い出させようとしてくる。アトゥールは首を振り、皇城へとすぐに向かうことをやめさせて、エイデガル皇城下に続く合流地点で、船を下りた。



 そして今に至る。
 結局のところ、どちらがどちらを待っていたというよりも、なんとなく嫌な気分になった時に親友を思い出したというわけだ。
 あとは無意識に、お互いの行動パターンを想定し、合流できる術を模索してしまったことになる。
 先に宿についたアトゥールは、一人休もうと思った宿の窓辺から外を眺めていて、歩いているカチェイを発見した。親友が馬を引いていたので、どうせ同じ宿に入ってくると判断し、多少の悪ふざけをしたのだった。
「なんだよ。つくづく俺らは行動が似てんのか?」
 苦笑をもらして、カチェイは親友が座る窓辺の側に置いてあった椅子に腰掛ける。アトゥールは振り向かずに外を見つめたまま、肩を竦めてぽつりと呟いた。
「そうかもしれない」
「珍しいな、俺の言葉に反論してこないなんて。そういう気力もねぇのか?」
「カチェイだって、入ってきた時にすぐ適当な言葉が浮かばなくて素直に驚いていたみたいだったけどね」
「お互い様ってか? 調子狂うよな、あそこに戻ると」
 珍しい溜息を一つこぼして、カチェイが頭の上で両手を組む。椅子の背もたれにどっかりと体重を預けて、天井を睨んだ。
「私たちは弱いんだろうね」
「なんだって?」
「ちょっとね、実感した」
 とんでもない言葉を呟いた親友に視線をやるが、まだアトゥールは血の色に染まっていく外を見ている。やれやれと息をついて、おもむろに手を伸ばしてアトゥールが降ろしている方の腕を取った。親友が振り向いてくる前にと力をこめて、いきなり彼を窓辺から引きずり降ろす。
 不意を付かれた顔をした。滑り落ちた体勢で目を見開いたアトゥールに、笑みを向ける。
「弱いって決めるのは早いだろ」
「……それを言うだけで、なんで私を引き摺り下ろす必要がある?」
「細かいことは気にすんなよ、それよりな、身内に対しての恐怖ってのは、そうそう簡単には消えねぇよ」
 血の色を連想させる夕焼け空を一人見つめ続けるのは、アトゥールにとってもカチェイにとっても辛い行動すぎた。
 だから止めさせたかった。――この空だけは、本当に嫌だったから。
「消えないからって、消さないでいていいわけでもないと思うんだ」
「ま、そうなんだけどよ。すぐに消せないからって、己を弱いと決めることはねぇさ」
「……それは…そうなんだけどさ」
 体勢を立て直して、アトゥールはぺたんと床の上に座り込んだ。片膝をたてて顎をのせ、考えるような眼差しをする。
「なあ、アトゥール。弱さなんてよ、十年後に克服出来てりゃあいいんじゃねぇのか?」
「ふうん。カチェイは、十年後にが待てるわけだ」
「それくらいだったらな。それに、その時にはあの男も爺になってる」
 からからと笑い出したカチェイの中にある強がりのようなものを正確に見つけたが、アトゥールは何も言わずに僅かに笑う。
「十年……か。まあ、それだけ時間があれば、確かに強くなれるのかもしれないね」
「だろ? やっぱ人間、長い目でみねぇとな。焦ったら確実にマズイ方向に行っちまいそうだしな」
 辟易する顔になったカチェイが、思い出しているのは五公国最強アデル公王の顔だろう。アトゥールがおかしくなって笑い出していると、いきなりカチェイは手を伸ばした。
「なに?」
「十年後もよろしくな、ってことだ」
「十年後?」
「まあ、もっともっと先もだろうけどな。とりあえず十年」
「……そうだね」
 答えて、伸ばされた手を握り返した。
 強さを装うのが得意としているが、実は子供のような弱さを二人とも持ちすぎている。それらの弱さを、親友にさえすべて見せ切れていないのだから問題は大きい。
 けれど、長い時間が与えられているのなら。
 情けないことかもしれないが、同じスピードで歩んでいく親友を見つけたのだから、それもいいのかもしれないと、二人同時に思った。


[終]


竹原湊 湖底廃園
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