最終話:想い眠る大地に
目次

 地上の映像を収めた画面の中で、人々は必死に戦っていた。
 感情を持たぬ自動兵器に、ぎりぎりの低空飛行で空戦部隊が爆撃を続ける。修理が必要な戦車を放棄しバリケートとして進撃をくいとめ、陸戦部隊の戦車が火を吹く。海岸線まで必死に敵を引きずり出し、地を伏せた人々の上空を、急遽駆けつけたわずか三隻の戦艦が艦砲射撃の雨を降らせていた。
 生き延びることだけが目的の、純粋な戦い。
 理想も、エゴも、小さな希望などは消え果て、ただ生き残る為という大きな願いだけが熱気のように人々を支配しているのが分かる。
「こんな事が出来るのは、ユシェラだけだ」
 ぽつりと、惺が言った。
「たった一人の存在が、死を前にした世界でも人々から生きる望みを奪わないでいる。生き延びる……その願いの為だけに」
 惺は静かに言っている。
 それが独白に似せた、自分に告げる為の言葉だと、フィラーラにはわかっていた。
 方法が残されてなかった数十分前とは異なり、今は世界を救う術が残されている。必死に命を望む人々と、物言えぬ草花たちの命。そして多くの生命体を守り育んできた星の死滅を防ぐ方法が、たった一つあるのだ。
 惺の独白に分かっている、と答えようとしてやめた。そんなことを言ってしまえば、相手を喜ばせることになる。答えずとも、フィラーラはこの光景に一つの答えを痛感させられていた。どれだけの人間が世界の尊属を願っているのか。守りたがっているのかを。
 誰かが誰かを愛している優しい大地だ。
 ユシェラがたった今も、必死に守ろうとしている世界だ。
 どこに方法があるのだろうか?
 何億という命の引き換えに、一つの命を差し出せと言われた人間に。それを拒否できる術がどこにあるだろうか。生きたいと願う、とてつもない祈りを見せつけられて、逃げる術はどこにあるのか。
「ない……かな」
 今、存在する全ての命が、フィラーラの死だけを真摯に祈っている。――逃れられるはずがない。
 そう思った。
「……僕を……殺せばいい…」
 感情を封じねば、言えぬ言葉だった。これだけの人の気持ちを目の当たりにしてもなお、自ら死にたいと願う気持ちは沸いてこないのだ。
 死にたくなかった。自分が滅びて世界が救われるのも、自分が滅びて世界も救われないのも、同じ死に行く身からしてみれば、同じでしかなかった。
 けれど。
 生きたいと必死に願う人々。そしてそれを指揮しているだろう、一番大切な人のことを思えば、死を拒絶しつづける強さも持続はしない。
 一見すると無機質な動きで、フィラーラは床に転がっていたナイフを拾い上げた。早坂真夜を死に追いやった兇器だ。それを見つめ、続けて永遠に目覚めない真夜を見やる。最後に、フィラーラはナイフを惺へと差し出した。無機質にみえて、その指は震えて居たけれども。
「いま……なんて?」
 あえぐように惺が言う。
「殺せばいいと言った。……聞こえなかった?」
 惺が目を見開く中、フィラーラは恐ろしいほど静かな表情で言葉を続けた。
「そうしなくちゃ世界は助からないんだろう? 君が真夜のシステムを引き継いだんだ。僕の心臓の中にある青いコアを取り出すことで、未完成だった浄化システムは完成し、訪れる核は滅され、世界には救済が訪れる」
 さあ、とばかりにフィラーラは惺の側に一歩進む。 殺せと、強要する。
「だ、だが、もしかしたら!」
 喉に息が絡んだような声で惺は叫んだ。
 未完成だった真夜のシステムを、フィラーラが死ぬこと以外で起動させる術がないかと言いたいのだろうか? それとも、身体のどこにも残っていないはずの力を待ち望んでいるとでもいうのだろうか?
 今更何を言うのか、と。フィラーラの目が冷たい怒りに燃える。
 自分の死以外に方法があるのなら、真夜がシステムを失敗とし、プログラムを凍結することはなかっただろう。第一、死なないままに世界を救いきる力が自分に残っていれば、最初からやっていた。
 出来ないから。術は何一つ残されていないから、死ななくてはならないのに。
「僕が死んで世界が救われる。それしか道が残されていないことは、君が一番良く知っているだろう?」
 鬱陶しい。
 どうして自分が説明をしなくてはいけない? 結論は出てしまっているのだから、早く終わって欲しい。差し伸べているナイフを更に付きつける。刃の部分を握り締めてしまって、肌が切れて血が伝った。
 痛みを感じるのは、生きているからだ。
 だから痛みさえ。今は泣きたいほど愛しく思える。
「どうして、そんな、簡単に言えるっ!?」
 ついに惺が叫んだ。ナイフを弾かれる。
 ふざけるな、と言う前に、胸元を苦しいほど掴まれた。必死の形相が目に入る。
「確かに俺は今まで君を人と認めることが出来なかった。でも、今なら分かる。君は人だ。なのになんでそんなに簡単に、殺せなんて言えるんだ! ユシェラが大切なんだろう? おいて死んでしまうことが、平気なのかっ!?」
 錯乱していた。先程まで確かに、世界など関係ない、死にたくないと冷たく言っていたはずの少女が、いきなり諦めの言葉を吐いた現実に。
 どうしてこんなにも簡単に諦められる?
 分からなかった。だから叫んでいた。
『惺は、綺麗な面にしか目を向けないから。いつか…人が心に秘めている複雑な感情を目の当たりにしても、分からないかもしれないよね』
 ずっと昔、真夜が言った言葉。コーヒーを苦そうに飲みながら、彼は人には二面性があるんだよ、と続けて言った。
 そうなのか、と真夜に問いかけてみる。何も自分はわかっていないのか、と。
 ぐるぐると疑問が脳裏を走っている。
『惺、なにもかも、綺麗なままに全てを終わらせることなんて出来ないのよ? 現実って、結構汚いものなんだから』
 それは……エリクルの口癖。
 分からない。なにも分からない。
 叫べば答えが見つかるような気がして、疑問の全てをフィラーラにぶつける。
 なぜ簡単に命を諦められるのか。殺せというのか。なぜ、どうして、分からない。
「うるさいっ!!」
 フィラーラは惺の手を振り払って、叫んだ。
 惺が二・三歩後退する。
「フィラーラ?」
「うるさい、うるさいんだよ、君はっ!」
 少女は肩を震わせ、俯いている。
 尋ねようとした惺の目が凍り付いた。
 泣いていた。
 決して涙を見せなかった少女が泣いていた。
「死にたくないに決まってる! ユシェラの側にいたいに決まってる! ずっと側に居たい。一緒に生きてたい。でもその選択肢は一体どこにある? 与えられている? 許されてなんてないじゃないか。この世界は、人々の命は、みんな僕が死ぬことによって初めて守られるんだ。だったら僕が生きていられる世界なんて、この地球上のどこを探したって存在しないじゃないかっ! だから…だから…」
 語尾が鳴咽に消える。やるせない思いを表すようにフィラーラは手を伸ばし、惺の胸座を掴んだ。まるですがるように。世界に存在しつづける術を探すかのように。
「あるんなら教えてよ。どうやったら僕は生きていられる? ユシェラの側にいられる? ないだろ? 方法なんて……ないんだ…」
 きっと顔を上げて惺を直視する。
 涙にぬれた顔だ。眦をきつくし、眉は釣り上げられている。頬は怒りに上気していた。
 決して綺麗な表情ではない。
 けれど今まで惺が見たフィラーラの表情の中で、一番綺麗だと思った。怒りとやるせなさ。口には決して出さないが、生きていける人間への狂おしいまでの羨望と嫉妬。感情という激しさに彩られた少女は、機械では決してありえないヒト、だった。
 上辺しか見ていないと。言われ続けてきた理由が、やっと分かった気がした。
 人は誰だって死にたくないのだ。どんな理由があっても、崇高な行為だとしても、死にたくないのだ。しがみついてでも生きていたいのだ。
 それが、人間だ。
 そんな簡単な事を自分は知らなかった。
 フィラーラは死にたくない。けれど世界中の命と、一人の命を天秤にかけて、自分を取る強さはきっと誰も持っていないのだ。死を受け入れるしかなかった。だから彼女は泣いている。けれど、一つ分からない。
「君は何故、殺されることを……望むんだ?」
 最後の疑問に、フィラーラは強く身体を震わせた。
「僕に自分で死ねって言うの?」
 焼け付くような激しさを瞳に宿して少女が言う。
「そんなにしてまで、君は手を汚したくない!? 僕が勝手に死んでくれれば、後はやっておくよって、そう言うの!? 出来ない。出来るもんか! 生きてたいのに。これっぽっちも死にたくないのに。自分で自分を殺すことなんて出来ない!」
 叫んだ少女の瞳から、涙が零れ落ちる。
 殺してくれという言葉は。どこまでも生きることを望んでいる人間の、最後の抵抗だった。自分で自分を殺すことがフィラーラには出来ない。たとえ世界を救うという綺麗なお題目があったとしても、ただ生きることを望む人間にとってしてみれば、それは自殺でしかなかったから。
 情けなかった。そこまで言わせてしまった事が余りに情けなかった。
「俺は……」
 殺してやらなくてはならない、と強く思う。
 なのに決意とは裏腹に、身体は硬直している。
 今、惺はフィラーラを人とだと認めていた。そして彼女が誰よりも生きていたいと願っているのだという事も知った。
 フィラーラを殺せるのか?
 なんの罪もない少女を、殺せるのか?
 正直言えば恐かった。手が震えていた。
 動かない惺を見上げてから、フィラーラは涙にぬれた顔を腕でぬぐう。どこまで自分に優しくない世界なんだろかと考えて、苦笑した。
 弾かれてしまったナイフを拾って、銀色に鈍く光る色を見つめる。それを喉元に持っていって力を込めれば、それは自分を殺すだろう。力を失っている今なら、簡単に自分は死ぬ。
「出来ない。簡単なことの、はずなのに。それしかないって知ってるのに」
 生きていたい。
 涙がとまらない。頭に心に浮かぶのはその思いだけだ。生きて、ユシェラの側にいたい。せめて全てが滅ぶなら、もう一度…ユシェラに会いたい。
「……フィア!」
 いきなり背後から響いてきた声に、フィラーラは心底驚愕した。
 同時に否定する。幻聴のはずだ、と思った。期待して裏切られるのが怖い。
 優しい声だ。いつだって自分に与えられていた、たった一人の特別な人。
 力がぬけて、ナイフを落とす。乾いた金属音が部屋に響いた。
「ユ…シェラ……?」
 幻聴だと否定しようとしているのに、動悸が激しくて止まらない。
 世界を助ける為に死なねばならないと、無理に思いこんだ薄い決意が消えてしまう。この人が側に居てくれるなら。他に何も要らない。そう、世界が滅んでも構わない。
 それが本当。それが真実。
 張り裂けそうな胸を押さえて、振り向く。
 青い瞳は、優しく自分を映していた。たったそれだけの事実が無性に嬉しい。
 夢でもなく、幻でもなく。焦って走ってきたのか、荒い呼吸のまま、彼が自分の目の前にいてくれる。
「フィア……無事だな…」
 鋭い眼差しで周囲を覗いながら、彼は歩いてくる。
 彼がここにいる。ならば、ユシェラは自動兵器による攻撃を無視して、自分の為だけに来てくれたのだ。そう……自分の為に。
 嬉しかった。エゴだといわれても良い。ただただ嬉しかった。
 昔、死んだ妹の梨花の言葉を思い出す。
 誰よりも大切に思える人が、家族以外にもいつか出来るものなんだよと。お兄ちゃんじゃない人のことを梨花が好きになる事が起こるんだから、お兄ちゃんだって、そういう人を見つけなくちゃ駄目なんだよって。
 出会えたら、幸せがもっと大きくなるよと。
 変に大人ぶって自分に言ったものだ。
 その時は、妹の言葉の意味が分からなかったけれど、今ならちゃんと分かる。
 きっと、それは今の気持ちのことだ。
 梨花を大切だと思う心とは全く違う感情で、ユシェラが大切だった。
 涙が止まらない。ただ側に行きたくて、彼と同じく足を踏み出す。
 ――その瞬間まで。
 惺はただ黙ってこの光景を見つめていた。
 信じられない光景だった。ユシェラという人間は、神にも等しい意思力で、世界を救うことにのみ行動すると思っていた。にも関わらず、彼はここに来た。全てが滅ぶことを是として、感情を満足させる為だけにここに来た。
 ふと、置いてきてしまった愛しい恋人の顔が浮かんでくる。
 このままでは、彼女は地上で必死に戦い続けたまま死んでしまうのだ。
 惺の中で何かが壊れた。
 守らなくてはいけない。この二人が、世界を救うことに邪魔になるのなら、排除しなくてはならない。全てを守る為に。エリクルの為に。
 ユシェラは少女に手を差し伸べてやろうとした瞬間、惺の変化に気付いた。即座に銃を抜くが、照準内にフィラーラが入ってしまって、一瞬対応が遅れる。
 その一瞬が、致命的だった。
 視界の全て塗りつぶした、鮮血の色。
 そして引き抜かれたナイフの、まがまがしい鈍色。
 何が起きたのかを把握する前に血の気が冷めた。惺に対する怒りより、哀しさがどっと心を支配していく。手が崩れた少女を受け止めた瞬間、悲しみはひどくなった。
「……ゆ…しぇら…」
 切れ切れに、フィラーラが言う。微笑んで、自分を見つめている。
「……遅く、なったな」
 失ってしまうのだ。それが分かる。せめてもっと早ければと思ったから言った。
「遅くなんて…ない……逢えて……」
 良かった……、と、吐息のような言葉をつげて、フィラーラは青年の頬に触れようと手を伸ばす。けれど力を失っているから中々届かない。ユシェラはその手に自分の手を重ねて、頬に持っていってやった。
 安心した表情にフィラーラはなる。
 死を色濃く宿しながらも少女は幸せそうだった。
 多分自分も、泣きそうで、そして同じくらい幸せそうな顔をしているのだろう。
 フィラーラは死に瀕している。それが悲しい。けれど今、こうして。心が通い合っている現実が幸せだと思う心も確かにある。
 ユシェラは自嘲ぎみに笑った。
 いつだって近くにあったのだ。誰よりも優しい少女。最も近くて、最も大切で、そしてなによりも、お互いを大切に想いあっていた相手。
 全てはここに最初からあった。
 同性の友人として遇して来た時間が長すぎて、認めることが出来ないでいた。好きだとか、愛だとか、そういう感情をぶつけることが、いけないような気がしていたのだ。
 失う今になって、お互いがお互いの気持ちに気付いている。
「……わたしは、愚かだ……」
 つっと、ユシェラの頬に一滴の涙が伝う。
 涙を受けて、フィラーラは必死に何かを言おうとした。
 けれど声にならない。もう、言葉を音にする力すら残っていない。もどかしそうに、悔しそうに、僅かに眉を寄せている。
 そんなフィラーラをユシェラは強く抱きしめた。
「君だけを愛してるよ、フィア。だから……」
 これだけは伝えておきたかった。
 君の戻ってくる場所を作っておこう。
 ずっと、自分が死んでも、死んだ後も。
「…ここに……還っておいで」
 少女は、微笑んでいた。
 最後の唇は、何と言ったのだろうか。
 ありがとうと言ったような気もするし、またね、と言ったような気もする。
「もう、眠ってしまったか?」
 答えはない。もう二度と唇も動かない。
 微笑みかけてくることもない。時々しがみついてくることも、怒ってみせる事も。
 初めて出会ったのは二年前だ。
 炎の中で目の前で妹の死を見て絶望していた少年。まるで人形のように感情を消し、宝石を入れているだけのような瞳をしていた彼。
 けれど、自分の前では笑っていた。
 碧い瞳に命の輝きを灯していた。
 誰よりも自分は知っている。この澱んだ世界の中でフィラーラが一番人であった事を。
 人を殺す兵器として作られた生命体であると分かった後は、苦しんで泣いていた。自分自身の存在が許されているのか、それさえもわからないと苦しんでいた。フィラーラのどこが、機械だっただろうか。
 けれど最後の瞬間を迎える寸前、フィラーラの瞳からは弱さは消えていた。この世界にいたのだという、強い誇りのようなものを宿していた。
 何時そのような強さをフィラーラが持ったのか、それをユシェラが知ることはなく。
 少女はもう、ここにはいなかった。
 ユシェラは魂を失った分軽くなったフィラーラの髪をそっとわけて顔を近づけ、
 最初で最後の口付けをした。
 その唇は十分暖かくて、やわらかくて。閉ざされた瞼も命を失っているのだとは到底思えず、今にも目を開けて、笑ってくれそうな気がしてならなかった。柔らかな腕が伸びて、抱きかえしてくれるような気すらした。
 けれど、二度とそんな事はありえないのだ。

− − − − − −
 ねえ、聞こえる?
 急速にすべてが遠ざかっていく、その中で。フィラーラは思っていた。
 ユシェラが自分の為に悲しんでいるのを、靄のかかる白い視界の中見つめる。
 ――貴方にあえた。だからね、ユシェラ。
 ずっとこの人を見ていたいのに、触れていたいのに。
 伝えたい言葉がある。本当はユシェラの側に居たいと。
 そして、切ないユシェラの言葉を聞く。
 ――愛していると。
 彼が、自分に告げている。
 嬉しかった。死んでいこうとしているのに、馬鹿みたいに嬉しかった。
 多分、自分達は今、世界で一番悲しい恋をしているのだろう。死に行こうとしている自分と、これからも生きていかなくてはならない彼。
 与えられているのは、この死にいたる一瞬だけだ。
 意識が消えてしまう。
「だから、還っておいで」
 その言葉だけがはっきりと聞こえた。
 ああ、と思う。還るべき場所はここにある。
 ―― 帰ってきたい。
 最後の言葉は、声になったのだろうか?
− − − − − −


 
 急激に冷たくなっていくフィラーラの身体から、まばゆいばかりの光が生まれ、そして消えて行くのをユシェラは無感動に見つめていた。
 ずしりと重い、手になじんだ銃を持ち上げる。
「たとえ世界が救われようと。私から唯一の存在を奪ったのは、お前だ」
 ゆっくりと銃を持ちあげて、まるで周りのことなど知らないと言わんばかりの青年へと銃を向けた。
「あの状況ならば仕方ないというのだろう。世界を救うためだったのだから仕方ないと。だが、フィアは生きたがっていた。それを、お前は……」
 似合わぬ感情に染められた言葉を告げて、ユシェラは唇を噛む。
 それでも惺は端末を操作しつづけるだけで、振り向こうともしない。 
 指を狂ったように動かせる惺の目を見ることが出来れば、彼に何が起きたのか一目瞭然だったろう。正気の色がなく、どこかよどんでいた。……狂うことで惺は逃げたのだ。
「心を狂気に落として、逃げるのか! 貴様は、成したことの責任も取らずに!」
 一人、叫びつづけるユシェラの声が空しい。
 どんな返事を期待したかったのかも分からないまま、ユシェラは沈黙して、引き金に指を添えた。システムが起動するのか、していないのか、それさえも興味がない。ただ仇をうってやりたい。
「ユシェラ!」
 唐突に、声。少年の声だ。
「……デアリードか…」
 銃を構えたまま、短くユシェラが答える。
「フィラーラは! ……っ!?」
 少年はすぐに、ユシェラの腕の中で眠るようにするフィラーラに気付いた。そして閉ざされた瞼の意味も即座に理解したらしく、空気のこすれる音の出ない悲鳴をあげる。
「そんな、そんなっ! フィラーラ!?」
「あいつが、殺した」
 抑揚のないユシェラの声。
 びくっと身体を震わせて、デアリードは唇を噛んだ。
『ユシェラが惺になにかしようとしたら。この一言を、伝えて』
 言いたくない、絶対に言いたくなかったエリクルからの伝言が蘇る。
 ユシェラが再び銃をあげようとしている。惺は避けようともしない。
 ――俺だって、許せないのにっ!
 歯軋りをする。
 言わなくてはいけない言葉。言いたくない言葉。
 まるで微笑んでいるようなフィラーラの静かな顔を見つめて、デアリードは泣いた。
「ごめん、フィラーラ。俺は言わなくちゃ。君を、殺した奴のこと、絶対に許せないのに! 許したくなんてないのにっ! 伝言を、頼まれちゃったんだよ。ちくしょう、ちくしょう! ユシェラ!!」
 決意が揺らぐ前にと、デアリードが叫ぶ。
「聞いてくれ。俺は、エリクルから伝言を頼またんだよ!」
「……それで? 私はなにを言われても、この銃はおろさない」
「分かってる。そんなの、俺だって分かってる! 俺だって、同じ気持ちなんだ! 殺したいよ、許したくないよ! でも、エリクルが……!」
 伝言はたった一つ。
 ――お腹の子供の父親を殺さないで。
「子……供…?」 
 呆然と、ユシェラが聞き返す。
 デアリードは悔しそうな顔に浮かんだ涙もそのままに、ただうなずいた。
 世界が死に瀕している中で。
 多分一番強い力を持つのは、新しい命の存在。
「……卑怯だ。結局、人はエゴで生きるだけなのだ。許せないと思うことさえも、エゴなのかもしれない」
 静かに、ユシェラが言う。
 持ち上げられた銃はそのままだったが、それが、引かれる事もなかった。


 碧い光は、突如生まれて、そして世界を包んで行った。
 それを銃弾と爆撃の音が響く中で、エリクルは見つめた。アフィーカはエリクルを守るように身体を一歩前にした体勢で、その二人をさらに守るように兵を指揮するのはクォーツだった。サラザードは果敢に攻撃命令を下したまま、僅かに顔を上げる。
 そして、最も光を近いところで見たのは、レヴィアの鉢巻を握り締めたまま、必死に戦闘機を操縦していたスツーカだった。
「この悲しい感じは。師団長が帰ってこなかった、あの空に似てる……」
 ぽつりと呟かれた声が、全てを象徴していて。
 綺麗で、だからこそ悲しい光が全てを覆い込み、舞い降りてくる核を排除する光景の中、人々は力を振り絞って、自動兵器の排除を続けた。
 エリクルは戦いながら泣いていた。
「この光が、世界を、包むのなら……」
 フィラーラは死んでしまったのだろう。
 惺はどうなったのだろうか?
 フィラーラに恋していたデアリードに、伝えてと頼んだ言葉は、ユシェラに伝わったのだろうか?
「ごめん。ごめんね、フィラーラ。わたし、あなたが死んでしまったこと理解しているのに、こんなにも嬉しいの。生きていること、世界が存続していること、それが嬉しいの。ごめんね、これが生きていることの、エゴなのよね……」
 涙が止まらなかった。
 光の雨が降ってくる。世界の浄化が始まる。
 そう、全てが、生まれ変わろうとしていた……。
 


―― 六年後

 薄い栗色の髪をした女の子が、小さな手を伸ばして藤の椅子に座っている男に触れようとしていた。
「なにしているの?  悪戯しては駄目よっ」
 外で洗濯物を干していた女が、子供の動きを目ざとく見つけて、叱責の声を飛ばす。
「だってえ、おかあさん。今なでなでしてくれたんだよお。だからねぇ」
 舌ったらずに答え、女の子は外に飛び出してくる。
 おかあさん、と呼ばれた女は振り向くとちょっと怪訝そうに小首をかしげた。
「なでなでしてくれた?」
「そおよお。優しい手でねえ、こーゆーかんじ」
 小さな手で屈んだ母親の頭を撫でて見せる。
 そんな事があるわけないんだけどと、驚きと少しの期待に立ち上がって家の中に戻ろうとした時、ふと声を掛けられた。
 懐かしい声だった。彼女にとって、一年ぶりに聞いた声。
「ユシェラ!」
「久しぶりだな」
 大声で名前を呼ばれて、少々眉をしかめてみせながら、男――ユシェラ=レヴァンスは満面の笑顔で駆け寄ってきた小さな女の子を抱き上げる。
「大きくなったな、フィーア」
「うん! おにーちゃんがずっと会いにきてくれなかったから、しらないうちに、大きくなっちゃったのよ。くやしーい?」
 にこにこと嬉しそうに笑いながらそう言って、ひしとユシェラにしがみつく。
 それを見て、女はおかしそうに笑った。
「フィーアはユシェラが好きなのね。大きくなったら、お嫁さんにしてもらいたいの?」
「うんー! してほしー! ねー、ねー、いーでしょ!」
 小さな手を何度も動かして、了解を得ようとする子供の仕草に笑みを浮かべて、ユシェラはただ、その頭をなでてやっていた。
「父親がああだから、余計に懐いちゃうんだろうなって思うの」
「あいかわらずなのか? エリクル。彼は」
 ユシェラの問いに、少し困ったように彼女は笑う。
 エリクルだ。六年前とあまり変っていなかったが、雰囲気が随分と大人びている。昔にはなかった、包み込んでしまうような優しさが今の彼女にはあった。
「あれから、もう何年もたったのにね。全然変わらないの。そうそう。ユシェラはまだ一人でいるの?」
 一人娘を抱き上げながらのエリクルの言葉に、ユシェラは遠くを見つめる。
 六年前の出来事は、色あせることなく彼の胸に残りつづけていた。
 守れなかった少女と。最後に交わした言葉と。伝言が与えてきた衝撃と。
 そして世界が、人為的に作られた青い光によって救われて行く奇跡の光景。
 全てが救われた世界に取り残され、生きて行かねばならなくなったユシェラは、それ以後心を許す相手を作ることもせず、どこか張り詰めているような、そんな空気と常にまとうようになっていた。
 無論フィラーラの死を痛む余り、死の星から生の星に変じた世界を放りだす事をユシェラがするわけがない。彼は、エリクルと紺碧の炎を前面に出して、政治的、軍事的手腕を振り、民主政府をわずか半年後に誕生させた。
 けれど政府を軌道に乗せた後、彼は自分達の前から姿を消したのだ。
 世界が救われたから五年後、今から一年前の事である。
「あなたがいなくなって、大変だったのよ。やっと落ち着いたのに、どうしてって」
「私がいては独裁政権になるだけだからな。それに平和になった世界に私は必要ない」
「必要がないわけないのに。でも、最初っからそのつもりだったのね。だから表向きはずっと私を出してきた。自分が姿を消す時に混乱が起こらないようにって。そうでしょ」
 少々責める含みのある声でエリクルが言う。
 ユシェラは何も答えなかった。ただそれが真実だということは、上層部の人間ならば誰もが知っている事なので、あえて問い詰めはせず、ただエリクルは軽やかに笑う。
「皆は元気にしているか?」
「元気よ。サラザードやアフィーカさん達には引き続いて軍を見てもらってるわ。スツーカ君は、軍をやめてね。なんでも旅に出ちゃったらしいわ。デアリードなんて驚くことに内政面に才能があってね、今じゃ私の片腕よ」
「フィアを失って、成長したな。彼は」
「そうね」
 世界が完全に救われた後。デアリードは思い出したように泣き叫んだのだ。目の前で悲劇が起きた時は、伝言と大きすぎる悲しみに感情が麻痺してしまって、叫ぶことも出来なかったのだろう。
 泣いて泣いて。そして再び立ち上がった時、彼は少年から青年になったのだ。フィラーラが守り切った世界を守ろうとすることで、死んでしまった少女との繋がりを保とうとしているのかもしれない。
 真意は誰も分からない。
 誰もが心の中に何かを秘めている。
「彼らはどうしているだろうか…」
「……彼ら?」
「いや、なんでもない」
 苦笑して首を振り、天を見やる。
 六年前の最後の時には姿も見せなかったザナデュスとテュエ。おそらくどこかで元気にしているだろうが、子細は不明だ。
 大きく吹いた風に髪を押さえながら、エリクルは家に入ってと言う。
 家の中は綺麗で、清潔な部屋だった。ユシェラは誘われるまま中に入り、一番日当たりの良い場所に座らされている男をみやる。
「……滝月…惺…か」
「ずっと夢を見てるのよ。繰り返し、繰り返し。それが自分の罪を償う術だと思っているのかしらね。楽しそうには見えないの」
「無意味だな。人は生きてこそ、償う術もみつかる。この男は、自分の子供がもうこんなに大きいことも知らないのか」
「……一人の人の未来を奪ってしまったから」
 辛そうに言って、エリクルは惺を見た。
 五歳になるフィーアの父親であり、六年前からそうやって眠り続けている彼。
 何があったのか。何故彼がフィラーラをさしたのか、それはもう誰にも分からない。
「何の夢を見てるのかしら。あの時、本当は何があったのかしら」
 エリクルの声も届いていないようだった。



 繰り返し、夢を見ていた。
 見えるのは涙。聞こえるのは慟哭。
 哀しみの中に埋没していく。同じ事が繰り返されていく。手が紅く染まっていく。
 自分は毎回同じ事をする。
 フィラーラを殺し、システムを起動させる。ユシェラの慟哭と銃を持ち上げる音を耳に入れ、こっそりと救いを請うように弾丸を待った。
 けれど一向に訪れない死に、溜息をつくのだ。
 救いは決して訪れはしない。
 そういえば、あの伝言は、エリクルの言葉とは、一体なんだったのだろう?
 毎回思う。けれど、その伝言までは聞こえなくて、また景色が変わる。
 ふわりと、周囲が動くのだ。
 また記憶が最初に戻るんだろうと思った。
 赤い色が全てを塗り尽くし、そしてまた。フィラーラを殺すのだろう。
 けれど、意識を取り巻いたのは優しい青い光だった。
 ――……え?
「子供の父親を殺さないで。そう、言ったんだよ」
 柔らかい。記憶にない、新しいコトバ。
 あまりの驚きに、身体が震えた。
 ――身体?
 精神世界に入りこんだ心は、自分の形さえ思い出すことが出来ないで、ただただ崩れてゆがんで行くしかなかったはずなのに。今、自分には身体がある?
 白く細い手が目の前に伸ばされた。
 恐る恐る顔を上げる。
 静かに微笑を浮かべて、自分が殺した少女が立っていた。 
「フィラーラ…どうして…」
 死んだ時のままの姿。そう。幾とせたとうともフィラーラは少女のままだ。時を失った彼女が成長することは決して有り得ない。
「もう、自分を許してあげないと」
 静かな声だった。死ぬ間際にフィラーラが見せた激しさなど、もうどこにもない。ただ全てを許してしまっている者特有の静けさだけが、彼女を包んでいる。
 自分を殺した相手を前にしているのに。
「俺は、君を殺したんだよ」
 差し伸べられた手を取る権利などない。いっそ呪って、憎んで、唾棄してくれれば楽なのに、と心から思う。
「だからこそ、おきないと駄目なんじゃないかな」
 困ったような声で言うと、フィラーラは腕を組んだ。
「生きていられる時間は大切にしないと。そのままじゃあ、僕と同じになってしまう。折角待っていてくれる人がいるのに。エリクルの伝言、聞こえなかった?」 
 ね、とばかりに首をかしげ、今度は腰をかがめて目を覗き込んでくる。そうされて初めて、自分が拗ねた子供のように膝をかかえていた事に気付いた。
「ずっとそうやっていたって、誰も幸せになれないんだから。君は生きてる。それは確かなんだよ」
「なぜ俺を許す?」
「……許すとか、許さないとか。そういうんじゃない。終わってしまったことは、もう、変わらないんだし。時間は未来に動いていくだけ。それに僕も解放されたいしね」
「解放?」
 フィラーラは惺を促すように立ちあがると、少し悲しそうな笑みを浮かべた。
「君があの出来事を悔やむあまりに、過去の夢にとらわれて、一つの世界を作ってしまっている。その世界にとらわれて、僕の時も動かないんだよ」
「俺が、君を夢に捕えてしまっていた? あの苦しみの中にずっと押さえつけて?」
 知らないうちにまたフィラーラを苦しめていた?
 事実に顔を曇らせる青年を、少女はただ優しく見つめる。
「もう、自分を許してあげなよ」
 指をそっと前方に伸ばして、見て、とフィラーラは言った。
「光が見えるだろう? 生きている君が居るべき世界はあそこにある。ここで悔やんでいても何も生まれない。惺、人はね。生きている間は一生懸命生きないといけないんだよ」
「俺は……」
 何を言って良いのか分からない。
 未来を奪ってしまったフィラーラが、自分を激励している。生きろといってくれている。彼女から未来を奪った自分なのに。
 フィラーラは多くは語らない。ただ少し寂しそうに、哀しそうに微笑んでいるだけ。
「俺はフィラーラを忘れないよ。世界が君の命によって救われたことも、君がどんなにここで生きていたいって思っていたのかも……」
 ぱあっと、光がどんどん増していく。
 眩しくて、眩しくて、たまらない。
 そして。
「伝言……子供…か…」
 小さく、呟いていた。


「……エリクル?」
「惺!?」
 耳に一番心地よい人の声。
 駆け寄ってくる足音が聞こえる。
 足腰がかなり弱っているから、瞳にいっぱい涙をためて、駆け寄ってきたエリクルを抱き留めることも出来なかった。随分大人びて、綺麗になった彼女が少し眩しい。
 抱きしめてくれる腕は優しくて暖かかった。
 もう二度とフィラーラが得る事ができない温もりと、小さな幸せ。
 どすっと、膝に乗ってきてにこにこと笑っている小さな女の子。目や口元がエリクルにそっくりだ。エリクルを見つめると、悪戯っぽく彼女が笑う。
「惺、分かる? あなたの娘はこんなに大きくなっちゃったのよ。フィーアって言うのよ。知らなかったでしょ。悔しい? だったら、もうずっと、これからは一緒にこの子の成長を見てよね! どこにも行かないでよね」
 勝ち気なエリクルが泣いている。
 娘は珍しそうに自分を見ている。
 全ては、ここに変わらずにあった。
 奇麗事でもないもない。自分が大切に思うもの。大切にしたいものは、目の前の彼女たちだけなのだと、今なら分かる。
 かたん、と玄関の方で音がした。


 
 惺とエリクルとが作り出す幸せな光景に、ユシェラは居たたまれなくなって外に出ていた。
 まだ、正気を取り戻した惺と、平然と会話をする自信などはない。
 彼らはこれから、ゆっくりと空白を埋めていくのだろう。時があるのだから。
 けれど時を、完全に失った者もいるのだ。
 外に出て、ユシェラは不意に風を感じた。
 頬に、そっと触れていくような、そんな柔らかな風。
「……フィア?」
 声が聞こえた。もう随分昔に失ってしまった最愛の人の。
 振り向いても誰もいない。今まで何度も錯覚を覚えて、振り向いて、落胆してきた事実と同じことが繰り返されているだけ。そのはずなのに。
 聞こえていた。はっきりと。
 大気が、流れる水が、風に触れる葉が、その全てがフィラーラの声を伝えてきているのが分かる。
 ずっと探していた少女の気配が、確かに側にある。
「……帰って、これたのか? 随分と迷っていたようだ」
 静かに言って、ユシェラは微笑んで天を見上げた。
「……おかえり、フィア…」
 蒼く光る天の中に、命を失った少女を感じることが出来る者は少ないだろう。けれどユシェラには分かる。フィラーラはここに還ってきた。
『ただいま』
 微笑んでいる少女の姿が、ユシェラにははっきりと見えていた。