第十七話:命の定義
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 開いた扉の奥は、不気味なほど静かだった。
 部屋を進みながら、惺はフィラーラの能力の人為利用方法を考える。核の二撃目がくるまでに見つけ出すことが出来るのだろうか。そう思って、唇をかんだ。
 端末を叩きながら考え込んだので、彼は近づいてくる気配にまったく気付いていなかった。それが惺に声をかけてくるまで。
「私の研究室に勝手に入る奴は誰だ?」
 唐突に言われて、惺は肩を振るわせる。振り向こうとしたが、背にあたった冷たい感覚に、理性より早く危険を察知する。――銃口?
 気配は、背後で笑っている。
「油断も隙もないな。先程といい今回といい、科学者でもない癖に人の防衛システムを簡単に突破してくれて。礼儀知らずだね」
 低い男の声だった。どこか楽しそうな、ひび割れているような声。
「命がいらないと考えているのかな?」
 かけられる声の冷たさに、背筋を凍らせたながらも、惺は眉をひそめた。聞こえている声に覚えがある。もっとも、記憶の中のそれは暖かい印象だったが。
「……真夜? 早坂真夜?」
 じっとりと汗ばんだ手を握り締めながら、一つの確信を胸に言う。背に当てられていた銃口が震えた。惺の言葉に男が反応を示したのだ。
「いま、何といった? お前」
 震えているけれど、冷たいけれど、たしかな困惑が声に含まれている。それを見逃さず、惺は振り向きざまに背の物を弾くと叫ぶ。
「早坂真夜っていったんだ!!」
 たたみ掛けるように惺が叫ぶと、男は驚いたように目を見開いて、首を振る。
「知らない。私はお前など知らない」
 まるで何かに怯えているような男の答えに、惺が納得できるわけがなかった。
「嘘だ」
 だからやけに静かに、惺は男の言葉を否定した。
「お前は早坂真夜だ。お前の顔を見忘れるわけないし、他人の空似でもない。他人だったら俺はここに入れなかったはずだ。だが入れた。入れるように設定されていた」
 追いつめるように断言すると、相手の顔色は目にみえて悪くなっていく。
「頼むから否定しないでくれ。お前が死んだと聞いてどんなに俺が哀しんだと思ってる? その上知らないふりまでするのか?」
 ゆっくりと言葉を継ぎながら、惺は男を見つめなおした。――早坂真夜を。
 真夜は変わってない。すべてが記憶の中より少しずつ大人びただけだけのように思える。
 けれど、目の冷たさはなんだろう。この世の地獄を見てきた者が持つ凄味ともいうべき、この雰囲気はなんだろう。
 自分が知っている真夜にはなかったもの。
 多分狂気という名のそれが、彼を包み込んでいる。
「……滝月…惺…?」
 なぜ狂気を感じるのかを思案しはじめた惺を引き戻したのは、小さな呟き。訝しんで、不思議がっている瞳に、呆気に取られて驚いている。――思い出してくれたんだと、惺は判断した。
「真夜! やっと思い出したのか? もうぼけてないんだろうな? でも」
 語尾をにごして、あからさまに真夜の足元を惺は確認するように見つめた。何を確認しているかに気付いて、くすくす彼は笑い出す。
「何を確認してる? 足ならちゃんとついてるぞ。信じられないなら触ってみるか?」
 軽い口調で言って、真夜は惺の肩を叩いた。
「久しぶりだな。二度と会う事はないと思っていたよ」
「それはひどいな。だったらなんで、ここの入室権限を俺に与えんだよ」
「だから奇跡が起こったんだろ?」
 同時に笑いながら、惺は涙がにじみそうになって目頭を押さえる。それに気づいて真夜が苦笑する。
「大袈裟だな。しかしなんだって私が死んだ事になっている?」
 困ったように真夜がいうので、思わず惺は彼をにらみつけた。
「普通そう思うさ。分子レベルで全てを分解する力。それをお前が与えて作り出された奴が、真夜を消滅させたって言ったんだからな」
「……私が…作った?」
 困惑するように、真夜が聞いてくる。
 それに気付かないで惺は言葉を続けた。
「最初は驚いたさ。誰よりも一番、生命体に兵器としての力を与える事を拒否してたお前がそれを作ったって言うんだから」
「……そう…だな」
 あからさまに真夜の声が低くなった。続いて雰囲気が激変する。――何だ?と思って惺が顔を上げた先で、親友は低く笑っていた。
「死ぬわけが無い。フィラーラが消したのは私の映像にすぎなかったのさ。立体映像。物質としての質感まで再現した代物だ。動揺していたから、勘違いしても仕方ないさ。ところで、惺?」
「……なんだ?」
 ――違和感がひどすぎる。恐怖さえ、与えるこの感じはなんだ?
「お前はフィラーラを連れてきたって事じゃないのか? どうやら外の奇跡はあれが起こしたようだし」
 どこか狡猾な響きのある声で聞かれて、惺はなぜか返事をためらっていた。
 本来ならば、喜んで全てを話し、協力を仰ぐところだったはずだ。にも関わらず、惺の中で警戒を叫ぶ声がある。――違うと。真夜がどこか変だと訴えてくる。
 口の中がからからに乾いていた。返事をしたくても出来ないくらいに。真夜はただ笑みを浮かべている。得もいわれぬ強制力を伴う光を灯して。
 命令に従うように無意識のまま右手を上げ、フィラーラを指差す。真夜はその顔に間違いのない歓喜の色を宿して、指差す方向を見つめた。
「フィラーラ」
 何十年も探し続けた運命の相手に出会ったら、復讐の相手を手にかけたら、人はそんな顔をするのだろうか。
 歓喜。哀切。愛しさ、限りない憎しみ。
 対局をなす感情を現す表情のまま、真夜は惺の側から離れ、そちらに歩を進めていく。
 床を叩く靴音がやけに高い。
 ひどく嫌な予感。呼吸をすることもままならなくなったような閉塞感。蛇に睨まれた蛙のようにうずくまった惺は、ふと真夜の手に握られている物を見て息を飲んだ。
「何をする気なんだ、真夜!」
 ナイフを真夜が握り締めている。
「私が作った物をどうかするのにお前の許可がいるのか?惺」
「何言ってるんだよ、お前らしくもない! 作り出したのが自分でも、命を得た瞬間にそれは神聖なものになるって! 自分のものではなくなるんだって、前に言ってたじゃないか!」
「……言ったかな、そんな事」
 冷たい瞳と、冷たい否定。唖然としながら、それでも前に進もうとする彼を必死に食い止める。今、フィラーラを死なせるわけにはいかない。
「なんで今殺さなくちゃならない? この世界はもう少ししたら核によって消滅させられてしまう! それを止められるのはフィラーラだけだろう! お前が作り命を与えた、あいつだけだろ! なのになんで、今殺す!?」
 叫べば納得してくれると思った。
 世界が滅亡しようとしている。それを食い止める方法はたった一つだ。それを、むざむざ手放す人間がいるとは思えなかった。――けれど帰ってきたのは低い笑い声。
「惺はさ、単純だよね」
「……え?」
「世界が滅びたっていいだろう。いや、むしろ美しいじゃないか。すべてが消えるんだ。一瞬の内に白の中で消えていく。最初から関係ないんだ。私にとっての世界はもうとっくの昔に滅んだんだからね」
 うっとりとした瞳で言って、力がゆるんでしまった惺の束縛を振り払う。真夜は眠る少女の側に赴いた。
「眠っているフィラーラを殺したって、なんの意味もないからね。偽善じみた優しさを持つ君は、力を持っていながら、世界が滅ぶ様を見る方が嫌なんだろう? 安心をしよフィラーラ。ここはかなり安全な場所でね。地上が死に絶える様を長く見ていられるよ」
 言葉だけは優しく、視線はぞっとする冷たさで。真夜は恋人にするようにフィラーラを抱き上げて、奥の部屋に入っていく。
 当然惺はそれを追った。真夜は咎めない。
「まあ、とりあえずはフィラーラを回復させる。それだったら利害は一致しているわけだから、邪魔しないんだろ、惺?」
 わざとらしく親しみの込められた声に、惺は肯くしか出来なかった。


 ひどく長い通路だと、ユシェラは思っていた。
 デアリードは一緒ではない。まっすぐな気質を持つ少年は、朱金の翼の師団長にユシェラが地下に向かった事実を知らせておくといって、戻っていった。その背を見送りながら、彼は自嘲気味に笑う。まさか、自分が組織を捨て置くような行動をするとは思っていなかったから。
 どんな時であっても世界の行末と方向を考えていたはずの彼は、今、まさに世界が終末を迎えようとしているこの瞬間、それを完全に放棄したのだ。
 愚かだと責められてもよかった。結局情にほだされる奴なのだと言われても良かった。
 今までの価値観を捨てる事に迷いはない。世界が滅んだとしても、自分がここで死んだとしても、かまわない。
 全てを失っても。――見付けた真実は手放さないですむ。
「……フィア…」
 まるでお守りのように、その名を幾度も呟いて青年は走り続ける。そこにあるのは朱金の翼の指導者ではない。単なる一人の人間だ。
 なんという傲慢で、エゴに満ちた行動だろうかと思う。だが、人間など所詮そんなものなのかも知れなかった。
『自分の思うとおりに生きる道が一番困難で、一番正しいのさ』
 そんな言葉が不意に聞こえてくる。
 風が運んできた幻聴だろうか?けれどそれは、自由という風を常に纏い続け、他人から自分を切り離し、己の力のみで生き続けてきた男が本当に言った言葉のように思えてならなかった。
 風よりも自由に。太陽より激しく。
 彼が一番知っていただろう。最後の最後に人が選び取るものは、結局己の心なのだと。本当は他人などどうでもいいのだと。
 それを――人はなかなか認められないだけで。
『気に入った人間の為だったらなんでもしてやるよ』
 そう言って笑う男。風にたとえられる男。
 ザナデュス=オルク。その名前が、その姿が、なぜか鮮やかすぎるほど思い出される。
「羨ましく思っていたのだろうか。己を縛るものも、縋る者も持たずに、ただ自由に強く生きるあの男を、私は」
 似合わぬ感傷に、苦笑した。
 たとえ最初から世界を担っていくだけの場と心を与えられなくとも、恐らく自分は朱金の翼の指導者となる道を進んだはずだ。なにも変わらない。そう、自分とあの男は同じではないのだ。違う生き物なのだから。
「そして、私は何度でもお前を選ぶ」
 燃え盛る村と、焼け死ぬ人々の屍の中で出会った少年。人らしくないガラスのような瞳に、いつしか生気の輝きが込められていくのを見守っていたのは自分だ。
 失いたくはなかった。誰もが神と扱ってくる人々の中で、あの子供だけがまっすぐに自分を見ていた。すねて、怒って、笑って、全ての感情をぶつけてきた。
 互いに互いが必要なのだと、知っていた。
 それがどんな名前を冠せられる感情であるのか、ユシェラはしらない。愛だとか、恋だとか、そんな言葉なのかどうかも分からないけれど、ただ大切なことだけは知っている。――失いたくない、共に生きていきたい。そう願う、大切な気持ち。
 先の見えぬ道を走り続ける。間に合うのか、失ってしまうのか、それは分からなかった。


 寝台にフィラーラを寝かせると、真夜は惺に視線を向けた。
「惺は本当に変わらない。まあそういう所は嫌いじゃないけど」
 底冷えする笑み。そんな彼を否定したかったけれど出来ない。ただ相手を見詰めている。
「治してどうするのか聞きたいんだろ?」
 惺が何も言わないので、勝手に真夜は話しを進めている。彼はそっと手を伸ばして、回復の為の処置を施されている少女の蒼褪めた頬に触れていた。
「惺は知らないかもしれないけどね、あの日君と別れて私の研究所に戻ったら」
 遠い目をして、真夜の心は過去に戻る。
 研究所は深い地下にあった。途中まではエレベーターがあり、それで巨大なホールまで降りる。そこからは長い階段があり、各自目的の場所に行けるようになっていたのだ。
「長い階段を一歩一歩降りながら、私は両親になんて言おうか考えていたよ。なにせ友人なんてものが出来たのは初めてだったし、それになにより」
 自分が惺の研究所に協力をする為にそこを出る前から、父と二人研究を続けていた生命体の一つが僅かな反応を見せ始めていた事が気になっていたのだ。もしかしたら自分がいないまに大きな変化があったのかもしれない。そう思いながら、いつしか駆け足になってドアの前に辿り着く。
「そこに何があったと思う? 惺」
 なぜか楽しげに真夜が聞く。
 無論惺が答えを言えるはずもなく、彼はくすくすと笑いながら、すっと目を細めた。
「なにもなかったんだよ。開いた先には何もね。研究スペースも、その奥にあったはずの居住スペースも。なにもなかった。何かがあったのだという形跡すら。データもない。両親もいない。まだ幼かった妹もいない」
 また真夜はフィラーラを見やる。
「すぐに分かったよ。これの仕業だって。私たちが与えようとしていた力は分子を操る力だ。それに成功していたとすれば、研究所一つ。いや、一人の人間を、その後の欠片も残さずに消す事が出来るんだからね」
 また、くすくすと笑っている。
 喉が張り付いていた。けれど惺は訴えたかった。おかしいと思った。真夜の話しには決定的な嘘がある。それを訴えたいのに、唇が乾きすぎて口を開く事も出来ない。
 寝かされていた少女が身じろぎをした。応急処置とはいえ仮死状態から回復したのだ。その速さはやはり、フィラーラが純粋な意味で人ではない事を意味しているようだった。
 うっすらと瞳をあける。そのまま彼女は凍りついた。
「………!」
 開かれたフィラーラの瞳孔まで見える。
「おめざめ? 救世主気取りの偽善者様」
 愛の言葉を囁くような甘い声で真夜は言う。震えた体を押さえて、フィラーラは真夜と惺を見比べ、
「…生きて…いたなんて」
 と上ずった声を出した。
「意外? 私が君を幸せな状態のまま死ぬ分けないだろう? ああ、でも死んではいなかったけど、殺したようなものではあるんだよ。だってあの時、君は確かに私を殺したいと思った。だから力は私を包み込んだんだからね。たとえそれが、映像にすぎなくてもさ」
「……映像?」
 あの全てが消滅していく感触が映像だったというのだろうか。手を握りしめ、震えながらフィラーラは相手を凝視していたが、首に手を伸ばされて目を見張る。
 また何かをされるのではないか、そう警戒する間もなく、閉塞感が襲ってきた。気道が悲鳴を上げる。
「……ぁ!」
「殺しやしないけどね。私が与えたその目で、顔で、脳で神経で! この世界が核の手によって死滅する姿をみるといい。それまでは殺しはしないよ。まあ苦しいだろうけど」
 ぎりぎりという音さえ聞こえてきそうなほどの力。
 ぎょっとしたのは惺の方だった。呆然としたまま成り行きをただ見つめていたのだが、フィラーラの細い首に真夜の右手が伸び、絞め付け、そして囁かれた声の冷たさに我に返る。
 同時に硬直していた脳が動き出した。
 蘇ってくるのは思い出。たった三日間だったが真夜と共に居た時間のことだ。その時彼は言った。ならば。
「真夜! お前は、お前じゃない!」
「……私では…ない?」
 突然の叫びに驚いて、真夜は目だけで惺を見る。冷たい狂気に囚われたその瞳。
 惺はゆっくりと肯いた。
「そうだ。お前は言った。命を作りだそうとしているのは不遜なのだと。けれどそれを研究する事に意義を見付けてしまった自分は悪魔にも劣るのかもしれないと。けれど」
 言いながら、唇をかむ。
 覚えている。少しだけ長い髪を後ろで結んで、コーヒーを呑みながらそう言った真夜の事を。優しい瞳で思い出すように語っていた言葉がなんと言っていたのかも。
「兵器としての生命を生み出すのは嫌だと。純粋な意味で人が忘れてしまった優しさと美しさを持った命を生み出したいって、お前は言ったんだ! なのにお前は今なんて言っている? 自分で兵器の力をつけたといわなかったか? それがお前の真実であるはずがないのに」
 叫ぶにつれて涙が出てくる。
 両親と妹。全てをかけて研究してきた成果を一瞬にして失えば、精神の均衡を崩すのは当然の事だ。けれどあの優しかった真夜がこうまで変わってしまうのは耐えられなかった。
 取り戻したかった。
 優しかった頃の真夜。自分が作り出している生命体の事を嬉しそうに語っていた真夜を。けれど真夜の瞳は動かない。馬鹿にしたような色が浮かべんでいるだけ。
「いつまで妄想しか見れない人間でいるつもりだ? 理想しか言えないのか? たとえそれが当時の私の心でも、今は違う。それだけだ。そしてそれだけが意味を持つ。違うか?」
「真夜!」
 ぷいと顔を背けて、真夜はまた凶行に及ぶ。抵抗する力がない少女は、ただ締めてくる手を必死に掴む事しか出来ない。
 細い首が、今にも折れてしまいそうだった。
 悪夢だと惺は思った。あとどれくらい核が落ちてくるまで時間があるのだろうか。たとえ真夜を止める事が出来ても、フィラーラを力を行使できるレベルまで回復させる事は可能なのだろうか。
 こんな事態を目にしているのに、まだそんな事を惺は考えている。
 だから、手にあたったものがなんだったのか、分からないまま惺はそれを取っていた。
 それから考える。確か真夜はその時、照れたように別の事も自分に語ったはずだった。とても大切な事だったような気がするのに思い出せない。
 目を上げると、フィラーラが力を失ってぐったりとしているのが分かる。
 体が動いたのも無意識だった。右手を伸ばしたのも。
 はっと振り向いた真夜が何を言ったのかも分からない。
 ただ奇妙な衝撃があった。固くはないけれど、奇妙な弾力のあるものを貫いた感触。それから手を伝った不気味な生ぬるい何か。
「……せ…い…?」
 真夜の声。
 束縛から開放されてどっと倒れ込んだ少女。
 どくん、どくんと、音がする。
 聞き知った音だ。生まれる前から聞いていた音。鼓動の音。微笑みが見えた。優しい昔のままの微笑み。
 ああ良かった。そう思った。
 昔の真夜に戻ったんだね。
 そう。思い出したよ。君は言ったんだ。
「父は兵器に名前などいらないと否定したけど、それは嫌だった。もう一人の妹のように思っていたから。だから名前を付けた。フィラーラって。どんな声で私の名前をよぶだろうね、惺。兄って思ってくれるのかな…」
 そう。そうだよ、真夜。
 君が一番フィラーラを人と思っていたんだ。


 次に見えたのは、足元に倒れ込んだ真夜の体だった。なにか夢を見ていたような感覚が弾けて、二人の人物が倒れているのを認める。
「真夜?」
 丁度自分の真下に倒れ込んだ真夜の頭近くにゆっくりと膝を付き、肩にふれる。そこから伝わってくる呼吸がひどく荒い。不審に思ってうつぶせの状態だった真夜を抱き起こし、
「……真夜!」
 叫んだ。なんだって真夜の胸から、物が生えている?
 熱に浮かされたような状況から一転現実に戻って、惺はナイフの柄を見ていた。
 深深と何かにめり込んでいるそれは、刃がまったく見えない。なぜなのか、なにに刺さっているのか、それを考えた瞬間、体中の血液が凍りつく。
 手に触れた物を夢中で伸ばした。あれは。
「……叫ぶな、惺」
 叫びかけた唇を押さえられて、惺は眼を見張った。
 真夜?
 懐かしい顔がそこにあった。優しいけれど皮肉屋で、ちょっと斜に構えていた頃の彼。
「思い出したのか?」
「…最初から…覚えて…いたさ。……自分が何を考えていたのかも、兵器としての力を与える事には反対していた事も。お前の……ことも」
「じゃあ、なんで」
 惺の問いに、真夜は疲れた表情をうかべる。
「閉ざされたこの世界の中では、家族は全てだったんだ。それを奪われて、私には毎日家族の無念の声が聞えるようだった。耐えられなかったんだよ、それに。だから私は、私自身がフィラーラを大切に想っているという事実を自分の中から抹消した。そうしなくてはあれを憎むことなど出来なかった。恨みを告げてくる家族の声から逃れられなかった」
 床に崩れたフィラーラに視線をやりながら、苦しげに真夜は告げる。自分の心を偽った復讐を果たそうとしていたのだと。
「憎んでいると思い込んでいたことが、それが私の真実に変わったのがいつだったのかは覚えていない。ただ楽だったよ。全てを隠してしまって、狂気の中に埋没しているのは」
「真夜、そんな」
「言葉を飾っても意味はないんだ。私はフィラーラを憎むことで自分の中の相反する感情の衝突を消した、弱い人間なのだから」
「真夜」
「――認めてしまえば怖かった。フィラーラが愛しいのだと。大切なのだと。だが今は認めよう。本当は嬉しかった。小さな分子の一つだったあの子が、次第に形を作り人に変わっていく姿を見るのは。父には内緒だったけれど、フィラーラはね、父がいない時には私の声を聞いていたんだよ。ずっとずっと、私の声だけは聞こうとしてくれていたんだ」
 全てのわだかまりが解けた穏やかな表情で、真夜は告げる。彼が隠し続けていた真実を。
「それだけで、幸せだって思えたんだ」
 色が、消えていく。
 誰の手によってでもない。自分の手によって。真夜は命を終わらせようとしている。
「惺。フィラーラを人間だと認めていないのは君の方だよ……」
 息だけのような言葉。真夜の言葉が指し示す意味にぎょっとしたまま、惺は親友の瞼が閉ざされた事を認めて、知った。
 閉ざされた瞼が二度と開かない事を。
「俺が……一番…」
 物体になった真夜はもう質問に答えない。


 夢を、見ていた。
 分かるのは月の光と、優しい声。
「聞いてる? 今日は父さんがいないから一緒にいられるよ」
 毎日そうやって声をかけてくれる人。
「俺は君の兄さんなんだよ。安心して眠ってていいんだ。君を兵器になんてさせやしないから。そんなふうに思ってないから」
 隔てられたガラスごしに伸ばされた手。
「フィラーラ。君の名前はフィラーラだよ」
 ――名前?
「この星をまた水の星にしてみせるよ。海を見せてあげる。綺麗な碧を映した君に…」
 ――わたしはこの人が大好きだった…。

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