第十三話:真夜に潜む狂気
目次

 ザナデュス=オルクがテュエ=トゥースを連れてひそかにシャラシャーン要塞のに潜り込んだ頃、停止した映像を復活させるべくコンピューターを操作していたユシェラは、一つのプログラムのパスワードを解き、内容の閲覧に成功していた。
 偶然の産物といえるパスワードの解除が画面に表示をはじめたデータが、恐るべき速さで展開してゆく。
 時折画面に出てく名前に、ユシェラは心持ち眉をひそめる。
 こんな所でお目にかかるとは全く思っていなかった名前でもあり、またいつか出会うのではないかと予期していた事実でもある。
「軍事研究機密ファイル、三○七号。生物兵器と人工生命体の結合と、プロトタイプについての報告書か」
 口に出して読んだ行の先に現れた名前をあえて飲み込んで、ユシェラは唇を噛んだ。それがなにを意味しているのかも、なんの真実を示すのかも、分かっている。
「だからといって何が変わる? 一体何の罪があるという? かわりはしない」
 まるで誰かに囁きかけるようにしながら、青年は更にキーを叩く。画面がスクロールしたかと思うと、かちりという音と共に、浮遊感を感じた。
『プログラム切り替え。通路開きます』
 合成の声が告げてくる。
 浮遊感は、ユシェラがいたコンピュータルームそのものが下降を始めた結果だった。
「一体何が?」
 冷静さを手放さない、青年の声が僅かに響く。


 現実ではない。けれど過去の現実を見ていた。
 声が、聞こえてくる。いつも……そう、いつも聞こえてくる声が。
 それはひどく冷たい声だ。難しいことばかり言っている声。
 漠然とそれを聞いているだけの頃は、冷たい声が何を言っているのか、何かを観察しているようだが、何を観察しているのかまでは分からない。最初は――自分こそが観察・研究される対象であるとなど、考えることも出来なかったのだ。
 冷たい声が象徴するように、ここは冷たい場所でもあった。
 暖かさや優しさなど全くない。――いや、時々は優しい声や、優しい気持ちを与えられることもあった。けれど……そう頻繁ではない。
 また、声がした。
 きっと何かをされるのだろう。最近は、冷たい声が聞こえ始めた後に必ず、嫌なことが起きるようになったのだ。知らない情報が頭の中に流れて来たり、痛みが襲って来たり。ひどく嫌な何かを教えつけられている気がする。
 ――……嫌。
 初めてはっきりと思う。嫌だった。それは、あまりに怖くて。
 ずっとずっと、閉ざしていた瞼を初めて開く。液体が閉ざされていた瞳を濡らし、一瞬目を細めた。ぼんやりとした光の中、巨大な試験管と様々なコンピュータや計器などが並んでいる無機質な部屋が見える。
 そして、ガラスの向こう。目の前に立っていた、狡猾そうな瞳と酷薄そうな薄い唇をした壮年の男を認めた。
 ――怖い……。
 知らない男に嫌悪を覚える。逆に男は嬉しそうに声をあげた。ガラスに触れてくる。
「やはりお前は意識を持っていたのだな!! 全く無の状態から生命体を作り出すところまでは成功していたとはいえ、今までの実験体は植物人間、人形と同じだったからな。自我を持たない玩具の生命体。なのにお前だけは時に意識を持っているような素振りを見せていた。本当に微弱だったがな。しかし息子が悲しむな。お前が目覚める瞬間に立ち会えなかったのだからな」
 意味不明のことを上機嫌に言いながら、男はガラスの壁のすぐ横にあるディスプレイに手を置いた。しゅっと鋭い音がすると、自分を取り囲んでいた壁が床の中に消えて行く。暖かな温度を保っていた液体も流れおちて、寒さを覚える。少し震えた。
「寒さを感じたか。五感の発達も申し分ないようだな。寒いのは当然だろう。突然母の羊水の中にいた赤子が外に出されたようなものだからな」
 男がご満悦に言っている。それから自分の手を取ってきた。――気持ちが悪い。
「さあ、お前の力を教えてやろう。さぞかしエーリヒ連合政府会長はお喜びになるだろうな。全てを覆すほどの力を持った生物兵器が完成したのだから。お前が完成したという事は、我々は世界を統治し、手に入れる術を入手した事を意味する」
 くつくつと笑いながらそれだけ言うと、男は爆発的に笑い出した。まるで音程の狂ったピアノのような甲高さ。命を作り出すことに罪悪を感じない、狂気の科学者が笑う。
「それにしても美しい子供だな。お前は。あと十年もしたら、お前を手に入れる為ならば全てを捨てても厭わないと断言する愚かな男共が大勢でるであろうな。かつて中国に国を傾けるほどの美女がおったというが、それに決して劣りはしまいよ。容姿もまた、一つの武器だからな。まあ」
 男は意味深に言葉を切ると、取った少女の小さな手に力をこめた。ふくふくとした幼い手は、それだけでひどく痛い。
 束縛から逃れようとしたが、男の手はびくともしない。
「それだけが武器ではないからな。お前は全てを破壊できる。なにせこの世界は全て分子から成り立っておるからな。その分子を支配可能な兵器。それがお前だ」
 ――兵器?
 意味不明の言葉に潜む、一つだけ理解できない単語に目を見開く。
 そんな少女を、研究成果の確認とばかりに遠慮なくじろじろ見まわしていた男は、大股で歩くと、少女が入れられていたのと同じガラスの壁で作られた試験管の前まで来て、中を覗き込んだ。
「これはな、失敗作だ。見てくれこそ完璧だったが、意志など何もない。こちらからいくら命令を下しても反応も示さない。だからいらないのだが、綺麗に消すのは難しくてな。仕方なく放っておいたのだが」
 ――完全、消滅。
 男は怯えた目をし始めた少女になど気付かず、コンピュータを操作した。目の前の試験管の壁が解除されて、どっと何かが倒れこんでくる。――先程男が失敗作と証した、人間にしか見えない誰かが。
「お前は、まだ兵器としての能力を使う方法を知るまい。だが確かにお前には分子を支配する力がある。それを私たちが与えたのだからな。命令されれば可能なはずだ」
 嫌な笑みを消さないまま、男の指が何かの機械を操作する。と、少女の左耳につけられていたピアス型の精密機械から電流が走った。
「あっ!」
 痛みにではなく、驚きに少女が声をあげる。己の意思ではなく、勝手に自分の手が動き始めたのだ。操られるように伸ばした手から、淡い光が生まれる。それは意思を持つように、明確に床に崩れてきた失敗作、いや人間を包み込んだ。
「いやっ!」
 本能的に、操られている自分が何をしようとしているのか察知して、少女が怯えた声をあげる。だが意に反して、彼女の手足は明確に動いていた。光はさらに強くなり、
 ――居たはずのニンゲンが、消えた。いや、自分が消してしまった。
 残酷な現実に必死に首を振る。無と化した、何も残らない現実が怖い。
 満足そうに肯く男が嫌だ。
「すばらしい力だ。分子分解の能力も、申し分ない。お前は完璧な兵器だよ」
「…………!」
 声にならない悲鳴を、少女があげた。
 過去の現実の中で。そして現在の現実の中でも。
 両手を縛り付けられた上、柱に括り付けられて。フィラーラは苦痛に顔をゆがませ悲鳴をあげる。幾度ももがくので、縛られている部分は赤く血がにじんでいた。
 薄く笑いながら、日本人の男がフィラーラを見つめていた。
 年の頃は二十代の後半といったところだろう。顔の造形だけ見れば優しげなのだが、一旦全体を見つめると優しさなど消失してしまっていた。ぞっとする底冷え冷たさが、男の周囲を取り巻いているだけだ。
 男……早坂真夜は長椅子に腰掛けて、手元に置いた小さなディスプレイを眺めていた。そこに映っているのは、先程の幼い少女が初めて行使させられた力に怯え悲鳴を上げて、そこから逃げようとして男に身体を押さえられている光景だ。
 映像は、目の前で寒暖なく押し寄せてくる痛みと苦しみにもがいているフィラーラが見ている、過去の記憶だった。それを真夜は直接手元の機械と彼女の脳波とを同調させ、ディスプレイに投影させて眺めているというわけだ。
 薄く笑う真夜の口元には、懐かしさが浮かんでいる。
 映像に映っている男を彼は知っている。
 フィラーラが夢見る過去の映像の中に出てくる人々は、真夜が失った家族の姿だった。小さな手をぱたぱたとさせて、男にすがろうとしているのは間違いなく自分の妹、梨花であったし、その妹を抱き上げながら、なんで入ってきたのだと怒った顔をしている父の前でうな垂れてしまっている女性は母に間違いない。
「父さん、母さん、梨花」
 真夜は呟く。
 映像が映し出している光景はひどく長閑で優しげだが、地球は核の嵐によって目茶苦茶に破壊されていた後の時代である。
 地上に放置された人々が苦しむ中、連合政府配下の研究所は活発な活動を続けていた。それぞれ完全な生態系を作り出すシェルターによって保護されていたからだ。
 真夜が全てを失ってしまった時、彼はその悲劇に立ち会ってはいなかった。
 悲劇が起きた日。真夜は地球の自然環境を元に戻す研究を行っている研究所にどうしても行かなくてはならなくなり、三日間ほど家族の元を離れたのである。
 父は真夜と共に研究を続けている人工生命体の中の一体が、順調な成長を見せており、自我を見せ目覚めるかもしれない時だったので、真夜が研究所をはずす事をひどく悔しがった。父や真夜が何の研究をしているのかなどは知らない母は、息子が危険な外に出る事を嫌がり拗ねていたし、妹は良く分からないという顔をしながらも、真夜の足を寂しそうに掴んで離さないでいた。
 もし。あれが家族との最後の別れだと知っていたら、自分はああもあっさり出ては行かなかっただろう。けれどあの時の自分は、滝月という名前の同じ日本人技師の男が研究を続けている成果に興味を覚えてしまっていたのだ。
 実際その滝月、名を惺といった男の才能は素晴らしいものだった。自分と同じく十代の子供に過ぎないくせに、彼が考え出す理論や設計などは、大人に決して負けないしっかりとしたものだったのだ。感嘆するとともに、ひそかにライバル心のようなものを覚えた記憶がある。
 彼が帰ってきた時。そこには何もなかった。
研究所があったという痕跡すらない。だから彼はすぐ理解した。こんな芸当が出来るのは自分と父とが研究を続け、生み出した―――あの実験体だけだと。
 悲しすぎて悲劇を実感できず、ただただ呆然と立ち尽くす。
 ただ一つ分かったのは、こんな事をしでかしたあの実験体を、抹殺しなくてはいけないということだった。
 仇は、取る必要がある事なのだ。
 それから十年もの間彼は探し続けた。そしてやっと朱金の翼という組織に自然を復活させる術を持った人間がいるとの情報を手に入れて、彼は確認に赴いたのだ。
 実験体はそこにいた。いけしゃあしゃあと人間のふりをして、生物兵器として作られたに過ぎないくせに人々から奇跡と称えられ、崇められていたのだ。
 怒りを覚えると同時に、不思議に思ったこともある。
 実験体に与えたのは、分子を操る力。ゆえに汚染された地球を構成している全ての分子を再構成し、正常な状態に戻す事は出来るのは当然だろう。
 けれど無から有を生み出す事など不可能なはずだ。なにかベースになる物があって初めて力は発揮できるはず。にも関わらず実験体は無から水を作り出したり、滅んだはずの種子を生み出し、緑を復活させたりしている。
 何故そのような事が出来るのか、それは結局まだ分からなかった。
「まあ、ゆっくり調べれば分かる事か」
 言葉を漏らして、ふとディスプレイの右端に出てきた表示に目を見張る。赤く光る文字が点灯していた。
「……浸入者、だと?」
 呟き、苦痛に歪む少女の顔を見やる。一瞬考えてから、真夜は調節機器を動かして、ある出力を最大に設定しなおした。
「本当はね、ゆっくり君の罪と記憶を取り戻させたかったんだけどね。どうやら君の事を取り戻そうと考えている輩がいるらしいから、そうもいかなくなったみたいだ。早いところ君を持ち駒に変えなくちゃいけないみたいでね。とっとと思い出して貰うよ。優しい人間を演じてる君の、本当の恐ろしさをね。思い出してよ。だって君、わたしの家族を、どうしたんだっけね」
 普段なら笑みを称えたであろう唇は冷たく閉じられたまま、真夜はキーを弾く。
 記憶の壁を突き破る命令の激しさに、フィラーラはびくりと震えた。
「ねずみは三匹、かな?」
 真夜の声が、薄暗い部屋に響く。


「こんな所に入る手段よく知ってたわね!」
 呆れたようにテュエがザナデュスの顔を見詰めると、東南アジア系の特徴的な容姿を皮肉っぽく歪めて男は笑った。
「ただ単に利用されるだけの暗殺者で居るのが嫌なら、情報は知りすぎているくらいで丁度いいのさ。俺に入り込めない場所などないし、そうあろうと思っている」
 鋭い瞳に光を湛えて、ザナデュスは器用にシャラシャーン地下研究所の警備システムを無効にしてゆく。その器用さにさらに感嘆したのか、テュエは溜息を吐くだけだ。
「わたしみたいに、食っていく為に人を殺す術を覚えてきたぺーぺーとは違うのね」
 テュエが悔しがっているというよりも、格が違う事を悲しんでいるような様子で言うと、ザナデュスは驚いた表情になって振り向いた。それから彼は屈んで、テュエの白い髪ごと頬を両手で挟み込み、
「左半分に火傷を負い、髪が真っ白になってしまうほどの恐怖を覚えながら、強くこの世界で生き抜いてやろうと思った意志力は、決して俺に劣るものではないと思うが?」
 と悪戯っぽく囁く。テュエは笑って、頬に添えられた男の大きな手に己の手を重ねせ、少し目を伏せた。
 二十年前。まだ六歳だった自分が味わった地獄を思い出したのだ。
 当時彼女はロシアと中国の国境近くに住んでいた。
 核の嵐が吹き荒れ数十分経過した頃、彼女の街は地獄と化していた。爆心地からは離れていたが、放射能は恐るべき殺傷能力を持っており、ばたばたと人が死に始めたのだ。その苦しみもがく人々の中には幼い彼女の両親も、生まれたばかりの弟もいた。
 なぜか無事であった彼女は家族を助けたくて街を飛び出した。その時にロシア側に駆けていれば、医者の一人でも捕まえられたかも知れない。けれど幼かったテュエは、何も分からずに中国側に走り出していってしまったのだ。
 どこをどう走ったのか、どんな手段を使ってそんな遠くまでたどり着いたのかはテュエは覚えていない。ただようやくたどり着いた軍事基地を要している国境の街は、さらなる地獄の中に埋没していたのだ。
 人であったなどという事が信じられないようなお化けのような者、折り重なる死体。くぐもった人々の声。突然の事に正気を失い奇声を上げる人。
 テュエは恐怖に悲鳴を上げようとして、肩を掴まてれ振り向く。
 左の視界が白く燃えた。
「恐かったよ。振り向いた途端、多分女の人だったんだと思う。でもあんまり原形を留めていなかったから分からなかった。でもその人が突然火炎放射器みたいな物を至近距離から撃ってきたから。一瞬に私の顔の左側は焼けこげて、嫌な匂いがした。悲鳴を上げて、逃げようとして足を押さえられて。こわくて、こわくて、必死に近くにあった物を掴んでその人を叩いた。それこそ、その人が動かなくなっても、ずっとね。何度も、何度も……」
 テュエは唇を噛む。フィラーラが見せた小さな奇跡によって外見の傷は消えたけれど、心に刻み付けられた恐怖が消えるはずもない。
「それから何とかして逃げて、自分の街に戻った時にはもう遅かった。みんな、わたしを置いて死んでしまった。それからは一人で生き延びなくちゃいけなかった。誰も助けてなんてくれない。自分の力がなくちゃ生きられない。そんな状況に陥って初めて知ったよ、ザナデュス。人は自分が生きる為だったらなんだって出来るって。人に誉められる行き方をしている事が美しいわけじゃないって。本当に美しいのは、自分でそうあろうと思って、その為に行動する事なんだってね。だから生きる為なら人を殺す事だって出来た」
 思い出すことさえ恐ろしいであろう事実を、苦しい表情を隠して語るテュエの肩に手を置いて、ザナデュスはぽんぽんと安心させるように軽く叩いた。
「必死に生きようと、前を見ようとしている奴は綺麗さ。自分が生きていくだけで精いっぱいだと、あくびれる事なく言い切れる奴なんてそうはいない。だから俺はお前を自分の側に置いておきたいと思った」
「ありがと、ザナデュス。わたしもねあんたを見てたら肩をはって生き続けるだけってのも芸がないかなって、思ったよ」
「まあ、そうだろうな」
 軽く笑いながらも、ザナデュスは正確に研究所の最奥部を目指して進んでいく。彼らの行動の正確さは侵入者があると分かりながら位置を掴めないでいる真夜が、一番思い知らされていた。
「この研究所の存在を知っている奴はいないはずだ。にもかかわらず一体何者だ? こうも簡単にネットワークを無力化させ、システムを黙らせる事が出来るなど」
 苛立たしげに呟く。
 警備システムを黙らせているのが、裏の世界で暗躍する中で一番と誉れ高かったザナデュスであり、巨大なコンピュータのネットワークと自己修復プログラムを黙らせているのが朱金の翼のユシェラだとは、さすがの真夜にも分からなかったのだ。コンピュータの無力化に重点を置いたユシェラは、少々ザナデュスよりも出遅れており、まだ最奥部までは達しきっていない。
「これ程までのシステムに守られた研究所は、一体どんな真実を秘めているのか」
 小さく呟いてユシェラは先を急いだ。
 同じ頃、紺碧の炎をまとめる事に成功したエリクルはシャラシャーンに向けて進路を取り、赤の陸戦部隊もまた移動を開始する。
 ザナデュスは、かなり最奥部に近づいていた。
「……なんて深い地下」
 苛立たしげにテュエが呟くと、慰めるように男は女の肩を叩き、目的地はもうすぐみたいだと指をしゃくった。――扉が闇の先にあったのだ。
 音も無く扉に触れて、確かめるようにザナデュスは腕を見た。それを何回か弾き、軽く肯いてからそっと扉に触れる。
「なにをしたの…?」
「いや、生体反応があるかどうかをな。どんぴしゃだったらしい」
「じゃあ、ここに?」
 そして彼らは、開かれた扉の先で、ひどく悪趣味な光景を目撃した。
 研究所そのものまでは来れないだろうと甘い判断をしていた真夜が腰掛ける長椅子の奥で、力無い悲鳴を上げながら、震えている少女が柱に括り付けられている。
「なんて、ひどい!」
 非難の声をあげるテュエの横で、違う意味でザナデュスも息を呑む。
 縛られている少女が、彼らが酔狂な事にこんな所まで救いに来た目的の人物、フィラーラ本人だと分かったからだ。人の本質を見抜ければ、姿形が変わったくらいで違えるはずはない。
 彼らが息を呑むその視界の中で、フィラーラは最後の夢を見ていた。


 それはまるで、薄いヴェールを通して世界を見ているような不確かさだった。
 閉ざした記憶。その光景を再現させられる様を見せ付けられるようになってから、どれほどの時が経ったのかは分からない。精神という精神、思考という思考の全てが疲れてきってしまっていて、何も判断出来ない。
 何が現実で、何が過去で、今自分があるべき場所は何処なのか。意識は覚醒しているのか、それとも気を失ったままなのか。
 考えてみるがやはり分からない。身体も心も痛みを訴えていて、思考能力を奪ってゆく。鈍くなる意志を懸命に叱咤激励して考えてもみるが、結局今自分が見ているものが現実だと再認識する事しか出来ない。
 認めたくもない過去。 封じ込めた事実。
 見ているものはそれだ。そしてこの光景の全てが、確かに自分の過去であるのだと分かっているのだが、まるで他人がやっている事を見ているような不確かな気分になるのも事実だった。それも逃げなのだろうか?
 けれど一つ分かっていることがある。この心の痛みも、恐怖も、怯えも確かに自分のものだ。記憶を消すことで、幼かった自分は恐怖から逃げたけれど。完全に消せたわけではなかったのだろう。
 恐怖心だけは残っていた。だから自分は毎日を生きる中で、常に怯えていたのだ。
 自分は単なる生物兵器として作られた「物」に過ぎず、己の意志で生きる道を判断できる人間ではない。だからこそ今まで、自分で自分の生きていく目的を見つけることが出来なかったのだろう。誰かに生きる目的を与えられる必要があったのだろう。
 リーアが居た時は彼女に、ユシェラの手を取った後は彼に。
 それが自分に命令を与える人と決めた主人…という事になるのだろうか。
 ――……リーア…。
 死んで行った妹の名を心に呟くと、愛しさと悲しさが沸き上がってきた。
 少なくとも自分はリーアを本当に大切に思っていたのだ。主人としてではなく、守りたい妹として。けれど己の都合で築き上げた記憶の虚像を破られ、真実を見せ付けられた今ならば分かる。自分に妹がいるはずがない。彼女は恐らく……。
 突然激痛が身体を駆け巡り、更に深い意識の海溝の底に少女は落ちてゆく。
 再び過去の映像。最初に見えたのは男の手だ。
「全くもって素晴らしい。なんという力だ。私の意のままに動く兵器であり、意のままに動く人形でありながら意志を持つ娘」
 うっとりとした男の声を聞きながら、少女は左耳に付けられているピアスを耳たぶごと切り取ってでも外してしまいたいと、心の中で泣き叫んでいた。
 分からなかった。こうも操られて動く自分自身が。男が分子を支配するという能力を行使させられる度に、消滅する存在がある。
 その消滅の瞬間に響く魂の絶叫が、少女の心を切り刻んで行くようだった。
 男の命令のままに悪戯に尊い命を奪うという行為を強要されて、身体の自由も、拒否することも出来ない少女は、ただ泣くことしか出来ないでいる。
 男は少女を掴んでいる自分の手に落ちた少女の涙に、驚愕したようだった。
「これは驚いた! 涙も流すのか。確かに先程から力を使わせる度に悲鳴を上げているようだったが、そうか、苦しいと思っておるのか。作り出された命に過ぎなくとも、他の命を奪う事には恐怖を感じるのか。ふむ」
 骨張った指を顎に乗せて悩むような素振りを見せてから、男は少女を見る。
「お前の意志から生まれた感情など無意味だな。我々が欲しているのは命令された事を忠実に履行しつつも、正確な判断を己で下す事の出来る知能と意志を持った兵器だ。命を奪う事に涙するような普通の人間を、作りたかったわけではない。そんなものは邪魔なだけだ」
 冷たく言い放つと、男は少女を再び巨大なガラスの試験管の中に押し込めた。振り向く間もなく拘束される。逃げなくてはと咄嗟に思ったが、やはり身体の自由はない。
「もう一度思考回路と脳を支配し直して、無駄な感情は消してしまわなくてはな。まあそれくらいはすぐに終わるか。終われば、お前は本当に美しい兵器に生まれ変わる」
 喉を鳴らして男が笑う。
 ――完全な兵器に生まれ変わる。
 それはようするに、本当に単なる命令されて動くだけの兵器になるという事だろうか。
 嫌だった。そんな事は絶対に嫌だった。
 けれど男の手は確実に操作を続けていて、足元から再びあの生暖かい、優しいけれど自分の思考能力を奪う液体を流し込まれてくる。焦りはするが、良い案など全く浮かばない。兵器として作られ、様々な情報と知識を埋め込まれているとはいえ、彼女はまだ小さな子供にすぎないのだ。
 どうにかしたいのに、何も出来ない。恐ろしい力を持っていながら抵抗する事も出来ない。ひたひたと水位を上げてくる液体。追いつめられて瞳をゆがませる。
 ふっと、不意に何かが意識に触れてきた。
「……え?」
 それは声だ。この男の手によって命を弄ばれ、死んでいった者達の声。
 ――仇を取ってくれ。その力があるのならば。
 理解した途端、身体に力が溢れ始める。これは自分の意思ではない。先程と同じだった。人に他人に身体が支配されて行く感触。――操られているのと同じ
「わたしは、兵器なんかじゃあっ!」
 叫びも空しく、自分の腕が前に伸びる。
 音もなく崩れたのはガラスの壁。静かだけれども無視できない変化に命を弄ぶ男は気付いていない。
 そして、閃光ではない穏やかな光が、全てを押し包んで行った。
 少女は震えた。
 ――殺した。
 他人に操られたとはいえ、自分の意志ではないと言い切る事はできない。殺したいと思ったかもしれない。けれど、少なくとも怒りを抱いたのは男に対してだけだ。
 突然飛び出してきて男を庇った女。
 最初は何が起ったのか分からなかった。誰もいなかったはずなのだ。巻き込む者など。いや、百歩譲り部屋のドアの前まで来ていたとしても、この女が異変に気付き、男の前に飛び出してくる暇など無かったはずだ。
 なのに、事実女は「あなた!」と叫んで、男を庇うように身を投げ出してきたのだ。
 それを認識し、飛び出してきた女まで殺してしまったのだと認めた瞬間、ひどい吐き気が彼女を襲った。肺腑を抉られるような嫌悪感と、恐怖。人を殺したのだという認識が自分を襲う。
 やはり兵器なのだ。
 どこが兵器ではないのだろうか? 他人の意志のままに動いてしまった事が証明している。そして自分は迷いも無く彼らを殺してしまった。――迷いもなくだ。来ないでいた魂達が、当然のことをしたまでじゃないかと訴えかけてくる。
 当然? いや絶対に、そんな事は絶対ない。
 涙が溢れてくる。けれど泣く権利が何故自分にあるのか。自分が殺してしまったのに。ぐらぐらとする頭のまま、童女から大人の女に成長してしまったような表情を浮かべて、ふらりと立ち上がった。
 急いで自分を消去しなくてはならない。こんな危険な物を放置してはならない。
 泣き声が聞こえた。
 この部屋の中からではない。もっと遠くの場所からそれは聞こえてくる。誘われるように歩を進め、彼女は研究室から出た。すると今までの無機質さが嘘のような、暖かな家庭の優しさを感じさせる空間がそこにはあった。声は部屋の奥の、樫の木材で作られた扉の向こうから聞こえてくる。
 そのまま彼女は扉を開けた。
 中で泣き続けていたらしい子供が、気配に気付いてそっと振り向く。ふくよかな頬と、赤い飾りのついた髪留めでちょこんと一部分を結んでいるのが可愛らしい黒髪の幼女。目が覚めた時に周りに誰もいない事に気付いて、寂しくなって泣き出してしまったらしい。幼女は、入ってきたのが母親や父親ではないのに驚いたらしく、目をぱちくりさせていたが、元々人懐こい子なのだろう。
 機嫌を治してにこっと笑うと、小さな両手をめいいっぱい広げて、立っていた彼女に飛びついた。
「にーた」
 その言葉が、脳裏に焼き付いた……。

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