第十ニ話:二つの組織
目次

 再び。あの培養液に満たされたカプセルの中に捕われていた。
 身体を侵食するようにつけられた管のせいで、息も出来ないのに、苦しさはない。その不自然さに生理的嫌悪感が募る。
 目覚めた時と異なるのは、目を閉ざすことが出来ないことだけだろう。
「君が都合で閉ざした記憶回路を開いてあげるよ」
 言葉だけなら優しげな早坂真夜の声を、フィラーラは抵抗も出来ずに聞いている。彼が自分をここに再び閉じ込め、コンピューターを操作し始めてからどれほどの時間がたったのだろうか。
 時間の、流れさえ分からなかった。
「お前を動けないようにするのは簡単なことなんだけれど。流石にお前が、お前自身にかけた高度なプロテクトを破壊するのは、てこずるね。まあ……一つ一つ難しいパズルを解いていくのは、楽しい作業ではあるけれど」
 爬虫類に似た冷たさの持ち主から、目を逸らすことができないまま、考える。あやふやな記憶が、盛んに恐怖を訴えていた。
(早坂……真……夜……。はやさか……博…士?)
 ――そうだ。
 堕ちた研究者とも、天才とも呼ばれていた男がいた。生物工学の才能を保持し、様々な成果を生み出していった科学者。その男の息子の名前が真夜といったはずだ。
 だが、何故こんなことを自分が知っているのか。
 考えると頭が痛い。
 プロテクトを破壊しているという真夜の行動に、関連してのことなのだろうか。今まで浮かんできたこともなかった事柄が、よぎっては、脳の中で消えていく。
 ――何故? 知っている?
 疑問の多さに戦慄を覚えた時、カプセルの中の液体が引いた。これで事態が好転すると思えるほど楽天家ではなく、眉をひそめると、視界の端で真夜が笑う。
 血液が凍り付いてしまうような、冷たい笑み。
「うっ……あぁっ !!」
 突如走った衝撃に、フィラーラは悲鳴を上げた。
 なにが起きたのかと考える余裕もない。ただ熱くて、苦しくて、心臓が破裂しそうだった。身体をまげたくても、そんなスペースはカプセルの中にはない。ただ、痛い。苦しい。
 腕に、首筋に、心臓に。取り付けられ管から、激しい電流を流れこんで来る。それらが人体を構成する水分、ようするに血液中を我が物顔に駆けめぐって、破壊し、侵食し、破裂させる。
 当然のことながら、毛細血管はすぐに電流の侵食によって破裂した爪が鈍い音と同時にはがれる。皮膚はひび割れ、全身到る個所が血を吹いた。
 悲鳴をあげる力さえ失い、ぐったりとしたフィラーラを確認して、電流を流した張本人である真夜はカプセルをあけた。流した血の中に埋没する少女を、そっと抱き上げる。――残虐な行為には不似合いな優しい仕草。
 全身に傷を負い、衣服も身体も髪も全てが血にまみれながらも、少女は綺麗だった。怪我の痛ましさよりも美しさを感じさせるのは、命を感じさせぬ人形の可憐さに似ていて。
 真夜が嘲りの色を顔に浮かべる。
「最高傑作だね。君は。どんな時でも何があっても美しいままだ。まあ今はそんなことを論じている暇はないか。知ってる? フィラーラ。君は即死しない限り、君を構成する細胞達は、受けた被害を修復しようとするんだよ。まあ今まではそんな事をさせないように、君がロックをかけていたようだけれど、それはもう私が外してしまったからね。それに」
 昏い夢を見る瞳のまま、真夜は針のないタイプの注射器を、照明部分に掲げて反射させた。
「再生を始めようとする時はね、君の機能が無防備になるんだ。暗示とか、そういうものにも弱くなる。情報を記録している場所に新たな記録を注入したら、君はどうなるだろうね? 様々な命令情報を植え付けられたまま再生を果たすんだよ。君はね、今までしてきた事を思い出し、いま負った怪我の全てが直ったら」
 楽しくてたまらないと、真夜が笑う。
 フィラーラは何をなされるのかを察して、必死に逃げようとした。怪我のない場所を探す方が困難な状態であるにも関わらず。無論、それは無駄な足掻きだったが。
「君は、操り人形に戻るんだ。もちろん、君の意識は奪わない。意識があるまま、君は私の操り人形になる。そう、当初の目的通りにね。だってそうだろう?」
 ひやりと、フィラーラの首筋に触れた注射器の感触。
 こんなにも息が苦しくなかったら、フィラーラは悲鳴をあげたはずだ。
「私たちの手によって作られた生物兵器。その本来の目的のままに動いてくれなくては困るんだよ。例え君が否を唱えても、それは叶えられない。命令に背くのは不可能だ。主に命じられるまま、全てを抹消する兵器に、拒絶の権利など最初からないんだよ」
 真夜の言葉を否定する暇もなかった。
 首筋にあてられた注射器から、何もかもを侵食してくる液体が入ってくる。
 効果はすぐに訪れた。
 深層心理のもっと深い所に、潜り込まれる異物感。土足で全てを踏みにじられる嫌悪感もある。全てを壊されていく、この感覚!
「い……やだ……!!」
 真夜の腕に抱かれたまま、フィラーラは入らない力で頭を抑えた。
 思い出したくない。認めたくない。
 なのに無情な現実が次々と蘇ってくる。真夜の言葉を肯定する記憶ばかりが、奔流のような勢いで浮き上がってくる。
 知りたくなかった。
 自分が――人間ではなかったこと。
 命令されるままに、全てを抹消する能力を保持する道具であることなど。
 薄れゆく意識の中で、フィラーラは泣いていたかもしれなかった。


「本気で言っているのね、惺」
 金の髪をかきあげながらエリクルが尋ねてきたので、滝月惺は迷いを見せぬ強い態度で、ああ、と答えていた。
 この場に居合わせる者達全てが、固唾を飲んでエリクルと惺の動向を覗っている。
 エリクルは注目されていることを知っていたから、俯かなかった。
「惺は朱金の翼に組みするのね? 紺碧の炎を捨てるのね?」
 聞き返しながら、取り乱さない自分にエリクルは少しばかり驚きを覚える。
 復讐にのみ生きる目的を見出していた頃ならば、冷静ではいられなかっただろう。だが、今は違う。アレナの優しさと、フィラーラに命を救われた事実。それらに感謝している自分がいる。惺を愛している事にも、気付いた。
 復讐の情熱は、母の形見のルタールビーの指輪と共に砂漠の大地に埋葬した。
 エリクルの心情の変化に、惺は一瞬目を和ませ、言葉を続ける。
「言い訳かもしれないが、紺碧の炎を捨てるわけではない。ただ今の状態では、世界を救えないと分かったんだ。ようするにね、エリクル。紺碧の炎が主張する事は、今の時代には早すぎたんだ。この世界に再び平和が戻って、人が人らしく生きられるようになって始めて必要とされるものだった。そう、十年後の理想だ」
 一旦言葉を切り、ふさわしい言葉を捜そうと考えながら髪をかき混ぜる惺の仕種が、いつもと変わりない。それがエリクルには嬉しい。
「ようするに、惺は朱金の翼を利用するつもりなんでしょ? こんな言い方、赤の陸戦部隊のサラザード師団長の前でするものではないでしょうけれど」
 ちらと、エリクルは惺に続いて部屋に入って以来、黙ったままのサラザードを見やる。師団長である男は口を閉ざしたままだったが、その表情はどこか暖かかった。
「でもね、惺。私にはそれで理解できても、他の人には理解できないわ。朱金の翼が世界に平和をもたらした後に、軍事政権に対抗出来る力を民衆に持たせる為に活動するのだと訴えたとしても。現在の紺碧の炎のメンバーにしてみれば、朱金の翼に味方するというのは、単なる裏切りにすぎないのよ?」
 目つきも鋭く惺を見る。彼はエリクルの反論を予想していたらしく、静かに頷いた。
「分かってるのね。裏切り者の汚名を着ようともいいっていうのね。世界に普通の生活を取り戻させる為に、一番早い方法を見付けてしまったから」
 溜め息をつくと、エリクルはサラザードと同じく沈黙を守っていた少年、デアリードの灰色の瞳を見やった。
「こんなにも簡単に、組織を変えていいものじゃないって、思うでしょ? デアリード」
 尋ねると、少年は悩んだ顔をしつつも肯いた。珍しいほど真っ直ぐな気性の持ち主であるデアリードは、組織の裏切りなど許せない性格だ。
「というわけ。惺、そんなに簡単に分かったとは言えない。復讐の為だったにしろ、私は紺碧の炎の人々の命を預かっているわ。勝手に鞍替えしていいわけない。それから、サラザード師団長にも言いたいことがあるの。私、今回のことで色々分かったことがある。ヴェストで、私はあなた方がとても大事にしている人と会ったの。それは報告済みだし、もう捜索してくれていると思うけど、フィラーラを見て分かった。あの力がある限り、この時代にあっている組織は、朱金の翼なのだわ。時代が必要としているもの。それは、命を育む星としての地球の復活よ。それは分かる」
 自分自身を納得させるように訥々と喋り続け、エリクルは顔を上げる。
「フィラーラと私は、とても良く似ていた。別に沢山話したわけじゃない。でも分かったのよ。彼も復讐を考えていたんだって。私が復讐の無意味さを知ると同時に、彼もそれを知ったわ。私たちは裏と表だった。同じような経緯で、同じように組織を代表する者になって。同じように人々の命を預かってる。彼は命懸けで私を助けてくれた。前を向けと、命を無駄にしてはいけないと叱ってくれた。だから、私はユシェラ=レヴァンスを信用し、彼に命を預けようとは思えないけれど、フィラーラなら信じられると思ったの。だから、朱金の翼も信じようと思った」
 エリクルとフィラーラ。同じ悲しみを抱いた二人が戦場外で出会ったことで、一つの区切りが生まれた。
 だから頑張らなくてはいけないと思うのだ。復讐の為ではなく、本当に組織を預かる者として。
「惺。紺碧の炎の人々は、理想を理解していたわけじゃない。世界が良い方向に進むと変わると信じ、戦っていた。そう、私と惺を信じてね。紺碧の炎は一つじゃない。私たちを信じて戦ってくれる者と、本拠であるシャラシャーンの人間たちを信じるものの二通りだわ。だから、私は」
 決意をひめた眼差しをあげたエリクルの金色の髪が、光を受けて燦然と輝く。
 勝利の女神みたいだと、デアリードはふと思った。
「私達だけが真実に気付いただけだは駄目なの。巻き込んだ人々にも同じ物に気付いて貰わなくちゃ。もう小さな争いを繰り広げて良い時ではないと。早くこの世界に平和を取り戻さなくてはならないのだと、ね。だからこそ。サラザード師団長、お許しいただけます? 私と惺を紺碧の炎の人間たちの元に赴く事を」
 エリクルははっきりと願いを言葉を口にする。
 サラザードは笑むと、居住まいを正して膝を付いた。
「朱金の翼、ユシェラ=レヴァンス将軍よりのご伝言を申上げます。もし紺碧の炎の指導者達が、我々に力を貸すというのならば、彼らに指揮するべき軍と、全ての自由を与えるとの事。支配下に組み込むのではなく、連合軍の指導者としてお迎えせよと」
「……なんですってっ!?」
 絶句し、エリクルは説明を求めて惺を見やる。
 デアリードも呆然としている様子だった。
 争いつづけた二つの組織。かつては実力は均衡していたが、現在は完全に紺碧の炎が不利だ。負けている組織と、同格同盟を結ぼうと優勢組織がいってくる現実を、どうして簡単に信じられるだろうか?
 苦笑を浮かべているのは、惺だった。
「エリクル。ユシェラ=レヴァンスという男は、そういう人間なんだ。相手はもう、シャラシャーンを落としている。紺碧の炎は今後組織的な抵抗を行う事は不可能だ。という事は、俺達が朱金の翼を裏切っても、何の得にもならない。外からの応援がなければ俺達の反乱は意味を成さない。それよりも、ユシェラは俺達が持っている民衆の指示を、そのままそっくり取り込む事に利を見た」
「得? でも、全てが終わって、彼が軍事政権を打ち出す時、私たちは邪魔になるはずよ。こんな紺碧の炎としての力をそのまま与えていては、私たちが独裁政治に対抗する組織力をつけていく事は分かりきっているはず。なのに、なぜ? 平和になってから、私たちを一網打尽にするつもり?」
 悲壮的な未来を述べて見せる。青年は首を振った。
「俺も、最初はそう思ったんだ」
 惺は思い出す目になる。
 紺碧の炎のリーダー、エリクル=カーラルディアは紺碧の炎の人間たちを説きに行かせてくれと言うのであろうなと、あの時青年は自分に言った。
「はい。エリクルは、復讐の為に紺碧の炎に入ったと言い切るような娘ですが、本当は責任感の強い優しい娘です。己を信じて戦ってきた人間たちを見捨て、こちらに組するとは言わないでしょう」
 スクリーンごしに答えながら、惺は膝の上に組んだ手をしきりに右手を上にしたり、下にしたりしていた。ひどい緊張が落ち着きのない態度を彼に取らせるのだ。
 まるで遠いところにいる人間と離している気がしなかった。まるで差し向かいで話しているような気がする。
 想像と違う。それがユシェラに対しての感想だった。
 軍事政権構想を打ち立て、連合政府軍の八割以上を味方に引き込み、綺羅星のような一癖も二癖もありそうな才能の持ち主たちを自在に使いこなす人物。それはとてつもない威圧感を持った人間だろうと、惺は勝手に想像していたのだ。
 けれど、こうして話していると分かる。彼からは高圧的で傲慢な威圧感など感じられない。確かに余人を圧倒させる何かを持ってはいるが、それは決して人々を強制的に跪かせるようなものではないのだ。むしろ、自然と人々を己の懐の中に入れ、引き込んでしまうような暖かさだった。
 人としての器の広さが桁外れだ。エリクルにも、何時の間にか惹かれてしまう魅力を彼女も持っている。
 けれどその比ではない。
 どんなに贔屓目で見ても、エリクルにはこの男のようにここまでの軍を人柄だけで率いる事は無理だ。紺碧の炎レベルの、中規模の組織でなくては。職人気質の気難しい才能ある軍人たちを率いるのは、今のエリクルには無理だろう。
 けれど、ここまでまるで神そのもののような存在感を持っていれば、逆にこの男は孤独だろうとも思っていた。
 ユシェラを神のように慕うものも、彼の為ならば死ねると息巻く者も多いだろう。けれど、彼を朱金の翼のユシェラ=レヴァンスではなく、ユシェラという一個人を見て、親愛を示せる者がいるだろうか?
 友人になるなど恐れ多いと人々は引いてしまうだろう。彼の心に触れてくるものなど恐らくいないだろう。
 頂点に立つものは常に孤独だ。そんなありふれた言葉の信憑性を、惺は今確かめた気がしていた。
 ユシェラは苦い笑みを浮かべる。
「滝月君は日本人だったな。私の母も日本人だったよ」
 懐かしむような顔になって、脈絡なく言う。
 突然の言葉に、惺は顔を上げてしばらく相手を見つめ、笑った。
 ユシェラが自分の緊張をほぐそうとしたのだと分かったからだ。けれど上手い言葉が見つからなくて、そんな事を言ったユシェラという男は、どうやらあまり口が上手い方ではないらしい。
 笑みを浮かべたおかげなのか、あれほど自分を押し包んでいた緊張感が消えていた。
「今はもう、海の底に沈んでしまったあの国で、俺は生まれました」
 懐かしむような目で答える。
「一度、ゆっくり聞きたいものだな。わたしは、日本に行ったことがない。母から散々自慢話を聞かされていただけだ」
 言って、珍しく柔らかにユシェラは笑った。
 珍しいといえば、彼が自分から己の事を語るというのも珍しい事だった。やはり、紺碧の炎を今まで支え、幾度かは惺の作戦によって苦汁を舐めさせられた事があるという事実が、惺に対する興味を覚えさせるのだろう。
 だからいつになくユシェラは饒舌だったのだ。
「レヴァンス将軍。エリクルが紺碧の炎の者達も元に行くと言い出した場合、貴方はどうなされるおつもりなのですか?」
 ずばりと、核心を聞いて惺は表情を改める。ユシェラはすっと目を細めた。
「断る理由はないな。紺碧の炎の残存部隊と合流し、攻撃してきてもサラザードの部隊がそれを鎮圧する。まあそのような事にはならぬだろうがな」
「何故、ならないと?」
「君達は愚かではない。それは幾度か戦火を交えてみたから分かる。自分たちの置かれている状況を、世界の情勢を見極める力を持っていると私は判断している。そんな君達が勝てもしない戦をこれ以上続け、無駄に兵を死なせていくとは思えないからな」
 勝てもしない戦。
 言いきって見せる苛烈さに、惺はあらためてこの目の前の、秀麗な顔をした男が朱金の翼の最高指導者なのだと思い知らされる。
 溜め息が自然とついて出た。
 自分たちが戦いを挑んでいた相手の大きさを、今更ながらに思い知らされたからだ。
 ユシェラは惺がなにも口を挟まないのを見て取ると、言葉を続けた。
「出来れば、紺碧の炎に従う人々にも明日を見せたいからな。説得が可能である事を祈っているよ。それから成功の暁には、君達にはそのまま紺碧の炎を名乗ってもらい、同盟軍としての扱いを取らせてもらう」
「それはどういう?」
 困惑顔の惺の前で、ユシェラは椅子の肘掛けに肘を突き、指を軽く顎に置いた。
「簡単だ。このまま世界を朱金の翼の統治下に置き、独裁政治が始まったとしても、平穏に過ぎるのは最初だけだ。豊かになればすぐに人々は強圧的に支配されていると、いや強圧的に支配されていると思い込み始めるだろう。そうなった時に紺碧の炎があれば、君達は彼らの心をまとめ、新しい民主主義国家を作り出して行けるだろう? 無論民主主義が正しいとは限らない。連合政府が良い例だ。だが独裁政治が続き、私以外の人間が権力を握る時が訪れれば、権力者が権力に酔い、世界を支配し始めれば。それも恐いものだからな。民主主義の恐ろしさの比ではないよ」
 ユシェラが淡々と告げる。
 この男は知っていた。軍事独裁政治の弊害を。民主主義国家のほうが、ましだと思っていたのだ。けれどそれを作り出しながら世界を変えるのは不可能だから、彼はまず力尽くで、世界に平和を取り戻すべきと判断したのだ。
 これでは、自分達は道化だと惺は思う。ユシェラは考えを理解しない紺碧の炎の首脳部を、何度唾棄しただろうかとも思った。ユシェラは世界に再び平和が戻った後は、全てを紺碧の炎に託そうとしているのに。
 もし本当にこの場にユシェラがいれば、その手を強く握り締めたかった。
「必ずエリクルを説得し、紺碧の炎の人々に明日を迎えさせる事を約します」
 惺は強く肯いた。ユシェラは席を立つ。そして通信は終わった。
「エリクル。俺達は、俺達に出来る事を今しよう。信じていいはずだ。あの目は、信じていい目だった」
「惺、すっかりユシェラが気に入っちゃったのね。でも分かる気がする。フィラーラが命をかける人だもの。――分かる気がする」
 そう答えて、彼らはサラザードに合流地点などを約し、赤の陸戦部隊を後にしていた。去り行く姿を見ながら、サラザードは笑う。
「レヴァンス将軍。貴方という方は本当に計り知れぬ方ですな。紺碧の炎の両指導者を味方に引き込んでしまわれた。リドリ様。ご覧ですか?あなたのご子息は、あなたをもう超えている」
 随分昔に天上に旅立っていった男に声が届くのかは知らない。サラザードは赤の陸戦部隊に残るといいはったデアリードを促して、中に戻っていった。


 エリクルと惺はヴェストの街の北に進路を取っていた。そこには大きな窪地がある。かつては峡谷だったのだが、砂漠の砂が長年降り積もり、今は窪地程度の落差になっているというわけだ。足場は無論ながら悪く、風が強い日は必ずそこから砂嵐が生まれるような狂暴な場所で、好んで人が近付くような場所ではない。だからこそ惺たちはこの砂の窪地を紺碧の炎の合流地点に選んでいたのだ。
 朱金の翼と紺碧の炎の戦闘があった場所を抜けるとヴェストの街が見えてくる。その見えてきた光景に目を見張ったのは惺だ。
「……これは…」
 街は緑の樹木の中に埋もれていた。もし惺に空からこの街を見下ろす術があれば、その樹木が円形をした範囲の中だけにある事に気付いただろう。今分かるのは、町の上空だけが綺麗な青空をしており、しかもその青空が、円の形を描いていたという事だ。
 ぽっかりと、空に穴が開いたような光景である。惺が驚くさまを見てエリクルは笑った。
「フィラーラの仕業よ。この街を包んだ業火を消し止めようと、彼は力を使ったわ。天からは水が降り注ぎ、砂しかなかったはずの地面は豊穣の大地に変わった。失われた建物の変わりに木々が生えて、街を包み込んだ。奇跡はね、本当にあったのよ、惺」
 思い出すような顔をしたエリクルの表情に、一瞬悲しみの影が走る。
 まるで涙を耐えているように。その唇がアレナという名を呟いた事までは惺には分からなかったが、彼は何も問い正しはせず沈黙を守っていた。
 街を迂回し、軋む砂を押しのけて彼らは合流地点である砂の窪地に辿り付く。エリクルはサラザードから返却された空の色に染め抜かれた紺碧の炎の象徴旗を強く天に掲げた。
「全てはこの旗の元に!」
 謳うように高らかな声が、無人と思える砂漠大地を駆け抜けていく。しんと静まった静寂の時に変化が訪れるのをエリクルは緊張の面持ちで待った。そして。
「エリクル=カーラルディア?」
 声が聞こえてきた。
 惺がエリクルの背後を守るように動き、娘が振り向く。核の嵐の際に腐った右腕を自分自身で切り落とした逸話を持ち、紺碧の炎では唯一、軍出身である隻腕の男、クォーツ=アシュグレイがそこに立っていた。
「クォーツ。よく、無事だったな」
 惺が先に驚きの声を上げたのは、朱金の翼と紺碧の炎の戦闘で、彼が最も甚大な被害を受けた場所を指揮していたからだ。
 隻腕の男は彫りの深い顔に苦笑を浮かべる。
「それはこちらの言葉だ。参謀長殿こそ、戦死されたと、ヴェストの傭兵の手にかかったと聞いていたからな」
言って、残された左手で惺の肩を強く叩く。
「ああ、あの時か」
 確かにあれば危なかったなと、惺は呟いた。傭兵の男が自分の首を手土産に寝返ると叫び、銃口が定められた時には確実に死ぬと思ったのだ。にも関わらず、運は惺に味方しこうやって生き伸びている。
「銃口を向けられて、よけきれないと思った時は流石に駄目だと思ったさ。すぐに銃声が聞こえた。なのに俺は生きていた。痛くもなかった。驚いて周囲を見渡したら、朱金の翼のスナイパーが駆け寄ってきた。しかも大丈夫か? とか、叫びながらね」
 事実を語る惺の顔が赤くなる。クォーツは皮肉な笑みを浮かべたまま、エリクルはきょとんとした表情で、続きを促した。
「ようするにね、敵さんは俺を味方と間違えたんだ。戦闘は突然始まったから、俺は制服を着ていなかったし、この見てくれだから遠目からは味方が襲われてるとしか思わなかったのだと。その上、俺が敵だと気付いたらご丁寧に相手は説得してくれたよ。降参したほうがいい。下の人間が、戦闘に敗れたからって一緒に死ぬ必要はないってね」
 一瞬の間があく。それからエリクルとクォーツは互いの顔を見合わせて、笑い出した。隻腕の男などは腹を抱えだす始末だ。
「ようするに、うちの総参謀長殿は、どうみても童顔の坊やにしか見えない容姿の為に、紺碧の炎の総参謀長だなどとは全く思われなかったわけだ。それどころかその辺の一兵卒に間違われて、助けられたと。これはまた、傑作な」
 耐えられないと惺の肩をばんばん叩ながら男は笑い続ける。エリクルは笑いを堪えようと、口元を押さえていた。
「まあ、そのおかげで死なないで済んだんだもの。童顔な顔に感謝しなくっちゃね、惺。それから、クォーツ。実は、私――」
 重要な話をしなければならない。言葉を続けようとして、彼女は言葉をためらった。今年で四捨五入をすれば四十になるクォーツの目に浮かぶ色が、自分たちに対する絶対の信頼の色だったからだ。
 軽く唇を噛む。自分の決意は、彼らから否定され、もう一生クォーツがこんな瞳を信頼の心を寄せてくれる事が無くなってしまうかもしれなかったからだ。
 娘の心情を知ってから知らずか、隻腕の男は静かに笑みを湛えて見せるだけだ。
「クォーツ、心を静かにして聞いて欲しい。私たちが目指すもの、それを手に入れる為に最初に何をなすべきか考えて欲しい」
 いきなり本題を切り出せずエリクルが言うと、クォーツは何を分かりきった事をと言いたげな顔をする。
「まずはこの世界を平和にする事。それだろうな。それから朱金の翼を倒して」
 考え込む素振りを見せた隻腕の男の手を、得たりとばかりに娘は強く掴む。
「そうよ。まずは世界を平和にしなくちゃならない。なのに私たちは朱金の翼と戦って、折角の力を削減し続けているわ。それはおかしいのよ。この力を、今失ってしまってはいけないの。本当に世界が紺碧の炎の力を欲するのは平和になってからだわ」
「朱金の翼が全てを終わらせてからだと?」
 エリクルが何を言わんとしているのか。それをなんとなくではあるが理解して男が尋ねる。エリクルは小さく肯いた。
「そう。はっきり言ってしまえば、もう紺碧の炎に朱金の翼に勝つ手段はないのよ。それに彼らがこの世界を浄化する術を持っているというのは本当だった。だから」
 言って、エリクルは肩の下あたりまでになった金色の髪を風に靡かせて、胸を張る。
「紺碧の炎がこれ以上小さくなる前に、求心力を失う前に、私たちは一つの決断をしなくてはならない。利用できるものは利用すると割り切らなくては。そう。クォーツ。私」
 そっと振り向く。隻腕の男は息を呑んだ。
「朱金の翼に協力する事に決めたわ」
 紺碧の炎一豪気なはずの男が、よろめく。耳を疑っている顔をして、それからエリクルの顔を見、惺の顔を見た。
「どうやら、夢ではないらしい」
 嘆息して、クォーツは笑い出した。
 彼はシャラシャーンの上層部にではなく、エリクルと惺の能力に惚れ込んでいる男だ。その相手が決めた事ならば、どこまでも付いて行こうという決意はすでに随分前から彼の中にある。答えはすぐにでた。
「それにしても、大胆な結果だ。誰よりも朱金の翼を嫌っていた二人が、そんな結果を出すとは思わなかった」
 男が言うと、惺が笑った。
「クォーツが度々俺達に視野が狭いと、小言を言い続けた意味を理解したという事さ」
 おどけたような惺の言葉。それに笑みを返してから、クォーツはその場に跪き、胡桃色に輝くエリクルの瞳を見据えた。
「我らは貴方に命を捧げた。その旗を貴方が持つ限り、たとえ朱金の翼の中にあろうとも、紺碧の炎は貴方の下にある。さあ」
 立ち上がり、クォーツが身を一歩引いた。
 そこで、人々がエリクルを待っていた。
 決して多いとは言えないが、紺碧の炎に命を託している者達がそこに居る。娘は息を整え紺碧の炎の旗を手にし、前に進んだ。
「紺碧の炎は、今後朱金の翼と行動を共にする。時が来れば、我らは求める自由を得る為に動かなくてはならない。だからこそ今は世界に平和を、人々が生きてゆける大地を取り戻す為だけに戦う事を、今決めた」
 ばっと、将旗を振りかざす。
「それが許せぬ者がいるのなら、今、この場で銃を取り私を撃ち殺すといい。朱金の翼との戦いで命を落とした者達は多い。彼らの無念をはらさずに、朱金の翼と行動を共にする事が許せぬものもいるだろう。だから、許せぬものは銃を取れ」
 言葉を切ったエリクルの髪が、太陽の光を受けて眩しく光る。真摯な瞳が言葉を失う人々を睥睨する。
 それは一種の賭けだった。たかがその程度の言葉で人々が信じてくれるかどうかなど分からない。今はただ、エリクル=カーラルディアという、自分の求心力を信じて祈るしか出来ない。
 人々の沈黙が、ひどく長く感じた。
 と…。わあっと、どこからともなく声が湧き起こった。最初は小さく。そして徐々に声は大きな渦となり、奔流に変わっていく。
 息を呑んで状況を見守っていた惺とクォーツの目前で、人々は不意に手にしていた武器を高く放り投げた。兵の誰かが叫ぶ。太陽の遣わした女神が紺碧の炎にある限り、我らに終わりはないと。世界に平和は訪れると。
 つっと、エリクルの頬に涙が伝った。
 自分を信じ、何も問わずに付いてこようと決意する人々がこんなにもいる。自分を許す人がこんなにもいる。
 エリクルは、腕が痛くなるのもかまわずに、高く高く紺碧の炎の旗を掲げ続けていた。

目次