第九話:星が降る町
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「なんてことないじゃないのよ」
 赤い唇を艶めかしく舐めながら、エリクルは呟いていた。
 無抵抗の人間を殺したことはなかったが、やってみれば簡単すぎて、罪を犯したという気持ちにはならない。ただ一つ気に入らなかったのは、自分を気遣うような目をしたまま倒れて行った娘のこと。
 誰だったのだろうかと思う。記憶にはない。
 目の前を鬱陶しく逃げ惑う人々の群れがよぎる。思考を中断し、装備を確認する。ナパーム弾。普通この手の武器は単発だが、これは二発撃てる仕組みになっている。
 見苦しい姿をさらす人々を、完全に排除できる。
 全てが消えていく有り様を想像する事と、消滅をもたらす絶対の権利を握っているのが自分だと認識するのは、ひどく楽しい作業だった。
 全ての排除を狙うなら、この場で撃つのは相応しくなかった。より多くの人が集まっている場所が良い。
 昂ぶる感情のままに、重いはずの砲身を持ち上げてエリクルは歩き出す。
 ふと、背後の建物から音がした。誰かが階段を駆け上がる音だろう。ならば地下からの出口である扉から出てきた瞬間に撃ち殺してやろうと思って、砲身をおろして拳銃を構え直す。
 赤い色が綺麗なはずだ。
 夢見るような視界の中で、扉は開いた。
「君が……!」
 現れた碧い色に、エリクルは理由もわからずに絶句した。
「エリクル=カーラルディア!?」
 驚愕する自分に追い討ちをかけて、相手は隠したはずの本名を叫んでくる。
 なぜだ? なぜ、相手は自分を知っている? しかも、動揺している自分が分からない。ひどく気にかかるのは、碧い色のこと。
 ちりちりとこめかみが痛い。
 ――碧。……朱金の……つば…さ?
 突然答えが脳裏に走った。復讐の為に追い続けた組織。親を、兄を目の前で失い、軍に入り戦ったあの日の情熱。負けが続く現実の悔しさ。
「フィラーラ=シェアリ!」
 叫んだ行動がきっかけになり、怠惰な狂気から意識が目覚める。
 現れたのがフィラーラならば、全て合点がいった。名乗らない本名を知っていたことも、こんなにも自分が衝撃を覚えたことも。
 興奮でか手が震えたが、構わずトリガーをひくべく指に力をこめる。
 けれどエリクルの動きを察知して、少年は身を屈めた。照準が付けにくい。エリクルが舌打ちする間もなく、相手は動いてナイフを投げつけてくる。
「……つぅ!」
 ナイフの刃でなく、柄の部分がしたたかに手の甲を打った。僅かな悲鳴と共に銃を取り落とす。呆気に取られたが、すぐに気力で顔を上げる。
 冗談ではない。この程度のことで、滅多に訪れない絶好の機会を無駄にするわけにはいかないのだ。睨むエリクルの瞳は生気に満ちており、場違いだが美しかった。
 復讐の情熱は質の悪い安物のワインに似ている。かつてエリクルに言ったのは惺だ。さりげなく、それを生きる支えにはしてはいけないとたしなめてきた彼。けれど何が残るだろう? 復讐の思いがなくなったら、一体何が?
 虚しくとも、何も得るものがなくても、自分には復讐しかない。捨ててしまったら、途端に罪の意識に押し潰されるだろう。復讐の為に象徴を演じ、人々を騙し、道具として使い続けたその罪に。
 だから考えない。復讐だって止めはしない。
「フィラーラ=シェアリ! まさかあえるなんて思わなかったわ! まさか貴方がこんな所にいるなんてね。 幸運ってこういう事をいうのかしら!」
 意気込んで叫んだはずの声が、なぜか悲鳴のようだった。エリクルは驚いて唇を抑える。戦慄なら分かるが、これではまるで助けを求めているかのようだ。
 手まで震えている。何かの繰り返しを防ごうとするように。
 ――繰り返し?
 浮かび上がった言葉に困惑して、エリクルは眉をひそめた。
 そんな覚えはない。繰り返してはならない事を、した覚えは。記憶にだって無い。
 ――き・お・く?
 痛い。頭が、いきなり割れるように痛みを訴える。なにかを警告するように。
「これが幸運だって?」
 至近距離から声。しまった、と思ったエリクルの手が取られる。
 迂闊だった。敵を前に自失したのだ。隙を敵が見逃してくれるわけがない。どうにかして振り払わねばともがいて、相手の顔が見えた。少年とも少女ともつかない相手の顔が、泣き出しそうに歪んでいる。
 思わず息をのんだ。これは、敵を前にした時の顔には余りに遠い。
「……僕を」
 うめくような、訴えるような、悲鳴のような、そんな声を少年が搾り出す。
「僕を呼び寄せたのは、この炎だ! 全て焼き尽くす紅蓮の炎!! こんなのが幸運だって? 大量に人を殺し、犠牲にされた出会いなんかが幸運なもんか!! 偶然でもなんでもない、お前が今を生み出したんだ! ここに僕を呼び寄せる状況を!!」
 叫ぶと、少年はエリクルの身体を前に押し出す。彼女が今まで背を向けていた、燃え盛る炎の悲劇の前に。
「こんなののどこが、幸運だって言うんだよ!!」
 心さえも抉ってゆくような絶叫が、エリクルの耳に、心に、魂に痛い。
 手を掴まれて、弾劾されて、エリクルは現実を見る。
 町は燃えていた。視界に広がる紅蓮の炎が、すべてを舐めつくし、消し去ってゆく。
 ――これは、なに?
 認識が上手く行かない。何が起きたのかを、必死に頭の中で模索する。
 けれど答えが見つからない。縋るように少年を見たが、唇を噛み締めているだけで答えはくれそうになかった。だからもう一度、答えを求めて悲劇を見つめる。
 ――責められているのは、私だ。
 それはわかる。だが責められる理由がわからない。悲劇に自分が関与しているとでもいうのだろうか?
 がたん、という音が響いて、先程少年が出来た扉が再び開いた。力を失った娘を腕に抱いている。
 目に、痛い。
 その光景が、間違いない死者を抱く少年の姿が脳に激痛を走らせる。
 直視しようとすればするほど、痛みは強さを増していく。だが、どうしてもそれを見ねばならぬ気がして、エリクルは少年と死者を凝視した。
 ひどく懐かしくて、胸が締めつけられるような思いがした。分からないのに。
 何をしたのだろうか?
 自分は一体なにをして、何を忘れているのだろう。
 分からないのに、駆けよりたい衝動にかられた。その女性に駆け寄って、すがり付きたかった。知らないのは記憶だけ。感覚はこんなにも知っている。
「ア…レナ…?」
 無意識に付いて出た名詞を口にした途端、なにかが心の中で弾けた。赤、黄色、青、緑。様々な色が網膜に激しい衝撃を与え閃光となる。
「え……?」
 終息した光の中に、自分がいた。
 髪にあてたタオルをぱさりと床に落として、呆然とした表情をしている。未来にでも来てしまったのかと思ったのは、それが己の記憶に無い「自分」だったからだ。
『惺が…死んだ?』
 記憶にない自分の声に、エリクルは目を見張った。
 知っている。この、光景を。知っている!
 ――まさか。
 どくん、と胸が跳ねる。
 知らないはずなのに、衝撃に備えて体がこわばる。 ――まさか、まさか、この光景はっ!
 冷や汗を流すエリクルの目の前で、再び閃光が走った。
『……感情は消したの』
 暗闇に閉ざされた世界の中で、二年前の自分が呟いていた。手で何かを示している。それを追って、エリクルは忘れられぬ惨劇の光景を見た。
 突然の出来事、突然の孤独、突然の恐怖。
 泣き喚く事も出来ず、ただただ呆然とそれを眺めたあの日がそこにある。
 衝撃が大きすぎて、凄絶すぎて、壊れて行く自分の心をエリクルは感じていた。
 たとえば孤独が嫌だとか、寂しいとか、命が大切だとか。――愛することだとか。ごく当たり前の感情を持ったまま、生きていく自信はなかった。
 感情は壊すことが出来たけれど、生きる目的は見つけられなかった。だから、恨むことにした。自分をこんな立場に追いやった者達を。
 復讐という名の、唯一の逃げ場にのめりこんだのだ。
 平気だった。
 紺碧の炎の女神としての自分が一人歩きをし始めて、偶像としての「エリクル」を求められるようになっても。寂しくなかった。
 理解されなくてなにを悲しむのだろう? 感情自体を壊した偽りの自分が。
 なのに、滝月惺が現れたのだ。
 連合政府の研究所の一つを開放した際に、出会った人。
 自分が紺碧の炎のエリクルだと気付かないで、紛れ込んだ普通の娘なのだと思いこみ、声を掛けてきた早とちりな人。
『哀しい事があったら、泣いた方がいい。そんなに辛そうな顔で耐えているより』
 いきなりそんな事を言って、心配そうに自分を覗き込んできた彼の顔は忘れない。
 自分の正体を知った後も彼の態度は変わらず、時には怒られたり、思いっきり心配をかけたりもして。
 嬉しかったのだ。そう、どうしようもないほど。
 何をしても、何をやっても、惺は自分を見ていてくれた。彼だけが自分を普通の娘と同じように扱ってくれた。
 凍り付かせた自分の心が、少しずつ溶け出しているのにも気付きはじめて、惺の存在が何よりも大切なものに変わり始めたその時に。
 紺碧の炎壊滅の知らせを――聞いた。
「そう、そうだ! 私は惺が死んだと聞いて! それで何もかもが嫌になって、この世界そのものが私から全てを奪っていくものなんだって思って!」
 弾けるように叫び、頭を押さえる。エリクルは確信した。これは未来はない。過去だ。
 だからさらに叫ぶ。
「だめ、だめぇ――っ! 止めて…アレナを殺さないで! いやぁぁぁ!」
 伸ばした手は過去の自分に触れたけれど、まるで霧をつかむかのようにすり抜けて。
 非情にも響き渡ったのは銃弾の音。
 膝の力が抜けて、倒れそうになる。
 だが、体は支えられた。顔を上げて、フィラーラが自分を支えているのを認める。それを認識すると、過去の映像は消えた。
 かわりにあるのは、質の違う、けれど同じ悲劇の――現実。
「私だったのね? 私が全て壊してしまったのね?」
 呟いた自分に、フィラーラが肯く。
 慰めもしない彼が、逆に優しく感じた。
「でも、でもっ」
 惺はいない。アレナも殺してしまった。
 ただ信じたくない現実から逃げる為に、狂気に身をゆだねて殺してしまった。
「いやよ。こんなの、いやよ、いや……」
 うな垂れたエリクルを、フィラーラは座らせる。しばらく敵である少女を見つめていたが、思い出したように彼は振り向いた。姉を失ったばかりのデアリードのことが心配になったのだ。
「デアリード、お姉さんを……!?」
 連れて街を出た方がいい、と言いかけてフィラーラは寒気を覚えた。ひどい殺気。――茫然自失したはずのエリクルから。違う、狂気か?
「エリクル!!!」
 振り向いた視界の先で、エリクルは凄絶な笑みのまま街を紅蓮の中に突き落とした武器を手にしていた。琥珀色の瞳は濁りをみせて、正気を失っているのが分かる。自殺でも考えたのだろうが、持っている武器の始末が悪すぎた。
「駄目だ!」
 このままで、エリクルだけでなく、かろうじて助かった人々まで死んでしまう。
 とにかく彼女が手にする武器を奪おうと走りかけて、再び彼は殺気を受け取った。
 視界の端に、ナイフの鈍色が禍禍しく光る。
「デアリード!?」
 アレナを降ろした少年が、凶器を握りしめて走りだしていた。その時、フィラーラは庇おうとか、守ろうとか、具体的なことを考えた訳ではなかった。
 ただ身体が動いたのだ。
「……くっ!!」
 だから訪れた衝撃に、フィラーラは馬鹿みたいだが驚く。
 自分の身に何が起こったのか分からない。ただ、痛みと熱さが不思議で仕方ない。
 灼熱感と、ひどい寒さ。それが同時に襲ってくる現実に、フィラーラは首を傾げる。腹部にめり込んだナイフや、それを掴む手が震えている事も、不思議でならなかった。
「……フィラーラ……?」
 呆然としたデアリードの声。人を刺したら呆然とするのも仕方ない、などと思っても見る。どうにか彼を落ち付かせなくては、とも思った。
「デアリード…気持ちは、分からないでも、ないけどさ。アレナは、なんて、言ったんだよ?」
 口を開いて初めて気付いた。苦しくて、長く喋ることが出来ない。鈍い痛みは身体中に広がって来て、息が切れて、力が抜けて行く。――倒れる、と彼が思った時には、バランスを崩したフィラーラをデアリードが抱きとめた。
「フィ、フィラーラ? どうして、なんでお前が出てきたんだよ! アレナの仇なんかを、なんで庇ったりなんかするんだよ!」
 デアリードの声が、理不尽な現実と混乱に怒りを帯びていくのが良く分かる。だからフィラーラは皮肉っぽく笑った。
「仕方、ないだろ。身体が、勝手に、動いたんだからさ……それより…」
 離れそうになる意識を必死に手繰り寄せながら、フィラーラは慌ててエリクルを見やる。
 彼女は悲しい微笑みのまま何かを呟いていた。
 かなり大きな砲身を、自分自身にむけようと努力する様は、必死なだけに滑稽だ。
「エリクル、それを撃つなぁ!」
 視界が震える中、フィラーラはデアリードが腰に装備する銃を素早く引き抜き、構えていた。
 エリクルの指はトリガーにかかる。
 そして、鈍い銃声が響く。
「嘘……」
 エリクルは生きていた。
 けれど劫火は再び街を包み込み出す。
 悲劇を生み出す為に。
 フィラーラが放った銃弾は、エリクルの手元を弾いてナパーム弾を取り落とさせたけれども、大地に落ちた衝撃によって、発射されてしまったのだ。
 エリクルは泣きながら笑った。
 何故、自分が生きているのか。何故、生きるべき人が死んで、死ぬべき自分が生きるのか。おかしくて、滑稽で、笑いが喉から突き出てとまらない。
 建物が炎を拭く。
 火の粉を受けて絶叫をあげる人物がいた。
 子供の名をよびながら、既に死んだ子供を引きずって歩く母親もいる。
 街をとりまくのは、悲鳴と、恐怖と、絶叫。
 デアリードに支えられながら、リアルに繰り広げられる惨劇の光景に、フィラーラは精神の均衡を崩した。
『お兄ちゃん、熱い、熱いよ……』
 蘇ってくる、起きている、悲劇があまりに悲しい。
「……リー…ア。……う…うあぁぁっ!! !」
 叫んだ自分と、全てが白く消えていく感触をフィラーラは感じていた。
「……フィラーラ?」
 突如彼の腕の中から広がった白い閃光に、弾かれて背後に転がりながら、フィラーラの名前を呼ぶ。
 光と、風に包まれて。
 少年は眼差しを半ば伏せて、しっかりと両足で大地を踏み締めて佇んだ。風に髪を揺らせながら、フィラーラは両手を広げる。
 彼の手中から生み出された閃光は柔らかな光の粒子となって、町を、逃げ惑う人を、デアリードを、そして深い哀しみと狂気に囚われたままの娘を包み込んでいく。
 あくまで優しく、儚く、穏やかに。
 天が割れた。
 再び強い閃光が起きたかと思うと、それが大気を引き裂き、天を二分したのだ。
 高く高く、どこまでも高く続く光。
 光の行く末を追って、天を仰いだデアリードは星を見た。広がった天を飾り続けてきた、光輝く天の花。
 呆気に取られて見上る顔に、ぽつりと何かが触れる。
「み、水?」
 澄み切った星空から落ちてきた水。雲一つない空から落ちてくる雫たちの姿は、星そのものが天から降りしきって来ているように、不思議で美しい光景だった。
 きらめく水を受けて、エリクルがふらりと立ち上がる。
 眼差しから狂気の色が消えていた。
 あるのは深すぎる悲しみの色だ。多くの命を巻き込もうとした自分に対する激しい怒りと、生き延びてしまった哀しみ。
「悲しいくらいに、綺麗ね」
 デアリードはエリクルの声に驚いて振り向いてから、もう一度驚いた。
 ヴェストの街の人々、そしてアレナの命を奪った娘を目の前にしているというのに、先程のような激情が産まれてこない。まるでフィラーラが発した光が、激しい熱と感情を奪っていったかのようだった。
「この光が、俺達の激しさを奪っていったんだ。そうじゃなきゃ、こんな穏やかな気持ちになるわけが」
「ひどいわ。そんなの」
 吐き捨てて、娘は額に張り付いた髪を細い指で払う。常に活気に満ちた強さを放つ瞳が今は沈鬱に沈んでいた。
「生きていられるわけない。自分の寂しさを認められないで、狂気に走り、現実から逃げた。それだけじゃない。その為に一体何人の人を犠牲にしたのか」
 覚えている。銃が命中した時の鈍い手応え。ようやく手に入れた幸せから、恐怖のどん底に突き落とされた人々の悲鳴。――銃弾に貫かれながらも、自分を心配して微笑みながら倒れていった赤い髪の優しい娘の事。
「……生きて、いられるわけが」
 小刻みに震える体を押さえつけて娘は言い募る。
 デアリードは何も言わなかった。流石に慰める気になれなかった。罵倒する気にも、なれなかったけれど。
 青い光はただ街を人を守るように煌くだけ。
 立ち去り、命を断つしかない。そう思って立ち去ろうとして、エリクルは眉をひそめた。――足元に広がった赤い色がある。
 屈んでその色に触れて、慌てて彼女は顔を上げた。
 光を発し続ける少年の異変にエリクルは気付いた。フィラーラの足元に出来た赤い色の池。
「確か――」
 そうだ。フィラーラは、自分に向けられた凶刃から身を盾にして助けてくれたのだ。鈍い音と共に視界が赤く染まったことを覚えている。敵である自分をどうして助けたのかと、疑問を持つ余裕はあの時はなかった。
 そしてそれは今も同じだ。そんな事を考える余裕はない。変わりにデアリードの腕を掴んで叫ぶ。
「いけない!!! フィラーラをとめるのよ!! 死んでしまう、このままじゃ!」 
「え……あ、ああ!! フィラーラ!!」
 怪我をさせた事実を、奇跡に呑まれてデアリードは失念していた。それを唐突に思い出させられて、パニックを起こす。そんな彼の頬を叩くと、エリクルは眦を上げて叫んだ
「後悔なんて、あとでいくらでも出来るわ!! 今しなくてはならないのは、彼の命を失わせないようにするだけ! 出来る事をしなくちゃいけないのよ! だから早く、彼をとめて! 私では、風が強すぎて、近寄ることも出来ないのよ!!!」
 一息に叫びきったエリクルの言葉に、デアリードの目に理性が戻る。同時に、フィラーラが、ゆっくりと伏せていた瞳をあげた。
 何か言いたげに唇が開いたが、結局音はこぼれないで、そのまま前のめりに崩れた。
「フィラーラ!!」
 慌てて二人が駆け寄って、フィラーラを支えた。
 光が消える。
 べったりと流れ落ちる鮮血が、支える二人の腕と身体を容赦なく濡らしていった。
「なんであんな無茶をするのよ! 死ぬべきなのは、私なのに!」
「死ぬのは、なしなんだよ。そんなのは卑怯だ。生きてなきゃ、なにも償えない……なにも作れないんだからさ」
 眉をしかめながら、フィラーラが言う。
 必ず出会うことが出来たら殺してやろうと思っていた相手にそんな事を言われて、エリクルは唇を噛んだ。どう答えればいいのか分からない。
「アレナは、エリアを助けてって、言ってたんだ。君は、それを、叶えてやらなくちゃならない。それが、君が殺した人の、望み、だったんだからさ」
「アレナが? そんな事を?」
 永遠に瞼を閉ざしてしまったアレナ。まるで眠っているような彼女に視線をやって、エリクルは顔を覆った。目の前がぼやけてくる。涙を流しているのだ。この自分が。
 涙を流す事など忘れたと思っていのに。
 どうして、失ってから気付くのだろう。
 自分はこんなにも一人ではなかったというのに。復讐を考えなくても、生きる目的を与えてくれる人はこんなにもいたはずなのに。後悔するのは一番嫌い。そう断言していた自分が後悔している。
「君は、それに答える、義務があるよ……」
「孤独に絶えながら生きろと? 誰もいなくなってしまった世界で生きろというの? なんて、なんて罰」
 八つ当たりぎみに小さく叫んで、首を振る。フィラーラは言葉を口にせず、苦しげに眉をひそめて娘を見守った。慰めの言葉を言って欲しくないと思っているのがエリクル本人だと、分かっているのだ。
「それに貴方にまで助けられて。復讐の相手の片棒を担ぐ貴方だから、殺してやろうと思ってたのに」
 復讐の思いすら奪われてしまった、という愚痴を飲み込みフィラーラの顔を見詰めようとして、ふと彼女は振り向いた。
 誰かがいる。そんな気がしたのだ。
「……? 誰、そこにいるのは?」
 眉を吊り上げて詰問する。水に濡れた瓦礫を踏む音して、男が崩れた建物の影から出てきた。人懐こそうな笑顔を浮かべている。
 苦痛に揺れる瞳を見開かせ、一瞬フィラーラが震えた。
 まるで怯えているような瞳だった。それにデアリードやエリクルは気付かなかった。ただ、怪訝そうに突然出てきた相手を見詰めている。男は三人の視線に臆する事もなくゆっくりと歩いてきて、フィラーラを抱いたままのデアリードの前に立った。
「大丈夫ですか? 怪我をなさっているようですけれど?」
 にこにことした顔に心配げな表情を浮かべて、男は言った。それから私は医学の心得があるので、見て差し上げますともいった。
「ああ、でもここではね。こんな時代ですから、ろくな治療道具もありませんが、ここよりはましでしょう。私の家に行きましょう。ところで、この水は飲めると思いますか?」
 突然不思議なことを尋ねられて、デアリードがきょとんとした顔をする。馬鹿にされているのかと思いつつも飲めるんじゃないかと返事をした。
「それはよかった。では、私はこの方を連れて先に戻りますから、あなた方は水を持ってきてくれませんか? なにしろ、水は貴重ですから。出来れば治療にも使いたいですし」
 二人は困った顔を見合わせる。
 男はそれを肯定と勝手に受け取って、自分の家の行き方を説明すると、フィラーラを抱えて歩き出して行ってしまった。
 どうも腑に落ちない。後味が悪い。
 そう思えて仕方ないのか、デアリードとエリクルは幾度も首を傾げ、去っていく後ろ姿を見つめる。――呆気に取られて追いかえることさえ忘れていた。
 そして、エリクルとデアリードの視界からまだ彼らの姿が消えきっていない頃、男は浮かべていた笑顔をふと消した。
「……本当、綺麗に化けているものだ。探しにくかったわけだね。フィラーラ?」
 名前を囁かれて、少年は震えた。
 本能的な恐怖が身体を突き抜けて、身体中が総毛立つ。
 知らないはずのこの男が恐かった。
 男はくすくすと笑いながら、青ざめたフィラーラの顔を見詰め、そっと手を少年に刺さったままのナイフの柄に添えてみる。
「何も覚えてないのか? 私の事も? 自分自身の事も? 傑作だな。面白いよ、フィラーラ。おまえは、自分がした行為も正体も忘れて、人間のふりをし続けていたのか?」
「……何を…言って…?」
「まあいい。事実はいつかは分かるものだ。そうそう、一つだけ今、分からせてやろうか?お前の本当の姿。こんな化けてる姿じゃない。そのほうが綺麗だしね」
 可笑しくてたまらないというように笑いながら、けれど男の目は笑っていない。
 その目をフィラーラは知っている気がした。
 どこかで。そう、昔だ。
 記憶を探るように目を細めたフィラーラの顎に軽く指をおいて、男は顔を近づける。
「綺麗だよ? 人々の願望を取りいれて作りだされた、完全な容姿なんだから」
 不可思議な言葉をつづりながら、至近距離で男はまだ笑っている。
 フィラーラは薄れそうになる意識と戦いながら、相手を睨みつけるだけで精一杯だった。
「簡単だね。本当に命に関わるような怪我を負えば、姿を偽る為に力を使ってなどいられなくなる」
 左手で少年の身体を抱え、顎に触れていた右手を動かす。男はまた禍禍しく刺さったままになっているナイフの柄に触れた。
「たとえば、そうだな」
 激痛が、灼熱感が、凄まじい勢いで身体を貫いた。
「く……ううっ…!」
 声にならない絶叫。
 血が沸騰し、逆流する。景色が真っ白になる。
 苦痛に歪む少年の顔を表情一つ動かさずに見つめながら、男の手は動いている。ナイフに力を加え、それをねじ込み、さらに深く抉る血塗れた右手が。
 くすくすと笑う男の声が遠くなっていく。
 意識が闇に包まれる代わりに、身体は発光を始めた、。最後の力を振り絞って、助けを求めて名前を呼ぶ。けれど叫びは声にならず、少年の身体の力が抜けた。
 強くなるのは、身体を包む光。
「ほら」
 光が消えた。
 腕の中から、少年の姿も消える。
 代わりに、デアリードが助けたと主張するあの少女が、意識を失っていた。
「思い知らせてあげるよ。君がやってきた事、その罪の重さをね。ゆっくりと、思い知らせて上げるから」
 陶酔した瞳のまま、囁いて彼は少女の青ざめた頬にさも愛しげに口付けをし、男は足早に去った。
 デアリードとエリクルの目の前から。
「やっぱり変よ。なにかが引っかかる。まるで取り返しのつかない事をしてしまったような、そんな気持ちになるのよ」
 エリクルの声が、水に濡れたヴェストの町に響く。やはり追いかけようと駆けだした時、不意に騒がしい音がした。多くの人々が歩く音だ。
 デアリードがエリクルの腕を掴み、とある方向を示す。――翻っていたのは、紅の旗。
「朱金の翼!」
 エリクルの腕を取っていたデアリードが、突然彼女が走りだしたことに驚いて、バランスを崩した。
「なんだよ、いきなり走るな!! どうしたんだよ、朱金の翼が来たからって、なにかあるのか?」
「……気付いてなかったの? いいから離して! 朱金の翼に捕まるわけには!」
 言っている間にも旗は近づいて来る。
 そして。
「エリクル=カーラルディアなのか?」
 声が聞こえる。最早、顔を背けても意味はなかった。
 周りは囲まれてしまっただろう。
「赤の陸戦部隊。サラザード=アル=ゼゼンっ!」
 相手を睨み、毅然と言って見せる。
 風が吹いていた。

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