第八話:運命が出会う刻
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 かなりのスピードで前を歩く人物を、デアリードは追っていた。
「謝るから! せめて口くらいきいてくれってば!」
 幾度となく呼びかけているのだが、全く効果がない。追っている人物と自分との距離は手を伸ばせば届く程度だったが、掴んだりはしなかった。
 実は既に一度、肩をつかんで思いっきり手を振り払われていたのだ。
「しょうがないだろ!! 本当に女の子にしか見えなかったんだっ! む、胸。いや、それはその……まあいいとして、見えなかったというよりも、絶対に女の子だった! 俺は命懸けで男を助けたりするもんか!」
 威張って叫んでから、慌ててデアリードは口を抑える。
 これでは全然弁解になっていない。機嫌を直すどころか、より怒っただろうと様子を覗った。罵声は飛んでこなかったが、大きく肩を落としている。
 綺麗な横顔を見つめて、デアリードは少しすねた。
 なにせ女だった絶対の自信がある。
 間違えるわけがない。
 夢のように綺麗だった人の性別を、誰が間違えると?
「でも、今は」
 少女は確かに居た。
 けれど今はいない。消えてしまった。
 木々の間から降り注いでいた光と、彼女自身を包む青い光の残滓に彩られた眠り姫が目を覚ましたあの時に。
 眼差しを開いた少女の奇跡のような瞳は、デアリードを見ていた。
 見つめられて当然慌てた。何か言おうとした時、消えたはずの光が再び閃光となって周囲を制覇する。
 眩しくて、デアリードが一瞬目を閉じて。
 再び目を開ければ、もう少女は消えていた。
 かわりに、上体を起こして不思議そうに自分を見てくる相手がいる。
 夢のようだと感じさせた美しさとか、神秘的な感覚に変わりはない。だが。
 ――そこにいたのは少年だった。
「なっ ど、どんなトリックを使ったんだよ! お前、どうやっていきなり男装したんだ!? 胸までなくなってるし!! なんだよ、これっ!」
 取り乱して叫んだデアリードは、いきなり相手の胸の上に手を乗せる。
 妙な言いがかりをつけられた上、いきなり胸の上に手を置かれて愉快なわけがない。少年は怒気に顔を染めて叫んだ。
「なにが男装だよっ!! 僕は最初からこうなんだっ!」
「違う! そんなわけあるもんか!」
 少年の必死の叫びを間髪入れず否定して、デアリードは相手の腕を握りしめる。
「絶対に君は女だったんだよ! 隠す必要なんてないじゃないか!!」
「いい加減にしろっ!」
 まくし立てるデアリードに罵声をあびせて、ついでに取られていなかった手で相手を殴りつける。力の乗った良い攻撃にデアリードは頭を抱え込んだ。その隙に少年は立ちあがり、走り出す。
「あ、待て、待ってくれってば!」
 火花の散りそうな頭を抑え立ちあがって、走り去る少年を追う。
 そして無言の追いかけっこが続くという、今の状況になったのだ。
 口すらきいて貰えないことに辟易して、何度もデアリードは謝っている。が、機嫌を治す気配は無い。どうやら上辺で謝っていることがばれているらしい。
 当たり前だ。今尚、デアリードは少年が少女だったと信じている。だが、確かに男装しているわけでもない。
 ――矛盾だ。
 少女と少年は同一人物だ。それは雰囲気で分かる。
 どこかアンバランスな不安定さ。悲しくて、切ないような感じ。だから支えて守りたいと思うのに、それをしてしたら拒否される気がする。触れただけで焼き殺されてしまい、なのに触れなければ相手が死んでしまうような。
 だから信じてしまう。矛盾だと分かっていても、この相手は少女なのだと。
「せめてさ、名前くらい教えない? いくらなんでもこれはないだろ? 一応俺は君の命の恩人なんだからさ。あのまま俺が何もしなかったら、高いところから落ちて、全身打撲でお陀仏だったんだからな!」
 やけっぱちで叫ぶと、デアリードはだっと駆けて少年の前に回り込んだ。
 むっとした顔になった少年だったが、歩みを止めた。
 どうやら命の恩人という言葉に反応したらしい。なんだ結構律儀な性格だったんだと思って、デアリードはにたりと笑った。そして妙に演技が買った仕草で一礼する。
「じゃあ、まずは自己紹介するよ。俺はデアリード=ガーズ。どうして君の命の恩人になるかっていうと、ちゃんと理由はある。君はね、天から落ちてきたんだ。青い光に包まれてさ。俺が確かめに行ったとき、たしかに光の中に君がいたんだ。でも、不意に光が消えて、君は落ちそうになって、慌てて手を掴みとって」
 大袈裟な身振り手振りを交えて、デアリードは説明を続ける。話す内に、少年は肩を震わせ始めた。まさかまた怒らせてしまったかと不安になって、デアリードが見つめなおす。
 笑っていた。なんと、相手は必死に笑いをこらえようとして、失敗していたのだ。
「何がおかしいんだよ」 
 ふてくされてデアリードがぼやく、耐えられなくなったのか、はばかりなく少年は声をだして笑い出した。
「だってさ、すっごい真面目な顔でそんな説明をするから。もう、おかしくって」
 息も絶え絶えなくせに、少年はまだ笑っている。デアリードは一度唇をとがらせたが、すぐに屈託なく笑ってみせた。
「ま、いっか。口もきいてくれなくて、怒った顔されてるよりはマシだしさ。それより、そろそろ名前を教えてくれない?」
 さりげなさを装いながらも、無視されたらどうしようかと考えているデアリードを見やって少年は笑う。ごくごく普通の、やんちゃな表情だった。
「フィラーラ。正真証明の男だから、期待はしないように」
 少年は、光の中にとらわれて姿を消したフィラーラだったのだ。
 デアリードが朱金の翼の人間であったのなら、どこに行っていたのだと質問を浴びせるところだろうが、彼はヴェストの人間だ。フィラーラという名前が朱金の翼の指導者の一人だとは知らなかったので、ふぅん、と答える。
「ふーん。やっぱ女の子でもよさそうな名前。って、嘘、嘘!! もう思ってないって。えっと、じゃあさ、フィアって呼んでもいいか?」
「やだ」
 気軽な気持ちでいったのだろうデアリードの言葉を、あっさりと否定する。
 呼んで良いのは一人だけだ。自分が持つ力も、中に潜んでいる残酷な存在も、すべてを知った上で受け入れてくれたユシェラがフィアと呼ぶから、余人に呼ばれたくはない。
 そんな事情など知らないデアリードは、最初こそきょとんとして彼を見つめていたが、すぐに肩を竦めて笑った。
「じゃあ、フィラーラでいっか。あのさ、フィラーラ。行く宛なんてないだろ? だったら、しばらく俺の所にいない? 食事ぐらい保証してやれるよ」
「食事を保証してやれる?」
 フィラーラが眉をひそめたので、デアリードは誇らしげに胸を張る。
「へへ、俺達はもう水と食料の問題に悩まされなくてよくなったのさ。この町はさ、ずっとレゼンて奴がいて、あいつが水と食料を一人占めにしてたんだ。悔しかったさ、目の前に生きる糧があるのに、俺達はそれを手に入れられないんだから。けどね、そんな俺達にもチャンスは巡ってきた」
 思い出すと今でも血がたぎるのか、デアリードは軽く身震いをする。逆に冷静な顔になって、笑みを消してゆくのはフィラーラだ。
 目の前の明るい少年は、ユシェラが暴動を起こさせうように計った民衆たちの、一人だったのだ。
 しかも食料の心配をしないで済むと言っている。ならば、暴動は成功したと考えて良い。だが一つ気にかかることがあった。
 ヴェストの実力者レゼンが居住する館は、武装外壁によって守られている。これを、訓練も受けたことのない一般民衆が、簡単に落とせたとは思えなかった。
 どうにも納得しきれずに、フィラーラは首を傾げる。
 デアリードは幸せそうな顔で話を続けていた。
「結局はさ、朱金の翼のおかげで勝てたようなものだったんだけどね。俺達だけじゃ、あの壁の前で全員死体になってたかもしれない。その意味では感謝してるけど、変な奴だったな。まるで風みたいな奴。気まぐれで、せーかくが悪いおやじ」
「………おやじ?」
「そうだよ。あれはどう見たって、三十こえてるみたいだったからな。だったら十七歳の俺にしてみれば、おやじさ」
「ふーん」
 不思議そうな表情のフィラーラを、デアリードは仕方ないよなあと思う。仮にも助けてくれた相手を悪く言っているのだ。だが、どうしても好意を持つことは出来ない。
 壁を壊すのに助力した男――デアリードは名を知らぬザナデュスが持つ、戦って何かを勝ち取ろうとしている者達を嘲笑う態度が。別に自分達を助けようとしたのではなく、依頼された仕事を果たしているだけだと言い放ったあの男。
 それは言い換えれば、こんな時代でも自分というものを強く持ち、自由気ままに生きていく力を持つ人間に対する嫉妬なのかもしれなかったが。
「ザナデュス=オルク……か」
 デアリードが知らぬ男の名を呟いて、フィラーラが僅かに笑う。
 確かに、ザナデュスの前でヴェストの民を利用するのは作戦上仕方ないが、全滅は防ぎたいと言った。それで、わざわざあの暗殺者は武装外壁を破壊しておいてくれたのだろう。
 願いを叶えたというわけだ。
「物好きな奴」
「とりあえず早く町に行こう」
 デアリードは言うと、フィラーラの腕を引っ張って走り出した。


 ヴェストの町から南西の方向に十三キロほど行った所にあるシャラシャーンのくぐもった空の下でも、苛烈な戦闘が行われている。紺碧の炎と朱金の翼。双方の明暗を分ける戦いなのだから、激しいのは当たり前で、多くの被害報告も上がってきていた。
 大地を駆け抜けるのは硝煙と、爆撃と、人の悲鳴だけだ。
 シャラシャーンの要塞を幾重にも囲む軍の中に、司令部が存在している。即席ながら、高度な通信機やコンピューターなどが設置されていた。その奥に扉があり、最高指揮官用の小さな部屋がある。
 部屋の中で、青年が瞳の蒼と同じ色に顔を染めて佇んでいた。
「レヴァンス将軍」
 名を呼ばれて、青年は初めて顔を上げる。
 青年――ユシェラ=レヴァンスの赤を基調とした軍服とは異なり、青を基調とした動きやすそうな軍服に、階級章をつけた男が入り口に立っていた。
 隼の目を思わせる鋭い双眸が印象的な男。レヴィア=カッシュ。青の空戦部隊を指揮する師団長だ。
 彼は空戦部隊の被害と、今後の攻略に変更はないかと指示を仰ぎに来て、この光景を目撃していた。彼の尊敬してやまない上官が、顔色を変え、焦燥と怒りとを混ぜたような表情をしている光景を。
 信じられず、声をかける事も出来ず、しばらく見つめていた。
 ユシェラは、レヴィアにとって全てと言ってもよい人間だったのだ。
 誰も頼れない、誰も信用してはならない。
 荒廃した時代の中で、ユシェラの周りにだけ清冽な空気が存在していた。佞人や奸人たちとも付き合い、それを利用ても、染められることは決してない人間。
 自己を持ち続け、確たる理想を目指し、彼は彼が定めた道の為に最善を尽くして行く。
 そんなユシェラはまぶしすぎて、自分には遠い存在だと思っていた。
 ――生き続けるだけの人生に、なんの意味を見出すんだ?
 かつて彼は、レヴィアにそう言った。
 荒れ果てた世界の中で、人間としての価値などを見出すことが出来ず、ただ生きぬく為に全てを歪ませて、捻じ曲がっていた自分に向かって。
 ――私についてくれば世界を変えることが出来る。それを見たくはないか?
 鮮やかに傲慢な台詞を言って、彼は手を差し伸べてきた。
 電撃が走るような感動を、生まれて初めて与えてくれた人。
 ユシェラの為ならば、死をも厭わないとその時思った。彼の理想がそのまま自分の理想だと言い切る事も出来た。
 だからレヴィアにとって、ユシェラは神だった。
 ユシェラが理想を実現するために全てを切り捨て、無情な行動を取る様を見ても当然だと思っていた。誰かを特別視しないことも、当たり前だと。
 神が人間を特別視するだろうか?
 誰か一人を守ろうとするだろうか?
 神とは冷徹で、倣岸なものだ。神話を見れば分かる。自ら生み出したものを、自らの都合で簡単に滅ぼすものが神だ。
 なのに。 ユシェラは神ではなかった。
 赤い血の流れる生身の人間なのだと自分に知らしめ、尊敬して止まない人の隣に立ってしまった少年。
 対等たる存在が、あるのだと示したフィラーラ。
「戦況に何か変化でもあったのか?」
 声を掛けてきたものの、押し黙ったレヴィアにユシェラが尋ねる。その声にも、姿にも、先程一瞬見せた動揺の影など存在していない。彼はいつもと変わらない仕種で振り向いただけだった。
 けれどレヴィアには理解できた。彼が今、どれほど心を震わせているのかを。
「将軍、サラザードから連絡があったのではないですか? 悪いとは思ったのですが、俺は、ずっと此処に立っていたのです。将軍が顔色を変えなくてはならないような事があったというのですか?」
 絞り出すような声で聞いてみる。
「そうだな。レヴィアには知らせておくべきかも知れん。フィラーラが行方不明になった」
「行方不明? では、死亡の可能性もあるという事ですか?」
「死んではいない。あれが死んだというのなら分かる。生きてはいる。だが、何処にいるのかは分からんな」
 低く呟いて、ユシェラはレヴィアに背を向ける。不安な表情を浮かべている気がした。そんな顔を自分を神と思うことを止めないレヴィアに見せられるわけがない。弱い、人間らしい感情など。
 朱金の翼の指導者である自分を、人々が信じれば信じるほど、弱い部分は否定されて行く。それも仕方ないだろうと諦めていた。偶像を作るのも役目なのだ。
 だがあの劫火の中から連れ出してきた少年は、自分の偶像を見破っていた。
 特別視をしない態度はどこか新鮮で、ユシェラは世界のことだけではなく、自分のことや、他のことも考えるべきだという事を思い出したのだ。そして何時の間にか、十年来の親友を得たような安心を覚えていた。
 子供の頃から感情を押さえ、父の自殺の意味や、すべき事、背負うべき事を考え、自身のことなど考えずに生きてきた自分が、だ。
 レヴィアは苦しんでいるユシェラの姿と、生死ならば感じることが出来ると言いきった自信とに、入りこめない空間を思い知らされた気がして、唇を噛みしめる。 
 こんなにも尊敬し、力になりたいと望んでいるにもかかわらず、彼が心から信用し、信頼しているのは自分ではないのだ。
「では、将軍はヴェストにいかれて、フィラーラの捜索を命じるのですね? しばらく青の空戦部隊のみで此処を支えていろと?」
 確認するように聞いてみる。
 ユシェラは軽く眉根を寄せて振り向いた。
「組織を動かす者が、そう簡単に軍を放棄すると思っているのか? わたしはヴェストには行かない。あの方面の指揮はフィラーラとサラザードに任せたのだ。サラザードが残っているのならば、支障はない。愚かな事など言っていないで、持ち場に戻るのだな、レヴィア=カッシュ」
 怒鳴っても、表情も変えていない。ただ抑揚のない声で言っただけだ。けれどレヴィアは激しい恐怖を覚えていた。冷汗が背を伝う。
 静かだからこそ、余計に怒りが伝わってくる。
 ユシェラは揶揄するような含みのある言葉を放った自分を許さなかったのだ。額にまで伝ってきた冷汗をぬぐって、レヴィアは震える手で敬礼をし、部屋を後にする。
 部屋には黒髪の青年だけが残された。
 溜息を吐いて、ユシェラは椅子に腰掛ける。まるで、倒れ込むかのように。
「私も子供だな。脅えさせるなど。レヴィアは……私の本心を見抜いただけで、なにも否はなかったというのに」
 感情を押さえられなかった自身を嘲笑い、彼は外を見た。
 砂煙と、爆撃の炎と。
 心の安らぎなど全く与えない世界。
 人が普通に生きて行ける世界を作りたい。それだけが望みで、自分自身の安らぎなど考えたこともなかったというのに。
「だが、わたしは今すぐにでも、フィアを探しに行きたいと思っているな。戦場にあるというのに」
 彼は目を閉じた。
 無事を祈っているわけではない。だが願うしか出来なかった。フィラーラが無事であるようにと。信じてもいない神に願うしか。
「人は、弱いものなのかな、やはり…」
 呟きは部屋の中だけに響いて、誰にも聞こえなかったけれども。


 空が暮れゆこうとしている。
 砂漠と化した町の気温の変化は激しい。
 あれだけ灼熱を与え続けた太陽が天上から姿を消すと、途端に寒さがひたひたと町を押し包んでいくのだ。
 日が暮れれば外にはいられない。
 フィラーラと共に走るデアリードは急いでいた。町の一番端にある家を視界に見つけるとほっとして笑って、みんながいる場所はすぐだと言う。
 フィラーラは短く答えると、何かを懸念するように押し黙った。
 フィラーラ=シェアリという名の人物が、朱金の翼に属しており、奇跡を起こすのだと知っている者がいる可能性に思い当たったからだ。
 碧い髪と同じ色の瞳。
 幾ら支配階級にいない市民たちでも、その程度は知られているだろう。なにせそんな色の髪と目は、ひどく珍しいものでもあったからだ。デアリードたちにとって朱金の翼は味方といえるだろう。だから危害を加えられる危険性は少ないかもしれないが、ないとは断言できない。
 力を利用しようとする人間たちがいれば、それでお仕舞いだ。
 朱金の翼は、そういった輩からフィラーラを守る壁の役目もはたしていた。せめて偽名くらい使うべきだったと、今更ながらに後悔する。
「………え?」
 手を引っ張られるままに走っていたフィラーラはふと振り向いた。
 誰かが呼んでいる?
 そう思えたのだ。ひどく孤独で懐かしい声で。
 幾度となく周囲を見回して誰かを探してみる。けれど見知った人間がいるはずもなく、そこには砂に埋もれたさびしい大地と、崩れかけたビルが立ち並んでいるだけだった。
「いま、誰かに呼ばれた、そんな気が」
 怪訝そうに呟いて、フィラーラは眉根を寄せる。
 デアリードは、止まってしまったフィラーラを待つように佇んで、見るとはなしに町の中心部を眺めていた。
「………?」
 あれ、と彼は思った。続いて何かが違うとも思った。
 説明は出来ないが、何かひどい緊張が町を包んでいるような気がしたのだ。困惑するデアリードの気配に気付いて、フィラーラも前を向く。軽く目を眇め、同じように町の中心部を見やる。 
「なっ!」
 短く声をあげて、フィラーラは目を見開いた。
 突然爆風が巻き起こったのだ。碧い髪が風にさらわれ後ろに靡く。続いた轟音が少年の鼓膜を激しくゆさぶり、閃光が大地と空とを駆けぬける。
 咄嗟に大地に伏せたデアリードの隣で立ち尽くしたまま、フィラーラは見ていた。
 ―――竜。
 無論、伝説上に住む竜などではない。
 それは灼熱の火柱だった。全てを焼き尽くし、破壊し尽くす紅蓮の色。激しく燃えさかる煌きはまるで長大な身体をうねらせる竜の姿そのもの。ひるがえす尾が、炎を吐き出す口が、人々の命を飲み込み何もかもを一掃して行く。
 たった一人の人間の力ではどうする事も出来ない。―――それは破壊の象徴。
「リーア」
 目を見開いて、フィラーラは呆然と呟く。
 デアリードが叫んでいる。ヴェストが燃えて行くのだ。叫ぶのは当然だろう。
 けれど彼が何を言っているのかは分からない。
 見えてくるのは現実の光景にシンクロした、過去の光景、過去の声、過去の事実。
 燃えて行く村がある。焼けて行く人がいた。壁を叩き血に濡れた手で叫んでいる誰か。助けを求めながら死んでいく人々。
 壁を破壊できない雨。
 手を伸ばしているのは妹。炭化していく、愛しい存在。
「う……あ……」
 息が苦しかった。呼吸が出来ない。悲鳴が喉に詰まっている。
 目前で町は燃える。あの日の忠実な再現のように。
 人々を飲み込んで焔は輝く。残酷なまでに美しく、煌いている。
 炎は町の中心部にあった広場から立ち上っていた。レゼンの館からは離れたところにあった、勝利に沸く人々が馬鹿騒ぎをしていた広場だ。
 暮れてゆく空を赤々と照らす紅蓮の炎は、自然の火災ではありえなかった。
 科学の力、人的なもの、それが加えられていなければ燃える対象の少ない砂漠の町を一瞬の内に炎上させられる訳がないのだ。
「ち……くしょ…お…、こんな、こんなのって……いや、だ…」
 なおも聞えてくる悲鳴、見えてくる映像。
 死にたくないと叫ぶ人。
 生きている人間を呪うその眼差し。
 耳を抑えても消えはしない。
 目を閉じても見えてしまう。
 炎に捲かれた手が自分を掴んでくる。
 腕に、足に、首に、全てに。恨みの込められた力はリアルのも関わらず、幻覚なのだ。それが分かっているのに苦しくて、水を呼ぶことが出来ない。
 過去の再現どおりで、水を呼んでも悲劇が止められないような気がする。
 かつて全てを奪って行った悲劇の再現に、フィラーラの思考は完全に破壊されていた。しかも今、少年の側にはユシェラがいない。立ち直るきっかけを、与えて、そして与え続けた者がいない。
 辛い時にはユシェラが側にいてくれた。
 何を言うでもなく、何をするでもなく、ただ隣にいてくれた。彼が背負っているものに疲れそうになった時は、自分も良くそうした。居てくれれば安心できた。なのに。
「……あ……あ…う…」
 口から付いて出るのはうめくような悲鳴だけ。
 雨を降らせなくてはと、心から思っている。
 なのに手が、足が動かない。瞳が前を見据える事が出来ない。
 やり方が分からない。
 自分はどうやって水を招来していた?
 焦れば焦るほど、考えれば考えるほどわからなくなり、落ち着こうと思っても視覚に入ってくる炎が冷静さを貪欲に奪っていく。
 突然、足元で人影が動いた。
 今まで呆然と座り込んでいたデアリードが、脱兎のごとく走り出したのだ。
 燃え盛る炎の町の中に。それをさせてはデアリードまで死んでしまうとフィラーラは思う。あれほど動かなかった体が嘘のように反応して、走り出せた。
「デアリード! それ以上進むなっ! 巻き込まれて君まで死んでしまうっ!」
「うるさい! あそこにはみんないる! 折角レゼンを倒して、幸せになれるって喜んでたんだ! こんな所で、こんなふうに死なせてたまるもんか!アレナ、そうだよ、あの炎の中にはアレナだっているはずなんだ!」
 アレナはデアリードにとって、実の姉そのものだった。思い出されるのは、アレナと出会った時、五年前の事だ。
『そんな所で、ずーとぼーとしてたら、良い具合に日干しになっちゃうぞ』
 母親の白骨と化した死体の前で座り込んでいた自分に掛けられた声は、今でもはっきりと耳に蘇ってくる。
『ほら、おいで。一緒に行こう』
 言われて、驚いて、まだ十二歳だった自分は振り向いたのだ。まさか他人を気遣う者がいるなどと思っていなかったから。
『どうしたの? 大丈夫よ取って食おうだなんて思ってないんだから。ああそうか。お腹すいて歩けないのね』
 決して立派とは言えない袋から、そう言って彼女は少ないとはいえ食べ物と飲み水を出して、笑ってみせた。
『ほら食べなよ。子供は沢山食べて元気にしてなくちゃ』
『俺は、子供じゃないぞ! それに』
 そんな貴重なものを貰えるわけが無い。そう思って、真っ赤になって叫んだ自分。
『いい子ね。普通だったら、出された瞬間取って逃げるところなのに。いいのよ、食べなさい。そうね、理由が要るんなら』
 ちょっとだけアレナは顔を伏せて、
『あなたは私の弟で、私が姉って事になればいいんじゃない? それだったら、何もおかしくなんてないからね』
 言って、彼女は笑った。その笑顔を見たら涙が出てきた。わんわんと泣いた。アレナは黙って、優しく背を撫でてくれた。
 だから守りたいと思ったのだ。アレナを守るはずだった恋人が死んだ時は、その恋人に誓った。かわりに自分が守って見せると。なのに。
「アレナ、アレナぁ!」
 尚も引き止めようとする手が鬱陶しい。
 強く振り払い、一目散に駆けた。炎の中心である広場を迂回しレゼンの建物があった場所へ。まるで居場所が分かっているような迷いのない動きに、アレナの居場所をデアリードが知っているのではないかと思ったほどだ。
 運良く、館はまだ炎に捲かれていない。
 デアリードは館の中に入るとすぐ右に曲がって、地下に続く階段を駆け降りながら、
「アレナ! 頼むから返事をしてくれ!」
 叫んで一つの部屋に飛び込む。
「……あ、アレナっ!」
 デアリードは絶叫する。
 遅れて部屋の中に入ったフィラーラがそこに見つけたのは、全身を真紅に染め抜いた女性をかき抱くデアリードの姿だった。
 震える手で女性をかき抱く彼に近づく事も話し掛けることも出来ず、フィラーラは瞳を伏せ、そっと周囲を確認する。部屋は惨劇の有り様をありありと伝えていて、無残さに眉をひそめた時、もう一人倒れている人物に気がついて駆け寄った。
 触れた身体は既に冷たく、幾度声をかけても返事が返ってくることはない。
 二人とも銃傷をおっていた。しかも一発ではない。後ろから、いきなり何発も撃たれたのだろう。フィラーラが触れた男は即死しているが、デアリードが名を呼び続けている女性の方は、幸か不幸か銃弾は急所を外れていた。
「……デアリード…」
 不意に声が聞こえた。 本当に小さな声だ。
 死相を色濃く宿した娘は、愛しむような眼差しでデアリードを見上げている。
「…来て……くれた、のね」
 震える唇で囁いて、微笑みを見せた。
 デアリードは子供のようにぼろぼろと涙をこぼし、喋っちゃ駄目だと、早く手当てをして元気になってくれと、駄々をこねるように幾度も口走る。アレナは震える手を伸ばし、そんな彼の頬に触れた。
「たった一人の、私の……弟。だから、生きて……幸せになって。ね、約束……して」
 苦しげに言って、娘は小指を伸ばす。指切りをせがまれていると分かったが、デアリードは首を降り続けた。したら死んでしまうような気がして。
「やだ、やだよ…おいてかないでよ、アレナ……ね、姉さんってば! 母さんみたいに、俺を置いて逝かないでよ! ねえ、やだってば」
 駄々っ子になってしまったデアリードを、愛しそうにアレナは眺め、
「デアリード、誰かを……守れる人になってね。胸を、張って、自分のことを知っている……全ての、人の目を見て己を語れるように。生きて。……全てを誇れるように。――そこの人…」
 ふと瞳だけを動かしてフィラーラを見る。
「……哀しい、目をしているのね。私の死は……あなたの、せいではないのに。同じ目をした子を……知ってるわ。デアリード、その子を救ってあげて……金の髪の、綺麗な女の子よ。……迷子みたいな目をした子……」
 ふっと目を細めて、アレナは思う。
 突然扉を開けて出てきた娘の手に、握られていた拳銃。音と共に身体を貫いていった熱い衝撃。返り血を浴びて赤く染まった娘の顔と、深い哀しみを宿した狂気の目。
 憎しみなど抱かなかった。
 ただ、自分が彼女に殺されることによって、娘がより一層深い部分で心に傷をおってしまうだろうという事が哀しかった。それが気がかりで仕方なかった。
「だから……ね、あの子を許してあげて。……寂しいのよ、誰もエリアの哀しみに気付かなかったから。心の傷をうめてくれなかったのよ。だから、許して……そして……」
 不意に声が途切れる。
 死んでしまう…?
 当たり前の事実に、フィラーラは恐怖した。
 怪我を癒す力を持っているはずの自分。なのに、なにもせず、命が失われていく様を見ているだけなのだろうか? 動くことも出来ないでいるのか?
 すっと冷静さが戻った。焦っていても自分を責めていても何も解決しないのだと分かる。救いたかった。心の優しいこの女性を助けたかった。なら、どうすれば?
 フィラーラはアレナの隣に跪いて、手を伸ばした。暖かで優しい光がかざした手から生まれ、ゆっくりと娘を包み込み始める。
「アレナ?」
 けれど響いたのは呆然としたデアリードの声だった。伸ばされていたアレナの手が一瞬痙攣し、ぱたりと地に落ちる。
 フィラーラの手が震えた。
 遅かった。
 魂を失った身体がその分軽い。それが分かる。もうアレナはいない。声にならない悲鳴を上げて、デアリードは更に強く、抜け殻の身体を抱いた。
 慟哭の声がフィラーラには痛かった。助けられたはずなのに、それをしなかった自分が許せない。自己を責めるように力任せに床に手を叩き付けて、駆け出した。
 ぽたぽたと床を伝っていくのは鮮血。
 涙の変わりに流されたフィラーラの血。
 この町を救わなくてはならない。アレナの言っていた金髪の娘を助けなくてはならない。
 だが、その娘は町を炎熱の中に叩き落とした張本人なのだ。
 冷静でいられるのか?と、考えてみる。
 人々を、町を、全てを焼き尽くす原因を作った人物を前にしても尚、自分はアレナの望み通りに動くことが出来るのだろうか。考えたが答えは出ない。出来るという自信も無かった。
 燃える町、死んでいく人々。笑っていた連合政府の兵達。それが頭の中でだぶる。全てを失ってしまったあの日の哀しみと怒りが心の底で燃えている。
 冷静でいられるのだろうか。本当に?
 考えながら少年は階段を駆け登る。
 館の地下を飛び出して、そして、フィラーラは出会った。
「君は……!」
 意外な人物。
 初対面というには面識がありすぎて、他人と呼ぶには知り合いすぎて。口の中で名を呟き、彼は目を見開いていた。

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