第五話:再動する動乱に
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「惺! どこにいるのよっ、もう!」
 ずかずかと大股で廊下を歩いて、エリクルは惺の姿を探していた。ヴェストの有力者であるレゼンと手を組み、提携してからすでに三日が経過している。
 三日間という時間を、惺は精力的に情報を得ることに費やしていた。街の隅々から、町外れの地形まで、全てを頭に入れておこうとしているのだ。ゆえに屋敷内にとどまっていることは少なく、惺に相談したい事柄が発生したというのに居場所がわからない状態になってしまっている。
 エリクルは悪態をつきながらも、惺を探し回っていた。
 レゼンから与えられた屋敷から一歩外に出れば、砂に埋め尽くされる現実が嫌でも目に入ってくる。
 この荒れ果てた大地が、様々なものを人々から奪っていくのだ。
 奪われるのは命であったり、感情であったり、若さであったりと様々だ。
 エリクルは見慣れたはずの、けれども決して愉快ではない光景に溜息をついて、羽織ったコートに付いているフードを深く被り直し、街に出ていった。
 何かが違うと、ふと思った。歩き出してからそう時間はたっていない。違和感の理由を探るべく周囲を見回し、はっと目を見開く。
 消えていたのだ。
 街の道路から、ハイエナのような目で道ゆく人を睨んでいた人々が消えていたのだ。
「……? おかしい」
 確認するべく大通りまで走り、やはり人がいない事を確認してエリクルは眉をひそめた。
 突然、あれだけの人々が自主的に消えるだろうか?
 ありえない、と首を振って、エリクルは顔を上げた。
 この街には水と食料を奪う相手が存在する。奪う相手すらなく、餓死して行かねばならない他の町に比べればマシなのだ。そんな場所を捨てるわけがない。
 捨てるとすれば、他に良い場所が見つかったか? それともレゼンが手にする物資を奪取できる方法を見つけたか。
「しまった!」
 瞬間、エリクルは走り出していた。
 そんな事が出来て、陰謀を張り巡らせることが出来るのは、一つしかいない。朱金の翼だ。
 躍らされた民衆が蜂起し、レゼンを襲うのならば、自分たちも危険になる可能性が高かった。なにせレゼンから補給物資を得ている。
 手に入れた物資を失うはめにもなりかねない。
「ユシェラだ! ユシェラ=レヴァンス! あいつがきっと、ここの民衆に入れ知恵したんだ! 知恵だけじゃない。物資も渡したはず。そう考えなくちゃ、こんな状態、説明がつかないもの!」
 エリクルの私情から発した考えであったけれども、間違いないように思えた。ユシェラは紺碧の炎を鬱陶しがっている。正義の旗を掲げて、無垢な人々から支持を取り付けている自分たち。ユシェラは民衆の意識を、完全に紺碧の炎から朱金の翼に移そうとしているのだ。
 危機を知らせなくてはと走るエリクルが、道を曲がった瞬間。突如、街全体を、大地そのものを揺るがすような爆音が響き渡った。
「この音の方角は!?」
 大きな爆音に一瞬彼女は立ち尽くしたが、立ち直りの早さを見せて、再び走りだす。一本道の先にある右折路を曲がり、与えられた屋敷の前にでる。
 全てが炎熱の焔に包まれていた。
 先刻まで自分が居た場所。朱金の翼に勝つ為に、どうしても手に入れたかった物資の為に、組みたくもない相手と手を組んで、手に入れたものがある場所。
「どうしてこんなっ」
 絶望に負けないように大声を出して、エリクルは目を見張った。燃えていたのは、居住区にあたる屋敷の部分だけだったのだ。
 連なるように建つ倉庫はまだ燃えていない。多少なりとも運び出せる物資はあるかも知れないと彼女は咄嗟に判断し、飛び込んでいった。
 火の粉が空から降ってきていて、彼女の肌をちりちりと焼いて行く。
 倉庫のドアを抉じ開けると、すぐに階段がある。駆け下りて武器庫の扉を開けた。水や食料など、女の手一つで運べる量には限界がある。
 ならば強力な武器が欲しかった。
 彼女が手にしたのは、強力なナパーム弾の入った箱だった。たった一つの弾で、この程度の街なら燃やし尽くすことが出来るはずの代物だ。
「許さない。朱金の翼に尻尾を振って、私の邪魔をする奴は! ただ、死なないように生きていくだけの奴等のくせに! 許さない。朱金の翼も、それに荷担する奴も、朱金の翼によって生かされている奴等も!」
 ぎりっと目を吊り上げて、エリクルは叫ぶ。汗ばんでいるのは、火が近づいてきていて気温が急上昇している為だった。火が武器庫に引火すれば大惨事になることが分かりきっていたので、重い箱を抱えなおしてエリクルは走り出す。
「死なない! こんなところで死ぬもんか! 復讐してやる、私の邪魔をする奴にも、絶対思い知らせてやるんだからっ!」
 倉庫を飛び出した直後、背後で激しい爆発音がした。 爆風に煽られて、体を吹き飛ばされ大地に叩き付けられて、一瞬呼吸がつまる。
「こんなことで……死ぬなんて、絶対……嫌」
 まるで祈るように願いを口にしてながら、彼女は小さなカーブを描く丘を這い上がる。登りきった部分に巨大な岩があって、エリクルはその影になんとかうずくまった。そして意識を失う。
 激しい戦闘の音が起きはじめたのを耳にしながら。
 一方、紺碧の炎のメンバーが居るとみられた建物に爆発物をしかけ、レゼンを抹殺するべく決起したヴェストの民グレス=ガーステンらは、レゼンの屋敷を取り囲む高い外壁に設置された機関銃の洗礼にあい、被害を大きくしていた。 
「くそっ! あいつら、いつのまにあんな物まで装備していいやがったんだ!」
 叫んだのは、伸び放題だった髪を短く刈り、かわりに赤い鉢巻きをしめたデアリードだ。ザナデュスが手にしていた水の瓶を、何とか奪おうとしていた少年。
「五年前、レゼンを倒そうと襲撃した時に、何人かがこの壁を越えることが出来た奴がいたのよ! だから、奴は用心をして、さらに防備を整えたってことでしょうね!」
 言い返してくるのは赤い髪のアレナという名の少女だ。
 名は名乗らない、ただ朱金の翼からの伝言と、大量の武器と食料と水を運んできた男、ザナデュスの言葉に同意を示し、いち早く作戦を考えはじめた彼女は前の襲撃で恋人を失っている。
 この街の弱者は、誰もがレゼンを恨んでいた。
 虫けらのように死ぬ事を強いられた自分たちを見下して、いつも水を使い、食料を口にし、肥え太ってきた男。
 食べていたのは本当に食べ物だったのだろうか。
 飲んできたのは水であったのだろうか。
 デアリードは思うのだ。レゼンが口にしてきたものは水でも食料でもないと。自分たちを追い込んで、いつも高いところから笑っていた奴が消費していたものは、他人が手に入れられたはずの幸せであったのだと。
 それを奪われていたのだ。
 朱金の翼がヴェストを攻略するまで待っていれば良かったのだが、それでは心が納得できなかった。できなかった者たちが襲撃に参加している。
 朱金の翼が制圧するのを待つ人々はすでに町外れの場所まで避難している。
 デアリードも納得できない人々の一人だ。
 レゼンの死体を見る。
 そうでなくては、人の死体を食いでもしなければ生きられなかった日々に終止符を打つことはできないのだ。
 多分。そう多分。
 自分はあの日に狂ったのだとデアリードは思う。
 母であった人の……。
「デアリード! ぼうっとしてたら弾にあたるよ!」
 突然覆い被さってきて、アレナが叫ぶ。その声にハッとして、デアリードは力の抜けかけた指に再び力を込めた。
「ごめん、アレナ! 大丈夫だ」
「なら、いいけど」
 今年で二十四になるアレナは軽やかに笑って、デアリードの額をこつんとつついた。
「わたしたち、幸せになるのよ。絶対に。レゼンを殺して、全てから開放されたら、幸せにならなくちゃいけないんだよ。だから、死なないで勝つのよ! 絶対!」
 鋭い目を武装した外壁に向けて、アレナが叫ぶ。
 黒々しく光る機関銃の鈍い色がひどく恨めしい。あれは何人の仲間たちの血を吸ってきているのだろうか?
 突然背後で喧嘩でもしているような声が聞こえて、デアリードが振り向いた。
「グレス?」
 後ろで、指導者的存在であるグレスとそれを囲んでいる何人かが言い争いをしている。喧嘩なんてしている場合かよと眉をしかめて、デアリードはアレナを残し、そちらに向かった。
「なにやってんだよ! 仲間割れしたって、しょうがないだろ!」
 少年の怒声に、グレスが驚いて振り向く。
 彼は目の前にデアリードが居た事に気付いていなかったのだ。
 リーダーだったら、誰をどこに配置したのかくらい覚えてろっと、心の中で罵倒した後、デアリードはグレスを睨み付け、喧嘩の事情説明を要求した。
 グレスが一つ取りつくろって咳払いをする。
 要約すれば、武装外壁をどうにかしなくては、攻め手である自分たちの被害が大きくなってゆくだけだというのだ。ならば犠牲を覚悟に特攻部隊を作り、突破口を開くべきだというのがグレスの主張らしい。それで反対の人々と口論になっていたのだ。
「特攻? ようするに爆弾抱えて、あの壁に突っ込めっていうのか? そんなの壁につく前に機関銃でやられて、たどり着く前にドッカンさ」
 呆れたようにいって、デアリードが天を仰ぐ。少年でしかない彼にまで反対されて、グレスは真っ赤になりながら眉をつり上げた。
「だが、他に方法がないのだ! こうやって力攻めを続けても、結局死体が増えるだけだ。なら、それくらいのことをしたほうが、まだ意味があるだろう!」
 反対はしたものの、対応策など持っていなかったので誰もが沈黙してしまう。
 突然笑い声が響いた。
「ようするに、調べもしないで戦いを挑んだってわけだ。たく、どうしようもない。いくら物資を手に入れたって、作戦なしでやれば、こうなるのは目にみえていただろうに」
 一体いつから来ていたのだろうか。ザナデュスが立っていた。筋肉質の腕を組んで、小馬鹿にしたような目つきでグレスらを見据えている。
「――あんたはっ!」
「朱金の翼は部隊を進撃させた。三時間もしないうちに街につくだろう。だがその前に落としたいんじゃなかったのか? レゼンを殺したかったんだろう?」
「あ、当たり前だ!」
 レゼンが黙っているのを見かねてデアリードは叫ぶと、ザナデュスの腕を掴んだ。
 朱金の翼を頼りたいわけではないのだ。自分たちの力で、レゼンを倒したい。
「ふん。朱金の翼はな、お前等が蜂起することによって、紺碧の炎がレゼンみたいな奴と手を組む奴等なんだってことを喧伝したいんだ。紺碧の炎の偽善性を公表するために。だが、お前達の全滅は好まない人間がいるもんでね」
「好まない?」
「俺は朱金の翼の人間じゃあない。依頼された仕事をこなすだけだ。そのかわり、受けたからにはきっちりやらせてもらう。それが俺の信念だ」
 意地の悪い笑みを浮かべて、ザナデュスは少年の頭に手を置く。デアリードが怒るのを分かってやっているようだ。少年が怒り出す前に手をはずし、大きく振り被る。
「あの武装外壁を壊して欲しいんだろ? ま、それだけはやってやるさ。俺としても、この程度で終わられたらたまらないからな」
 簡単そうに言ってみせて、ザナデュスが振りかぶった手を下ろす。
「な――っ! なに?」
 呼応して轟音がした。同時にひどい砂煙が巻き起こり、咳きこむ人間が多数出ている。目の前の高い外壁が崩れ落ちていた。ドウッという激しい音と共に。
 呆気に取られすぎて、状況を把握できない真っ白な状態から立ち直って、デアリードは崩れ落ちた外壁のあたりに視線を投げた。
 何人かが瓦礫の下敷きになったかもしれない。
 同じ懸念に気付いたグレスが指示を下し、救助作業を始めさせたことを確認して、デアリードは不気味なものを見るような目で目の前の男を睨みすえた。
「なんで、何でこんな事が出来るっ! 外壁に取り付こうとしてた奴等がいたんだぞ! 爆破するんだったら、なんで先に言ってくれない! そしたら、避難させてたってのに! なんでだよ!」
「俺は暗殺者だからな。俺自身が気に入った人間ならともかく、万人を愛して守る気なんてさらさらないのさ。それともいっせいに攻撃を止めさせて、疑いを持たせて、それからやった方がよかったっていうのか? 疑っていなかったからこそ、効果は大きいんだ。みろ」
 不意に前を指差して、ザナデュスが前を向く。つられて前を見た。
「破壊された壁には、レゼンの配置した兵どもが多くいた。ようするに、壁の破壊と同時に、敵の兵力を削減出来たってことになるのさ。これで五分に戦える。それでいいのさ」
「いいって――」
「それが、戦争さ」
 子供っぽい感傷には付いていけないとばかりに手を振って、ザナデュスは側にやってきたテュエに何かをいう。それを受けてテュエは笑い、そしてデアリードの方を向き直った。
「私はね、レゼンに雇われていたことがあった。だから、あそこへの抜け道も知っているし、臆病なレゼンがいつでも逃げ道を用意していることも知っている。早くしないとあいつは逃げるよ。それでいいの? 急ぎなよ。赤毛の女の子は助けたからさ」
 くすくすと笑って、テュエはザナデュスの腕を取り、去って行こうとする。
「人の生き方はいろいろってことか。感謝なんかしないからな! アレナ! レゼンをつぶす! 総攻撃だ!」
 救助に行ったまま戻ってこないグレスにかわりデアリードが叫ぶと、喚声が起こった。
 レゼンを倒せる!
「突撃っ!」
 怒涛のごとく、人々は壁の残骸を越えて、レゼンの館の中に駆け込んでいった。


「フィラーラ様! 戦闘は始まっているようです!」
 若い伝令が本営に駆け込んでくると同時に報告を始めたので、赤の陸戦部隊師団長サラザード=アル=ゼゼンが叱責しようとしたのをフィラーラは押し止めた。
「随分早い。訓練一つ受けたこともない者達が、束になって攻めても、かなりの兵器を備えるレゼンに勝てるわけもないのに。どうしてそう、急ぐのかな?」
 かわりにサラザードに聞いてみる。
 赤の陸戦部隊の師団長サラザードは今年で四十五才になる。陽に良く焼けた肌をしていた。硬質な鋼色のその目は、味方には安心感を、敵には畏怖を与える目だ。 
 サラザードは二十年前の悲劇以前から連合政府軍の軍人だった。彼の家は代々軍人の家系で、彼の父も軍人で、数少ない生粋の職業軍人である。
 ユシェラから、最も信用されている男だ。
 サラザードは礼儀正しい男であるので、息子のような年齢のフィラーラにも不遜な態度は決して取らず、朱金の翼の最高指揮官の一人に対する態度を取り続けている。
「ヴェストの人間たちにしてみれば、朱金の翼にこれ以上の恩を売られたくないという事かもしれませんな」
 人を落ち着かせるサラザードの低い声を聞きながら、フィラーラが首をかしげる。
「恩を売られたくないとか、意地とか、そんなんで被害を大きくして、沢山の人を無意味に死なせて、何が楽しいんだか」
 まるで拗ねているようにフィラーラが眉根をよせるので、サラザードは笑った。
「人の意地というものは、時に常識を覆すものです」
 笑いを収めて、サラザードはフィラーラの指示を待つ。赤の陸戦部隊が指示を仰ぐべき人間は、今はユシェラではなくフィラーラだった。
 朱金の翼は、二方面同時作戦を選択したのだ。
 指導者であるユシェラが陣頭に立つことによって、朱金の翼はかなりの強さを保持してきた。ゆえに部隊を分けた大規模な作戦を取る事ができなかったのだが、今ではフィラーラもまた、軍を支えるカリスマを保持している。
 今までそれが実現しなかった理由は、ユシェラが手元からフィラーラを離さなかっただけで、他に理由はなかった。
 作戦は、ヴェストとシャラシャーン。この二つの場所にむけ進行されている。
 紺碧の炎の象徴であるエリクル=カーラルディアのこもるヴェストにはフィラーラが。象徴であるエリクルを前面に押し出してはいるが、紺碧の炎の真の指導者がいいると噂されているシャラシャーンへはユシェラが、それぞれ作戦実行中だ。
 シャラシャーン。 
 ここは、紺碧の炎の発祥の地でもある。
 紺碧の炎を作ったのはロステム=マルディノという初老の人物で、氏素性は知られていない。ただどうも連合政府の関係者であったのではないかといわれている。
 ロステムは一年半ほど前に、シャラシャーンで起きた朱金の翼との戦争において戦死し、その後をエリクルが引き継いだと公式記録には記されている。
 だが、本当は戦死しておらず、紺碧の炎の最大の実権を握っているのはロステムなのではないかという情報もあった。シャラシャーンでロステムの姿を見たという噂も跡を絶つことがない。
 だが、ロステムが居るにしても居ないにしても、シャラシャーンが紺碧の炎最大の軍事基地であるということはかわりはなかった。しかも地下に大規模なシェルターを確保し、紺碧の炎の補給物資を支えている。シャラシャーンは、紺碧の炎の大動脈なのだ。
 ここさえ攻略してしまえば、紺碧の炎は戦えなくなる。
 紺碧の炎に残された最後の希望。
 幾度となくこの基地を潰そうと軍をだし、その度に決着を付けられないでいたシャラシャーンを、被害を多くだそうとも攻略する決意を、ついにユシェラは下した。
 司令官、副司令官の別行動作戦によって、自然前線部隊として機能する赤の陸戦部隊、青の空線部隊も分かれて行動する。陸戦部隊はフィラーラが、空戦部隊はユシェラが率いることになっていた。
 シャラシャーンを落とすには空軍の力が必要だと軍略的見解から判断されたのだが、実はそれ以外にも理由が存在していた。戦略とはかけ離れた位置での理由だ。
 青の空戦部隊の師団長は、レヴィア=カッシュという若干二十五歳の青年である。
 空戦の天才児で、少々才能を嵩に着るところのある男ではあるが、基本的には明るい性格をしていた。この青年が、フィラーラを毛嫌いしているのだ。
 レヴィア=カッシュ曰く。自分はユシェラに惚れ込んで朱金の翼に参加しただけであり、フィラーラに仕えた覚えはない。自然を取り戻すのは結構だが、それならそれだけやっていればいい。偉そうに軍事面にまで口を挟むな、という事らしい。
 ユシェラはレヴィアの発言に苦笑しただけで、別に処罰することはなかった。けれど無視しているわけではなく、人間関係を配慮した軍事配置が行われている。
 ともかく、作戦は進んでいた。
 フィラーラは広げた地図を見つめる。
「紺碧の炎にはたいした参謀がいるって聞いたことがある。たしか、滝月とかいう名前の。もし僕が逆の立場だったら、それなりの用意はするけど。どうするのかな」
 考えたまま黙り込んで、フィラーラは地図の地形を現実のものとして想像してみる。ヴェストの街の周りは、崖や丘、かつては川が流れていたであろう窪地が多い。兵を隠すのはうってつけの場所だった。
 サラザードは基本的に司令官が定める作戦に口を挟んだりはしない男だが、今回は別だと判断していた。
 フィラーラの能力を否定しているわけではなく、むしろ大きく評価しているが、彼はこれが指揮者として初めての戦いになるのだ。
 勝てばいいが、敗北すればフィラーラの軍歴に傷がつくことになる。
 それに奇跡を起こすという、どちらかというと清らかなイメージを与えるだろう人物が、このような血なまぐさい事を続けるべきではないとも思っていた。
 それはまるで、神や天使の類を見た人間が、それをそっとどこかで守っておきたいと思うような考えに似ていて、フィラーラの自主性は無視された考えだった。
「サラザード師団長?」
 フィラーラの怪訝そうな声に我に帰って、サラザードは顔を上げる。自分がなさねばならぬ事を一瞬でも忘れたことを心の中で恥じて、彼は少年に向き直った。
「ヴェストでの市街戦の前に一戦する必要が出るとおっしゃるのならば、指揮を私にお任せ願えませんか?」
「ユシェラがいないから、不安なわけだ」
 意地悪くフィラーラが言うと、サラザードが返事に窮して眉をひそめる。少年は突然笑い出した。
「嘘だよ。分かった。指揮は全部、サラザードに任せる。とにかく相手は数が少ない。どんな奇策と取ってくるかも分からないし。気をつけなくちゃならないんだけど」
 少年はサラザードに背を向ける。
「この力がなければ、何の役にもたたないんだな、僕は」
 呟いて、彼は前に広がる地形をその目で確かめるために走り出した。だから、サラザードは、呟いたときのフィラーラの顔を見ることは出来なかった。

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