第四話:暗殺者の存在
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 男が走っていた。
 まるで存在していないかのように気配を消して、多くの人々が出入りしている建物の中を進んで行く。男の存在に気付く者はいなかった。
 男は三十後半ぐらいの年だろう。
 褐色の肌に金の髪の為なのか、それとも眼差しの鋭さの為か。どことなく豹をイメージさせる野性味を持っている。彼は走りながら、一瞬警戒するように視線を走らせた。僅かだが、無視しえない音を拾ったのだ。
「………」
 それは、彼が忍び込んだ建物から見える木立の奥で、息を潜めたフィラーラが、銃を構えなおした音だった。
 怪訝に思った男は確認するべく、身体の向きを変える。
 フィラーラは近づいてくる男にはまだ気付いておらず、静かな眼差しのまま周囲を警戒している。彼が身を隠さねければならないと気付いたのは、少し前、護衛としていつもひっそりと自分の側にあった気配が消えた為だった。
 消えたことに気付いた瞬間には行動していた。
 近くにある大きな石の横に飛びすさり、同時に銃とナイフを抜く。左に銃、右にナイフといった格好だ。飛びすさったと同時になにかが地面ではじける。
 銃弾ではないと瞬時に判断する。地面への弾着状態が、銃弾ほど激しくないのだ。ということは、命を狙っての事ではないのだろうか?
 そのまま襲撃者の動向をさぐって息を潜た時、初めて別の気配が近づいてきていることを察知する。
 敵か、味方か。それはわからなかった。だが、その気配が襲撃者とは異なっていると判断した瞬間、フィラーラは駆け出した。襲撃者の第一撃目はかわせたものの、次の攻撃をかわせるかどうかが分からない。ならばこの行動で、味方が来たと襲撃者に思わせることは出来るだろうと思ったのだ。
 フィラーラにしてみれば、追い詰められたと思われない為の行動であった。
 だが、自分に気付いている者などいないと思っていたというのに、少年に目の前に走り出されて、男は驚いていた。
 ザナデュス=オルク。それが男の名である。彼の特徴的な容姿は、東南アジア系の人間の生き残りであることを示していた。
 ザナデュスはかなりの実力を持つプロの暗殺者である。
 誰でも殺すわけではない。依頼を選ぶ男だった。依頼されれば事実関係を念入りに調べる。それから全てを決めた。高飛車のようだが腕は確かで、信頼がおける。だから、法外な報酬が必要だったが、彼に依頼してくる人間は多かった。
 二十年前のあの日、ザナデュスは暗殺対象が欧州にいた為に死を逃れた。
 世界が崩壊した後も、彼は遺憾なくその腕を披露し、一流の暗殺者であり続けたのだ。
 その自分を。こんないかにも戦えなさそうな綺麗な顔をした子供が見破った。
 途端に興味を覚えて、ザナデュスは唇の端を吊り上げるようにして笑う。
 フィラーラを助ける理由はなかったが、ここで死なせてしまうのは勿体無い気がした。ザナデュスは現れた少年の肩を掴んで伏せさせ、突然右足のブーツに付けていた細い針のような物を立て続けに三本投げる。
 手応えがあった。
 襲撃者はなかなかの腕前だったが、ザナデュスの敵ではなかったのだ。
 なにせ彼は一流だった。互角に挑める相手など希少価値だ。ザナデュス自身、自分と互角に渡り合える人間など殆ど知らない。知っていた全ては二十年前に死んでいる。
 他に仲間がいないか判断してから、ザナデュスはフィラーラを立ち上がらせ、うずくまっている襲撃者に近付いた。
「女か」
 呟くと、女が苦しげに顔を上げる。
 その顔をみて、フィラーラは目を見張った。
 若い女には不自然な純白の髪。長い前髪が隠す左目だけが、真紅の色合いを見せて二人を睨みつけている。
 ザナデュスの投げた針は女性の首の後ろと、右手首、そして左足のアキレス腱とに刺さっていた。どれも深くは刺さってはいない。彼女をうずくまらせた原因は、痛みではないらしい。なにか特別な薬でも針に塗ってあったのだろう。
「今時誰かの専属状態か? 酔狂なこったな」
 飄々とした声でいいながら、ザナデュスは女に刺さったままになっている針を手早く取る。女は黙ったままだったが、別に返事は期待していなかったらしい。彼は軽く笑うと、フィラーラに向き直った。
「さてと。こいつはあんたを狙ったんだ。どう処分するのかは任せるが?」
「……処分?」
 怪訝そうにフィラーラは目を眇める。その視線の先で、女はふてくされた子供のようにそっぽを向いた。
 口は割らないという意思表示なのかもしれない。
 不意にフィラーラは眉をひそめた。何かに気付いたような様子。なんだ、とザナデュスが思った瞬間、少年は手を伸ばして女の前髪を払う。
 禍禍しい存在感ですべてを呪っているような、ケロイドが、美しい女の左半面を覆っていた。火傷に覆われた目は死んでいる。
 びくりと、フィラーラは震えた。
『……熱い…よ、熱い…』
 思い出してしまう光景がある。脳に、網膜に、張り付いて離れない映像。
 火傷は妹を連想させた。火の中で、ただ叫ぶしかできなかった妹。可愛らしかった顔を、身体を、蹂躙していく劫火。肉が焼ける匂いと、朽ちて行った命。
「くっ……」
 たった一人の妹さえ助けることの出来なかったやるせなさに俯く。
 少年の様子にザナデュスが眉をしかめると、フィラーラは苦しげにしたまま手を伸ばした。襲撃者である女の顔にふれるか、ふれないかの位置まで。
 細い手が、やわらかな光を発する。
「……な…っ、なに?」
 人が光を発するなどという常識外の光景に、女はかなり動揺したのだろう。高く上ずった声は鈴の音のような響きで、隠しようのない畏怖を表している。慌てて彼女は少年の手を強く払った。
 一連の動きにつられて視線を女に移したザナデュスが、驚いて口笛を吹く。
 彼女の顔に張り付いていた火傷がすっかり消え、視力まで回復しているのだ。
「なんだお前はっ!」
 見知らぬ力を前にした恐怖に、女は完全に震えていた。
 火傷が治ったことも、視力が回復したことも、彼女にしてみれば感謝どころか、信じられない事柄に対する恐怖だけが心を締める。
 誰でも本当は恐れているのだ。常識では説明できない力。人知を超えたもの。それに対する恐怖と畏怖。
 それらを如実にあらわす視線に、フィラーラが気分を害した様子はなかった。今までも何度もあったのだ。そういった視線を受けることなど。
 知らない人間に怯えられても、悔しくはないとフィラーラは思う。
 リーアは自分を恐れなかった。ユシェラも力を利用するといいながら、自分自身を見てくれる。だからそれで良かった。万人に理解されることなど、望んでもいない。
 フィラーラは女に返事をせず立ちあがり、女と同じような目で自分を見ているだろう男に視線を移す。けれど、想像を裏切ってザナデュスに変化はなかった。
 珍しい人間もいるなと、少し驚きながらフィラーラは思う。
 けれど頭を切り替えて、考えた。自分を狙わせた相手は誰だったのだろうか。
 まず考えられるのは、朱金の翼と敵対している組織だ。紺碧の炎といいたいところだが、この軍が表立って暗殺者を雇いはしない気がする。ならば紺碧の炎にそそのかされた別の人間――そこまで考えて、フィラーラは顔を上げた。
「そうか。紺碧の炎が敗退時の場所として決めていたというヴェスト。当然次の戦闘はヴェストで行われ、ヴェストは朱金の翼の支配下に組み込まれる。それで困るのは、あの男だけだ。連合政府の御世に巨額の富を築き、地下にシェルターを持っている男。水と食料とを売り捌き、今でもなお富を築き、人々を虐げる存在であるレゼン=フレスタ」
 無意識に唇の端に冷笑としかいえない笑みをうかべて、フィラーラは視線を女になげる。とても十七歳の少年とは思えぬ冷たさに、女は不覚にも圧倒された。
「朱金の翼は、僕を失った程度で瓦解するような組織じゃない。すでに緑化させた地域だけでも、なんとかなるんだ。だからヴェストはつぶす。レゼンを生かしておくこともないだろう。どちらが有利かは、すぐに分かるはずだ。仕える相手をかえるか、レゼンと手を切るなら問題はない。けれど、あくまでレゼンにつくのなら」
 言って少年はさらに目を細める。女が苦しげに息をついた。
「殺す」
 さらりとと言ってのけて、フィラーラはザナデュスをみやる。
「決心なんて、どうせすぐにはつかないだろうから。この人は貴方に任せたいのだけれど」
 静かな言葉には、先程の冷酷とは裏腹の優しさがあった。瞳にも、冷酷さと優しさの二つが見え隠れしている。その両極端な性質を、矛盾なく宿す不思議な少年にザナデュスはより興味を覚えて快活に笑った。
「わかった。こいつは必ずレゼンの元から引き離させるさ。元々、食っていけないから従ってるだけだろう。どうせ心服などしていないはずだからな。ついでに」
 いきなり言葉を切ると、ザナデュスはフィラーラの頭を突然なでる。
 思いがけない行為に、フィラーラは普段の無機的な表情を捨てて、目をぱちくりと大きく見開いた。そうすると、少年の幼さがひどく目立つ。
「俺の名はザナデュス=オルク。俺は誰にも仕えない主義なんだがな。あんたは気に入った。命令とは別に、あんたの頼みだったら聞いてやる。報酬なしにな。良かったら名前でも教えてくれんかな?」
 暗殺者である男が、名前をあかす。その上報酬なしで頼みもきいてやるという。
 随分とあけすけなザナデュスの好意に、フィラーラは自分のどこが気に入ったのだろうかと半ば本気で首をかしげた。なにせ自分がかなり無愛想である自覚は、少年にもあったのだ。それでも意外に律儀な性格であるので、
「フィラーラ=シェアリ。朱金の翼の――一応は、副指令官になるのかな」
 と、答える。
 ザナデュスはなるほどと言ってから、いきなり歩き出して女に近づくと、ひょいと抱き上げた。
「わっ! いきなり、なにをする!! 降ろせ!」
 女が叫ぶと、ザナデュスは大声で笑い出す。慌てている女と、まだ首をかしげているフィラーラを交互に見やった。
「暗殺者なんだろ? 朱金の翼の指導者の一人なんだろ? そのわりには、ずいぶんと可愛いな、お前たちは!」
 ザナデュスの言葉にフィラーラは絶句して、女は真っ赤になりながら笑い出した。
「かわいいのはどっちよ。簡単に誰かを信用したりして。名乗ってみせたりして。こんな時代になのに、随分と元気ね。絶望なんてこれっぽっちもしてないじゃない。あんたが気に入ったわ。私、テュエ=トゥースよ」
 ひとしきり笑ってから、女――テュエは軽くザナデュスの頬に口付ける。
 フィラーラといえば、この光景に呆気に取られて、頭を押さえていた。ふと声が聞こえて振り向く。
「ユシェラ…?」
 心当たりのある名を呼んで、フィラーラが姿を探すと、赤を基調とした豪奢な軍服が木の影に見えた。ユシェラもフィラーラに気付いて振り向いたが、少年以外の人物の存在を認めると目を細め、その場を睥睨する。
 ザナデュスはテュエを降ろしてユシェラを見やり、
「俺に仕事を頼みたいってのはお前だな?」
 トーンを落とした声で言う。
 ユシェラは、腰の銃にあてた手をはずした。
「そうだ。私はユシェラ=レヴァンス。朱金の翼の指導者だ。やって貰いたいことがある」
 ユシェラはザナデュスを見据えた。その激しい視線を臆せず受け止めながら、ザナデュスは小さく笑っている。
「ヴェストで、暴動を起こさせて欲しい」
 それだけユシェラが言った。
 フィラーラはユシェラを見上げ、それからザナデュスに視線を移す。言われた方は動じずに頷いた。
 次の瞬間にはザナデュスとテュエの姿が消える。
「民衆を利用する、か」
 呟いたフィラーラに何か説明をして、ユシェラは天を見上げた。
 青い天を駆けるものがある。青の空戦部隊が、ようやく到着したのだ。
「終わらせるさ、フィア。もういい加減、終わらせなくてはならない」
 ユシェラはフィラーラを連れて司令室に戻って行った。


 ヴェストの中を、エリクルと惺は歩いていた。
「ぶっそうね。みんなが目をギラギラさせて、何かを狙ってるのよ」
 道のあちこちで死んだように眠る人々を踏まないように気を付けながら、エリクルは辟易した様子で呟いていた。隣に立つ惺は、この街の汚さや物騒さなど念頭にまるでない様子で、街の地形を頭に叩き込もうと、じっと周囲を睨み付けている。
 こうなってしまうと、何を話し掛けても惺は自分の相手をしてくれないとわかっているので、さっきからエリクルは独り言を言い続ける羽目に陥っていた。
『争いは極力起こしたくない。汚い事は控えたいとか言いながら、いかに効率よく人を殺す為の作戦を考えるときは真剣なんだから』
 と、心の中でぼやいてもみる。
 レゼンはエリクルたちの為の建物を用意してくれ、どこから集めてきたのか、多くの武器弾薬などをそこに搬入してくれていた。
 のどかに二人がデートらしきものをしているのも実は暇だったからだ。物資搬入作業を手伝おうともしたが、逆に邪魔だといわれ、かといって仲間達もまだ集まってきていないので作戦会議も出来ず、惺と二人、街の様子を見ようということになったのだが。
 街は、ひどく剣呑な雰囲気に包まれていた。
 この街は、レゼンが持つ水と食料を買うことの出来る人間たちと、水と食料がある場所を目の前にしながらそれを手に入れることも出来ない人々の二つに分かれている。無論手に入れることの出来ない側の人間は、常に持っている者から水や食料を奪おうと、常に目を光らせていた。
 人間は極限まで命の危機に立たされると、獣になる。
 命が大事だとか、他人に優しくしなくては駄目だとか、そんな倫理観は、生活と命が保証されて初めて生まれるものであって、こんな時に存在するものではなかった。
「所詮、人なんてそんなものなのよね」
 立派なワンピースを着てる自分を見て、じろじろと品定めでもするように眺めてくる男を一瞥し、エリクルは舌打ちをする。
 水か食料を持っているか。それを伺っているのだ。命をつなぐために。
「人は、本当は完全な自由を手に入れてはいけないものかもしれない」
 自由を手にし、再び自由民主主義政府を取り戻そうと主張している紺碧の炎の女神と呼ばれる人間らしくない言葉を呟いて、エリクルは顔を上げた。
 時々こうやって静かな時を過ごすし、復讐に駆られる心がふと冷めた時、考えるのだ。
 紺碧の炎が主張する事は正しいのか。
 自由に、そして政治を行うべき人間をすべての人々に選ばせるべきなのか、と。
 彼女は家族が好きだった。家族と共に暮らした時間が好きだった。不幸せな人が居るなどという事はまったく考えず、ただ父と母と兄に甘え、幸せに時だけが過ぎていった日々。
 けれど外の世界に放り出されて知った。
 父が、この世界を死に追いやった人間であったということ。生き抜くために、人々は懐いてた動物たちを殺し、餓死した人そのものを食する事があるのだと。
 人がどれだけ残酷になれるのかを知った。
 母の形見のスタールビーの指輪が不意に胸元で鳴る。ネックレスに仕立てて、首にかけるそれが鳴ると彼女は思い出してしまう。
 両親がどうやって死んでいったか。兄がどうして死んだのか。
 思い出して、そして彼女は忘れた。
 時々間隙をぬって襲ってくる虚しさを。紺碧の炎に感じてしまう疑問を。
「私は仇がとりたい。それが私の自己満足にすぎなくても。エゴに過ぎなくても。朱金の翼が正しくても――」
 呟きは風に紛れて誰にも届かない。
 惺はエリクルの胸によぎる思いには気付かず、自らが信じる理想をかなえるべく知恵を巡らせていた。
 人はなぜ戦うのか。
 なぜ世界は滅亡に向かいつつあるのか。
 そんな疑問を唱えるものは、もういない。


 風の音が、砂の中に半分以上埋もれているコンクリートの小さな建物を激しくゆすっていた。ぎしぎしと時折不気味な音が響くのは、この建物が砂漠に埋もれつつある街の中で、手入れもされず、ずっと放っておかれ、朽ちてきているからだ。
 半ば朽ちた建物の暗い部屋の中で、数人が息を飲んで中央の椅子に座っている男を凝視していた。時折声を荒げてもいる。
 中央に座っている男は、朱金の翼に仕事を依頼されたはずのザナデュスだった。取り囲んでいる人々の年齢層はばらばらで共通していない。
 共通しているのは男達の目だった。死んだ魚のように濁った目。希望も何も持たず、ただ生きていく為に全てを犠牲にしてきた目だ。
 中央に座っているザナデュスは笑みを浮かべたまま、周りを囲む人間たちを見やっている。
「レゼンに対し反乱を起こせといったのか?」
 上ずった声で場に居る者達の中で最も年嵩であり、リーダー格らしい男が聞いてきた。それに頷く事で答えて、ザナデュスは相手を見据える。
「効率的だと思わないか?レゼンから水や食料を手に入れた人間を待ち伏せし、それを襲って手に入れようとするより。レゼンが持っている物、それを奪ってしまえばいいんだ」
「そんなことが、出来るわけないだろう。レゼンは私兵を沢山貯えてる。武器だって、どっかから入手して装備しているんだ。そんな奴等に、儂等がどうやって対抗出来るっていうんだっ!」
 興奮を露わに机を強く叩き付けて、男は顔を紅潮させた。
 反抗しようと思ったことはあった。事実、昔の話だが、レゼンの館を急襲したこともある。けれど、結果は多くの死体を生み出しただけで終わった。
 突然街にふらりとやってきた男に、虫けらのように死んでいく、それで満足なのか?などといわれる筋合いはなかった。倒せるものなら、やっていたことだ。
 リーダー格の男。グレス=ガーステンは、机を叩いた姿勢のまま、ザナデュスを睨み付ける。ザナデュスといえば、怒鳴るグレスを眺めるだけだ。怒り狂う相手を面白がっている。ひょい、と彼は手を広げた。
「誰も、お前たちだけで反抗しろだなんて言っていないさ。話は最後まで聞くんだな。聞けば、希望も湧いてくる」
 机の上にあったグレスの手を払い除けて、彼は突然懐に入れていた何かを置いた。
 一瞬場が静まる。当事者であるザナデュスを除いた人々の視線が、置かれた物に釘付けになったのだ。
「それって……!」
 沈黙を最初に破ったのは、十七、八くらいの年と思える少年だった。白に近い銀髪と灰色の目をしている。その目が、伸び放題に伸びている髪の下で鋭く光っていた。
 とっさに少年が机に置かれた物を取ろうと伸ばした手を払い除けて、ザナデュスは酷薄な笑みを浮かべる。
「焦らなくてもいいさ、坊主。これが珍しくないのは何もレゼンだけじゃないからな」
「坊主じゃない! デアリード=ガーズだ!」
 勢い良く叫んで、少年は自分の倍は年をとっているであろう男を睨み付ける。けれど机の上の物事を諦めているわけではないらしく、時折ザナデュスの隙を伺う素振りを見せていた。
 ザナデュスはそんなデアリードをちらと見てから、机に置いたものを無造作に突然少年に向かって放ってやる。
 吃驚したのはデアリードだけではない。
 その場に居た者の全てが驚いて、そして一瞬殺気がよぎった。
 ザナデュスが投げたもの。少年が欲しがったもの。それは、光を受けてきらきらと光るガラスのビンに入れられた、水だったのだ。
「っと。殺気立つなよ。言っただろ? なにもお前たちだけでやってみせろと言ったわけじゃないと。水はいくらでもある。食料だってな。武器だって、必要なだけ貸してやるさ。奪い合う必要はないんだ。わかるだろう、もう?誰が後ろ盾になるといっているのか。誰がお前たちを守ってやろうといってるのか」
「――朱金の翼なのか?」
 今現在。水や食料を自由にできるのは、朱金の翼しかないという噂はデアリードでさえも聞いたことがある。だから唸くように聞いた。ザナデュスは肯く。
「最後に言っておくが、レゼンは少ししか水も食料も作り出せないといっただろうが、それは嘘だ。奴はかなりの量を作る事が出来る。証拠に、奴は今ある組織に無償で大量の水と、食料と、武器とを提供している。そう。ある組織にな」
「え?」
「紺碧の炎。奴等のところにだ」
 さりげない言葉に、人々は凍りついた。
 紺碧の炎がレゼンと結んでいる?
 民衆の味方だと、多くの人々の自由の為に戦うと宣言している組織が。軍事政権をうちたてようとする朱金の翼は、自分たちのような弱者にとっては敵にすぎないと主張する組織が。
 圧政の象徴のようなレゼンと手をくんだ?
「結局、紺碧の炎とレゼンは同じなんだな? 自分たちだけ勝てればいい。だから、奴等は力を得るために、レゼンと手を結ぶんだな! 最低だ、そんなのって!」
 少しだけ信じていた。
 いつでも民衆の側にあり続けると主張していた紺碧の炎を。圧倒的な力で世界を支配しようとしている朱金の翼よりも信じて、希望のように思っていた。なのに。
 裏切られた思いに、デアリードは叫ぶ。
 それは、この場に居る者たち全員の心の声でもあった。
「俺はレゼンを潰す! 紺碧の炎だって同じだ! 絶対に絶対に許さない! 必ずっ」
 それは絞り出すような悲痛な声だった。

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