第三話:ヴェストの街で
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 ―― ヴェストの街。
 二十年前は別の名前で呼ばれていたこの街は、連合政府を形成していた主要国家の一つ、ロシア有数の商業都市として栄華を極めていた過去を持っている。
 かつて国家は、民主主義、社会主義、共産主義、軍事国家と、さまざまな形態を取って存在していた。それらの組織が、有史以来、大なり小なり多くの戦を繰り広げてきている。諍いの理由は自国の利益の確保や、面子の確保であったりもした。
 戦の記録が、そのまま人類の歩みであると断定できる血塗られた歴史。
 国と国とがいつまでも争いあう状況に、次第に人々は疲れていった。
 倦怠感は、国という存在があるから戦争が起きるのでは、という考えを生み出していった。特に白人種に賛同者が多く見られたこの考えは、人類を一括統治する政府を望む運動に発展し、現実味を増す。
 熱心な活動家に引きずられるようにして、地球連邦政府運営会議――略称、連合政府は誕生した。
 発足したとはいえ、すぐに国という概念を捨てることは不可能だった。そこで人々は指導者たるに相応しい国を選挙によって選び出し、それらの国の代表者に連合政府の運営を任せる事にしたのである。
 無論、この一連の動きが簡単に行われたわけではなかった。
 綺麗な理想にくるまれた統一政治など、結局のところ白人種に有利な世界が作られるだけだと猛烈に反発した有色人種の国は多かった。それらの国は誇りをかけて連合政府に戦いを挑み、そして滅ぼされて行く
 そうした犠牲を重ねて、連合政府は完全な体勢を整えていったのだ。
 けれど理想は夢物語に過ぎなかった。
 貧富の差はなくなるどころか激しくなり、連合政府を形成する国家と、それに携わってはいても決定権を持たない国家、そして有色人種に対する差別は激化していった。
 巨大すぎる権力を手中に収めた政府に反抗できる術はなく、次第に力におぼれた連合政府の人々は堕落して行く。
 高官たちは私腹を肥やし、逆らう者達に権力を侵害されないようにと巨大な兵力を貯えていく。戦争をなくすために作られた政府が、必要ないはずの軍事力を保持する矛盾が繰り広げられていくのだ。
 そのやり方に疑問を覚えたものもいれば、歓迎してわが世を謳歌したものもいる。前者がユシェラ=レヴァンスの父であり、後者がエリクル=カーラルディアの父であった。
 ユシェラの父、リドリ=レヴァンスは、連合政府軍の統括を任されていた人物であった。彼の妻は日本人であったが、妻の祖国は連合政府の御世になってからというもの衰退を余儀なくされていた。というのも、度重なる連合政府の資金提供命令に、徐々に経済が追い付かなくなってきていたからである。
 けれど、この国はまだ良かった。
 さまざまな資源を無償で提供する事を誓わされた国では餓死者も出ており、連合政府に対する不満が高まり、暴動が多々起こった。
 市民たちに突き動かされて、連合政府に反乱を起こそうとする国がいくつもあった。
 それらの国を完膚までに叩き潰す役割を担ったのが、連合政府軍である。軍を指揮し、幾度も無力な市民や劣勢の敵軍を撃滅してきたリドリは、次第に罪の意識に悩まされて行った。彼は有能な軍人であったけれども、無力な人々を殺し続けることの出来る人間ではなかったのだ。 
 リドリはある日、いつものように反乱を起こした者達を潰すように指示を受けた。そして彼はその任務を果たして――自殺した。
 リドリを慕っていた連合政府軍の人々は、彼の五歳になる息子に連合政府軍司令長官職を与えたいと考えた。そこで連合政府に直訴し、リドリの息子、ユシェラが司令長官に相応しい人間に成長すれば、その地位を与えるとの約定を取り付けたのだ。
 民主主義国家であるはずなのに世襲が許されたのだ。このおかしな出来事におかしいと意義をいい立てる者も、もはやいなかった。
 連合政府は、民主主義の名を借りた専制国家となりはてていたのだ。
 ユシェラは父が自殺して以来ずっと考えていた。いつも毅然としていた父が、なぜ死を選ばねばならなかったのか。民主主義であるはずの世界で、なぜ軍司令長官の座が約束されるようなことが起こるのか。
 十九年後、ユシェラは立つ。
 たった一部の人間たちの奢りによって崩壊に導かれた世界を救おうと。今度こそ、人々が平穏に暮らせる世界を作ろうと。ユシェラは答えを出していた。
 父が自殺したのは世界を救う力を持ちながら、力を行使せず、ただ世界の堕落していく様を見ているだけの自身を恥じたためだと。軍人であるという立場を超える事が出来ない自分を許すことができなかった為だと。
 ならばどんな業でも背負ってみせようと彼は決めた。たとえそれが、罪のない人々を大量に死なせることで、連合政府と同じ罪を背負うことになったとしても、構わなかった。
 一方、エリクルの父ハイリッヒ=カーラルディアは、連合政府を形成する要人中の要人であったリストリーの第一秘書を努めていた男だった。秘書とはいえ、権力は絶大だった。ハイリッヒの意志はそのままリストリーの意志と言えたからだ。
 リストリーは高齢であり、全ての業務を信頼していたハイリッヒに任せていた。彼は上官の威光をかさに、私腹を肥やし続け、弱者を迫害し、多くの人々を死に追いやっていた。それに罪の意識も抱かない男だった。
 彼の一言で、何万という人々が殺され、また飢え死にしていく。
 生物研究所が生み出した生物兵器を処理する際も、反対するどころか積極的に核を打ち込む候補地を上げ、それを奨励したものだ。
 結局核の冬はこないと断定されていたはずの核投下は、地球上の温暖化を劇的に早め、生態系を破壊するに到ったも。
 ハイリッヒはそれでも良かったのかもしれない。彼はシェルターの中で守られ、自分達さえ無事なら世界がどうなっても関係ないと考えられる人間だったから。
 結局ハイリッヒは世界を汚染に導いてから十八年後、朱金の翼の連合政府の要人潰しによって死んだ。
 おそらく最後まで、彼は自分と愛する者のことしか考えられない男だったろう。それでもハイリッヒを愛している者もいた。彼が大切だった人間もいた。
 父ハイリッヒと家族とを十七才で失った娘は、今その仇を取るために白い手に銃を持ち、可憐な唇から、生還率がないに等しい作戦の履行を求めて言葉を叫ぶ。
 仇を取るために軍を動かす。
 それはもしかすると、自分さえ良ければいいと考え、他人を傷つけ続けたハイリッヒによく似た行動であるかもしれなかった。
 ハイリッヒの娘であるエリクルは今、惺と共にヴェストの有力者を訪れている。
 アメリカやロシアが存在していた大地は直接核の被害を受けたわけではない。そのため、この地方の人々は一瞬で死にいたることはなく、徐々に汚染された大地の毒と、食糧不足と温暖化による砂漠化と、南極北極の氷が溶けつつあるために生じた陸地の沈没などの環境変化によって、じわじわと滅亡へと追いつめられていた。
 エリクルと惺が訪れたこの街も、砂漠の砂に腐食され、目指す建物を囲む高い外壁も、半分程砂の中に埋もれていた。その壁に守られた中に、彼らが訪れる屋敷はある。
 屋敷の持ち主、レゼン=フレスタはかつてかなりの財力を誇っていた有力者であった。ぬかりのない性格で、彼は多くの金を連合政府に貢ぐことで多くの情報を得ている。その中には、二十年前アジア地区に落とした核の情報も含まれていた。
 情報を得るとすぐに、地下シェルターの規模を拡大した。食料と水を保存するだけではなく、どんな水でも浄化し飲める事が出来ようにする機械を入れ、食料も栽培し、作り出せるような環境を作り上げたのだ。
 このおかげで、レゼンは生き残り、悲劇の後も裕福な実力者であり続ける事が出来たのだ。
 レゼンは部屋の中に入ってきたエリクルたちをみて、大仰に驚いたふりをしてみせた。
「これはこれは。紺碧の炎の女神と讃えられる人物がカーラルディア家のお嬢様で、しかも妙齢の美女だとは聞き及んでおりましたが、まさかこれ程美しい方だとは思いませんでしたな、レディ」
 大股で歩いてきて、レゼンは有無も言わさず彼女の手を取る。
 こんな時代にもかかわらずぶよぶよとよく肥えた太い指だった。エリクルはさり気なく、けれどあっさりと手を引き抜いて、にこやかに微笑んでみせる。
「父の生前は大変お世話になったそうで、お礼を申し上げますわ、レゼン公。けれど、今日は昔話をしにきたわけではありませんの」
 わざとらしく相手の事を尊称付きで呼んでみせて、エリクルはレゼンの顔を見つめた。レゼンはかつて媚び諂っていたハイリッヒ=カーラルディアの娘にへりくだった態度を取られた事に気を良くしてか、嬉しそうに笑っている。
 エリクルの隣に立つ惺は、憮然とした表情のまま立っていた。
 彼が不機嫌な理由に見当がついているので、エリクルは惺の態度を咎めはしなかった。ただ物事を綺麗に終わらせようとしすぎるのよと、心の中で毒付くのみである。
「それで、レディ…いやエリクル嬢はわたしに何をお望みなのですかな?」
 にこやかに椅子をすすめながら、レゼンはエリクルにワインの入ったグラスを渡す。それを受け取り、グラスに唇を湿らせる程度に口付けて、エリクルは笑った。
「わたくしが望むことぐらい、分かっておいでだと思いますが? ご聡明なレゼン公であらせられますもの。違いまして?」
 渡されたワインまで断ろうとする惺の脇腹に軽く肘打ちをくれてやりながら、エリクルはさらに綺麗に微笑んで見せる。
 こんな奴に媚びて笑うなと叫びたい惺の気持ちをエリクルは無視して、椅子から立って足を踏み出していた。
「レゼン公は、こんな時代だというのに、裕福でいらっしゃいますわ。ワインや、今お吸いになっていっらしゃる葉巻など、朱金の翼のユシェラ=レヴァンスでさえも手に入れることの出来ない嗜好品でしょう? それが出来るのは、レゼン公が水と食料を持っているから。それを手に入れたい人々が、数少ない貴重な品を持ってきて、交換してくれというから。この高い外壁と兵に守られたビルも、レゼン公、あなたが持っている偉大なる財産を守るため、ですわね?」
 長い言葉を一息で言いきり、エリクルは鋭い視線をレゼンに投げる。レゼンはその視線を一瞬受けてから、ぷいと目を逸らした。
「汚染されていない水と食料を持っているものは少ない。世界が汚染されてから、慌ててそういった機械を作ろうとしたものも多かったらしいが、彼らはそれが出来なかった。出来ても少なかった。すべての資源は汚染され、腐食されていた。研究できるほどの人間たちも、ばたばたと死んでいったからな。だからこそ、今、そういう機械を持っている者は稼ぐ事が出来る。持っているものを売り、それを欲しいと思うものが買う。それがいけないことか?」
「いいえ、いけないことではないでしょう。偽善者ならば、売るのではなく無償で人々に供給すべきだと言うのでしょうが、所詮全ての人に供給できるわけでもありませんもの。必ず贔屓が生まれるし、それを奪おうとして暴挙に走る人間もいるでしょう。結局力ある者しか手に入らないなら、最初から線引しておいたほうが優しさだと思いますわ」
 レゼンが作り出せる水と食料は限られている。
 すべての人に行き渡らせるなど不可能だった。にもかかわらず、誰にでもそれを与えようとすれば、いつか必ず歪みがでてくるのだ。
 最初は街の中のごく少ない人数だけだからいい。だが噂が広まり、いろいろな場所から人々が集まってきたらどうするのか?
 もともと量に限りのある水と食料は、すぐに欠乏してくるだろう。手に入らないものが出てくれば、手に入るものを憎み、不満を抱くだろう。
 そうすれば、必ず流血が起きる。入手できたものと入手できなかったものとの間で争いが起こり、最終的に理性を失った人々は水と食料を作り出すプラントを壊してしまうかもしれない。
 だからこそ与える人間を絞り、襲撃に備えるために館を要塞化するのは悪い事ではないと、さりげなくエリクルは言ってみせたのだ。
 レゼンは軍事政権に反発し、真の自由と豊かな生活を生み出すために何をすべきなのか共に考えようと民衆に訴える紺碧の炎のリーダーから、自分の行為は別に不当なものではないと言われるとは思っていなかったらしく、目を丸くしている。
 交渉というものは、相手の機先を征した者に分がある。エリクルはレゼンを丸め込むのは簡単だと踏んだ。
「でも、レゼン公? 水と食料が売れるものではなくなったら、どうします?」
「朱金の翼が起こすという奇跡の事か」 
 苦り切った顔で、レゼンは舌打ちをした。現在裕福な暮らしが出来てる彼にとって、再び世界に自然を戻し、秩序ある国家を作ろうとしている朱金の翼は邪魔な組織ということになる。
 もし、朱金の翼が軍事力で世界を統括したら。自然が蘇り、再び世界が平和になったらどうなるか。
 答えは簡単だった。保持している水と食料は特別な価値をなくした上、殺されるのだ。朱金の翼はレゼンのような人間を許さない。実際彼らに統括された地域で、資源を独り占めにして裕福に暮らしていたものが、殺されたという話も聞いている。
 レゼンにとって朱金の翼は悪だった。憎かった。けれどそれに対抗する紺碧の炎とて同じ事をするかもしれない。その恐れがレゼンを紺碧の炎に味方しようという気にもさせないでいたのだ。
「ようするに紺碧の炎は、朱金の翼に勝ったあと、儂らのような人間たちを潰したりはしないというのだな?」
「もちろん。むしろ、どのようにすれば経済を作り出すことが出来るのか教えて頂きたいくらいです」
 さりげなく、紺碧の炎が世界を統治できれば、レゼンを優遇すると示唆する。彼はしばらく大きな腹を揺すって考えていたようだが、意を決したように顔を上げた。
「分かった。紺碧の炎に味方しよう。それで何がしてほしい。物資か? 兵か? 武器か?」
「全てを」
「――わかった」
 指示下そうと部屋を出ようとしたレゼンに、
「レゼン公、朱金の翼で奇跡を起こさせるのは一人の人間だという事実をご存じ?」
 エリクルは突然言葉を投げる。レゼンは驚いて振り向いた。
「たった一人の人間? それは朱金の翼の宣伝ではないのか? より効果を劇的にするために仕立て上げた、お芝居では?」
「最初はそう思っていました。たった一人の人間が、この汚染されきった世界を浄化し、蘇らせることなど出来ないと。でも、ここに着いたときにその奇跡を見てきた私の兵の一人が報告しました。あれは決してお芝居ではないと。顔は見えなかったけれど、ただ一つの特徴が印象的だったと。フィラーラ=シェアリは、碧い髪をしていたとね」
「芝居ではないというのか」
 震える声で呟き、レゼンは二・三歩後ずさった。
「もしフィラーラ=シェアリを手に入れることが出来れば、レゼン公、あなたはどれだけの利益を手に入れられるかしらね?」
 悪魔が人間に悪知恵を吹き込むように、エリクルは金の髪をかきあげ、胡桃色の瞳を伏せてそれは綺麗に言った。
 レゼンは立ち竦んだまま動こうとしない。
 エリクルは惺の手を取ってレゼンの側を通り過ぎると、屋敷を後にした。
 屋敷を取り囲む壁を出てすぐに、惺はエリクルの両肩を掴んで彼女を睨みつける。
「エリクル! なんで、奴を肯定するようなことを言った! あいつは人々の弱みに付け込んでこんな時代でも儲ける事しか考えない奴なんだぞ! しかも、一体何を考えてる? フィラーラ=シェアリの名など出して、あいつに何をさせるつもりだっ」
 怒っているらしく、掴む惺の力はかなり強かった。エリクルは眉をひそめて、痛いから離してと言って手を振り払う。
「子供みたいに、怒鳴らないでよ。惺は私より九つも年上なのよ? 二十八才なんでしょ? なのに、なんでそんなに子供みたいなことばっかり言うのよ」
 頬を膨らませて怒ってみせるのは、彼女なりに傷ついた証拠だった。他の誰に理解されなくても一向にエリクルは構わないのだが、この青年は特別なのだ。 
 ときどき説教くさいのが玉に瑕だと、エリクルは思っている。
「……エリクル。手段を選ばないで目的を達成しようとするのは悪いことではなくても良い事でもない。だから、俺達は朱金の翼に反発しているんだ。彼らが望んでいる世界に平穏と自然を取り戻そうという願いは俺達と同じだ。違うのは、手段と、方法だ」
「だから、なに?」
「エリクル、君が今やったの事は、目的の為に信義を売ったことになるんだ。そうだろう? レゼンは人を救おうだなんて考えてない。自分が良ければそれで良い、それだけだ。あんな奴を味方に引き込んでどうする? 彼らに物資収集を依頼すれば、彼らの意見を聞かなくてはいけなくなる。紺碧の炎が、ああいう奴らの私兵になりさがるんだ」
 エリクルの大きな目をじっと見つめて、惺は一言一言を選び、慎重に言葉を継いでいた。彼はいつまでも、エリクルに恨みだけで動く人間でいてほしくないのだ。
 人を殺すということ、死なせるということを、復讐の手段だと割り切ってほしくないのだ。
 それが綺麗事だとは惺も分かっていた。
 研究所の中で、外の人々の苦しみを知らず育ったという点では、自分もエリクルと変わらない。朱金の翼のように、直接苦しんでいる人々を助けようとしている者達からしてみれば、何も出来ないくせに口だけ達者な理想主義者だと笑うだろう。
 けれど惺は理想を持っていたかった。
 こんな世界になってしまったからこそ、なりふり構わず日々の平和を求めるのではなく、新たな理想を現実のものにするために人々に動いてもらいたかった。
 それは、ユシェラが聞けば冷笑するであろう子供じみた願いであったけれども。
 エリクルはどこか冷めた目つきでそんな青年の顔を見やった。
「でも、勝てないじゃない。私達全然勝てないじゃない。朱金の翼は自然を蘇らせるわ。そのせいで、前は味方してくれた人たちも私達に味方してくれなくなったのよ。これじゃあ、ユシェラを殺せない」
「――エリクル」
「知ってる、惺? レゼンはね、何か特別な人たちと知合いだそうよ。昔、暗殺者と呼ばれてた人たち。報酬さえきちんと与えれば、なんでもしてくれるそうよ」
 エリクルの言葉が意味していることが何なのか、それを察することが出来た惺は、軽く眉をひそめた。
 頼むから、それ以上は言わないで欲しい。 
 そんな思いが惺の心を支配する。
「フィラーラを攫ってきてもらえばいいのよ。そしたら朱金の翼も戦えない。二年前と同じ状態に戻る。今ある武器を使い尽くしたら作れない。大軍を養えるだけの食料も調達出来ない。今の私達が、多くの兵を養えないでいるのと同じようにね」
「エリクル、君は簡単にフィラーラを攫えると思うか? たとえプロの暗殺者でもだ。朱金の翼だって警戒してるはずだ」
「だったら、惺」
 一瞬言葉を切って、エリクルは天を仰いだ。 
 汚い空だ。美しさの欠けらもない。それに比べて先ほどフィラーラが見せた奇跡によって蘇った空は、なんと美しいことだったろう。
 けれど、そんな美しさすら今のエリクルは忘れた。
「フィラーラを殺してしまえばいいのよ。たぶん、攫うよりも簡単なことよ」
 うっとりとした目でエリクルは言った。フィラーラを殺してしまえばいいと。この世界の自然を唯一取り戻すことの出来る人間の死を願う言葉を。狂気の目で。
 その目は、現実を見ていなかった。
 どこか遠くを見ている。
 ユシェラの姿か。それとも二年前に死んだという家族の無残な死体の光景か。
 エリクル=カーラルディアの時は、あの日、全てを失った日以来、やはり動いていなかったのだった。

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