第ニ話:悲しみを生み出すモノ
目次

 水気のない乾いた大地の上で、太陽が今日も激しく照りつけていた。見渡す限り永遠に続く砂漠の上を時折風が吹き荒れていく。
 ぽつんと、何か白い物が何もない砂の上に一つだけあった。
 その白い物の上で、何かがゆらゆらとたゆとうている。蜃気楼が発生しているのだ。そこに何かが見える。
 荒涼と続く砂漠の代わりに運河が流れ、赤茶けた岩石の代わりに樹木がうっそうと立ち並んでいる。朽ち捨てられた白いもの……人間の白骨の代わりに、生きた人々が楽しげに暮らしている姿だ。
 それは、大地が夢見ているかつての姿だろうか。それともこの砂漠の上で朽ち果てて行った、かつて生きていた者の白い骨が見ている幻なのだろうか。
 遥か遠くで爆音が聞こえていた。
 鉄とコンクリートで固めて要塞化した丘の上を、必死に守り戦っている者達がいる。
 紺碧の炎だった。彼らがこもる要塞を落とそうとする、朱金の翼との戦闘が始まってから三日経過している。けれど守る人々には、三日が一ヵ月も一年も続いているような、そんな感覚に襲われていた。
「ひるむな! 朱金の翼の方から来てくれたことを感謝していればいい! 目を瞑っていてもいい。砲撃しろっ! 必ず当たる!」
 叫んで、金色の髪を持つ娘は青い鉢巻きで止めた髪を揺らせて眦を釣り上げていた。士気は衰えていないのだが、それだけでは劣勢を食い止める事が出来ない。
 容赦なく彼らに砲弾をくわえ、抜け目なく要塞に突入する機会を窺っているのは、朱金の翼が誇る三大師団の一つ、赤の陸戦部隊だった。
 赤の陸戦部隊は、数もさる事ながら、装備と兵の質の高さで知られた、朱金の翼の最精鋭部隊なのだ。
 日々を生き抜いて行くだけで精いっぱいになる時代に、これだけの軍を保持しているのは奇跡のようだった。
 朱金の翼に対峙している組織、すなわち金色の娘・エリクル=カーラルディアが属している紺碧の炎にも兵はいる。だがそれは軍と呼べるような代物ではなかった。正式な訓練を受けた軍人が殆どいないのだ。
 紺碧の炎はレジスタンスに似ていて、朱金の翼は国家を支える正規軍そのものだ。
 朱金の翼は二年前、一体いかなる魔法によるのかは分からないが、荒れ果てた地球に自然を復活させる術を手に入れた。水や食料などの不足の為に養うことが出来ないでいた大軍を保持・整備し、多くの人材を集めてもいる。
 それらの要素が朱金の翼を、急激に国家レベルの高度なものに作り替えたのだ。
 当然朱金の翼の支持者も爆発的に増えていた。当然だろう。この軍は、人々が失ってしまった平穏な生活を与えることが出来るのだ。
 それに比べ、自然を復活させる術も人々に生活の安定を保証する術も持たない紺碧の炎は苦しかった。しかも彼らが擁護する連合政府は、人々からうらまれている。弱体化は免れなかった。
 紺碧の炎が訴えていることは、間違ってはいない。むしろ正しすぎるほどに、正しいのだ。
 彼らの価値観から言えば、人は自由であるものだった。だからこそ朱金の翼が行おうとしている軍事独裁政権を許してはならないのだ。過去の歴史において、民衆の味方を高らかに唱え独裁者となった人物を生み出した時代の、なんと暗かったことか。
 一人に力を与えすぎては、暴走した際の被害は絶大なものとなる。
 ゆえに彼らは叫ぶ。朱金の翼に味方してはならないと。過ちを侵してしまった連合政府でも、見捨ててはならず、腐敗した民主主義を建てなおす術を考えるべきで、一人の人間に莫大な権力を与えるべきではないと。
 けれど現実は、主張通りにはいかなかった。
 人々が考えるのは、未来の脅威より目前の恐怖であり、日々の生活の保障にすぎない。普通に生きていける、そんな場所を望んでいるだけに過ぎないのだ。
「愚かだ! 一日の平和を得る為に未来の脅威を容認するのか? みすみす独裁者を生み出す手伝いをするのか? いつユシェラやフィラーラが態度を豹変させるか分からないんだ! 彼等は神ではない! 人間なんだ!」
 国を明け渡そうとする人々に向かって、何度そう叫んだか分からなかった。
 虚しい叫びだった。ならば生活の保証を朱金の翼に変わって紺碧の炎がしてくれるのかと訴えられても、彼らは何も出来ないのだから。
 必死に自軍を叱咤する金色の娘……エリクルの隣で、被害状況を取り纏め、作戦を考えている青年がいた。年の頃は二十七、八くらいであろうか。少し焦茶がかった黒髪に、人懐こそうな瞳が印象的で、その瞳が彼を子供っぽく見せている。
 滝月惺(たきづき せい)。それが青年の名前だった。
 彼がエリクルと出会ったのは、一年前である。
 惺はある研究所に所属していた研究員だった。全てを失った大地に自然を蘇らせる方法を、連合政府特権階級の人々に命じられて研究する、隠された研究所の一員だったのだ。
 この研究所は、連合政府の有色人種排除計画をかねた、核攻撃の対象地域に住んでいた科学者、生物学者、技師など、様々な分野において才能を発揮していた人々で形成されていた。
 なんの事はない。有色人種の排除を企んだ人々は、利用価値のある有能な科学者や学者、技師などの人々を拉致し、一個所に集めて才能を利用しようと考えたのである。
 これが丁度二十年前の出来事だった。
 拉致し集められた人々と家族の中に、惺もいた。彼の父は高名な生物学者であり、また歴史学者としても名の知れた人物だったのだ。おかげで惺は、核攻撃にあうことなく、生き延びたのである。
 研究者達は連合政府を憎んでいた。けれど彼らが指示に従って研究を続けたのは、自分達の研究がいつか、祖国の回復に役立つのではないかと一縷の希望を持ったが為である。
 その中で惺は育った。
 小さな子供は多くはなかった為に、彼は何十人という専門家達に可愛がられ、知識を与えられていった。英才教育を施されているようなものである。その中で惺の父は、特に歴史を我が子に学ばせた。
 こんなにも狭い世界にとじこめられた惺が、狭い視野しか持たぬ大人に成長するのを嫌ったのだろう。そんな父親が話してくれる国の興亡、文化の発達、芸術を作り出していった偉人たちの話は、幼かった惺に大きな世界への夢と、知識と知恵を与えた。
 だからこそ最も連合政府を恨んでも良かったはずの惺が、朱金の翼ではなく紺碧の炎にいるのだ。歴史が教えてくれる独裁者を生み出すことの過ちが、惺に連合政府――すなわち民主主義政権の擁護と建て直しを訴えかけさせる。
 惺は一年前、研究所を解放させた紺碧の炎のエリクルと出会い、父から離れ研究者から軍の参謀になる事を決意した。
 秒刻みで入ってくる情報を整理しながら、惺は眉をしかめている。被害報告が凄まじく、とかく物資の減り方が激しい。戦えなくなるのは遠いことではないと判断する。
 そのうえ今し方入ってきたある情報が、決定的に紺碧の炎の敗北を決定付けていた。
「エリクル! もう無駄だ。これ以上戦闘を続けたら、引くことも出来なくなる!」
 叫んで、彼はエリクルに撤退の決断を促す。
「嫌よ! 嫌! 惺にはあの旗が見えないの? あれは、将軍旗よ! ユシェラがあそこにいるのよ! なんで引かなくちゃいけないのよ。折角……あいつがあそこにいるってのにっ!」
 捕まれた手を降り払おうともがいて、エリクルは正面を睨み付けた。彼女の頭を占めているのは、ユシェラ=レヴァンスの事だけなのだ。エリクルの戦う目的が、彼女の復讐の念を晴らす為だと知っている惺は、相変わらずの応えに軽く舌打ちをする。
「エリクル! 今ここで、奴の本隊を崩す事などは出来ない。君なら分かるはずだ。それにこれ以上は戦えない。ユシェラは本拠に援軍を出すよう指示している。青の空戦部隊が来るんだ!」
「青の空戦部隊…」
 微かにエリクルの声が震えた。
 彼女は二年前の十七才の時、家族を朱金の翼の戦闘機によって失っている。その戦闘機が属している部隊こそ、赤の陸戦部隊と同じ三大師団の一つ、青の空戦部隊なのだ。
 エリクル達がこもる要塞には対航空戦闘用兵器が完備されていない。空の部隊が来るということは、敗北を意味していた。
「わかった…撤退する」
 ぐっと手を握り締めて、エリクルは後方を顧みた。
 戦場でも迷彩服やそれに準じた戦闘服を着用しない彼女の、ゆったりとした裳裾のスカートがふわりと揺れる。
 まるで光が彼女を守るかのように、どんな弾丸も、爆風も、彼女を傷つけはしなかった。本陣から遠く離れた場所で戦っていても、エリクルの姿を見失うことはない。
 光ある場所にエリクルがある。常に光と共にある。その安心感こそが、紺碧の炎の人々に、彼女の「死んでこい」と言っているような命令でも遂行させるのだ。
 彼女が紺碧の炎の象徴と敬意を評されるようになったただ一つの理由がそれだ。
「残存兵力を集めよ! この要塞は捨てる! 一人でも多く生き残れ! 生き残って再びこの旗をかかげよ! これは敗北ではない。必ず我らは蘇る! わたしと、この旗の元に!」
 小気味のいい音を響かせて、エリクルは紺碧に染め抜いた旗を翻し、ある一点を指し示す。東だ。自分達に最後に残された拠点、シャラシャーン要塞がある方角。
 必ず再起する。そんな強い意志が込められたエリクルの動作に、人々は歓喜した。わあっという歓声が響きわたって、撤退の為の行動に移っていく。敗北時に撤退が決まったとき、どうすれば良いかを指示していたのは総参謀長である惺だ。
 エリクルはというと、自分の役目は終わったとばかりに、前方を――ユシェラがいるはずの方角を睨み据えているだけ。
 その視線のずっと先で、撤退していく紺碧の炎を追撃しようと息巻く麾下の将を退けて、逆に要塞の包囲の一角を開けるように指示した朱金の翼の指導者ユシェラ=レヴァンスは、手に入れた地図を熱心に見つめていた。
 一つの作戦の成功を一々喜んでいる暇は彼にはない。
 仮にたてた司令室のドアが開いて、誰かが入ってくる。
 許しもなく部屋に入ることを彼が認めているのは一人しかいない。青年は地図に落としていた目をあげて、他の誰にも向けないような穏やかな笑みを来訪者に向けた。
「フィア。一体どこに姿をくらましていたんだ? まさか、要塞戦をその目で見てきたとは言わないのだろうが」
 少年の名を愛称で呼んで、ユシェラは尋ねる。だが入ってきたフィラーラは黙ったままだ。
 二年前から朱金の翼の組織力が増したのも、自然の復活を果たせるようになったのも、この少年の力あってこその話だった。
 その功績一つだけでも、フィラーラには朱金の翼の重要な位置をしめる価値がある。けれど彼が無断で総司令官であるユシェラの部屋に入れるのは、その力のせいだけではなかった。
 フィラーラ自身が、軍事・政治双方に渡る才能を持っていたことと、年は離れてこそいれ、ユシェラと友人と呼べる間柄になっていた為だ。
 ユシェラがフィラーラをフィアと呼ぶのも、フィラーラがユシェラと名で呼ぶのも、それが理由だ。
 司令室の中はひどく簡素で、調度品の類は全く存在していなかった。簡素なデスクと、資料をおく棚。それと窓枠に鉄棒を何本か立てただけの窓があるだけだ。
 朱金の翼の指導者、闇色の髪と深い蒼の瞳をしたユシェラ=レヴァンスの部屋と聞いて人々が想像する豪華さはここにはない。
「…紺碧の炎のリーダーまで逃がしてしまう事はなかったんだ」
 机の前まで無頓着に歩き、フィラーラはおもむろにユシェラを睨み付けた。
 わざと要塞の包囲の一角を開け、敵の完全攻略を避けた事を少年が怒っているのだと理解して、ユシェラは苦笑する。
 彼は自分の肩あたりにある少年の頭に、ぽんと手を置いた。
「紺碧の炎は戦う力を失って敗走するのではない。彼等は負けを認めていない、ならばあれは撤退であって敗走ではないのだ。総攻撃をかけて、紺碧の炎をつぶすことは出来る。だが相応の被害を被ることを覚悟しなくてはならないだろう。窮鼠猫を噛むという。弱者を追い詰め死兵と化さし、被害を拡大したくはない。それは分かっているだろう、フィア? 青の空戦部隊が間に合わなかったという時点で、我々は勝機を逸してしまったのだ」
「――そんな事…分かってる」
 悔しげに言って、フィラーラは目を逸らした。
 ユシェラの言葉が正しいことは分かっていた。けれど悔しく思う気持ちを止めることが出来ない。心は紺碧の炎を早急に潰し、仇である連合政府を排除したがっていた。
 妹の死が網膜から離れない。
 寝ても、冷めても。作戦をこの目でみても、自然を復活させても。
 意味のある光景はなに一つなくて、すべてはあの炎の光景が取って変わる。
「フィア。お前にとって、意味があるのは紺碧の炎を排除し、その奥に控えている連合政府を潰すことだけなのか?」
「……え?」
 唐突な言葉に、フィラーラは呆気に取られたように目を見張った。
 何か答えなくては、と思ったが、言葉が出てこない。というよりも、復讐を終えた後のことなど、まったく考えていなかったのだ。
 復讐はいつしか、終わるもの。
 当たり前のことだが、それを考えたことがなかった。考えたくなかった、というよりも。ほんとうに、考えもしなかった自分に驚く。
 なにか変だ、とこんな時思う。自分はなにかが変なのだ。どこか壊れているような気がしてならない。今も――いや、ずっとずっと昔から。
「フィア?」
 心配の含まれた声音に、フィラーラは顔を上げる。
「なんでもない。分からないんだ、全然。今も、そして先のことも」
 ユシェラに言葉を飾るつもりはなかったから、小さく言って少年は顔を上げる。
 つられるように窓をみやった青年は、息を一つはいて、長い黒髪を風にゆらせた。
「終わらせるさ、フィア。被害を最小限に食いとどめる方法で、紺碧の炎は潰す。連合政府もしかりだ。その後も、わたしにはお前が必要だな」
「大丈夫だよ、ユシェラ。復讐がおわったら、自殺するなんて言ってない。少なくとも、生きていく理由はあるから」
 どうして死を考えないのだろう? そんなふうに、フィラーラは思う。
 不思議で仕方ない。復讐が終わったら、何もないはずなのに。どうして自分はたった今、生きることを考えたのだろう?
 考えを突き詰めれば深みにはまりそうで、フィラーラはそれを嫌って作戦を呟く。
「紺碧の炎は、今はエリクル=カーラディアのカリスマによってなんとか存続している。だからこそ、彼女を殺してしまえば組織が瓦解するという見方もある。でもそれ以上に彼女の死に怒りを覚えて、復讐を誓ってくる可能性も高い。そういう事なんだろ?」
「ああ。指導者を殺し統率を失った組織は、おそらく個々にゲリラ戦を仕掛けてくるだろう。復讐者は理想を伴わない。ならば、今まで彼らがしなかったことをしてくるはずだ。緑化させた区域に火を放ち、支持を奪う為にそこを占領する。わたしなら最初から作戦に組み込んだだろ行動だな」
「紺碧の炎は甘いんだよ。民衆に正義を説くことで、腹を空かせた人々が味方につくと思っている。そんなこと有り得ないのに。そして正義を説くからこそ、彼らは占領者になることが出来ない。朱金の翼を支える浄化済みのエリアに攻撃を仕掛けることも出来ない。扱いやすいといえば、たしかにそうなのもかしれない」
「だからこそ、まだエリクル=カーラルディアを除くのは早い。そういうことだ、フィア」
「ゲリラ戦――か」
 紺碧の炎がゲリラ戦を展開したら。
 いくら朱金の翼でも、浄化した区域すべてに厳重体制を取れるわけではない。
 自分が出会った悲劇のように、緑を焼かれ、泣き叫ぶ子供たちがでるのだろう。目の前で、兄弟を失う人間が生まれるのだろう。
「不思議だと思うよ。戦争をして、敵味方に分かれているっていうのに。朱金の翼も、紺碧の炎も。ある一線を越えようとはしない。優勢であるうちはともかくとして、劣勢でありながら、緑化地域の食料や人員を奪いとる作戦をたてず、それを徹底させているエリクルっていうのは、どんな指導者なんだろうな」
「将の器を持った人物なのだろうさ」
「ユシェラみたいな人間かもしれないんだ」
「わたしか?」
「そう」
 くすくすと笑って、フィラーラはまだ見ぬエリクルのことを考えてみる
 二つの組織の指導者は、会ったこともないのに戦っている。
 相手は、ユシェラがそれなりの敬意を紺碧の炎の指導者に抱いていることを知っているのだろうか?
「戦争って、なんだか不思議なものだよね」
 短く言うと、フィラーラはユシェラが机の上に広げた地図に気付いて視線をやった。かつてロシアにあった都市。昔呼ばれた名は捨てた街、ヴェストに赤い印がつけてある。すぐに視線に気付いて、ユシェラが片手を上げた。
「民衆の支持を紺碧の炎から離さなければならない。あまり気分のよい作戦ではないがな。それなりの効果は期待できる」
「珍しい。ユシェラが町の人間を作戦に使うなんて」
 ヴェストのゲリラ集団の首謀者らしき人間の名前に、フィラーラが目を見張る。
「私は奇麗事だけを口に出来る聖人君子ではないからな」
「分かってるよ。責めてるわけじゃないんだ。僕だって聖人君子には程遠いから」
 困ったような口調になったフィラーラに肯いて、ユシェラは少し真剣な顔になる。
「フィア、一つ効果的な宣伝が必要だからな。頼む」
「了解」
 突然の依頼だったが、フィラーラはすぐにユシェラの言葉の意味を理解したらしい。すぐに部屋を出ていく。
 去っていく後ろ姿を見やりながら、ユシェラは眼差しを机上に向けた。
「いい加減終わらせる必要がある。小競り合いは、飽きたからな」
 どこか不遜な笑みが、口元には浮かんでいた。


「なんで追撃してこなかったのかしらね」 
 ばさりと、頭にまとい付いてくる砂を髪をかきあげることで落として、豊かに波打つ豪奢な金色の髪の娘エリクルは背後を顧みた。
 遥か遠方で煙が見えるのは、つい先刻までエリクルたちがこもっていた小さな丘にあった要塞が火災を起こしているからだ。
 ここから見える要塞は、要塞と呼ぶには余りに小さくて、とても朱金の翼の精鋭軍を迎え撃っていたとは思えない。よくもまあ戦ったものだと今更ながらに思う。
 激しくないとはお世辞でもいいたくない敵の追撃から、軍を撤退させる作戦を立て、成功させた張本人である惺にしてみれば、苦笑するしかなかった。
「あれを激しくないといわれたら、なにを持って激しいというのかが分からないな」
 ちゃかすように言って、惺は旧式のジープのハンドルを片手で操縦しながら、水の入った水筒をエリクルに渡す。受け取って、彼女は高らかに笑った。
「惺はあれが朱金の翼の本当の追撃だと思う? あの程度が?」
「思わないよ」
 彼女の言葉をあっさりと肯定して、惺は突然強くハンドルを切ってみせた。反動で倒れかけて、エリクルは乱暴な運転をした惺を睨み付ける。
「こんなに焦って逃げないでも、朱金の翼はもう追ってこないわよ。あいつら、人のこと馬鹿にしてるんだわ。私たちをわざと見逃すなんて。こんなことだったら、ばらばらに逃げなくても良かったわ」
「それはそうだろうね。そう考えないかぎり、こうも簡単に撤退できるのはおかしすぎるからな。朱金の翼のユシェラは利用できるものは何でも利用する。例え敵でもという評価は、あながち偽りではないらしい」
 ため息と共にまだ何か言おうとした惺は、ふと言葉を切った。
 軽く眉をしかめ、空を凝視する。
 つられて、エリクルも空を見上げた。 
 汚染された空は灰色をしている。死んだ生物の目のように淀んだ色。太陽の光だけが、いつも空から降ってきた。希望も美しさも与えてくれない空は、地上をからからに乾かす無情の熱だけを人に与えている。
 温暖化は進み、ついに南極北極の氷まで解け始めていた。地上は海に覆い尽くされるのだろう。青くない海に。汚染された黒い海の中に沈んで。
 けれど惺たちが凝視しているのは、失われたはずの青空だった。
 澄み切った色。かつて空と海とを飾り、地球を輝かせていた海の碧と空の蒼だ。
 それが丁度、先刻までエリクル達がいた要塞の上の空にあった。
「なんだ?」
「惺。ねえ、もしかして――これ」
 困惑気なエリクルが、何を言いたいのかが惺にも分かる。
 朱金の翼の制圧した区域に偵察に出した部隊の報告や人々の噂に、その現象がのぼることがある。
 突如現れる青い色。
 惺が研究し続けた技術がある。――荒廃した自然を復活させ、浄化させる技術だ。結局は挫折し、頓挫してしまったが、夢を忘れたわけではない。
 その方法を朱金の翼が保持し、やってのけるという。
 たった一人の、フィラーラという名の少年が。
 奇跡が起こるのかと、息を呑み込んで待ってしまう。彼らの視線を充分に集めながら、青の範囲は徐々に広がり、雄大な弧を描き始めた。
 その円が天を覆い尽くす少し前から。
 紺碧の炎が撤退を余儀なくされた砦のすぐ近くに、フィラーラは立っていた。
 天上を覆い尽くす青と同じ、微妙な色彩を宿す碧色の髪が、肩の上で揺れていた。
 染色せずに人の髪が青いなど、考えられないことだった。けれど彼の髪は碧くて、それが奇妙さよりも神秘的な雰囲気を添えている。
 静かに佇みながら、フィラーラはざわめきを聞いていた。
 夢でも見ているような顔つきの者たちが、彼を取り囲むようにしている。珍しいことではない。フィラーラが故意に多くの人々の前で力を使う時には、必ずといってもよい程見ることの出来る光景だった。
 神でもないはずの自分に跪く人々を、半ば無感動にフィラーラは見やっていた。彼には、自分が崇められているという意識はない。ただ偶然、彼らが望む力が自分にあって、その力だけが望まれているだけなのだ。
 別に自分自身を求められているわけではない。所詮宣伝効果の一つに過ぎないのだ。
 フィラーラは眼差しを半分閉ざしたまま、細い両手を前に伸ばした。ちょうど胸の前に何かを捧げ持つような体勢を作る。
 呼応して風が吹いた。静かで清冽な気配を宿した風だ。
 風はゆっくりとフィラーラの身体を取り巻くと、一条の光となって天に吸い込まれて行く。
 そこから青空が生まれた。
「空が。空が青い」
 失われた光景。
 忘れた大人達もいれば、それを最初から知らない子供たちもいる。
 人々の目をひき付けたまま、青い空は弧を描いて急速に大きくなっていった。けれど青い色は長続きせず、不意に雲が生まれる。それに人々が落胆する間を与えず、雲は大きくなって雨を落としはじめた。
 黒い雨ではない。清らかな恵みの雨だ。
 降り注いでくる雨は乾ききった世界を潤した後、大地の浄化をも促した。
 緑の木々が、色とりどりの花が、煌めく川が、美しい姿を蘇らせてゆく。
 まるで夢のような奇跡だった。
 人々は奇跡によって、朱金の翼が軍事組織である事実に怯えた心を忘れた。自然を復活させるなどというホラをふく、詐欺師ではないかと疑った気持ちを恥もした。
 考えてみれば、今まで体験してきた現実以上の地獄があるはずがない。
 飲める水を手に入れる為に誰かを殺し、一日の糧を求めるために血を流す。体力のない子供たちは死んでいき、その死肉を食らう者を批難することもできなかった日々。
 それが終わったのだ。人々は感極まって騒いでいる。
 感動にざわめく人々の輪に入ることもなく、フィラーラはきびすを返していた。
 同じ頃、遠くから奇跡を見守ったエリクルはジープの上で強く唇を噛みしめる。
「これが朱金の翼を支える、最大の力なんだわ」
 呟いて、彼女は髪をかきあげ眼差しを上げる。
「許せない。こんな力、認めないわ。フィラーラとかいう奴がユシェラを支える力になるのなら。それを奪うか――それとも」
 敗因を生み出した原因が、こんな神懸りな力であることが悔しい。黒い雨ではない水の雨がふりしきる光景を、喜ぶことは出来なかった。これこそが朱金の翼を支える最大の力なのだから。
 排除しなくてはいけない。
「エリクル、ヴェストが見える」
 惺の声に前を向くと、砂漠の中にぽつんとたたずむ町が見えた。今通り抜けてきた奇跡の場とは異なり、見慣れた砂漠の中に埋もれるように存在している。
 町の中に、高い壁が立っているのが見える。小さく蠢いているように見えるのは、そこを守っている警備兵の姿だろうか。
「平和な場所とは言えないみたいね、惺」
 その声に頷いた惺の目にも、ヴェストは穏やかには見えなかった。だがここで、自分たちは再起しなければならない。敗走した際に定めた合流地点が、ここ、ヴェストの地であったから。
 エリクルと惺はその目で。ユシェラは地図の上で。フィラーラは細めた碧い瞳の先に、ヴェストを見ていた。

目次