全ての始まりの時
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―― エリクル=カーラルディア ――

 一瞬の出来事だった。
 視界が唐突に純白に染められ、鼓膜を破かんとする轟音が耳を貫く。そして少女が意識を手放した。
 金の髪の少女、エリクル=カーラルディアは幸せで無知な娘だった。
 少女が意識を失った今から十八年前。
 当時の人類は、極限まで発達させた科学の恩恵を受けながら、怠惰な営みを続けていた。
 努力せずとも安穏が与えられる時代は、希望を奪い、活力をも消していってしまう。
 人は際限なく堕落していった。
 刺激もなく、希望もなく、ただぬるま湯の生活に浸り込んだ人々の理性は汚染されつくされ、禁断とされる事柄に手を伸ばしていた。
 クローン技術や遺伝子操作の研究が盛んに進み、実験が幾度も繰り返された。遺伝子を大幅に組みかえられて生まれたクローン体は、自然界では生まれ得なかったはずの命だった。
 それらは全て、兵器として開発され誕生している。そうやって誕生した人工生命体が数を増やせば、自然被害報告が上がるようになった。
 被害は次第に増え、やがて人工生命体を生み出した科学者たちはある程度の処分を断行する。だが人を嘲笑うように、兵器としての最高の性能を付加された人工生命は、排除されずに生き延びたのだ。
 排除不可能なモノを作り出してしまった。
 現実に青ざめた科学者たちは、ある決意をする。地上最強の排除力と破壊力を保持する核の使用を思い付いたのだ。
 当時、世界は白色人種によって世界は統治されていた。政府が核の使用に選んだ大地は、黄色人種、黒色人種の多く住むエリアだった。白人種こそが優れていると考える人々によって、目障りな有色人種を一掃させる計画がたてられたのだ。
 核を行使した人々は、それぞれ完全防備のシェルターに避難して、実行に移された。地球を破壊せぬ量と計算された核は、存分に猛威を奮った。結果環境は地獄と化したのだ。
 核を落とした者ではなく、何も知らなかった一般の人々がすむ大地が。
 幸せな日々を享受する加害者達が暮らす施設の中で、エリクル=カーラルディアは育った。外界の状況も知らず、ゆえに、自分達が憎悪の対象であることも知らずに。
 その日を生き延びる糧の為に、誰かが誰かを殺す世界が現実に存在することなど彼女は知らないのだ。
 それは罪だろうか。それとも何も知らないのだから、罪とはいえないのだろうか?
 胸をえぐるような臭気を捕らえて、僅かに少女の睫毛が震えた。
 大地の上にうつ伏せになっている自分自身に気付いて、彼女は起き上がろうと身じろぎをする。けれど中々動くことが出来ず、背中になにかが乗っていることに気付いた。
 なんだろうと思いながらも、今はただ立ち上がりたいとしか考えられずに、必死に腕に力をこめる。と、その甲斐あって、背を覆い被さっていたものが動いた。
 ごとり、と音が響く。視界一杯に、落ちてきたものが飛び込んできた。
「………ひっ!!」
 喉の奥から、空気が洩れるような悲鳴が零れる。
 手、だった。目の前に落ちてきたのは手だったのだ。
 色の白い、家事仕事など全く知らなだろう貴婦人の手。指には見慣れた物が填まっている。スタールビーの大きな指輪。母が父から貰ったと喜んでいた指輪だ。
 肘から下しかない、見慣れたはずの優しい手が生み出した…無惨な光景。
「お母…さ…ま…お…父さま…?」
 泣き叫んでしまいたい衝動をなんとかこらえて、彼女は前に這い出る。
 そして見た。自分の圧し掛かっていた物の正体を。両親の……肉塊を。 
 衝撃が唐突に訪れた時、見るも無惨なソレに変わり果てた両親は、おそらく咄嗟にエリクルを抱きしめて、庇ったのだろう。
 ぼんやりと、エリクルは惨劇の光景を見つめる。
 優しかった父。美しかった母。その二人が、原形もとどめぬほどの塊になった、現実。
 遠くで音がしていた。飛び去っていく鈍色の機影が僅かに見える。
 それこそが、この施設を破壊しつくした朱金の翼、青の空戦部隊の戦闘機であったのだが、エリクルにそれを理解する情報は与えられていなかった。
 ただ、それを目に焼き付ける。
 ふらりと歩き出した。誰か頼れる人がほしかった。
 泣いて叫ぶ自分を抱きしめて、大丈夫だと言ってくれる人がほしかった。そうでなければ泣くことも出来ない。
 けれど現実は無惨で、見渡す限りの荒野だけがただ広がっている。
「お兄様は……?」
 残骸の続く道を進んで、がらくたとかした家を見上げる。二階に兄はいたはずだった。生きていれば、駆け寄って、抱きしめて、そして甘やかしてくれたはずの、兄。
 そこにあったのは、鮮血に濡れた腕が、無念げに残骸の中から突き出ていただけだったけれど。
「嫌よ……」 
 現実が、日常が、崩れてゆく…崩れて…。
「こんなの、嘘よ! 認めない…こんなの、絶対に認めないんだから。嫌ぁ!」
 必死に否定するのに、現実が変わってくれないのはどうして?
 その絶叫が人を呼んだのか、不意に足音が聞こえてきた。
 エリクルが今まで聞いたこともない、どこか粗野で乱暴な足音。
「大丈夫か? よかった、生きているんだな」
 見知らぬ青年だった。狭い世界の中で育ったエリクルは、このシェルター内ですごしている人間ならば、誰でも分かる自信があったのに。そんな世界が壊れていく。
「誰よ? あなた」
 興味を覚えることが出来なくて、どこか虚ろにエリクルは尋ねる。
「紺碧の炎。軍事力で統一国家を作ろうとしている朱金の翼に抵抗する組織だ」
 青年はエリクルの様子に不審を覚えた様子もなく、どこか誇らしげに、答えた。
「朱金の翼?」
「連合政府の軍人でありながら政府に反旗を翻し、その軍事力を利用してユシェラ=レヴァンスが作り上げた軍事組織の事だ。連合政府に大々的に宣戦布告をつきつけ、幾度も武力衝突を繰り返している。ここが襲われたのも、連合政府の要人達を排除する為だったに違いない! あいつらならやりかねないことだ!」
 悔しげな青年の叫びも、エリクルにしてみれば意味はなかった。
 けれど唐突に一つの事実に思い当たって顔を上げる。この男は、すべてを奪っていった相手のことを言っているのか?
「朱金の…翼…」
 小さくあどけなく呟いて、エリクルは笑った。凄絶に。
 殺してやる、と思った。朱金の翼を潰し、そのユシェラとかいう男を惨殺してやると。
「あなた達は力を持っているのね? その、ユシェラとかいう男を殺す為の力を、組織力を。持っているというのね? そう…そうね…?」
 うっとりとした眼差しで、エリクルは尋ねる。
 気おされて、青年が後退さった。それを見てもう一度笑う。
 それから二年後。紺碧の炎の女神と讃えられるようになるエリクル=カーラルディアは、この時復讐を決意したのだった。

―― フィラーラ=シェアリ ――

 走っていた。目をつぶっても走れるだろう、慣れ親しんだ道のりを。
 奇妙な静けさが周囲を支配していて、走る少年の息遣いだけが、やけに響いている。
 激しい感情にそめられた彼の視線の先は、紅に染まっていた。その側に、緑色の旗。
 地球に核をおとし、荒廃へと導いた当事者である忌むべき組織の象徴。
「なんで連合政府の奴らがこんな所にいるんだよ!」
 憤りの叫びがどこか悲鳴に似ていて、少年はぐっと唇を噛み締める。と同時に、鼻を付く刺激臭に気付いて眉をひそめた。蛋白質の焼ける……人の、焼ける、臭い?
「リーア! どこにいるっ? リーア!」
 脳裏で点滅する最悪の事態を必死に否定して、村に取り残されているはずの妹を呼ぶ。
 ここは美しい村だった。自然の恵みなど失ったはずの世界において、奇跡のように存在していた緑豊かな村。それが焼けていく。灰塵とかして、わずかな希望は失せてゆく。
 村の内部に駆け込もうとして、少年はバランスを崩した。
「なんだ?」
 入れないのだ。目には何もないように映るのに、そこに壁がある。空気圧に似た壁が。
「ふざけるんじゃない!」
 憤りに強く透明な壁を殴り付けるが、負けたのは手だった。あまりの衝撃にはじけた皮膚が、鮮血をほとばしらせ、大地の上に零れ落ちてゆく。
「村が…反射してたのは、これが理由だったのか?」
 必死に考える。連合政府の旗がある以上、村に火を放ったのは奴等に違いない。ならば、こんな非常識な壁の存在も、彼らがやったとしか考えられなかった。
 排除対象者を閉じ込めて、焼く。そんなことが出来るのも、世界を統治していた連合政府しかいない。
「自然を手に入れる為に! それだけの為に、奴等は村を焼くのか!?」
 あまりの悔しさに叫んで、少年は素早く周囲を見渡した。
 一個所でもいい。この空気圧の壁が薄くなっているところはないのかと、思ったのだ。
「おにい、ちゃん。どこ、ねえ、どこにいるの?」
 雷に打たれたように身体を強張らせて、少年が振り向く。
 一番大切な、少女の声。聞き間違えるわけがない、妹の声だ。
「リーア!」
「おにいちゃん!」
 煙と炎に侵食されるように。妹は、ゆらりと立ち尽くして泣いていた。
 すすにまみれた全身は、すでに火傷をおっている。妹の自慢だったつややかな黒髪も、今は縮れてしまって、無惨な有り様だった。
 死が忍び寄っている状態の中で、少女は笑った。兄を見つけた、その安心感に。
「リーア!」
 壁の存在を忘れて、少年は妹を抱きしめようと手をのばす。妹もまた、手を伸ばした。
 けれど二人の手は届かなかった。壁が結局、冷酷なままそこにあって引き裂いている。
「…お兄ちゃん……?」
 不思議そうに呟き、リーアは強く壁を叩く。
 けれど打ち破ることの出来ない非情な現実に、さっと怯えの色が少女の顔に走った。
 安堵を与えられた上での絶望が、リーアを打ちのめす。
「おにいちゃん、おにいちゃん、熱いよ。恐いよ。ねえ、おにいちゃん!」
 助けて、といわないのは、少女なりに分かっていたからだろうか?
 どうしようもない現実が、変えられない悲劇が、自分自身を飲み込んだのだと悟ってしまったからなのだろうか?
 少年は必死に透明な壁を叩きながら、妹の名を呼び、妹に火が近づきつつある光景を睨みつけた。心臓が早鐘のように打って、額に汗がうかぶ。自分の命などどうでも良いほどに、助けたい相手は目の前にいる。なのに助けるどころか触れることも出来ない。
「ふざけるな、こんなの、絶対に許せるもんか! 水よ、こいっ!」
 唐突に少年が叫ぶ。同時に、光が生まれて天を貫いた。
 天空がうごめく。雲が動き雨雲が生まれると、とてつもない勢いの水が透明な壁を叩き付けた。同時に発生した雷が、全てを浄化する勢いで、激しく地上に降臨する。
「うそだ、……こんなの、嘘だ…」
 けれど壁は…消滅しなかった。
 炎にのまれる妹の目の前で、雨に濡れるのは少年だけだ。
 徐々に火が少女の身体に燃え移る。身悶え、逃げ場を求めて必死に壁にすがりつく妹の身体が壊されていく。皮膚には無数の水泡がうまれて、ぽっかりと助けを求め開かれる口腔内にさえ、火が吸い込まれていく。悲鳴はすでに人間の声とも思えぬ呻き声にかわり、ただただ妹は、目の前で、のた打ち回っていた。
「……リーア…」
 少年はそれを見ていた。聞いていた。現実から逃げることも出来ずに。
 村の奥に存在していた湖を調べに行っていたらしい連合政府の兵達が、雨に驚いて戻ってくる気配を感じながら、少年は動くことが出来ないでいる。一人残さず殺しつくせと命令されている兵に、殺される可能性もあったけれど。
 けれどどうして動くことが出来るだろう。最愛の妹を守れなかった自分が、どうして自分自身の命を守る為の行動など起こせるだろう?
 朦朧とした状態で少年は壁によりかかり、抵抗を手放して座り込んだ。
 銃が構えられた音がする。けれど彼は動かない。ただ座ったまま。
 濡れる大地に響いた銃声。
 妹はあんなにも苦しんで死んだのに、自分はこうも簡単に死ぬのだろうか?
 そんな事を思ったのに痛みはなかった。変わりに連合政府の兵士が倒れる。
「………?」
 流石に驚いて顔を上げる。視界の先で青年が立っていた。
 燃え盛る炎を横に、その青年は、硝煙立ち込めるライフルを片手で持っていた。
 彼に従っているらしい者達は、他の連合政府の兵達を排除するべく動いている。
 炭化した遺骸と、透明な壁を背に座り込んだ少年の間の前で、青年は苦笑した。
「フィラーラ=シェアリだな?」
 どこか断定する声。それは力に満ち溢れている。
 彼は少年の返事を期待していなかったのか、そのままゆっくりと歩いてきた。
「君の力を借りる為、探していた。この世界を唯一浄化する力を持つ君をな。だが、まさかこんな事態になっていたとはな」
 自嘲気味の青年の言葉に、少年は警戒の色を瞳に浮かべた。
 世界を浄化する力を持つ者と、今青年は言ったのだ。
「誰だ? お前…」
 命の恩人に対する謝意など欠片も存在していない態度で、少年は相手を睨み付けて短く言う。少年が持つ朽ちた大地に自然をよみがえらせる力は、決しておおっぴろげにして良い事柄でないのだ。
 少年の鋭い眼光をさらりと受け流すと、青年は後ろを見やった。
 いつの間にそこに掲げられたのか。
 紅く染め上げられ、金の縁取りを施された布に、純白の糸で翼の刺繍がされた豪奢な旗が、雨の中静かに佇んでいた。
「…紅い…旗…?」
 紅い旗を掲げる組織に、覚えはあった。
 一年前、地下のシェルターに温存されていた連合政府配下の軍が、突如反旗を翻した事件がある。彼等は武力を効果的に行使し、次々と連合政府の需要拠点を落とし、力を吸収し、巨大な組織に変っていった。
 その組織が戦いを起こす時には、必ず最前線に最高指揮官である黒髪の青年の姿と、紅い旗がひらめくという。
「…朱金の…翼…」
 息を呑むように少年が呟くと、青年は濡れた前髪をかき上げて肯いた。
「ユシェラ=レヴァンスだ。朱金の翼を率いる者。この世界に再び秩序を取り戻し、ただ打ち捨てられるように死んでいく者たちを導き、世界を滅びへと向かわせた者を排除する。それが目的だ」
「…そんなの、僕に関係ないだろ」
 説得力に欠ける震える声で否定すると、ユシェラは、俯こうとした少年の動きを手で封じ、真っ向から相手の瞳を見据え、
「君は、自然を復活させられるだろう。フィラーラ=シェアリ」
 強い眼差しのまま男は断言する。全てを見透かすような瞳。だから少年は唇を噛みながらも肯いた。青年は膝を突き、座り込んだままのフィラーラの肩に手を置く。
「ここまで追いつめられ、日々を生きるだけで精一杯の人々に必要なのは崇高な理想ではない。たった一つのパンと、水だ。安定した生活と、安全な暮らし。それだけだ。だが、それすら与えられない者が、どうして民衆を率いる事が出来ると思う? 理想で腹が膨れるか? その辺に散らばった砂が米になるか? なりはしない。そして我々が各地で手に入れている食料程度では、全ての民衆に行き渡せる事は出来ない。それでは困るのだ」
 自然を復活させる力が必要だということくらいフィラーラにも分かる。けれど、
「そんなの関係ない! 世界がどうなるのかも知らない! 世界を救うなんて勝手にすればいい。でもそれに僕を巻き込むな。もうこの世界のどこにも、自然を取り戻してやりたい相手はいない…なのに…」
 目の前で焼け死んでいった妹。
 その事実の前に、どうして世界を考えることなど出来るだろう?
 少年が生きる希望を失ってしまうのも、何もしたくないという気持ちもユシェラには分かる。けれど、はいそうですかと納得し、引き下がる事が出来ないのも事実だ。
 青年は強くフィラーラの肩を掴みなおすと、ひどく優しい瞳で少年を見つめた。
「失ったものの大きさに愕然として、何もせずに命を捨てるのか? 理想など理解せずともいい。だが放棄するのか? 君は折角仇を討つ機会を手に入れようとしているのに」
「……仇?」
「君の妹が死んでいった理由を作ったのは、連合政府と、この時代だろう。その時代を変えてみせてこそ、仇を取ったということになるのではないか?そして……」
 言葉を切る。フィラーラは顔を上げた。
「その力は、ここにある」
 すっ……と、ユシェラは手を差し伸べた。
 一瞬、少年は目を見張った。
 迷うような、戸惑うような、そんな色が瞳に浮かび、そして。
 フィラーラはユシェラの手を取る。


 二年後、エリクルとフィラーラは出会う事となる。
 朱金の翼、紺碧の炎。
 その両組織を代表する人物として……。

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